( したやみやロープのごときみきはなに )
けんいち:山道を歩いていると、木が倒れて細道をとうせんぼうしている事がよくあります。木下闇の薄暗がりの中で、その様な状況に会つた時を詠んだのではないでしょうか。それも太い木でなく、細い木で、丁度ロープで通行禁止した様になっている。暗くてよく見えないので、目をよせて何の木だろうと観察されている。そのような状況が、目に浮かんできました。
りんご:下闇の中にロープのように曲がった幹が見え、なんだろうと一瞬の思いでしょうか。「何」という言葉にそれが表れているように思いました。そしてあたりに人がいれば何だろう何だろうと確かめに行く人もいたりして、何だか楽しい句にも感じました。
こころ:作者は当然幹の主を承知していたでしょう。「幹は何」ここが作者の目で、何でこんなところまで、何でこんな形でと言う事ことなんでしょうか?
とろうち:藤の木のように、いくつかの幹がよれてロープのようになっているのを想像しました。 あれ、あの木はなんだろう。近づいてみて確かめたと思います。でもなんの木かは言わない。ちょっとなぞなぞのような句ですね。
まこと:薄暗くてよくわからないが、腕より少し細く、すこし曲がっているが、枝も出ておらず、上のほうと下のほうの大きさも同じで、まるでロープみたいな幹がすかして見える。いつたい何の木なんだろう。かずらかな?
みのる:客観写生の原点を教えてくれる作品です。「見たまま、感じたままを素直に表現する」というのは、簡単なようで難しいですね。失敗すると、報告、説明に終わります。揚句は、薄暗い下闇にロープのようにぶら下がっている幹を見つけて、「あれ? 一体なんだろう??」 という驚きから生まれています。このように、写生俳句の場合、必ず「驚き」「発見」が必要なのです。感動のない情景を写生したものは単なる報告(あるいは説明)です。
( らんしんのごときまなつのてふをみよ )
けんいち:小生この句に出会うのは、初めてですが、一読し、たちまち大好きになりました。おそらく色々の解釈が可能な句なんでしょう。しかしよく説明できませんがその色々な事をすべて含めて、この句のかもしだす雰囲気が非常に好きとしかいえません。このような鑑賞の仕方は間違いでしょうか?
豪敏:いい句ですね。励まされました。「真夏の暑い最中に生きる道を求めて、無我夢中になって飛んでいる蝶を見てみごらん。暑い暑いと言って仕事を怠けたり、勉強を怠ったりしている君、見習いたまえ。」と諭されているようです。作者は、真夏の広い青空の下を元気よく飛び回っている蝶の姿に、心を動かされたのでしょう。この句は、真夏の暑さに負けそうな自分を奮い立たせてくれます。
りんご:豪敏さんの言われるとおりですね。怠惰な自分を一喝されたような気分です。自然界に生かされて一生懸命な蝶への哀れさも感じます。夏が来れば暑い冬が来れば寒いと文句を並べエアコンなどに頼る自分を反省しています。
こころ:低きと思えば高き、真直ぐと思えば折り返す、まして揚羽なら舞う姿も大きく見せる。ここまでならなるほどと、すむものを、なぜ、最後に見よなのか?見よは作者に向いているのか? もっとゆっくり鑑賞させて頂きたい。
一尾:人間が参ってしまうような炎天下、力強く飛翔する蝶の姿が目に浮かびます。乱心と見られようが、蝶にはこれがごく自然な姿なんでしょう。精一杯に生きる蝶の姿に学ぶ一句です。見よと指示・命令調ですが、ご自身に言い聞かせているのです。
みのる:狂おしいほど荒々しく舞う蝶の動きを、「乱心のごとく」の措辞で、具象化することに成功しています。考えて出てきた言葉ではなく、そのように感じるまで蝶の様子を凝視された結果です。「見よ」は、強調の役割を果たしています。
( まつさをなみぢんとびたちしばかりき )
けんいち:この句も又、客観写生の最たるものですね。しかしこの句から、芝草のあの青い匂いがぷんぷんと漂ってくる。微塵といふ言葉がよく効いています。客観写生と言っても、単なる報告に終わらない言葉選びの重要性を改めて感じます。そのように感じてもなかなか難しいですが・・・・
豪敏:「まつさをな」には、芝の微塵の色だけでなく、真夏の青い空と広々とした濃い緑色の芝生も目に浮かびます。作者は、真夏の青空の下で、広々とした芝生の上を一直線に進んでいく芝刈機からはき出される「まつさをな微塵」が、自らの力で勢いよく飛び立ち、放物線を大きく描いて落ちていく光景を目にし、心にとめられたのでしょう。この句に、雄大さとすがすがしさを感じました。みのる先生の日記(2001.4.17)に「対象物に接近し、焦点を絞り感動の沸くまで観察すること」と書かれていますが、「まつさを」「とびたち」「芝刈機」は「微塵」に深く関連する措辞で、焦点を絞った観察とはこういうことをいうのでしょう。焦点を絞ることの大事さを学びました。
とろうち:一読、なるほどなぁと思いました。この時期になると、あちこちで芝刈り機のぶーんという音が聞こえ、これで何か一句できないかなと思いつつもついぞ出来た試しがなかったのですが。「まつさをな微塵」とは簡単に言えそうで言えない言葉ですね。
一尾:青々と伸び切った芝を刈る動力芝刈機のエンジン音が心地よく響いて来るようです。微塵と言うから余ほど切れ味もよしですね。青々とした芝、微塵にとびたつ芝、この作品の中心は芝に置かれていると鑑賞しました。
みのる:機械で刈るのですから広大な芝庭。ゴルフ場のような感じですね。炎天下や夕刻に芝を刈るケースは少なく、ゴルフ場などは早朝に刈りますから、朝日を弾きながら飛び散っている真っ青な芝の微塵が想像できます。
( みずゆれてほうわうどうへへびのくび )
江斗奈:静寂な神秘を感じました。この季節なのに肌に寒さを覚えるようです。
けんいち:宇治平等院の鳳凰堂でしょう。鳳凰堂の前の池の水が揺れて、鳳凰堂の阿弥陀仏像に対峙するように蛇が首をもたげた。この句は今まで何句か続いた客観写生の句と言うより、青畝師の心象風景を詠まれた句として鑑賞しました。極楽浄土を写したといふ平等院、その池に棲む蛇。現実を超越した神秘的な風景が浮かびます。
豪敏:阿弥陀如来像が安置されている鳳凰堂へ、鎌首をもたげた鋭い眼差しの蛇が、水面を一直線に突き進んでいくこの状況を、どう鑑賞するか大変難しいことですね。一方、波静かな水面に首だけを出して泳いでいく蛇。その波紋が周りに広がり大きくなってやがて消えていく池。この蛇以外に水面を波立たせる生物はなく、ただこの蛇の首だけが水面に揺らしながら静かに泳いでいます。美しくたたずむ鳳凰堂を背景に、静かな池の長閑な光景も浮かびます。表現上の難しい言葉はありませんが、考えさせられた句でした。
りんご:静かな池を水をゆらして蛇が首を立てて鳳凰堂へ向かってゆく小さな波も立っている。赤い美しい宇治平等院の鳳凰堂を望む池のほとりから眺められた時の写生句でしょうか。水ゆれてという言葉に静かな鏡のような池を想像しました。
好夫:平等院の静かな池の周囲を散策され池の渕に立ち止まり、赤い鳳凰堂に向かう蛇を見る、蛇の長さを見るのではなく、平らな池の面の首のおこすわずかの動きを見つめている厳しさ、一点を見つめる、なかなかできない。
登美子:平等院のご本尊、阿弥陀如来と蛇が対峙しているという場面でしょうか。仏と悪という対比の面白さ。梅雨の時期に、雨で水嵩のある阿字池に蛇が出る話を聞きます。平等院の映った池に、蛇が鎌首を上げている様子、ちょっと普通の感性では考えらない不気味さを感じます。
みのる:青畝先生の代表作の一つです。ぼくは、講演会の席上で先生ご自身から、この句が生まれた情景と推敲の課程の説明をききました。推敲に推敲を重ねて「蛇の首」に落ちついたが、これが成功だったと言われました。揺れているのは蛇自身の身体なのですが、水揺れてにされたことも非凡ですね。
( よこっぱらゑくぼできたるとかげかな )
けんいち:この句もそういわれればそうだと納得します。蜥蜴をみていますと呼吸の関係だと思いますが、よこっぱらがヒクヒクと動いています。その客観をえくぼで表現されたところがミソです。顔はいかついのに、腹にえくぼをつくっている、非常にユーモアーを感じました。
とろうち:トカゲはすばしこいので、あまりまじまじと見たことはありません。ですから、この句の意味が分からなかったんですが、けんいちさんのコメントを読んで、そうなのかぁと思った次第です。句とは関係ないのですが、靨=えくぼと読むのは初めて知りました。なんで厭な面なんて字なんでしょうね。
豪敏:かわいい女の子などに「えくぼがかわいいね」などといいますが、蜥蜴の「靨」には驚きました。今まで蜥蜴が横腹をピクピク動かしているのは見たことはありすが、意識して見たことがないので、何も感じませんでした。蜥蜴の横腹のピクピクと動く様子を「靨」と見た作者の鋭い感覚の快さが強く心に残ります。「靨」と見るからには蜥蜴に深い愛情があってのことでしょう。常日頃、小さい生物にも温かい眼差しをかけていらっしゃる作者ですから、素直な気持ちで表現できたのではないかと思います。作者と対象物との温かい無意識の交流から、愛情深い俳句が生まれるのでしょう。身の回りの事物に細心の注意を払い、愛を込めて観察したとき対象物から俳句の芽が自然に生まれるような気がしました。いい勉強になりました。
一尾:たとえよく観察したとしても「よこっぱら靨」とはとても思いつかない表現です。国語辞典には靨は「笑う時、ほおにできる小さなくぼみ」とありますから、よこっぱらに結び付ける着想は一寸湧きにくいですね。愉快な句です。蜥蜴がますます可愛い小動物にみえてきます。
みのる:こう言われると、誰もが「納得、納得」と共感しますが、よい俳句というのは、このように何でもないことの発見、これなら、自分にも詠めそう・・と思うような単純な発見なのです。 要するに、「コロンブスの卵」なのです。でも、よほど柔軟な感性(幼子のような)でなければ、「靨」は出てこないですね。そのために、私たちは写生の訓練をするのです。
( ラベンダーしをりてざうのくわうじゑん )
江斗奈:今は電子辞書の広辞苑ですので、あの分厚い辞典が懐かしいです。栞にラベンダーの押し花を使っていると理解してよろしいのでしょうか?
りんご:いつも身辺にあり大事にされている広辞苑に美しいラベンダーの花を栞にされたのですね。句の中からやさしさや愛が伝わってきます。
こころ:ラベンダーの栞なら、詩集だったり、小説だったり、とかく小さな本を連想してしまいます。どちらかというとごつい広辞苑、まして座右となればあちこち手擦れしているでしょう。その広辞苑にラベンダーの栞をするという、作者の座右の広辞苑に対する細かな愛情を感じました。
豪敏:私の広辞苑には名刺・紙切れ・爪楊枝・マッチ軸など身近にある物が雑然と挟まれています。味も素っ気もない無味乾燥な栞です。古い物は外した方がいいのですが、外すと寂しいので、今もそのままにしています。作者は、可憐な青紫色のラべンダーを栞に使用しておりまして、なかなか粋なことをなさいます。広辞苑を開くたび青紫色の小花や香りや思い出なども一緒になって作者の心を温めてくれることでしょう。愛用の広辞苑を座右に置き、大事に使用していらっしゃる姿が想像されます。夏の暑ぐるしい黒一色の広辞苑ですが、可憐なラベンダーの栞には涼しさを感じます。作者が、常日頃使用している広辞苑に対する深い愛情を表した句ではないかと思いました。
きみこ:広辞苑をひもといておられる師の部屋よりラベンダーの良い香が漂ってきそうです
秀昭:座右の広辞苑。それに香りのよいラベンダーの栞を挟んでいた。広辞苑をひらくたびにアロマセラピーを取り入れていた。時代を先取りされていたのだなーと感心しました。小生も広辞苑の愛用者。手垢で黒ずんでしまいました。ラベンダーの栞など思いもしませんでした。改めて作者の感性の鋭さを感じさせます。
まこと:どうしてもラベンダーというのが気にかかるのですよ。辞典に栞というのはどうも、というところからです。言いたいのは背景です。句の意味は簡単明瞭。ある時ラベンダーの咲いている所にいかれ、採取され、押し花にされて、栞にされた。このラベンダーのある所にいかれた時、ラベンダーがきれいだったということは勿論、プラスの思い出があるのですよねえ。それだから座右にある。
みのる:なぜラベンダーの栞なの? と言うところから鑑賞すると理詰めになって難しいですね。それよりも、広辞苑が座右の書であると言う作者の生活ぶりを連想すると詩人、文人のひととなりが見えてくるのではないでしょうか。ラベンダーは、吟行地で手に入れられたのかも知れません。広辞苑で確認しながら、今日の吟行句を推敲しておられる姿も浮かびます。
句意を説明的に鑑賞するのではなく、そこに隠されている人物像が見えるように鑑賞する。逆に言えば、客観写生によって作者自身は隠しながらも、自己主張はきちんと出来ていますね。自分を出し過ぎると、説明になったり、独りよがりの句になります。このような写生術のテクニックを学びたいですね。
( はらはらともろはふりつつたけおちば )
江斗奈:竹の古い葉の散る風景が目に見えてくるようです。
とろうち:これは、おもしろい句だと思いました。竹の古葉が落ちるときの様は、まさに剣豪がきったはったきったはったと右へ左へと刀を振り回しているようにも見えますね。竹落葉というと静かなイメージがあったのですが、こういう見方もありなのかと目から鱗です。
りんご:薄暗い竹林に竹の古葉が落ちる。「諸刃ふりつつ」 凄い表現ですね。諸刃ふりつつに竹林に日が差し込みきらきら光りながら落ちるそして風も感じます。
豪敏:なかなか難しい句です。先ず「諸刃ふりつつ」が「竹落葉」とどう関連するのか理解出来ませんでしたが、とろうちさんの解釈で「なるほど」とイメージすることが出来ました。「諸刃」というのは竹の葉の形のことですね。近くに竹がありますが、今まで落葉の様子を注意して見ていませんでした。今日はいい機会だと思い、竹の葉を集めて高いところから落としてみました。すると、落ち方にいくつか型があることに気づきました。静かに軽やかにくるくると回りながら落ちる葉や左右に揺れながら落ちる葉などがありました。作者はこの竹落葉の様子をじっくり観察なされたのでしょう。「諸刃ふりつつ」の厳しい措辞についてはまだよく分かりませんが、諸刃を振り回すので、真夏に氷に触れたようなひやっとした感じがします。今日は七夕です。七夕飾りに竹を使いますので、本句の鑑賞には最適でね。いい勉強になりました。
こう:いい句ですね。実に言われてみればそのとうり、でもこうはいえない。竹落ち葉の形は、諸刃の剣のようにも感じます。シャープで怖いような感性ですね
秀昭:こうさんに同感。「諸刃ふり」とは、「諸刃降る」でしょう。はらはらと竹落葉の降るさまが諸刃の剣のように見えたのでしょう。森羅万象を見つめているうちに、ふとそう思った。
こころ:はらはらは作者の目前の景色、諸刃ふりつつは心の目から見た景色とみます。俳句を学ぶ者にとってはとても勉強になる句だと思います。竹林のはりつめた空気と光を感じました
けんいち:数日前、両側が竹林の道を散歩しましたが、折からの風ではらはらと竹落葉が舞い散ってきました。はらはら迄の観察はできるのですが、それが諸刃ふるとはなかなか写生できません。そこで昨日同じ場所へいってみました。この句を鑑賞後ですから、まさしく落ち葉が諸刃と見えるのですね。一歩踏み込んでとことん観察する、又そのような感性を養う、難しいですが少しでもと、改めて感じた次第です。
みのる:「ふりつつ」をひらがなにされた青畝先生には、ちょとした悪戯心があったのではないかと想像しました。「降りつつ」なのか「振りつつ」なのかが解らないからです。じつは、それを解っていてこの句を揚げたぼくも、意地悪だったかも知れませんね。季語の竹落葉にたいして、「降りつつ」では説明ですから、通常上級者はこういう言葉は避けます。ですから、「振りつつ」が正解だといえます。竹の落ち葉がゆっくりと風にもまれながら落ちてゆく様子を、小刀が刃を振りつつ落ちていくようだと言われたのです。
( はぬけどりかくしどころもぬけにけり )
秀昭:思わず笑ってしまいました。かくしどころがうまいですね。俳句には、こうした滑稽さを見るのが大好き。この時期、鶏の毛が抜けるシーズン。ふだんは生えているのだが大事なところの毛が抜けてしまった。手ぬぐいでも貸してあげたくなりました。
りんご:鶏にとって大事なかくしどころとは、どこかしらと思わず考えてしまいました。隠したくても隠せない可笑しさと、同時に憐れさも感じます
廣美子:おかしいですね。青畝先生のユーモアのセンスは抜群ですね。羽抜鶏とか、かくしどころと言う簡潔で的確な言葉使いがすばらしい、男性的だなと、思いました
けんいち:まったく洒脱な句で、一読笑ってしまいました。しかし鶏のかくしどころとは何処なのか、想像はできますが、てぢかに観察するところがありません。そう遠くない昔家庭で鶏を飼っていた時代がありましたが、いまはあまり見かけない。そんな時代の変化も感じさせられました。
みのる:じつは、大好きな句の一つです。青畝師の作品は実にバリエーションが広いですね。 スケールが大きく格調の高い作品、歴史的背景を踏まえた古典調の作品、ユーモアや悪戯心いっぱいの作品、等々。揚句は、言葉のあしらいの巧みさは勿論ですが、着眼点がさすがです。コロンブスの卵の例えのように、誰にでも詠めそうな句ですが、「やられた・・・」と言う感じです。
( とういすにづなうらうどうやすめをる )
りんご:毎日頭脳労働に御忙しい先生が、仕事のひとくぎりしたところで籐椅子に何も考えず休んでいらっしゃるのでしょうか。そんな想像をしてみました。
秀昭:何もかも忘れられる椅子。そんな椅子があるのです。籐椅子です。これに座れば、俳句づくり、添削などの頭脳労働から解放される。そんな楽しいひと時なのでしょう。
きみこ:籐椅子は、師の大のお気に入りの場所。仕事の一段落した時は、仕事から離れ一時、外の景色を眺めながら無我の境地に入り、脳を休め次の仕事の活力を養われることでしょう。涼しい風が師の頬を撫でて通り過ぎて行った。
とろうち:籐椅子が効いていますね。いっぱいいっぱい使ってヒートアップした頭を、大きな背もたれの籐椅子にぐうっと沈めリラックス。涼しい風が入ってきて、風鈴がちりん、なんて鳴ってまさに至福のひととき。他の椅子じゃ、この感じは出ないですよね。
こころ:とても興味の湧く一句でした。この句を詠まれた背景はわかりませんが、作者を師と仰ぐお弟子さんたちはどのように感じたのでしょうか?俳句の事など何も言わず、ちょっと休むよ...と、ここ一連で先生の句を通して身近なものへの愛情をますます感じました。
みのる:先生は毎日たくさんの句の選をされます。句を詠むときは頭を使うと言う感覚はないのですが、句を選ぶときは結構疲れます。一気に数百句を選るのは無理で、時々頭を休めながら作業をされるのでしょう。とろうち解のとおり、リラックスできる籐椅子の感じがよく効いていますね。籐椅子があると言うことは、オフィスではなく自宅か旅館、ホテルなどの部屋と思われるので、青畝師と限定して鑑賞する必要はなく、一般的な作家などの日常生活と考えてもよいですね。
( たにかぜやはなゆりそむきまむきして )
江斗奈:山の傾斜に沿って咲いている百合の花が吹き上げてくる風に揺れている風景、この百合は1本の茎に3つか4つの花を付けているように見えました。谷風に、ほっと一息ついてところでしょうか。
けんいち:よく観察した上での表現の妙を堪能させてくれる句ですね。みのる先生のかなで書かれたのを読むとますますその感を強くします。小生ごときは あちらこちらむき としか表現できません。そむきまむき なんてマイツタマイツタとしか言えません。
りんご:谷の風が吹き渡る山の草原に、山百合が揺れているそんな風景を想像しました。自然の百合は花が数つき、それぞれ思いおもいの方向に向き風にゆれているのでしょうか。そ向きま向きと言う表現は、勉強になりました。
まこと:風に揺れる谷間の白百合というところでしょうか。純情、純心、右を向いておれといわれると右を、左といわれると左を、というような印象、先入観が百合にはあります。しかしどうして、「そ」むいたり、「ま」つこうをむいたり、している。なかなかしたたかなものよ。花百合でも自分の生き方をしている。
如風:谷間に咲く百合の花に、折からの風。揺らぐ花の向きも夫々に。清楚な百合でさえ夫々、人も「右向け右」でなくても、夫々でよいのですよ・・。は深読みか。同じ花が向きを変えたのではあるまい。でないと、一瞬を詠んだことにならず、時間の経過を詠んだことになる。
里登美:一読して、そ向きま向きという言葉にひかれました。そしてすぐ、青畝師の「案山子翁あち見こち見や芋嵐」という句を思い浮かべました。簡潔な語彙の中に感性を凝縮なさる、まさに言葉の魔術師、思わず溜息がでました。
秀昭:百合って、あっち、こっちに勝手に好きなところへ咲くようです。そこへ谷に吹く風があった。という感じかな。風によって多少の向きは変えますが。百合って猫みたいなところがあると思うのです。こっちに向きなさいーーといっても意思が強く、思う通りにはいきません。そこがいいとこなんですがーー。とにかく谷風に揺れる花百合は一幅の絵です。
きみこ:谷風が、そよそよと吹いている所に、可憐な、薄ピンクの笹百合があっち向いているのや、こっち向いているのが咲いていて、ゆらゆらと揺れている。そよふく風がすごく涼しく感じられる。
みのる:「谷の百合」というキーワードは旧約聖書の詩篇、雅歌などに良く出てきます。谷風にゆれる可憐な百合の花は、神様の摂理や恵みの象徴として歌われているのです。キリストの復活を祝う聖堂では、イースターリリーといって百合の花が飾られます。また風はエホバの象徴としても記されており、エホバは風の翼に乗って花野を駆け巡る・・というようなくだりが聖書に載っています。野の花が風にゆれる様は、創造主である神様を賛美しているのだと連想するととても楽しい情景に映ります。どのような野の草花のひとつひとつにも、分け隔てなく神の愛が注がれているのです。青畝師にそうした思いがあってこの句を詠まれたか否かはわかりませんが、たくさんの谷百合がそれぞれ自己主張するがごとくに、風にまむきそむき揺れているさまは百合の特徴を良く捉えており、季語は動かないと思います。
( はたたがみよはのだいせんあれたまふ )
江斗奈:激しくとどろく雷。夜半の闇に雷光で大山が瞬間見える、大自然の雄大さを感じます
りんご:大山は伯耆富士とも呼ばれる中国地方最高峰の山ですね。梅雨の頃はよく荒れると聞いています。大山を望むところに宿泊され荒れる大山を目の前にされた時の句と思います。雷の度に光って夜の山がその度に光の中に浮かんで見えたのでしょうね。現れたまふという言葉は霊峰大山に対するぴったりの言葉だと思いました。
きみこ:雷、と言わないで「はたた神」と表現されている。大山には、この方がぴったりだと思います。「現れたまふ」が真っ暗闇から大山がパッと現れる、荒れる大山のようす。とを表現されていて、奥深さを感じます。
こころ:りんごさんの鑑賞に同感です。雄大な句ですね。もしかしたら、山頂付近、昼間は雲隠れになっていたのかなとも思いました。
こう:素晴らしい句ですね。言葉の斡旋の的確かつ巧緻なこと! 仰ぎ見て遥か・・の感今更です。情景がピリリと見えます
よし女:大山から少し離れた場所に泊まられたのでしょう。「大山現れたまふ」で、夜半の大きな雷が想像出来ます。暗闇に浮かぶ山の姿に神々しさを感じられたのでしょうか。
みのる:大山が山岳信仰の山であることがこの句を鑑賞する上での大前提になります。大山を照らしたのは稲光ですが、「はたた神」「大山現れたまふ」の措辞によって、鑑賞する人には具体的な情景が連想できるのです。霊峰大山に対する作者の畏敬の情が主観としてあるのですが、練達された写生のテクニックによって巧みに包み隠され、格調高い写生句として完成されています。
( トルソーもよきここちらしおほゆだち )
秀昭:トルソーが大夕立を浴びたら、さぞ気持ちよかろう。大夕立にトルソーを合わせるとは驚き以外にない。奥深い豊かな感性を感じさせます。トルソー造りに心血を注いだ仏の彫刻家・ロダンもそんなことを考えただろうか。
ほとり:美術館や博物館などの広い庭に置かれているトルソーと思いました。暑い夏の日差しを受けて白く輝き、触ったら火傷しそうな彫刻。大夕立がきて、みるみる肌が黒く濡れてゆく。乾いた体に恵みの雨水がしみとおり、見ている方も喉が潤う心地。豊かな夏木立も見えてきます。
けんいち:学校の美術教室においてある顔手足を欠いた塑像(トルソー)。夏、教室の窓は全開してある。そこへ突然の大夕立。普段は教材として無機質のもののトルソーも、あわれや顔を欠き表情は見れないものの、おそらく涼しく心地よいであろうと師はみられた。ある種のペーソスを感じられる句として鑑賞しました。
りんご:暑い一日の夕、夕立を浴びるトルソーが心地良さそうに濡れている。そして、トルソーも、この、「も」といふ言葉には先生も夕立を喜んでいらっしゃる様に思います。そして夕立を浴びる草も、木も喜んでいる様子も浮かびました。夕立の後の涼しい風を期待して、夕立を眺めておられるように思いました。
とろうち:美術館の庭にあるトルソー。炎天下にあって触ればとても熱い。暑そうだなぁと思っていたら、どしゃぶりの大夕立。天然のシャワーを浴びて、トルソーが無いはずの両腕を広げ、顔をあげて大きく息をしているようだった、と想像しました。
まこと:トルソーをモチーフにデッサンをされていたとき、夕立があり、涼しい外気がながれこみ、いい心地になられた。対面し、観察し、デッサンされてきた相方のトルソーもおそらく人心地がついたことだろうと。トルソーと作者との関係をこういうようにとらえてみました。
みのる:トルソーには顔がないので、快き心地と感じたのは作者自身の主観です。また、夕立ですから、学校の美術室にあるものではなく、とろうち解にあるように美術館の庭とか、ヨーロッパあたりの公園とか、屋外の情景であることがわかります。このように連想を働かせてできるだけ具体的な情景に見立てていくことが鑑賞では大切です。そして作者はこのトルソーに意志があるかのように心をあそばせ、情を通わせています。これが青畝師のいわれた「俳句は愛情をもって詠む」という理念に通じるのだと思います。
( てんのにじあふぎてうこんここにあり )
秀昭:戦国時代の武将で、キリスト教指導者の高山右近だろう。家康に追放されて、マニラのキリスト教墓地に埋葬された。作者はこの地を訪れ右近の墓参り。右近の眠る天には七色の虹が輝いていた。感激のあまり思わず涙したことでしょう。この句は作者がもっとも愛した一句である気がします。
りんご:キリシタン国外追放によりマニラで亡くなった高山右近。美しい虹の下、右近と同じ敬虔なクリスチャンでいらした、先生の心の叫びのような俳句ではないかと思います。
こう:日本のキリスト教の弾圧の歴史は、非常に残酷ですね。高山右近の存在は、言葉に表せないような感懐を覚えます。青畝師は、神の約束の成就を確信されたのでしょう。クリスチャンの俳人としての感性の鋭さ、強さを受けました。
みのる:皆さんが鑑賞されているとおり、キリシタン大名「高山右近」の像です。大阪玉造のカトリック教会に和服姿で天を指している右近像が立っています。こう解にあるとおり、虹は神の約束の象徴として聖書に出て来ます。迫害と戦いつつ自らの信仰を貫いた右近を称えておられるのですが、それは右近自身の努力や頑張りではなく、聖書に書かれた神様の約束を信じて疑わなかった右近の確かな信仰に対して作者も共感しておられるのですね。
( いしくいまえびすをつくるひよけかな )
りんご:七福神の中の一つ恵比寿さんを、石工が日除けの下で創っている。いま、と創る、と言う言葉からいま新しい石で創り始めた何か神聖な意味も感じました。
秀昭:石工さんが七福神の一つの恵比寿様の石像を作っている最中。作業場が野外なので日差しが強く暑い。そこで日除けをして日陰にしている。日傘か、よしずか。それでも、作者からは暑く見え、気の毒に思われた。
よし女:石工が一心に恵比須様を彫っている姿が浮かびます。おそらく、日除もその役目を完全には果たさず、体の一部分は日に当っているのではないでしょうか。恵比寿を「彫る」ではなく「創る」の言葉にはっとしました。簡単そうでも、私などには、なかなか思いつかない言葉だと思います。
みのる:よし女さんの鑑賞に感心しました。まさにそのとおりですね。なぜ恵比寿なの? というような詮索は野暮だと思います。それよりも、「作る」や「彫る」ではなく、「創る」によって、単なる造形物としてではなく、一心に作業している匠の姿を見て、きっと彼の魂がその作品に宿るだろうという感動をもって「創る」の措辞が生まれたと思います。感動が湧くまでしっかり対象を見つめることの大事さを学びましょう。
( どべいよりどべいへたれのひがさゆく )
とろうち:暑い日です。蝉が鳴いています。こつこつこつという足音にふと顔を上げると、土塀から白い日傘だけが見えています。知っている人かな、知らない人かな。若い人だろうか、それとも・・・。日傘は女性を強調する小物です。顔が見えないぶんだけ、想像がふくらみます。強い夏の日差しと、傘の影。静かな昼下がり、木のかすかなそよぎ。イメージがどんどん湧いてくる句です。
如風:縁側からの眺めか。土塀の上を傘のみが、ヒョコヒョコと行く。傘に見覚えがあるのだろうか、夏の暑さと共に慕情を感じる。土塀が日傘と共鳴し、乾ききった暑さがよく出ている。「土塀より土塀へ」に傘の動きがよく感じられる。
一尾:土塀と日傘から夏の日射しの強さが感じられます。顔はもちろん足元も見えない。あの人か、この人か、いじわるな土塀よ、さっと姿を見せて下さい。付いていって確かめたい気持ちを押さえてもいるようです。謎めいて面白い作品と思いました。一瞬、誰の一字が謎に見えました。
みのる:これは単なる報告の句ではないです。日傘の主の姿は見えないのですが、傘の色、絵柄、その歩みゆく調子、スピードなどの情報をもとに想像し、いったい誰なんだろうと思いめぐらしているのです。鑑賞する人によって見えてくる人物像は違うと思いますが、ぼくは妙齢の婦人像を連想しました。和服かもしれないですね。好奇心、想像力というのは俳句の命です。そしてその極意は幼子に学ぶことが出来ます。わたしたちも、知識や常識の呪いから解き放たれて幼子のような感性をとりもどせるように努力することが俳句を続ける本当の目的だと思います。
( みちをしへとまるやあをくまたあかく )
とろうち:斑猫という虫を見たことは、遠い昔に一回、庭で見たことがあるきりです。歩こうとすると前をぴょんぴょんと、なるほど道おしえとはよく言ったものだと思った記憶があります。ここの図鑑サイトで見てみましたが、見る角度によってずいぶん色合いが違って見えるんですね。 「青く又赤く」というのは、まさにそのとおりなんだと思いました。きれいな虫ですよね。
よし女:平明で覚えやすく観察のよく効いた好きな句ですね。みちをしへが止る、しかも青く,赤くで道路の信号を見極めて止ったり、進んだりと、危険まで避けているような錯覚を覚えます。 本名は斑猫(はんめう)なのに道を教えるようなそぶりが面白く、黒地にちりばめている紋様も美しく、少し跳んでは必ず止る習性もおもしろいです。虫なのに猫の字を使うのもまた、愉快だと思いました。
みのる:これは青畝師の有名な作品なのですが、合評参加が少なくて一寸さびしいです。「みちをしへ」は昆虫の斑猫のことですね。とてもユニークな習性があって、人が近づくと2,3メートル先に翔んでは、手前を振り返るように後ろ向きにとまるのです。お天気の良い夏の山道でよく見かけます。その所作がまるで道を教えてくれているようだということで、俳句では「みちをしへ」とも詠まれるのです。外羽はぶち猫のような斑状が玉虫になっていて、止まるたびにその羽が日を弾いて赤く、また青く見えると詠まれたのです。よし女解のとおり実に省略が効いていて、味のある写生句なのですが「みちをしえ」を見たことのない人には鑑賞不可能な句です。頭で考えては絶対に作れない句ですね。GHの目指す道は、こうした理屈ぬきの俳句です。
( てんとうむしはしまでゆけりたつほかなし )
ほとり:天道虫が草の葉をつたうように上ってゆき、先っぽに来たところで羽を左右にぱっと広げて飛翔する様を幾度も目撃しています。手にのせてみたときも、やはり指先まで行ってから同じように飛んでゆきました。習性なのでしょうか。しかし、「翔つ外なし」という表現は、私などには思いつきません。
けんいち:天道虫を見ていますと、バックすることなく真っ直ぐに歩きます。たとえば葉の上であれば葉の端までゆきます。これ以上進めないとなえば飛ぶしかない。それを詠った句です。客観でありますが、天道虫はそんなに遠くまで飛べないはずです。先生はそこに翔つ外なしの措辞で、次にどこまで飛んで行けるのか、そこは安全な場所なのか、天道虫を思いやっているお気持ちを表現されている。そのように鑑賞いたしました。
一尾:これ以上行けない端にきてしまったよ。さあこれからどうする、見物だね。じっと眺められたのでは飛び立つほかないだろう。天道虫のつぶやき。作者と天道虫の対話が浮かぶような句です。
みのる:この句も写生そのもの、誰もが合点する作品ですね。そして、こんな句なら自分にも簡単に詠めそう・・と思うような句です。これもまた「コロンブスの卵」なのです。普通の写生なら、「天道虫端までゆきて翔ちにけり」で終ります。青畝師はさらに深く凝視しつづけて、ご自分の心を天道虫に同化された結果、「翔つほかなし」に至られたのです。客観写生とはいいつつも、自らの心が動くまで忍耐をもって鑑賞する。これを心がけて吟行しないと何年経っても上達は望めません。俳句でいう「写生」とは、報告や説明とは違います。感動を言葉で写しとることです。
( ひにかちてけむしゐだてんばしりかな )
いなみの:毛虫焼くと言ふ季語がありますが、最近は殺虫剤で手っ取り早く処理をすることが多いようです。自宅の椿の枝に固まった毛虫退治にはこの手をつかっています。火に驚いて普段は見せない逃げ足の速さを韋駄天走りとは恐れ入りました。憎い毛虫にも、おおらかな目でみていられることが素晴らしいと思います。しかし、この後の毛虫の運命は?
けんいち:たまたま読んでいました「虚子五百句入門 深見けん二監修」に虚子師の次の句がありました。
野焼きの際、逃げ遅れた蜘蛛が火達磨になり焼け落ちたあわれさを読んだとの解説がありました。 これが小生の頭にあったからでしょうか、この毛虫は野焼きの火を逃れんとして火の速さより今のところ勝って先を韋駄天走りしている様を詠んだと鑑賞しました。しかし毛虫の韋駄天走りなんてたかがしれています。いずれは火が追いつき虚子の蜘蛛と同じ運命をたどるでしょう。虚子の句とおなじ自然の営みのむごさあわれさをこの句にも感じました。
よし女:毛虫の韋駄天走りとは・・・想像しただけであわれと、おかしみを感じます。毛虫にとっては生死にかかわることですものね。火に克ちてと、「克」が使用されていることにも、勉強になりました。
みのる:いなみの解にあるように、この句は「毛虫焼く」という季語をベースに詠まれています。 ぼくの持っている、全句集には、「火に勝ちて」になっていました。でも、そのむかしぼくが先生の作品を研究していたころ、俳誌「かつらぎ」に発表された句は「克ちて」でした。誤植なのか、あるいは先生がその後変更されたのかは定かではありませんが、ぼくは、「克ちて」にこの句の命を見た思いが強かったので、ここではあえて「克ちて」にしました。もし間違っていたらごめんなさい。非情な修羅の世界を写生していますが、「克ちて」の措辞によって、「頑張れ!」と応援しておられる作者のやさしい心が見えてきて救われるのです。
( なつやまをたつべくはんばたちならぶ )
秀昭:工事をするための木造か、プレハブの飯場が立ち並び、素敵な夏山の峰を隠してしまった。全く無粋であると思われたのでしょう。
よし女:飯場が立つと言えば、ダム工事か、ループ橋などの工事か、いずれにしても期間の長い工事なのでしょう。登山者にとって夏山登山はまたとないチャンス。それなのに、登山口を塞いでしまうように飯場が立ちならんでは、夏山の姿も、頂上を極める楽しみも絶たれたようなものだなあと、青畝先生の愁いでしょうか。
ほとり:「夏山を絶つべく」「立ちならぶ」飯場ですから、大がかりな工事なのでしょうね。せっかくの夏山なのに、という正直な思いと共に、暑い夏の日々を厳しい労働をして過ごす人々への思いもあるように思いました。
けんいち:断つべくの措辞に、強い意志が感じられます。ここから先は登山禁止だよとの表明です。そこから先の工事現場に立ち働く多くの人の飯場がとうせんぼをするように立ち並んでいます。この客観写生により、読むひとは色々の感慨を得ます。たとえば一体なんの工事なんだろう、おそらく巨大ダムの工事なのかな。工事完了したあとこの山の登山はどうなるのだろう。たしかにこの先に村落があったはずだが、ダムに沈んでしまうのだろうか。これだけの飯場があるのだから、何千人ものひとが働く、けが人あるいは死者もでるかもしれない、ご苦労なことだ。等々。普通の言葉で詠みながら、客観写生のすごさを感じました。
みのる:飯場というのは工事に携わる人たちの食事をまかなったり宿泊したりするための仮設小屋のことですね。立ち並ぶほどたくさんの飯場があるのですから、かなり大規模なダム建設工事現場などが想像できます。鋭く抉りとられた夏山の一部は傷跡のように赤土が現れていて、そのコントラストを想像すると壮絶な感じも受けます。工事用の大型機械や工法が進化した現在はともかく、むかしは「人柱」といって、こうした大工事には必ず犠牲がつきものでした。大自然に立ち向かう為には「生け贄」が必要という無茶苦茶な常識がまかり通った時代でもありました。某総理大臣の列島改造政策が猪突進められた時代の裏にはこうした悲劇が多くあったことでしょう。平明に詠まれたこの作品からは、たんなる大景の写生としか鑑賞できないかもしれませんが、破壊される大自然への慈しみと、そこに生活する工事人に対する哀れみとが隠されていると感じるのは、ぼくだけでしょうか。
( えんえんとだいせんひらくよなりけり )
よし女:鳥取県大山の山開き前夜祭が想像できます。大山神社から参道下の駐車場まで、約2000人のたいまつ行列のゆれる炎が、夜空を焦すようだとか。いろいろな光景が想像出来て、とても好きな句です。
一尾:見たことも登ったこともない大山ですが、インターネットは便利なもの。大山夏山開き前夜祭のたいまつ行列を詠まれたものでしょう。延々と続く炎、昼間では感じが出ません。炎は夜です。「なりけり」と言い放ち、明日に迫る山開の緊張を伝えて十分と鑑賞しました。
みのる:「山開き」という季語をふまえて、大山の山開き神事のようすが生き生きと伝わってきます。「炎々と」の措辞が非凡ですね。闇の深さと燃え上がる炎、そして「炎々と」のことばの響きから、「延々と」つらなって進む行者たちの人影も連想できます。省略の妙が素晴らしいです。
( とざんみちなかなかたかくなってこず )
りんご:行けども行けども登山道が高くならない、余程高い山と思います。富士山だとすると納得できそうな気がします。富士山ならばあの広い広い裾野を思えばこんな気持になられたのではないでしょうか。
千衣:きっとアプローチの林道も長く、傾斜のゆるい登山道、歩くほどには高度もあがらず、周囲の山々はいつまでも自分より高い、こんな風景を想像しましたが、私もこのような登山道あまり好みません。師もはやく頂上に立ちたかったことでしょうね。
けんいち:急坂を息を切らせて、一挙に頂上へ、も登山の一つでしょう。又できるだけ傾斜を少なくして、山腹を縫うような登山道を、あまり息もあげずに周囲の風景を愛でながらいつのまにか山頂につくのも良いものです。この句からは師の主観は読み取りにくいのですが、なかなか高くなって来ず、のやや詠嘆調から察するしかありません。しかし俳句を詠むという立場から、ゆっくりと歩けて良いと、師が思われたに違いないと私は鑑賞したのですが間違いでしょうか。詠嘆調も反語的に解釈すれば良いのではないでしょうか。
よし女:ベテラン登山者の楽しみは、頂上の三角点まで、できるだけ早く到達する事だと、耳にしたことがあります。私たちの山登りはゆっくりゆっくり、風景、植物、せせらぎ、鳥などを楽しみ、登山時間の平均を何倍も上回りました。しかも、登山道は登るだけではなく、今まで登ったほど下ることもあり、山の腰を巻いて登る道もありました。青畝先生も、ゆっくり気長に道草を楽しまれ、なかなか高くなって来ないことを、諾っておられるのでしょうか。あまり高くない山のような気がします。
みのる:かなりの距離を歩いたように思うのに、俯瞰する麓の景はさほど変化せず、目標とする「山頂」まではまだまだ時間がかかりそうだ・・。そんな軽い気分を素直に詠まれた句で、特に他意はないと思います。そのような実感経験は誰もがもっていると思うので、難しく考えなければ素直に共感できるのではないでしょうか。完全な装備をして急峻な山を登るという感じではなく、ハイキング程度の気楽な山登りの様子でしょう。青畝師ご自身のことを詠まれたとして鑑賞すると、山麓のドライブウェーからの景色を車中から詠まれたのかもしれません。
( ギャルどももねしづまりをるキャンプかな )
遅足:ギャルどもという言い方に「そうだ」というココロと「それはないでしょう」という相反するココロで八つ裂きに、いや、二つに裂かれてしまいました。ギャルという言葉には、音だけで、ウルサイ存在という意味が含まれている素晴らしい日本語ではあります。女三人と書いて、なんとかという日本女性の伝統を受け継いでいるのでしょう。一方、ギャルどもといえども女性です。男性にとって美しい存在です。大和撫子とはいかなくても、ギャルどもは、ちょっと言い過ぎじゃないですか、という気にもなります。句には、ギャルはもはや日本女性ではないのだ、というメッセージが密かに込められているのかもしれません。
ほとり:キャンプの夜は特別なものですね。本当に暗い夜、そして本当の静寂。聞こえてくるのはバイクや車の音ではなく、色々な虫の声や、山深い場所だったら鹿の声など。先生は静かな自然に身を置きたくてキャンプ場に来られた。しかし、あろうことかギャルどものけたたましさに遭遇。喧騒は日が落ちてからも続いていた。夜も遅くなって、やっと求めていた静けさが訪れた、と鑑賞しました。「ギャルども」という言い方に、「かなわんなあ」という思いと「このひよっこどもが」という若者への暖かい眼差しも感じました。
けんいち:青畝師のお亡くなりになられたのは、平成3年ですから、ギャルといふ言葉も一般化されていたと考えられます。しかし言葉に厳格な師がこのような外来日本語を句に使われるのは如何なものかとの疑問も生じます。他方伝統俳句の新しい道を開拓してゆく、子規翁よりの流れは、新しみを重んじ、又滑稽味も一つの要素とされた。しかし基本はあくまで写生であると。そのような事を考えながら、揚句を鑑賞しました。まず客観写生であることは、論をまちません。説明するまでもなく状況は明らかです。そこでこの句を読んでの鑑賞になるのです。師は若い女性を含めた人たちとキャンプにゆかれた。飯盒炊爨、キャンプファイヤー、歌、等々で夜おそくまではめをはずされた。師も老体にむちうち愉快にすごされた。うたげも終わり皆キャンプに入り寝込んだ。師は夜半に目を覚まされて、一寸外へ出られた。いままでの喧騒をよそに静まり返っている。そらには星がまたたき静かである。あんなに一番騒いでいた娘達もねてしまったのだなと。そこでこの句を娘どももとか女どももとか詠めばなんの変哲もない。ギャルといわれたのがぴったしで正しく言葉の魔術師です。ほら聞こえてきませんか、ギャルどもが大口をあけてかいている鼾が。
よし女:ギャルどもの上五に、私も青畝師のあたたかい眼差しを感じます。それにしても、ハイカラな言葉で、なかなか使えないですね。
とろうち:「ギャル」という言葉は好きではないので、おそらく互選ではこの句は採らないでしょうね。キャンプしているグループの中に、女の子ばかりのグループがいたのでしょう。若くて、何をしてもきゃあきゃあと、それはそれは賑やかなこと。うるさいなぁと思ったかもしれません。でも、この句には賑やかな「ギャル」の一団の、健康的な若さに対する好意的な視線を感じます
羽合:あのギャルどもめ、と昼間は批判ばかりの作者も、夜寝静まっているときに、これでいいのだ、こいつらもこの自然を堪能せいと言っている、そんな句に聞えます。ギャルとキャンプというふたつのカタカナ語が呼応し、リズムを作っているのもこの句に独特の響きをもたらしている。
みのる:キャンプという季語を使っておられますが、多分、夏季に行われた吟旅の夜の様子だと思います。ぺちゃくちゃおしゃべり好きな女性俳人たちを「ギャルども」と親しみをこめて言っています。先生を取り囲んで俳句談義に盛り上がった連中も、夜がふけてそれぞれの宿所にもどり、一人になって静まっておられる作者の姿がうかびます。YWCAとか女子大生とかのキャンプのようすと鑑賞してもいいのですが、この句を繰り返し読んでみてください。寝静まったギャルどもが主役なのではなくて、一人静まって余韻に浸っている作者が主役だということがわかるでしょう。昼間のにぎやかなギャルどもの世話から開放された引率の先生のほっとした気持ちを詠んでいるのです。そこで、さらに青畝先生ご本人が主役だとして鑑賞すると、楽しい吟旅のようすが見えてこないでしょうか。
( うんかいとひきのとうえいのみがしや )
いなみの:雲海と飛機の投影のみが視野。飛行機の窓から見える景色は全くその通りで何回も見ていながら句にはできませんでした。恐れ入りました。余談ですが飛行機を飛機と省略して使うことは出来るのでしょうか? 単純な疑問ですが広辞苑を検索してもみつけられなかったので。
秀昭:いなみのさんと同感です。飛行機のことを飛機と省略した句を何度か拝見したことがあります。作者も詠んでおられますので飛機は有効と思います。
とろうち:もし、自分だったら中七は「飛行機の影」としたと思います。ただ単に「飛機」という言い方がひっかかるからですが、この句はわざわざ飛機という言い方をしてまでも「投影」という言葉を使いたかったのかなと思います。影と投影では若干受けるイメージが違いますよね。後者では、雲海の上の小さな影を想像できます。雲海と飛行機との距離が鮮明になる気がします。言葉というのは大事ですね
よし女:私もつい先日東京へフライトしましたが、まさにこの句のとおりでした。句にはならないと諦めて眠ってしまったのですが、こんな句もあるのですね。ただ、私もとろうちさんと同じように飛機に引っかかっています。言葉の省略は成っても発音も余り好きではないし。好みの問題もあるのでしょうか。
こう:雲海・飛機・投影・視野と二字熟語が四つ。こうして見ると、やはり「飛機」が締まっていていいなあと思います。これを繋ぐ「と・の・のみが」がゆるがない。言葉の魔術師に脱帽!
みのる:たしかに広辞苑には飛機はでてきません。でも「機上」(機上の人)というのは出てきます。ですから間違いとまでは言えないと思いますが、市民権を得るところまではいってない言葉なのでしょうね。俳句では「飛行雲」というのも良く使われますが、これも正しくは「飛行機雲」ですね。このような怪しい言葉、あるいは造語を使う場合は、前後の文脈や内容で、それと断定できるように詠みなさいと青畝先生に教えていただいたことがあります。
一寸脱線しますが、青畝先生は「つるべ落とし」と詠まず、かならず「つるべ落としの日」と詠むようにと何度も教えられました。言葉の魔術師といわれた先生ですが、その信念には妥協を許さない強い意志を感じます。歳時記に載っていないから無季、載っているから有季というよな教科書的俳句ではなく、一句のなかに季感があるか否かを問題とすることが真理です。GHが目指す俳句は、理論や理屈の呪いに縛られるのではなく、先生の説かれた真理を見失わないように進みたいと思います。
( よこっぱらからみづをふくそんなたき )
遅足:思わず笑ってしまいました。滝というイメージをひっくり返してくださった句です。人間にもそんなのがいますよね。ギシギシした世の中、そんな人が身の回りにいたら面白いけど、はた迷惑かも。
秀昭:横っ腹と言うからには、断崖の中途からでしょう。普通は真上からでしょうが、穴か、割れ目から。「水を噴くそんな滝」がとても面白い。
よし女:常識を破った自在な句というのはこういう句なのでしょうね。うーんとうなりながら句の情景も、作者の感動も伝わってきます。面白い句だと思いました。
みのる:滝は上から落ちるもの・・という常識を超えた発見ですね。常識や理屈に縛られた感性では、このような情景に遭遇したとしても、おそらく句として発見することは出来ないでしょう。幼子のような柔軟な感性をとりもどすには、常識という弊害から離れる訓練が必要なのです。何の変哲もない見たままの写生ですが大きな驚きと勢いを感じます。これこそゴスペル俳句と言いたいですね。
( いってんのうづふるへをるいづみあり )
よし女:名水といわれるあまり大きくない、美しい泉が浮かびます。一点の渦が震えているという感覚、また、その表現も青畝師ならではのものだと思います。渦が震えるとはすばらしい! 下五が「かな」でなく、「あり」になっているのが、よくわかりません。
江斗奈:この一点から冷たい水が静かに、しかし力強く湧き上がって来るのでしょう。静寂な深山、辺りは一面緑で覆い尽されている風景を私は描きました
とろうち:まさに写生句ですね。水底から水が湧き出ている。そのために小さな渦ができて微かに水が震えている。水底の砂の柔らかさ、清らかな水の冷たさまで感じ取ることができます。
みのる:「かな」でとめずに「あり」とされたのは焦点を絞り一点を強調する効果を出しています。 青畝先生の句によくでてくる、「・・・を見よ」というのも同様です。どう使い分けるかは、一概にいえませんが、余情とか余韻を大切にしたいときは、「かな」のほうが効果がありますね。泉の底から鋭く噴出している水によって、一点に渦が出来ているようすではないかと思います。バスタブの水を抜くときに排水穴の上に渦ができますが、その逆の現象です。
( つちふまずさますゆどののしみづかな )
遅足:湯殿山のご神体は岩で、そこから温泉が湧き出ていると聞いたことがあります。そこでは裸足になるということですから、足の裏の皮の薄い現代人には、ちょっと熱すぎたのかも知れません。あるいは敬虔な気持ちで、お参りした結果、ついつい長湯して、土踏まずが熱くなってしまったのでしょうか? あわてて冷たい清水で足を冷やす。これもまた神の水。ちょっとコミカルな感じがする句と思います。読み間違っているかな?
よし女:出羽三山奥の院と言われている湯殿山。随分と歩かなければならないようですが、二三年前、三山詣での計画が流れてしまい、残念な思いを今に引きずっています。長く歩くと、足が、ことに土踏まずが、ほてって、つっぱってくるのです。清らかな水があふれている場所に、歩き疲れた足を入れ、休憩されている様子が想像出来ます。生き返った心地だったでしょう。
みのる:お二人しか鑑賞が無く寂しいです。出羽三山の湯殿山詣でのことだと気がつかないと鑑賞できないですから、ちょっと難しかったでしょうか。山形は志乃さんの故郷なので、志乃さんの書き込みを期待したのですが・・・さて湯殿山詣では、ぼくも体験したことは無く、テレビでしか知りません。定年になって時間に余裕が出来たら志乃さんが案内してくれるという約束をしているので、みんなでツアーを組みましょう。まとめにならなくてごめんなさい。
( くちびるにほつれがみきりすずしといふ )
よし女:始めは読み取りに迷いました。そして、くちびるにほつれ髪、で切って、霧涼しといふにつなげると良いかと思いました。霧の中を歩いている女性の、長いほつれ髪が、少しくちびるにかかり、その姿で「霧も涼しくていいわねえ」と言ったのでしょうか。艶な感じがして、涼しさが倍増されるように思います。
秀昭:作者は霧の中をとある女性と歩いていた。ふと隣を見ると、髪の毛がほつれてくちびるに。その女性が「霧は涼しいわねえ」と。男だったらこんな女性と一度は逢引したくなるのでは。逢引の句ってこんな風によむのだろうか。抽象的な写生句のお手本。勉強になりました。
みのる:五五八の破調ですがとても艶っぽくて情感のある句です。句またがりのテクニックと下句を意識的に字余りにしたことで独特の詩情を醸しています。勿論女性像ですね。実に具体的な写生句です。抽象的というのは句意が曖昧で具体的な情景を連想できない作品を言います。GHでは抽象的な俳句は扱いません。
( こまたきれあがりうすものしまりたり )
遅足:小股の切れ上がった女という表現を聞かなくなって久しいな。戦後の日本女性のアメリカ化は、誰にも抗しがたいものがあったのでしょう。巨乳などもアメリカ化の結果です。江戸の女性美が消えてしまい、小股の切れ上がった女も、絶滅してしまったと思っていました。しかし作者は、羅を着た女性に日本美を再発見し、その喜びを句にしたのではないでしょうか。日本の女性はやはり日本的な美を本質的に持っていたのです。その美を鑑賞する男の審美眼の方のも問題があるのかも。
よし女:「いよっ! 小股の切れ上がったいい女」と江戸っ子熊さんの声が聞えてきそうです。和服を着た女性の姿がすらりと粋な様子ですよね。身に纏っている羅を、きっちり着こなして、少しも暑さを感じさせない。「緊まりたり」の下五の締め方が、やはりうまいですね。ちょっとやそっとでは出ない言葉です。
とろうち:最近は見なくなりましたが、二、三年に浴衣をものすごく崩して着るのがはやってたみたいで、そのあまりの汚さというかだらしなさに、やっていいことと悪いことがあるだろ! と思わず言ってやりたかったことがあります。やっぱり小粋な女はこうでなくっちゃ!粋でおきゃんでストイックな色気。鳥居清長の描くお江戸美人のような女性をイメージしました。
みのる: 90歳の青畝師が詠まれたからこそ嫌味なく鑑賞できるのでしょう。もし作者がぼくだったら、GH若葉組の皆さんになんと言われるでしょうか。もちろん、ここまではっきりと言い切る勇気はぼくにはありません。青畝先生は、ときどき「どきっ!」とするような作品を発表されます。つねに新しさを求めてやまない作家魂を感じます。
( アロハきたりじんべいきたりおいきまま )
秀昭:サラリーマンは出世競争の世界に身を置く。中には窓際のほうがいいなんていってるものも。それが歳をとって定年を過ぎれば、背広にネクタイ姿なんてさようなら。気楽に何を着たって構わない。アロハだろうが、甚平だろうが。競争のない世界は実に気儘なものよ。やはり自然体が人らしくていいと主張されているのでしょう。
とろうち:会社勤めをしているうちは、背広にネクタイ、なかなか気楽な格好はできません。けれど隠居となった身には、何をまとってもかまわないじゃないか。派手なアロハを着ようと、甚平を着て脛をだしていようと、どうせ年寄りのすること周りを気にしないのは爺の特権だよ、と言わんばかりの句と感じました。
よし女:若い頃、祖父母が「年をとると、暑さ寒さがとてもこたえる」と、話していたことを思い出しました。自分がその頃の年齢になって、よく解るようになりました。アロハ着たり甚平着たりと老は気儘でいいよ、別に肩を張ることもない、と思う心の中に、なんとか工夫して暑に耐え、元気に夏を越そうとの気持ちも覗えます。
羽合:アロハという異国の着物も、甚平という日本の着物も、きままに着ることができる老境。磯野家のおじいさんでなく、ちびまるこちゃんのおじいさんあたりならやりそうな感じ。新しいものも受け入れ、しかも古き日本の伝統も引き継ぐ。肩ひじのはらない老人。若いもののファッション、サラリーマンの背広姿までもが批判にさらされてしまうような句。
みのる:青畝先生の自画像でしょうね。ぼくも早くこのような生活になりたいです。
( まんめんにあせしてむくいもとめざる )
りんご:報酬を求めず世のため人のため額に汗してこそ素晴らしい人生。人として真の価値の高い人とはこんな人のことですね。教えられました。
秀昭:昔は無料奉仕。今で言うボランティア活動でしょうか。これを生きがいという人も。その様をすかさず句にしてしまう作者に感嘆します。これこそ立派な人生訓話俳句でしょうか。
よし女:青畝先生の生き方そのものだと思います。それは GHの管理人みのるさんにも通じていて、私もかくあらねばと思うものの、というところです。
一尾:私ども自治会では昨日夏祭終了、本日反省会。ああすればよかったこうすればよかったと、省し切り。失敗も成功も笑いの中に吹っ飛ばされ、来年はこうしましょうやで一件落着。後は恒例の飲み会で意気は盛んでした。わが環境に合わせ勝手に鑑賞しました。
羽合:「満面に汗して」というのは、自分を見ているのではない。また、単に人生観を読み上げているのでもない。その姿に心打たれている作者ならではの表現である。ゆえに、その感動が伝わってくる。満面に汗して酬をもとめない姿を見て、かくあらねばならないと、作者は心から思っている。そして、この句を読む私も、かくあらねばと思うのである。何だか、句とか言葉とかを超越していると言ってよい作品である。
みのる:満面に汗して黙々と奉仕の作業をしている、実直な好好翁(こうこうや)の姿が浮かびます。また青畝師の自画像を見ているような錯覚もあります。報酬を求めないのは奉仕の精神の原点だと思いますが、このような人は自分の行為を奉仕だという意識すら無いのだと思います。 ちょっと穿った言い方ですが、ボランティアで無料奉仕しているのだという人たちのなかの一部には、確かに報酬として金品は求めないけれども、善意の押し売りであったり、感謝という代償を期待したり気持ちがあったりという偽善的な態度も見え隠れすることがあります。これは奉仕ではないとぼくは思います。でも、本当の奉仕はこの句の作者のような寡黙な善意であると思います。句の鑑賞と無関係のことを書きましたが、この句を読むたびに、ぼくには青畝先生の笑顔が目に映るのです。
( ふんすいにしんわのだんぢょあそびけり )
江斗奈:白い像が噴水のしぶきを浴びて、きらきらと動きがあるように見えます。西洋庭園に居るように思えます。
よし女:アダムとイブしか思い当たりませんが、一読、いかにも涼しげで楽しいお句です。「けり」の止めかたも、句姿をすっきりさせているようです。
とろうち:神話の男女というのはギリシア神話を想像しました。西洋庭園にある、白い像のある噴水。明るいイメージの句ですね。
羽合:私もときに噴水の前のベンチにすわることがありますが、いくぶん年齢のいったカップルなどがよく噴水を見ながらすわっていることがあります。噴水の世界に神話を見ている作者。これはギリシャ神話で、しかも、男女の愛の物語。その健康的、情熱的なさまが、夏の光と(おそらくは)白い石から吹き上げる水に描かれています。一人そんな噴水を見ていると、ここはやはりカップルがあそぶ世界だなあと、となりにいるカップルでなく、噴水のなかにそれを見いだしている。作者の目のやりどころが、おもしろいと思いました。
みのる:ギリシャ神話にでてくる男女の神の像が噴水池の中に立っているのでしょう。「神話の男女があそんでいる」と見られた青畝師の感性が素晴らしいと思いませんか。この男女はおそらく裸像だと思うのですが、噴水の飛沫を浴びていかにも涼しげにあそんでおられる。青畝師はそう感じられたのです。ぼくはギリシャ神話に詳しくないのですが、一体どのような神様なんでしょうかね。ぼくの家の近くに須磨離宮公園があります。そこの噴水池にはポセイドンの裸像が立っています。
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