( しゃうぶのたゑまきのはしににたりけり )
秀昭:菖蒲田を見たとき、美しき絵巻の端に描かれた菖蒲を思い出したのでしょう。それほどの菖蒲田に感嘆したのでしょう。
よし女:菖蒲の名前には何故か源氏名が多いようで、源氏物語の絵巻を思い浮かべました。ひもといてすぐ菖蒲田の様子が描かれた絵巻物を思い出されたのでしょう。「絵巻の端に似たりけり」とは、やはり、奇想天外で、青畝師ならではの表現だと思いました。
如風:本来は、絵の方が実物に似ているのだが、絵は己の主観・願望を入れて描ける。絵巻はこの世のものとは思えぬ、素晴らしいものだったのだろう。目の当たりしている菖蒲田は、絵巻程ではないのだが、実にうつくしい。この辺りの情感・情景が「端に似たりけり」に良く表現されている。
とろうち:はっきり言って、よく鑑賞しきれない句です。「絵巻の端に似」るというのは、どういうことでしょうか。絵巻に描かれた絵の端という意味でしょうか。それとも絵巻そのものの端ということでしょうか。絵巻などで、秋草の描かれたものはよく見ますが、菖蒲が描かれたものを思い浮かべることができず、いろいろと調べてみましたが、やはり分かりませんでした。絵巻に描かれた菖蒲田のようだったということか、それとも菖蒲田そのものが絵巻のように美しかったということでしょうか。何日か考えましたが、結局お手上げのようです。
こう:光琳の屏風絵を連想しました。「絵巻の端に似たりけり」がちょっと出てこない言葉と感じいりました。菖蒲田に行ったらこの句を口にしてみましょう。
千稔:菖蒲田の観覧コースに、ドラマなどの「つづく」見たいな趣向が凝らされていたではないかと思います。菖浦の田で、まるで何巻もの絵巻物語を続けて、見るが如く楽しめたよ。と鑑賞します。
みのる:眼前の菖蒲田の風情が、絵巻の端に描かれたカット風の絵に似ていると感じたのですね。その菖蒲田の様子は、何も具体的に表現していないのですが、鑑賞する人が、かつて自分の見たことのある絵巻の記憶によって、連想を広げてゆくのです。名句という意味で掲げたのではないのですが、連想に委ねた写生術の例としてわかりやすい句だと思います。
( ほかのくさまじへてをらぬしゃがじゃうど )
秀昭:奢莪の花はあやめ科の中でも美しい花の一つだと思います。一面のシャガの花畑に、草一本はえていない。そこは寺の境内であろうか。そこでシャガ浄土が浮かんだのではないか。素晴らしい感覚だと思います。花と浄土の句では
がある。シャガの花の別名は胡蝶花。
よし女:著莪の花は山の大木の下とか、庭隅の湿気の多い場所を好むようです。日影を好み繁殖力が旺盛な植物のようで、短期間に、一面の著莪の花絨毯になるようです。それを浄土と表現された・・・その中には他の草がまじっていないとの断定もおもしろいです。・・・浄土といろいろ使えそうですね。
如風:京都栂ノ尾の高山寺辺りで、シャガの群生を見たことがある。それより数段の群生であったのだろう。将に、浄土の如くと。群生なら「他の草まじへてをらぬ」は、表現が弱いと思うが、鑑賞者の想像に委ねられたのであろうか。浄土の途中から帰って来た何人かの話によると、一様に赤や黄色の鮮やかなお花畑があったと聞く。この先入観からか、シャガはしっくりこない。人夫々でよいのである。
とろうち:著莪という花は、独特の雰囲気を持った花だと思います。「著莪浄土」と言われると、なるほどなあ、という気がします。どこまでも広がる著莪の群生。ひとつとして他の花を交えぬ光景を想像するとやはり「浄土」という言い方がしっくりくる気がします。
一尾:著莪をわが狭庭に植えたところ年々成長著しく、他の花を交えるどころか消してしまう程の成長力旺盛な花です。まさに唯我独尊の姿ではないかと勘ぐります。狭庭には馴染まないのでしょう。それでも一見陰鬱な薄暗がりに白い花をちりばめ、新しい世界を開く頃は愛づべく花ですね。これが浄土なんでしょう。
千稔:薄暗い場所で、全く混じり気の無い著莪の花の広大さに、異次元の世界を感じ、浄土の空間だと思える。と鑑賞します。
みのる:「他の草まじへてをらぬ」と逆説的に表現して、著莪の花の群落が真っ白に広がっているようすを具体的に連想させています。うまいですね。
( いちしけいしうのくえらびあけやすし )
遅足:以前、名は忘れましたが、ある死刑囚の句集を読んだことがあります。そのなかで刑務所のなかの、名も無い草の葉の緑に感動して詠んだ句がありました。草の緑に思いを馳せたことなどなかったので、とても心打たれました。生と死を体で感じていることが、どんなことなのか、ほんの少しですが、理解できたように思いました。そんな句を選句したら、心が波打って、なかなか鎮まらないのではないでしょうか。
秀昭:数多くの選句の中から一人の死刑囚の句に目が止まられた。処刑される人の感情と同一になられ、悶々とした時を過ごされた。ふと、外を見ると、白々と夜が明けていたのでしょう。澄み切った無の心境を詠まれた句だったのでしょう。
如風:なにかの選者のときの句であろう。投句の中に死刑囚の句。いつもなら、冷静且つ的確に選句が進むが、今夜は悶々。師もやはり人間であったか、共感を覚える。虚子師系の師にしては、珍しく八・四・五の変律。師の決断に拍手。兜太はこの句に接し、どんな感慨を持たれたであろう。興味の湧くところではある。
一尾:選句は句を選ぶのか、人を選ぶのかを考えさせる句です。選句後に作者は死刑囚と知らされ、改めて句を評価される心境を詠まれたのでしょう。選句者の苦悩が伝わる一句です。
とろうち:選句した詠み人は死刑囚だった。青畝氏はクリスチャンですから、当然人間の業とか、原罪についてとか考えたのではないかと思います。大罪、おそらく人の命を奪った人間が、今は俳句によって生を見つめている。俳句というのは季節を詠むものです。季節というのは、うつろうもの、止まることのない自然の生そのものだと思っています。詠み人が一体何を詠んだのか、それは想像するしかありません。けれど、奪われた命、奪った者が見つめる命、そして司法によって奪われるであろう命を考えると、深い念にとらわれずにはいられません。
千稔:「短夜」「明早し」「明急ぐ」ではなく「明易し」なのかを考えると、句選びと対比させるための掛け詞ではないかと思います。一死刑囚の句を選句する仕事は、重責と苦悩で、一番日中が長い時期であっても、日中で終わらず、夜になっても終わらず、とうとう明け方になったよ。夜が明けるのは早いけれども。と鑑賞しました。
よし女:一死刑囚の句集を編む為の句選びでしょうか。その句に引き込まれ選句しているうちに、早、夜明になっていたという、師の感慨だと思います。私も、貧困の為の無学文盲、脱獄、独房で暴れ懲罰刑等の歴を持つ死刑囚が、真剣なある指導者によって、文字を覚え、辞書を繰り、添削を受け、生のぎりぎりを詠った句を読んだことがありますが、夜、眠れなくなるほどの感動を覚えました。
などを覚えています。
みのる:状況をどう読み取るかは意見が分かれましたね。ぼくも事実は知りませんが、「明易」の季語から鑑賞すると、よし女解のように、一死刑囚の句集を編む為の句選びだと思います。身につまされる句ですね。死刑囚の句は虚構や他人を意識したものではなく、心のそこからの真実の叫びだったと思います。わたしたちの目指す作品もまたそうありたいですね。
( さがごしょのたちばなかをるとまりかな )
秀昭:嵯峨御所に泊まられ、橘の花の匂いを満喫されたのでしょうか。平安初期、嵯峨天皇の奥方だった橘喜智子。「橘」の匂いによって約千二百年前の嵯峨天皇の御世に思いを馳せられたのでしょう。歴史の奥深さを感じさせていただいた一句でした。
登美子:嵯峨御所は大覚寺なのでしょうね。平安時代にはきっとまだ民家もなく、山里だったのではないでしょうか。柑橘類の花はとても良い匂いがします。きっと、そのやさしい匂いが殿上人の山里での日々の癒しになっていたのではないかと思います。大覚寺周辺は嵯峨野と言っても所謂嵯峨の銀座とは違い、割りに静かです。近くに大沢の池もあり吟行には最適かと思います。
けんいち:嵯峨御所は嵯峨天皇の離宮、いまの大覚寺ですね。南北朝時代にも色々関係があるようです。いささか強引ですが、大覚寺に師がお知り合いあり、宿坊にお泊りになつた。その際、嵯峨御所とし又橘も右近の橘から橘かをるとされ、詩文に優れた嵯峨天皇の御所時代の雅を詠まれた。と鑑賞しました。
千稔:花の香りがもつ身体と心の「癒し」効果のある、アロマテラピィーを連想します。嵯峨御所に宿泊することになり、床に入っても、ずうっと橘の香りが部屋の中まで一晩中していて、嵯峨御所の歴史を思い浮かべながら、心地良い眠りにつき、幸せな一泊であった。と鑑賞しました。
如風:大覚寺には、夏にも訪れたことはあるが、橘の記憶はない。まさか右近の橘ではあるまい。あまたの橘が匂っていたのであろう。近くに割烹旅館のあるのを知っている。そこにでも泊まられたのであろうか。でも、そこまで匂ってくるとは思えない。夜の静寂が訪れた頃、昼間の回顧の句であろうか。「きょうの橘は素晴らしかったなぁ、今夜はよい所に泊めて貰い極楽、極楽」と。
みのる:大覚寺の左近の桜、右近の橘は有名ですね。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Ayame/3841/dairi-sisiiden-tatibana01.htm
みなさんのおっしゃるとおり、何かの縁でお泊まりになったときの作品でしょう。「泊り」の語から、「寝室」での句と断定するのは理屈の世界。泊まることになっている夕刻の風情ともとれます。閉門時を過ぎ、観光客のにぎわいもなくなって、静かな夕暮れ時の境内を散歩しながらの句だと思えば、また風情が感じられるでしょう。平安時代の雅な雰囲気がただよう句ですね。何でもない句ですが、ことばの斡旋が非凡ですね。
( あまもどるみちのみかんのよるもさく )
秀昭:海沿いの温かいところ。この時期まだ海水もそれほど暖かくなく作業が厳しい海女。帰途、甘い蜜柑の香りがそんな海女を癒しているのであろう。夜までも咲く蜜柑とは樹勢がよく、小さな白い花が可愛らしく感じられたのでしょうか。常に愛情に溢れた繊細なお方ですね。
けんいち:蜜柑は海に面し、陽光のふりそそぐ場所が最高で甘くおいしいといはれています。有田、愛媛、小田原等そうですね。蜜柑山の持ち主は漁業も兼ね、いわゆる半農半漁が多いようです。蜜柑山は急斜面が多く栽培は重労働、奥さんは海女、蜜柑の花の咲く頃朝早くその香りをかぎながら浜へでる、これも重労働、後始末をして家に帰る頃はもう暗い。帰って蜜柑山から帰る旦那の食事の用意。そんな海女さんを労わる様に夜目にも白く見える蜜柑の花が咲いている。師のやさしい気持ちが現れていると鑑賞しました。
千稔:けんいちさんと同感です。「蜜柑の夜も咲く」で「蜜柑の花」と同じ季感を感じます。愛が入っている愛媛蜜柑ではないかと思います。蜜柑の香りは、夕方も強く感じますので、本当に夜も咲いているのかもしれませんね。
よし女:「夜も匂ふ」でなく、「夜も咲く」となっていることで、匂い、色、夜の風景など広がりがあるように思いました。
しゃぼん玉:考えすぎだと思うんですけど、「夜も咲く」で浮かんだのは、日がとっぷりと暮れてしまった、かすかな明るさのなかで見る黄色い蜜柑。その黄色が目立って浮き出たように見え、実なんだけどまるでいくつもの花が咲いているように見れない事はないなーと思いました。
とろうち:もしも、夜にはつぼんでしまう花ならば、帰り道はちょっとさびしい。でも蜜柑の花は夜目にも白く、なんだか疲れた体もやすらぐ気がする。というふうに鑑賞しました。「夜も咲く」という言い方がすてきです。
如風:「海女涼し・・」の碑が長崎にある。掲句もそこでのものか。蜜柑とくれば、紀州であろうか。多分、ここで終日過ごされたのであろう。海女の仕事は遅くまでやらない。海女と往き交わしたみちを、師は夜独りで通られたのであろう、ほのかに蜜柑の花の香りが漂う。「人も草木も、昼夜を分かたず生きたいるのだなぁ」。ところで、海女は春の季語で、蜜柑の花は夏の季語。この句も季重なりなのか。小生は、季重なりをよしとしないことに抵抗感がある。師に拍手。
みのる:如風解の分析は鋭いですね。確かに海女の仕事は夜更けまではしないと思います。そして、歳時記では、「海女」は春の季語、「蜜柑の花」は夏の季語です。良い機会なので、少しおしゃべりしておきます。
俳句の鑑賞は、決して先入観や知識、理論で解釈してはいけません。創作するときも勿論そうですね。「海女戻るみち」を、単に海女の通い路だと鑑賞してしまうと、句意が弱くなります。「海女通うみち」ではなくて、「海女戻るみち」としておられるので、実際にいま海女が家路へと戻っていく情景だと、ぼくは思います。海に潜るだけが海女の仕事ではなく、後かたづけとか、収穫後の仕事などで遅くなったと言うことも考えられますね。
季重なりをいけないとしているのは、初心者が俳句を学ぶ、あるいは訓練する過程で、確固たる季感が身に付くまでは、そうした句を作らないようにと戒めているのです。初心者は、季語と知らずに季重なりの句を作ることもありますが、安易に季重なりの句を作ると、季感が曖昧になります。原則として季重なりはよくないのだということをしっかり理解しなければいけません。
「海女」がなぜ春の季語なのかを理解せず、季重なりを論じてはいけません。海女は、春も夏も秋も目にしますね。でも、磯開きのころの海女の姿が最も生活感があるとして春の季語になっているのです。ですから、海女を季語として作品を作るときには、そうした季節感が詠み込まれなければ季感が動いてしまいます。何度も繰り返していますが、季語があるか否かの問題ではなく、季感があるかないかが句の命です。
揚句の場合は海女は季語として働かず、蜜柑の花が季語と言うことです。
( あぢさゐのみちにかまくらござんかな )
秀昭:鎌倉五山とは鎌倉の臨済宗の五大寺をいい、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺のこと。その五山を巡るとき、道の端端に見事なあじさいが迎えてくれた。そんなあじさいに感動されたのでしょう。今の時期、鎌倉のほとんどの寺にあじさいが咲いており、まさに、あじさい銀座といえるでしょう。平成14年6月、ゴスペル俳句会の有志で鎌倉吟行をいたしました。みのるさんはじめ光晴さん、皐月さんら多数が参加。このときも熱気溢れる句会でした。鎌倉五山の志乃さんの名句が披露されました。
千稔:鎌倉五山巡りとはいっても、それぞれの寺の途に見事な紫陽花が咲き誇っており、今日は、寺が脇役で、あじさゐが主役の紫陽花巡りであったよ。と鑑賞します。
光晴:6月14日(土)に鎌倉の紫陽花を見に参ります。師の感激を実物で体感しましょう。今回はこの鎌倉五山には寄りませんが、紫陽花、花菖蒲、岩煙草、おうちの花、海芋、山法師など花の寺を巡ります。特に初めての方は必ず佳句をものにできますよ。私も、みなさんとの吟行で少しは句が出来るようになったと感じました。詳しくは、オフ会掲示板をご覧の上お申し込みください。
如風:五山のひとつ寿福寺に虚子の墓がある。墓参ついでに五山を巡られたのであろう。その道に紫陽花が。普通なら「五山を上に、紫陽花を下に」となるところと思うが、主客転倒の妙か。
みのる:鎌倉五山の解説は以下のサイトをご参考に。
道、路、ではなく、「途」を使われたところがにくいですよね。五山巡りのどの道行きもあぢさゐの花盛りであることがよくわかります。昨年のオフでは、長谷寺の紫陽花が印象的でした。
( ばいてんとちゃうていとありうましくに )
秀昭:重く垂れ込める梅雨空。長く続く渚。こんな状況からは魚介類は豊漁であるはず。今日の食事は期待出来るぞとルンルン気分だったと思う。
里登美:ゆるく湾曲した長い汀、今にも降ってきそうな梅雨空の下にその美しい汀が広がっている。その様な情景が浮かびました。何処の汀でしょう、よほど風情のある美しい汀のある処だったのでしょうね。
けんいち:日本の国は、四季があり季節季節それぞれの趣がある。又周囲海に囲まれ川からの水にも恵まれ、海産物も豊富であり、いたるところに長い砂浜がある。なんと美しく良い国であることよ。 季節の代表として、梅天、海に囲まれている事を、長汀で表現、日本全体を俯瞰した句と鑑賞しました。
とろうち:梅雨というと鬱陶しい、というイメージがありますが、梅雨に関する季語を拾ってみると、時候、天文、地理、動物、植物にわたって、実にさまざまなものがある、と読んだことがあります。それだけ、梅雨は日本人の生活とは切り離せないものであり、この梅雨によって、緑豊かな風土があるのだそうです。揚句は、日本という国を端的に表しているものだと思います。
よし女:うましは古語で、よいとか、すばらしいなどの意ですよね。うまし国ぞあきつ島大和の国は…と万葉集にあり、日本の国を讃えた言葉だと思います。梅雨に潤む空があり、長い渚があり日本の国はすばらしいとの意なのでしょう。梅雨空のもと、美しく長い渚に実際に立たれての感慨ではないでしょうか。
千稔:実際に詠まれたのは、琵琶湖畔ではないかと思います。毎年、梅雨が訪れ、長汀ができるほどに大量の雨をもたらすからこそ、水に恵まれた、自然の美しい国になるのだ。と梅雨空を見上げながら、感謝さえされている様子が浮かびます。
如風:磯か砂浜か。竿か網か掻くのか潜るのか。貝か魚か海草か。梅天に合うのは何か。好みで想像するしかない。「梅雨はうっとうしいが、旬の海産物のうまきことよ。これもこの地の恵みがあらばこそだ」。
みのる:この句は、須磨浦の景を詠まれた作品だそうですが、必ずしも場所は限定しなくとも、歴史的背景ののある長汀は、日本にはたくさん存在します。「うまし」は、古語的表現で「美し」の意。
じつは、この句を掲げたのは、みなさんに青畝先生のエピソードを伝えようと思ったからです。この句は、虚子先生の選にも入った句ですが、その折りに、青畝先生に次のように諭されたそうです。「あなたの主情もこのあたりを限度としなさい」もともと、青畝師は主情の作家でした。虚子の提唱する客観写生に飽きたらず、そのことを虚子先生に手紙で訴えられたときに、「将来の大成のために、今は辛抱して客観写生に励みなさい」と言う意味の返信が来たそうで、青畝先生は虚子のこの言葉を信じ写生の修練に励まれたのです。
GHのメンバーの中にも、GHの学びは、「ものたりない・・」と考えておられる方は少なくないと思います。俳句に主情は必要です。けれども、それがもろにでてしまうと、独りよがりの句になります。主情を客観写生に包み込む、これが虚子先生や青畝先生の目指された本物の俳句の道だとぼくは思います。
( かほだしてまどからさしづみぞさらへ )
いなみの:体の調子がよくないのか それともそれとも人にまかせたのか。しかし作業の様子を黙ってみておれず、つい窓から顔も口もだしてしまう。そんな様子が眼にみえるようなきがします。口やかましいご隠居か、やり手のオカミサンが主人公でしょうか。
こころ:お舅さんでしょうか。一家総出の溝さらえに向かってゲキをとばしたり、指図したり、家長の指図でしょう。その相手はお嫁さんに向かっているような気がします。この溝さらえには明るさと、微笑みが感じられました。
秀昭:季語は溝さらえ。昔は田植えの前に用水の流れをよくするために水路の補修、清掃をした。町、村内会の大行事で顔役が指図しながら進めた。その顔役が風邪か、病に伏せっていて任せていたが、外でがやがやする声を聞きつけ、居てもたってもいられず窓を開け、大声で指図を。作者は顔役の責任感の強さに大いに感心したに違いない。いまでは単に側溝清掃などといっているが、昔は生活に直結していた。
千稔:秀昭さんと同感です。地域密着の生活感あふれる、楽しい句です。他の地域の溝浚えの話として同様の話をたまに聞く事があります。
一尾:顔が出るほどだから、ついつい手も口もでると言うことでしょうか。反対側から見るようなものですから、仕残したところがよく分かる。溝さらえは共同作業が多いようですから、相当に権威のあった地元の実力者でしょうか。いまは体調すぐれず窓からの参加の図ですが、感謝の気持ちが伝わります。愉快な作品と鑑賞しました。
みのる:ユーモラスな句です。「顔出して窓から指図」実に具体的ですね。余分な主観は一切言わず、客観的に表現していますが、作者の気持ちはよく伝わってきますね。これが、客観写生の極意です。
( さみだれのあまだればかりうきみだう )
けんいち:浮御堂といふと、まず琵琶湖のそれが頭にうかびます。梅雨期の激しく降るさみだれは、琵琶湖の湖面と一体となり、雨か湖面か判然としない。浮御堂に目をやると、急角度の屋根から、しとどあまだれがおちている。雨にかすむ琵琶湖にあまだれとともに浮御堂のみが浮かびあがつてみえる。おそらく人気もなく、師ひとりではなかろうか。そのような風景が、この句からはつきりと目に浮かびます。
千稔:けんいちさんとほぼ同感です。琵琶湖に突き出して浮いているように見える浮御堂の筈なのに、集中豪雨のように降る梅雨の雨の中で、見えるのは屋根から落ちるあまだればかりで、浮御堂の形も中も良く見えなくて、少々残念である。と鑑賞します。
とろうち:これは大好きな句なんですよね。情景としては、けんいちさんの仰っているのと同じものを想像しました。「さみだれ」「あまだれ」の踏韻が心地よく、まるでショパンのあまだれの曲のように、あまだれの雫もリズムも、眼前に現れるようです。
秀昭:浮御堂で最も知られているのは、大津市堅田にある琵琶湖の水面に浮かんだように建っている臨済宗の仏堂。満月寺とも。近江八景のひとつ。五月雨の句にー五月雨をあつめて早し最上川ー芭蕉。さみだれは時に滝のように降るときがある。そのあまだれをお堂の内側から呆然として見つめていたのではないか。
千稔:秀昭 さんの視点に脱帽です。雨樋の無い建物の内側から見ると同様に見えますよね。作者の視点と一致していると思いました。>さみだれは時に滝のように降るときがある。そのあまだ>れをお堂の内側から呆然として見つめていたのではないか。
みのる:作者の位置について考察しておられるのは素晴らしいです。外からと見るのと、内側から見るのとで情景が変わってきますね。正解を求めないで、どちらも鑑賞対象とされれば良いと思います。ぼくも、この句に出会ってから、堅田の浮き御堂を見に行きました。あいにく雨は降っていませんでしたが、雨樋のないのを確認して納得しました。秀昭解のように内側から見ると、雨だれが簾のようにたれている様子が具体的浮かんできて風情がありますね。
( つゆきのこなかようかさをならべけり )
よし女:梅雨どきは温度、湿度がきのこに適していて、山や林を歩くと、いろいろなきのこに出会います。妖しい美しさのもの、有毒のものなどあり、やや異様な感じで、普通食用とは考えません。その梅雨のきのこが「仲良く傘をならべているよ」との表現で、読み手のほうも、楽しくなります。じめじめした梅雨の季節も、また良きかなです。生きる苦しみもこのような受け取り方をすれば、ストレスも随分軽くなることでしょう。作者にはそこまでの意図はないと思いますが、今の私にはこの17文字の中からそんな事も思いました。
千稔:幼稚園児や小学生の仲良しグループが、傘を差して梅雨の水溜りで長靴のまま遊んでいる様子が浮かんできました。
廣美子:梅雨菌、これはどう読むのだろうと思いました。漢字を見ると、物物しいですね。でも次の、仲ようという言葉にやさしさを感じました。生きとし生けるものへの、温かいまなざしを感じさせてくれる句だと思いました。
秀昭:梅雨に生えるきのこがづらづらと並んで生えているさま。仲ようの関西弁がこの句をやわらく包んでいると思う。関東人には使えない関西弁のまろやかさが光っている句だと感じました。
とろうち:個人的には「梅雨きのこ」と書いてほしいと思いました。「梅雨菌」だとばい菌みたいで・・・。梅雨の時期になると、思いがけないところにきのこが生えてきたりして、びっくりすることがあります。だいたい白っぽい、ひょろりとしたきのこで、ちょっと不気味というか、エイリアンのような感じです。とても「仲よう傘をならべ」とは思いつきませんでした。ちょっと見る目が変わるかも。
みのる:これもユーモラスな句です。梅雨菌は、一所に群落をなして出現するので、よく特徴がとらえられていますね
( ででむしのひっこみじあんながからず )
秀昭:蝸牛が作者と出っくわした。ちょっと思案したが、間もなく動くことにした。いざ危険を感じたら殻の中に入ってしまえばいいと考えているのだろう。そんなことなのかなと感じました。
光晴:じっと観察している師の姿が見えてきます。作句の態度までも感じられます。
とろうち:葉っぱの上のかたつむり。ちょんとツノに触れると、きゃ・・・と言うごとく引っ込んでしまう。でもすぐに、また顔を出す。続けざまにからかっているうちに、慣れてしまったのか、あまり引っ込まなくなった。なんとなく、でんでんむしのでで子ちゃんという感じでした。最近は、蝸牛も滅多に見なくなってしまいましたが、昔を思い出します。
里登美:いたずら心を出してちょっと突っつかれたのでしょうか。蝸牛はさっと殻に閉じ籠もって、前に進もうかどうしようか・・・が、やおら角だし頭だし、師の眼前をゆっくり進み始めた。 蝸牛の行動の結果だけを言い放ってこれだけの余情がひろがるのですね
よし女:このお句、面白く佳句だなあ〜と思い、何回も読み返しました。引込思案がうまく使われ、観察の結果の「長からず」にため息しきりです。
千稔:「じっくり時間を掛けて観察をすれば、必ず見えてくるよ」と吟行や作句の基本を暗示されているように鑑賞しました。
みのる:「引込思案」という言葉の発見がこの句の手柄です。ユーモラスな句ですね。幼子のような心になって対象に向かうという心を教えられます。
( みみずあはれありさうどうによこたはり )
とろうち:まさに「蟻騒動」とは言い得て妙ですね。大きなみみずを運んでいく時は、蟻がひとかたまりになって、もし蟻に声があるとしたら、それはそれは大騒ぎであろうという風情です。雨上がりで、かっと晴れた時などによく見る風景ですよね。
里登美:本当によく目にする光景ですよね。「みみずあはれ」ーーこのみみずは干乾びているのではなくて、まだ生きていて身動きが取れなくなっているのではないでしょうか。動きののろまなみみずにすばしこい蟻が群がり、右往左往しながら次第に増えていく、やがて餌食となったのでしょうか、あ〜あわれ。
後夢:みみずが蟻に運ばれて行く。それが俳句になるとは新米には意外でした。花鳥風月ばかりではないんだ。安心して頑張ろう。
秀昭:みみずって尊敬される存在。土壌を分解していい土にしてくれる。みみずのいるところの作物は必ず生育がいい。そんなみみずをあのにっくき蟻どもが分捕りあいをするとはけしからん。蟻を死刑に。作者はそんな気持ちでその光景をご覧になられていたのではなかろうか。
千稔:蚯蚓が蟻の大群に襲われ必死の抵抗をしていたが、なす術も無く、やがて力尽きて横たわって眠るかのようにして、蟻の大群に運ばれている。とドラマの一部始終が浮かんできます。
みのる:自然界の摂理とはいえ残酷な情景ですね。でも、作者の愛が感じられるでしょう。青畝先生がおっしゃった次の言葉を思い出します。
私は読者に愛を感じさせなければいけないと思っています。 どんなことを詠んでも、不愉快な感じを与えるのではよくない。 苦しさの見える句であっても、そこに救いのあるような気持ちを与えなくてはいかんと思う。 だから、ただ温かさだけのものではなくて、ああ、こんなたのしみがあるなあ、 と読んだ人に思ってもらえればいいですね。
( こぶんとびおやぶんとばずひきがへる )
遅足:蟇蛙を見なくなって久しい。昔は都会の庭にも時折、顔を見せていました。蟇蛙からは飛ぶというイメージは遠く、のっそりとわが道を歩むといった感じでした。時代劇の悪い親分のイメージに近く、親分が「おい」と、顎で指図すると、子分達がヒーローを取り囲む。そんな映画の一コマを思い出しました。俳句というとわりに狭い世界を想像していましたが、青畝先生の句を鑑賞していますと、人間くさい幅広さが魅力です。
千稔:大きな蟇蛙は体の表面に毒を分泌しているので、敵が現れたりしても少々の事では驚かず、逃げる事も無く、ただじっとしていて、「親分の貫禄充分」と鑑賞します。
とろうち:小学校の時、男の子が「ごっとんべえ」と言われる、大きな蛙を教室に持ってきたことがありましたが、それとひきがえるとは同じなのかなあ。小さな雨蛙は、ぴょんぴょんとよく跳ねるけれど、ひきがえるは滅多に跳ねようとはしない。「親分」とは言い得て妙ですね。ボスって感じじゃないし、任侠ものの親分って感じです。
みのる:親分は解るのですが、子分がちょっとわかりにくく、ぼくもちょっと自信ないのですが、とろうち解にあるように、他の小型種が蟇と一緒にいたのでしょうね。人の気配に驚いて一斉に跳んだのに、動きの悪い蟇はもそもそとしていたのでしょう。蟇の特徴をよく捉えたユーモアな句です。よく似た感覚の青畝先生の句を思い出しました。
栗と松茸が同じ籠の中に詰めあわされた到来物の様子ですが、面白い感覚ですね。卒寿を過ぎてなお、若者のような感覚の句を詠まれる青畝先生に全く脱帽です。
( のどのしたからソプラノやあをがへる )
秀昭:恋の季節。雄が澄み切ったソプラノで雌に愛の呼びかけをする。大勢で奏でるので合唱のように。喉の下がピコピコするのを見届けた。作者の観察眼の鋭さにつきます。
遅足:蛙といえば、蛙飛び込む水の音があまりにも有名ですが、先日、ある本を読んでいたら、蛙は鳴くものとして詩歌に採り上げられていたとありました。蛙の鳴き声に詩情を感じることは余りなかったのですが、その話を読んだ後に蛙の声はソプラノにも聞こえました。喉の下からというのが句の並々ならぬところかな。
千稔:「青蛙は、あの小さな体のどこから、あんな高い声がだせるのだろうかと、よ〜く観察してみてわかったよ。喉の下から発声しているんだよ」とじっくり観察する事の大切さを教えておられるように感じます。
とろうち:殿様蛙とかは、ほっぺをふくらませますが、青蛙は喉の下を大きくふくらませますよね。観察のよく効いた句だと思います。ただ、ソプラノかなぁとは個人的には思いますけど。
みのる:しきりに鳴いている蛙と、じっと対峙して観察しておられる作者の姿が見えてきますね。 単に一瞥しただけの観察では、「喉の下から」の言葉は出てこないと思います。具体的に感じるまで粘り強く観察することの大切さを学びましょう。蛙の種類はよくわからないのですが、バスやテノールでなくソプラノというのがよく効いていると思います。
( つまやうじつかふにあらずさくらんぼ )
遅足:人間、命を食べなくては生きていけない因果な生き物です。お腹一杯食べた後、爪楊枝を使うしぐさからは、そんな業も忘れ、満足しきった生き物としての人間像が浮かび上がってきます。さくらんぼを前にした時、その美しさに心打たれ、食べ物としてのさくらんぼを忘れてしまう。一瞬の後には食欲が勝り、口のなかに放り込む。しかし命をいただいたことは忘れたくない。 爪楊枝つかふにあらずを、そう読みました。読み違いかな。
光晴:もし、さくらんぼの実だけで、穂先が付いていなければ爪楊枝も必要であろうに、1本1本ちゃんと上手く付いていることだな〜。可愛いくて愛しいさくらんぼの形をみているのでは。また、難しい句が増えてきましたね。
千稔:さくらんぼを食べている様子を、奥様に爪楊枝を使っているように見られてしまい、「そうじゃないよ、さくらんぼを食べてんだよ。」と言われている光景が浮かびます。楽しくなる句ですね。
とろうち:さくらんぼをほおばって、長い軸をつまみながら種を取り出そうと、口をもごもごしているのが、傍目には爪楊枝を使っているように見えるかなと、思案しているのを想像しました。 なんか、いいわけをしているようで、ほほえましさを感じます。
ほとり:勇気を出して久々に参加させて頂きます。林檎や柿や梨などは、皮をむいて切り分け、爪楊枝で食べるのが普通の果物だと思うのですが(特に家の中では)、さくらんぼは素手でつまんで食べてこその果物ではないでしょうか。見るだけでも可愛いさくらんぼですが、つまんで食べるから親しみもひとしお。先生はご丁寧に添えられた爪楊枝を見て、「こんなものはいらんわい」と苦笑しつつさくらんぼをつまんで頬張ったのでしょうか。さくらんぼへの愛しい思いが表されていると鑑賞しました。
秀昭:作者はさくらんぼが大の好物と思う。楊枝代わりのつまみ軸をもってパクパクと食べ続けたのであります。ああ、おいしかったと。
如風:愉快な句ですね。小生も爪楊枝を使ったこともないし、使っている人を見たこともない。理由?、それを云っちゃお仕舞いョ!。師の句意を犯すことになる。尤も、食したあとは使いますがネ(天の邪鬼)。
みのる:盛られたさくらんぼに爪楊枝がさしてあるのではなくて、さくらんぼの軸を手に持って食している様子でしょうね。名句とは言えませんが、これほど連想が飛躍できるのは、これはまさしく幼子の感性です。青畝師の感性がいかに柔軟かということを証明していると思います。常識や理屈の働きでは、とても無理です。
( ほうぜうのたまねぎすててあるもあり )
りんご:よく見る光景ですが、深い意味を感じます。物を大事にしなくてはいけないと教えられます。棄てる側にも言い分はあると思いますが、玉葱も一生懸命大きくなったのに何だか悲しいですね
千稔:「あるもあり」ですから、収穫忘れではなく、あきらかに選別されて棄てられたものが残っている。どうして人間は野菜に対しても平等に扱おうとせず、差別をしてしまうのか。と問われているように感じます。
けんいち:豊穣の玉葱とあるから、大豊作だつたのでしょう。このまま全部出荷すると価格が下がりかえって損をする。したがって農家は捨て置いている。それをみたままなんらの感情も交えずありのまま詠まれている。それが俳句の客観写生という事なんでしょうか。後は鑑賞する人の主観のみ。徹底的に突き放した詠み方が勉強になります。
とろうち:なんとなく今週は、写生とは何か、ということを学びなさいと、みのるさんに言われているような気がします。揚句のように、玉葱を捨ててある風景は見たことがありませんが、キャベツとかなら見たことがあります。結局、生産過多のために捨てられているわけですが、そういった風景を主観を交えず、ただ淡々と述べている。けれど、読む人はそこから色々と想像できるわけですよね。生産者の苦渋や、捨てられた玉葱の悲哀などなど。今週の句は、どれも身近な風景を詠んだものばかりです。一読して詠まれた風景を思い描くことができますが、けっして説明に堕してはいない。写生とはこういうものだよ、と言われている気がします。
秀昭:玉葱は晩秋に植え、冬越して梅雨前に収穫。その間、6,7カ月大地のエキスをいただいて成長するのです。それをとれすぎたからといって、痛みかけたものを置き去りに。むごいことをするものである。小生も小さな菜園で数十個を収穫。小さいが、その甘さにビックリするほどです。とり置きもきき、いつでも食べられる。そんな玉葱を粗末にするなんてけしからん。作者に全く同感です。
如風:あぁ〜勿体無いなぁ〜! それだけだろうか? 大漁でも豊作でも、漁師や農民は喜べないのである。師も世捨て人でない筈。自由経済の弱点に、心を痛められたと思う。
みのる:選別した後、売り物にならないものが捨ててあるんでしょうね。みなさんが感じられたように、全くの客観写生ですが、そのなかに、青畝師の主観がひしと伝わってきますよね。主観と客観は表裏一体。客観によって主観を包み込む・・と教えてくださった先生のお言葉を思い出します。戦後、物不足の苦しい時代を生きてこられた青畝師にとって、物があふれ、豊饒で贅沢になった現代を目の当たりにされ、何とも言えない隔世の感慨を覚えられたのでしょうね。 俳句誌「ひいらぎ」主宰・小路紫峡師の作品にも、
の句があり、ともに考えさせられる作品です。
( みよしののどんぞこのたのうゑをはり )
秀昭:「みよしの」の「み」は「吉野」の接頭語であろう。作者は奈良県在住だから奈良県の吉野の里か。この里の最も低い田の田植えが終わった。これによりほとんどの田植えがおわり、みんなよく頑張ったんだなあーーと感慨にふけったのでしょう。これで民の主食も大丈夫であろうと。
けんいち:吉野ですから、山あいの棚田でしょう。上から水を満たし代田にし、田植えしてゆく。一番下の田で今年の田植えも終わった。この一連の過程がこの句に詠まれていると鑑賞しました。 最後の瞬間を切って詠みながら、それまでの動きを写生しています。
千稔:水回しが最後の順番になる田圃の農家にとっては、毎年、田植前の降雨量とお天気を心配されると思います。作者も、棚田の一番下の田圃の田植が終わるのを御覧になって、「今年もまた、この村の全部の田植が水の心配もせず無事に済んだなぁ」と安堵された様子を感じます。もしかしたら、もあい作業の様子を御覧になったのかもしれませんね。
一尾:「みよしの」と「どんぞこ」のひらがな表現が効いています。特に漢字混じりの「どん底」ではゴーリキーの有名な戯曲イメージが先に立ち、暗く辛い重労働の田植作業が浮んできます。また「終り」と結び、重労働からの解放の宣言のようにも聞こえます。まだまだ早いが、収穫に期待を寄せる明るい作品と感じました。
みのる:山深い吉野の棚田の情景が具体的ですね。焦点を「どん底の田」に絞ったことによって、力強い句になり、かつ連想によってその周辺の様子が広がっていきます。大景を詠むときのポイントとして、上手に焦点を絞ることの大切を学びましょう。
( さをとめらとしをみられてわらふのみ )
秀昭:早乙女とは田植えをする女。豊作を祈る田植え祭の日でもあり、早乙女は一般的に紺のひとえを着て赤だすき、白手ぬぐいと菅笠を被る。早乙女は多くは中年の主婦らで、声を掛けられてもただ笑顔でこたえるだけ。声でこたえると歳がばれてしまうから。少しでも若さ見せようという女性らしい心遣い。ウイットに富んだ句である。
こころ:鑑賞については秀昭さんと同感です。しかも響き美しい早乙女に(ら)をつけてしまう。師の目の前の出来事を早乙女だけでなく師も笑いながら見ていたのではないでしょうか。
とろうち:女性にとって年齢というものは、まことにデリケートな問題でありまして。歳より若く見られれば「やだぁ、そんなに若くないわよっ」と言いつつも、まんざらではないし、逆だと「そんなにおばぁに見えるう?」と、ややショックを隠せず。 では、ほぼぴたりとあたった場合と言いますと、揚句のように、にやにやと笑うのみ、という感じになります。その歳に見られたということがなんだか悔しいような、悲しいような、複雑な感情があるわけです。で「笑ふのみ」分かるなぁ。
千稔:田植が終わった畦道で早乙女さん達と出会い、声を掛けられた茶目っ気を感じます。若作りの衣装に照れながら、気恥ずかしさもあり、娘の気分も味わいたいという早乙女の気持ちが、「笑ふのみ」で見事に表現されていると思います。
みのる:紺絣の着物に手甲脚絆、白手ぬぐいに菅笠、そして赤襷。幾人も並んで田植え歌を歌いながら早苗を植え付けていく風景ですが、機械化の進んだ現代では、ほとんど見ることができなくなりました。たぶんある土地での祭事として行われた情景を写生されたと思います。行事が終わってかむり物をとると、メンバーはみな、昔乙女であったというユーモラスな句ですが、これも、時の移り変わりに心を遊ばせ、平和となった現代の幸せを感じさせますね。
( なつこだちおほでひろげてはかりをり )
秀昭:大樹に向かうと両手を広げて測りたくなるもの。作者も暑い夏の日差しを遮る緑に覆われた大樹の夏木立を測った。測りたいと思っても大人は実行にうつさないもの。茶目っ気たっぷりの作者の可愛らしい性格を窺える。両手を広げて二つか、三つか、それ以上か。欅か、何の木だろうか。大樹には、寄り添いたくなるもの。安心感があるからでしょうか。人も同じで立派な人格者には寄り添いたくなるものでしょう。
遅足:大手を広げているのは、夏木立と読みました。では一体なにを測っているのでしょうか? また、変な読み方かもしれませんね。測っているのは、空の大きさかな? 今年の夏の大きさかな?
千稔:秀昭さんと、ほぼ同感です。大木の楠の木陰で、夏休みの童心に帰られている様子を感じます。
一尾:二抱えも三抱えもあるような大木でしょうか、ついつい測ってみたくなるもの。メジャーはないが、幸い身体物差を持ち合わせています。樹木に触れた時夏は冷んやりとした気持よさを感じますが、冬では冷たさが不快感を残すのみです。まさに夏にピッタリの句です。
とろうち:大きくて涼しげな影をおとしている大樹。思わず抱きしめて幹の太さを測ってみた。 抱きしめているのは自分かしら。それとも大樹の方かしら。トトロに出てくるような木を想像しました。風に揺れる葉擦れの音が聞こえました。ステキな句ですね。
みのる:もしぼくが、これと同じ情景に遭遇したと仮定したら、「大夏木両手ひろげて測りをり」 と纏めたのではないかと想像しました。大手ひろげて・・は、簡単にでて来る言葉ではないですね。そして、大夏木大手ひろげて・・だと「大」の字がかぶるから、青畝師は、「夏木立」とされたのでしょうか。何度もこの句を誦してみると、ふとあることに気がつきました。夏木立なので、複数の樹木なのです。つまり、大手広げに測るような大樹が、立ち並んでいる古刹の境内のような雰囲気が見えてきませんか。あるいは、屋久島の縄文杉の森のような太古の原生林かもしれませんね。
( おほぞらのうつろよぎりしほたるかな )
秀昭:蛍見物にきたが、蛍がよぎった先の空に一瞬、虚しさを感じた。作者の心もうつろだったのかも。
千稔:「大空のうつろ」とは前方の上空の事だと思います。「蛍は、何も無いあんなに高い上空をも舞い飛ぶのか」と前方を横切った蛍を見て、驚かれた様子が浮かんできます。
とろうち:恥ずかしながら、私はいまだに蛍を見たことがありません。で、想像ですが千稔さんと同じ光景を想像しました。たくさんの蛍ではなく、一匹の蛍がすうっと暗い夜空をよぎっていった。木や草が視界に入るような低空ではなく、ぽかりと空いた夜の虚空に。いっさいの音のない静寂に吸い込まれていくようです。
みのる:螢吟行会を予定していた、吉野の天好園のお庭に青畝師のこの句を刻んだ句碑があります。実は、この句を見たとき、ぼくの描いていた螢のイメージとは、あまりにかけ離れていたので、実感が湧きませんでした。それまでに、ぼくが見た螢は、川面や水際の草むらに群れる螢しか思い浮かばなかったからです。ところが、吉野ではじめて螢を見たとき、青畝師のこの句を納得しました。うす闇に影をなす大きな杉襖のその上空を、スーと螢の火が尾をひきながら飛んでいくのです。実に幻想的な情景でした。想像では、このような句は作れないですね。青畝先生もご覧になったであろうその場所で、みのるも一句授かりました。
=hoku< 杉の秀の雫と落つる螢あり みのる( はらぐろのあゆよとくしをぬきにけり )
秀昭:作者が釣ったのか、別の方が釣ったのか。一般的にはトモ釣り。流れに立ち込み、難儀してやっと釣り上げたのでしょう。難儀を腹黒と表現した。苦労して釣った瑞々しく気品溢れる鮎はうまそうだ。塩焼きして串を引き抜いた。食べてみると、初鮎の味は格別であった。解禁後、初鮎はなかなか釣れない。というのも、解禁当初は縄張り意識が少なく、自分のエリアに入ってきても追わないからだ。こういう鮎のことを遊び鮎という。
千稔:油断をして、黒焦げになるまで焼いてしまった鮎に「これは、もともと腹黒い鮎なんだ」と冗談を言いながら、串を抜かれている様子が浮かんできます。日常の失敗事をも、佳句にしてしまわれる平常心には、感心するばかりです。
とろうち:釣り上げた鮎を串焼きにしたところ、腹が割れて中の黒いわたの部分が見えた。まあ、釣るのに難儀をしたはずだ。こんなに腹黒だったとは。などと言いながら串を抜いて召し上がったのでしょう。鮎は川底の苔を食べているので、わたもいい香りがするといいますが、それを「腹黒」と形容したのは、やはり非凡と思わざるを得ません。
みのる:鮎は岩についている苔を突っついて食べます。タンパク源を食する魚は臭みも少なく食べやすいですが、水草とか藻、苔を食する草食性の魚は生臭く、万人好みではありません。でも、それがまたたまらない・・・という方もいます。本物の鮎通は、きっとそうなんだと思います。もともと川魚が苦手なぼくには、よくわからないのですが、この鮎は、たらふく苔を食べてよく太っているんでしょうね。「腹黒」とうい俗っぽい言葉を思い切って使われたのが手柄ですね。
( かなぐしのあゆぞんぶんにくちひらく )
秀昭:塩がまぶされ、金串に刺された鮎。炭火で程よく焼けると、水分が蒸発してぞんぶんに口が開く。口の開き具合をよく観察された。頭からパクリといただく。うまい。作者は塩焼きの鮎が大好物だったのでしょう。
きみこ:泳いでいる形に焼きあがり串焼きにされた鮎を、あんぐりと大きな口を開けて、頭から、ぱくり。少し、川の匂いがするけれど、それが又旬の味。匂いが漂って来たような気がします。
千稔:「ぞんぶんに」の使い方が実にピッタンコの句だと思います。焼きあがった金串の鮎を食べるときは、作法など無く「好きなように思いっきりガブリと被りついて、食べるのが最高に旨いのだ」と満足げに食べておられる様子が浮かびます。
とろうち:ぞんぶんに口を開いているのは鮎なんでしょうね。でも、それを食べるほうも存分に口を開けてぱくりと食べたのでしょう。野趣あふれる句ですね。
みのる:旅館か料亭でだされた鮎料理でしょう。「ぞんぶんに口開く」と焦点を絞って写生したことで、鮎の全体の生き生きとした姿が力強く連想できます。実に上手いですね。そして、みなさんのおっしゃるとおり、それを賞味しようと大きく開いた作者の口と鮎の口との出会いを想像すると、さらに愉快ですね。
( うぶねよりきんたいけうのうらこがす )
秀昭:山口県岩国市の錦川にかかる名勝・錦帯橋。江戸時代の岩国藩主によって作られた木造の反橋。背後に城山があり、桜、紅葉の名所でもある。かがり火を掲げた鵜舟がこの橋に近づき、鵜を使って鮎漁している間に、かがり火で橋の裏を焦がしてしまった。それに気づいた鵜匠が消し止めたのか。鵜の鮎漁を楽しむためにきたが、とんでもないことに。やれやれといったところか。
とろうち:鵜飼い舟がずらりと並び、篝火が川面をあざやかに照らし出す。やがて錦帯橋の近くまで行った舟の篝火が、橋の裏側までも焦がさんばかりに明るく照らし出した。一読して、その光景が目に浮かびます。夜景の暗と篝火の明。そして篝火が照らし出す川面と、錦帯橋という木造の橋の木組みの美しさ。すばらしいです。
千稔:古式ゆかしく篝火を焚きながら、錦帯橋を中心に川を上下しながら、鵜と鵜匠が繰り広げる息のあった鮎漁を、作者は錦帯橋の上から御覧になっておられたと思います。そして、一番の見せ場である「総がらみ」と呼ばれる漁法が行われるときに、見物客の待つ錦帯橋のところに鵜船が集結します。篝火を焚きながら錦帯橋の下に寄って来るので、橋の上からだと篝火の煙が吹き上がって、木造の錦帯橋の裏が焦げているのではないかと思うほどの勢いに吃驚されたのだと思います。
みのる:千稔さんの的確な鑑賞で、補足説明の余地はないですね。文法的には無理でしょうが、「焦がす」という言い方は、「焦がすばかりに」の意味として俳句ではよく使われる表現です。勿論、本当に焦げるときにも使いますが、一句全体の雰囲気で区別します。
( かはとんぼはねひらくたむろとづるたむろ )
秀昭:金緑色か、透明の小さめの河蜻蛉。羽を開いたり、閉じたりしてたむろしている。かなりの数で驚いている様子。
とろうち:川蜻蛉というので、私は羽の黒いハグロトンボの方を思い浮かべました。ふつうの蜻蛉に比べて、川蜻蛉は羽をペタリとたたんでいる感じがします。水辺にいる一群が、羽をたたんでいるグループもあれば羽を開いて何かしているグループもある。涼しげな光景ですね。5.8.6の破調ですが、あまりくちずさんで不自然さをかんじません。リフレインの妙なんでしょうか。
豪敏:みのるさんの日記(2003年3月2日付け)を拝見し、大変に勇気づけられ、恥ずかしい気持ちを抑えて本会に参加しました。全くの初心者ですが、皆さんの後を追いながら勉強したいと思いますので、仲間に入れてください。どうぞよろしくお願い致します。「羽ひらく屯とづる屯」を「羽ひらく屯」〜羽を開いて草の葉や枯れ草に止まっている川蜻蛉の集団(屯)と「(羽)とづる屯」〜羽を閉じて草の葉や枯れ草に止まっている川蜻蛉の集団(屯)をイメージしました。
水辺には、川蜻蛉がたくさん飛び回っていて、草の葉や枯れ草に羽を広げたまま止まっている仲間がいるかと思えば、羽を閉じたまま草の葉や枯れ草に止まっている仲間もいて、たいそうにぎやかな様子を想像します。作者は、この暑い最中に、水辺(川縁)に棲んでいる細身の体、透き通った羽、やさしい色などをした川蜻蛉の動きをじっと見られて、しばし暑さを忘れたのではないでしょうか。作者の小さい川蜻蛉に思いを寄せるやさしい心遣いや自然観察の鋭さなどを強く感じました。
みのる:とろうち解にあるハグロトンボの群れはまさしくこの情景を見せてくれます。「屯」と言う言葉、短くて深みがあるでしょう。ぼくもよく使います。こうした言葉をたくさん覚えると、作句に幅が出てきます。この句の字余りは、テクニックとして意図的なもので、いかにも平和でのんびりとした雰囲気が醸し出されています。
( ばんりょくをふかくぞゑぐるたにとたに )
こころ:遠近、濃淡、柔剛、そして空気まで伝わりました。写生の句の素晴らしさだと思います。自然とのけじめを感じます
秀昭:万緑の中の谷。標高の高い場所から川に浸食された谷また、谷の奥底まで見通した。そんな自然の威力に感服、呆然とさせられた
とろうち:もう、読んで字のとおりですね。万緑の中の渓谷。読んだ人は、俯瞰している場所から渓谷まで降りていって、水音や鳥や蝉の声まで聞くことができます。一枚の絵のようです
みのる:とろうち解のとおり山上から谷を俯瞰した景の写生です。青畝先生は毎年六甲山のオリエンタルホテルで避暑を楽しまれました。その避暑地での吟行句でしょう。毎日句会の句を選んでいるとき、ときどき万緑という季語をあいまいに使った作品を見受けます。緑蔭のようにスポット的ではなく、また青嶺ほど遠くもなく、広がりのある眼前の大景であることが基本ですので、注意しましょう。
( かぜのひもまたをひらきてぢょらうぐも )
遅足:女郎蜘蛛。子供時代に見た時代劇を思い出しました。いわゆる悪女。男を虜にして生き血を吸い尽くす女性というイメージでした。だいたい年増の美しい女優さんの役でした。またをひらくというのは、決してお行儀のいいことではありません。しかし悪女は映画のなかで、そんな姿勢をとっていたようにも記憶しています。この句は、美しい悪女というイメージを女郎蜘蛛に重ねているようです。雨の日も風の日も、虫の女郎蜘蛛は、なぜ、またをひらいているのでしょうか。
とろうち:ちょっとなんとコメントしてよいやら・・・という感じなのですが。女郎蜘蛛というと、やはり男の精気を吸い尽くすような、妖艶な悪女のイメージですよね。強い風の吹く日も、巣の真ん中で脚を広げて獲物を待っている。なんとなく好きにはなれない句かなあ。
豪敏:「風の日」、「またをひらきて」、「女郎蜘蛛」は、どれも力の強さを感じさせる言葉のように思います。作者は、体長の大きな女郎蜘蛛が、雨の日は勿論こと、強い風の吹く日にもその風に負けずに丈夫な足を力強くしっかり開き、精悍な形相で自分の巣に飛び込んで来る獲物を今は遅しと、待ち構えている逞しい姿を目し、微笑ましく思われたのではないでしょうか。「またをひらきて女郎蜘蛛」ですから、言葉から受ける状況に力強さとユーモアを感じます。
まこと:子供の頃観察したのを思い出しますと、女郎蜘蛛は巣のまんなかに四方に足を張り、獲物がかかるのを待つています。それは、雨の日も風の日も、巣を張り替える時以外では、台風の時に隅に避難する時ぐらいです。四方に足を張つているのが、後ろから見るとまたをひらいて、ということでしょう。
みのる:みなさんのコメント愉しく拝見しました。大型の女郎蜘蛛が風に揺られながら大きな巣を守っている様子が具体的に連想できますね。セクハラ、差別用語云々と騒がれる現代であれば確かに問題を含む作品です。ご高齢の青畝師の作品だから許されるのかもしれません。そうした考え方を超越すれば、俳諧味のある作品ではないでしょうか。
( あしもげてまだかけまはるあぶらむし )
とろうち:うわーーーーっ! これは勘弁ですわ。想像しただけで寒気がします。ゴキブリと竈馬はほんっとに苦手なんですよね・・・。油虫に限らず、虫というのは本当に生命力が強い。実に不思議な生命体だという気がします。じっと対象を見つめ、観察することが俳句には大事なんでしょうが油虫だけは、とても見つめられそうにありません。
初凪:油虫を叩いたのですね、足がもげるのですから、殺虫剤やホイホイではないでしょう。一息に殺さなかった悔いなんぞ感じられて、ちょっと寒い句です。油虫の句は作ったことない様な気がしますが、身近な句材ではありますね。しかし、ブルブル。
こころ:青畝先生は絶対に嫌いなはず、足もげても動き回る油虫の命に素直に驚き、そしてそれを句にしてしまうご自分に苦笑されているように感じます。勇気がいります。
まこと:田舎では電灯の明かりに油虫が飛び込んできますよねえ。うるさいので捕まえるのですが、足をにぎって捕まえていますと、自分で足を切って逃げることがあります。駆け回るということですから、羽根はもうちょん切られているのでしょうか。死んだふりなどしてじっとしていることなどない油虫の習性が観察されています。
みのる:油虫の生命力の強さを的確に写生した作品ですね。実は愚妻も油虫を見つけるとスリッパを片手に握って、敵のように追いかけ回ります。強烈なパンチがかすって、足がもげても、必死に逃げ回る油虫。どちらも必死です。油虫に焦点を絞って、人間の姿は隠されていますね。これが省略の妙なのです。
( ありのみちまことしやかにまがりたる )
けんいち:そう言えば、そうだと、納得してしまいます。いくら客観写生だと言っても一寸見ただけではこのような句は詠めません。とことん見なければならないのですね。しかも まことしやかに、の中七がよく効果あり、鑑賞する側も、なんでだろう、と想像をふくらませます
秀昭:まことしやかにーいかにも本当の道のように。じーっとよーくみていないと浮かばない。蟻の道はよく曲がっている。作者はとにかく観察眼が鋭い。
公二:蟻は働き者である。いつ休んでいるのかと思われるほどに動き回っている。その中心的な蟻が「働き蟻」。巣を造り、餌を運び、卵や繭の世話をしたりする。この句はその役割の中で、餌を運ぶ働き蟻に焦点を絞って作句したもの。作者は「4S」として客観写生の成果を虚子に高く評価された一人。そして対象を深く観察する徹底した客観写生の作句姿勢があったからこそ、この句も生まれた。餌を運ぶ働き蟻をじっと見つめている青畝の姿を想像するだけでも鬼気迫るものを感じる。掲句は、一列に続く蟻の門渡りを凝視しているうちに、目の前の障害物を退かしながら働き蟻が作った一筋の「蟻の道」の存在を発見した。その道筋を辿っているうちにあまりにも見事な道の曲がり方に感動した。自然と蟻の織りなす一種の美しさをそこに感じたに違いない。中七の「まことしやかに」という表現にその驚きが表出している。この句は、句材をとことん絞り込むことによって対象をより具体化した一例として成功している。「さみだれのあまだればかり浮御堂」とともに青畝の客観写生のお手本として後世に残る作品である。
みのる:秩序よく隊列を作って進む蟻の群れを「蟻の道」といいます。正しくは、「蟻の列」と言うべきかもしれませんが、俳諧的な季語ですね。常識や理屈を離れ、無我の境地で対象物に心を遊ばせる。そして、幼子のような素直な好奇心を触発させることによってこの句が生まれたと思います。句の鑑賞も又、難しく理詰めに判断したり理解したりするのではなく、素直に共感できるように訓練することも大切です。
今日の一句の鑑賞を通して、わたしたちは青畝師の俳句の心を温ね、それをお手本にして、新しさを求めて行く。つなわち、温故知新の心を大切にしてゆくことが、GHの進むべき道だと思います。試行錯誤、紆余曲折の道のりで、その先は見えませんが、青畝師の心を正しく継承して進めば、決して迷うことはないと信じます。数年先に、来し方を振りかえって見ると、まさしく「まことしやかに曲がっている道」が、見えるかもしれませんね。
句の鑑賞とは無関係なことを書いてしまいました。ごめんなさい。
( ばねきかぬぼうふらもまたありにけり )
きみこ:水の溜まって居る所にはたいていぼうふらが、うようよと居ます。近づくと一斉に沈み暫らくすると、上に上がってきます。その様子を見ていると、いかにも、ばねで動いている様に見えたのでしょう。少し成長してくると,孵化し蚊となって飛び立つのです。孵化寸前のぼうふらは、もう沈む必要はなく水面で準備にかかっています。その様子を見て師は、ばね効かぬぶうふらと表現されたのでしょう。
遅足:ボウフラにも若くて元気のいいのと、年取っているのがいるのでしょうか。泳いでいるのに、なぜだか、元気のないボウフラ。バネが切れたという表現に言葉の魔術師を感じます。先生は、バネのきなかい方にココロを寄せていたのかも。
豪敏:蚊の幼虫ぼうふらは、汚水中に生息していますが、動いている姿には愛嬌があります。無数のぼうふらが体をピクピクとバネのようにはねながら潜ったり浮き上がったりする動きは、なかなか面白いものです。普通は動くぼうふらに目が止まりますが、作者は水面に口を出したまま動かない「ばね効かぬ」ぼうふら(蛹)に目を注がれたのでしょう。幼虫と蛹の両方を交互に見ながら、しばしの時間を楽しんでいるかのようです。作者の命あるものを慈しむ心と身近な自然を鋭く観察する姿勢など、強く心に残りました。
みのる:たくさんの孑孑が、ぴょこんぴょこんとバネがはじけるように水中で跳ねている様子ですね。元気のいいのとそうでないのとの対比が面白いですが、バネのきいていない方の一部を写生して、大多数のは元気よく跳ねている方は、連想に委ねています。この辺がテクニックでもあるのですが、理屈で覚える物ではなく、写生の訓練によって育まれるものではないでしょうか。 ご参考までに愚作も紹介しておきます。
( くりかへすハレルヤにかぜかをりけり )
秀昭:ハレルヤはヘブライ語で神を讃えよの意。旧約聖書の詩篇にある。キリスト教会の賛美歌として歌われ、喜びと感謝を表す。この言葉の繰り返しに風が薫ったと感じた。ハレルヤへの最高の賛辞。
遅足:祈り。最近まで祈りとは縁遠い生活でした。しかし歳を重ねてきて体調を崩すと、ふっと虚しくなります。この虚しさは人間では満たせないものらしく、人間を超えた存在を感ずるようになりました。祈るという行為には不思議な力があるようです。そんな気持ちの高揚を、風薫るという風に感じたのでしょうか?
りんご:神を讃めたたえよという意味の賛美歌ハレルヤが繰りかへし歌われ風薫る空へ響く。賛美歌が聞こえてくるように感じました。
あんず:繰り返すハレルヤに応えるように、風は吹き渡り、青葉はゆれている、草木も風も共に賛美してくれているように感じる心境を想像してしまいました。
こう:主を讃美するハレルヤ。繰り返しハレルヤと声を挙げることにより、神よりの恵みとしての聖霊が降された。風薫りけり・・に、ペンテコステの恵みを師は、覚えられたと詠みました。
とろうち:喜びと幸せに満ちた句ですね。明るい陽光、そよぐ風、そして澄んだ歌声。
みのる:みなさんが歌っている情景を想像してくださって、とてもうれしいです。ハレルヤを繰り返す賛美歌は何曲かありますが、青畝師の詠まれたのは、ヘンデル作曲オラトリオ「メサイヤ」の中にある、「ハレルヤ」ではないかと思います。クリスマスは勿論、キリスト教では結婚式やいろんなイベントでよく歌われます。こう解にあるように、キリスト教会では、6月頃に、三大祭事のひとつである「ペンテコステ」(聖霊降臨祭)の礼拝があります。その礼拝式の中で、聖歌隊が賛美している様子かも知れません。あるいは、ジューンブライドを祝福している賛美と想像しても良いですね。 いずれにしても、 「風薫る」の季語がよく効いていると思います。
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