しろざけをののじにののじかさねつぐ
ひろみ:雛祭りの白酒を飲んで酔いが回ったところ。身体が揺れているので、注ぐ手元がのの字に・・・のの字は照れているとき(お見合いの席)などで使われますが、ほんわかとした情景が浮かびます。
よし女:白酒は少し粘りがあって、注ぎ終えたときのの字になっているのが、言われて見て納得できますね。すくなめなのでもう少し注ぎ足した器の中の様子。リズム良く、良く見てある句です。重ね注ぐの言葉もすぐにはでない良い言葉で。
遅足:のの字に注ぐというのは、どういうことなでしょうか? 酔ってのの字になるのか、注いだ後、のの字になるのか?文字通り読めば、注ぎ方のことと読めますが。遊んで注いでいるのか? 作法としてそういう注ぎ方があるのか? 重ね注ぐですから、飲み手は請求しているみたいですね。あるいは注ぎ手が飲の飲のといっているのかも。この二人は年齢はいくつ位なんでしょう? などなど、楽しんで読みました。
とろうち:白酒を実際についだことがないので、この句はよくわかりませんでした。でもよし女さんがおっしゃっているように、白酒というものが少しとろっとしているものなら、注ぐ時にのの字を書くように注ぎ口を動かすかもしれませんね。「重ね注ぐ」というのも、一人の杯に何回も注ぐということなのか、たくさんのお客に注いで回っているのか、ちょっと分かりかねます。うむむ?
敦風:「のの字」「のの字」というのは古くからある謂いであって、通常は、女性が恥じらってもじもじしているような初々しい様子を云う表現であると思います。見合いの席などで、娘さんが畳の縁などに「の」の字を何度も書いて、というそういう様子の文字通りの描写ですね。この句は、雛祭りの日、楚々とした女性が白酒を勧められて、恥じらいながら、じゃ一杯だけと受け、それを飲むとまた勧められてという風に、重ねて注がれているさまを詠んだものでしょう。大口でがぶ飲みするような女性にはおよそ縁のない艶なる句であろうと思います。私は、こういう句を読むと、さいきんは、若い娘さんというよりは、どちらかと云うと自分の年に近い方に受け取るようになって来ました。女性の初々しさは年なんかではないと思うとります。「のの字にのの字重ね注ぐ」。これ以上ない、絶妙の表現ですね。そう思います。
光晴:私は、のの字に注ぐさまは、何と言うか知りませんが、蕎麦湯を入れてあるような木の器から杯へ零れないように注ぐ情景と取りました。縦にのの字を書く感じです。大勢の客人、それも艶やかな女性達を前にうれしそうにゆったりとした時間の中にいる師を感じました。
みのる:由緒ある場所で白酒が振舞われているのでしょうか。ぐい呑みのようなのではなくて、小皿のような杯に注がれているのだと思います。三々九度の杯に神酒を注ぐとき、巫女さんが3回ほどしゃくりながら注ぎますね。それと同じように、のの字を描くように2度、3度と恭しく注いでいる所作を詠まれたと思います。よし女解のように、白酒は少し粘りがあることを考えると、とても具体的に見えてきます。白酒を注いでいる動作を見て、「のの字を書いているようだ」と感じたのが、作者の個性であり、この句の手柄です。具体的な写生の確かさを学びましょう。
けいちつにまずこてだしぬもぐらもち
遅足:懐かしい言葉、もぐらもち。小さく盛り上がった土を最初に見た時は、とても不思議だったことを思い出します。母から、あれはもぐらの穴と教えられて、さらに興味を持ちました。もぐらって、どんな生き物だろうか? 図鑑やテレビでその生態を学びましたが、大きくなって死んだもぐらを見て、その小ささに少しガッカリしたものです。句は、もぐらもちが生活の中にちゃんと定位置を占めている時代の、春を待つ気持ちが伝わってきます。もぐらも人も。生きたもぐらは、まだ見たことがありません。もう見られないかも。
ひろみ:土の中で生活するもぐらが春の日に穴から出てくるところ。とても光を感じます。まるで自分自身がもぐらになったような気持ちになります。もっと出てきてごらんと励まされているようにも感じました。
とろうち:すずらんさんの絵を思い出しました。もぐらもちを見かけて、はや啓蟄と見えてもぐらもひょと顔を出したか? と思ったのでしょうか。いや、まだ啓蟄とは言え寒いから、顔まではいかず小手先だけ出してみたのかな? かわいらしい句ですね。
敦風:啓蟄の頃、ちょっと小手を出したもぐらを見た。なんとも云えぬ面白味のある句のように思います。啓蟄というのは、ふつうには虫が出てくる状況や、あるいは出て来た虫どもを指す言い方だと思うが、そこにもぐらを持って来た。そして「まず小手出しぬ」と描く。まさに春来たりぬです。なお、もぐらはふつうは冬眠をするわけではないけれど、冬のあいだは動きが鈍くなるのだそうであり、寒冷地に行くと冬眠状態になるのだそうです。
光晴:数日前、我が家の前の土手にもぐらの盛り土を見ました。しばらく句にならぬかと考えましたが無理でした。もちろん小手は見えませんでしたが、あの情景は確かにこの句の情景でした。唸りっぱなしでコメントどころではありませんでした。
一尾:冬ごもりしていた虫が動き出した。さあ出番ともぐらは土を押し上げ掘り進む。浅いところでは時おり手ならぬ足が突きでる。まだまだこの時期は寒いから、小さな虫の動きも鈍く見落としがち。しかしもぐらが手を突き出したのでは、どなたも地下の動きを実感することでしょう。 「まず小手」が本格的な春の訪れを知らせるキーポイントと読みました。言葉としての啓蟄を具体的な動きで示された春の調べの句です。
きみこ:田の畦に、もこもこと、土が盛り上がった様になっていて、もぐらが歩いたあとが有ります。田植えの時水が漏れるので、百姓さんは困ります。そこで、里の役場では、もぐらを持っていくと、お金がもらえるそうです。私ももぐらを見た事があります。のんびりとした顔をしていますが、逃げるのは、とっても早く、なかなか捕まえる事はできません。先生も、小手を出したもぐらを、一瞬見られたのではないでしょうか
みのる:もぐらが土の中から出ようとして、頭を出す前にまず手を出して、用心深くあたりの様子を窺っている所作が見えてきます。とてもユーモラスな句ですね。作者は、もぐらの穴のことは触れていません。でも、啓蟄と言う季語の働きによって、観賞者には、もぐらの穴が見えてきます。これが季語の働きなのです。
クラークのめてにあるいしこちつよき
ほとり:札幌の羊ヶ丘展望台にあるクラーク博士像ですね。横に大きく開いた右腕。指先までびしっと力強さが感じられます。「右手(めて、と読むのですね)にある意思」という切れのよい表現、憧れます。春を告げる強い東風が吹いているのが、高い理想と強い信念をも象徴していると思いました。
よし女:ほとりさんのかっちりした鑑賞のとおりだと思います。「意思」という抽象的な言葉が、「クラークの右手」という万人共通の具体的な景に象徴され、さらに「東風つよき」で、クラーク博士の言葉まで聞こえてくるようです。
とろうち:以前、みのるさんが「季語」というものをよく考えよというようなことをおっしゃっていましたが、まさにこの句はそれを考えさせられました。「青年よ、大志を抱け」と言ったクラーク博士を語るのに「東風つよき」は、けして他の季語には置き換えられません。博士が示した強い意志、そして未来に開けている展望。吹く風はおだやかなものではなく、そして身を刺す冷たい北風でもない。すごいなぁ。脱帽です。こうでなければいけないのですね。
ひろみ:意思は見えないものですが、こうして句になってみると違和感が無く、こういうことまで俳句で表現できるんだなあと思いました。
敦風:皆さんの鑑賞の通りだと思います。よく見ると、羊が丘公園のクラーク像は、コートの右裾がひるがえっていますね。これはこうした像としては普通のことか珍しいことかよくは分かりませんが、この句と照らし合わせてみたとき、私はこのことが非常に面白いような気がします。 作者が像の前に立ったとき、実際に強い東風が吹いたのでしょう。この時、ひるがえるクラークのコート。そして、やや上方に何かを指し示すように伸ばした右手。ここに、青年たちに教えたクラークの決然たる意思が見える。教育に身を捧げた偉人の心情が力強く迫って来ますね。「右手にある意思」がやはり命ある表現。そして、「東風つよき」という形容詞の連体形止めも生き々々ときいていると思います。
《参考》:羊が丘公園のクラーク像 http://www.math.sci.hiroshima-u.ac.jp/stat/Hokkaidou/H2000/Crark2.html
みのる:Boys,be ambitious! 札幌農学校に赴任したクラークは、卒業してゆく青年達にこの言葉を贈りました。東風という季語は、その季節を意味しています。そして、「強き」は、クラークの右手(めて)にある強い意思を示しています。Boys,be ambitous!のあとに続く言葉については、諸説の伝承があって定かではありません。でも、クラークはキリスト者でしたから、Boys ,be ambitious in Christ !(青年たちよ大志を抱け、キリストにありて)といったのだと思います。つまり、野心をもて・・という言う意味ではなく、キリスト教の信仰に堅くたって、大きな志をもて・・と言ったのです。聖書の言葉を少し引用しますと、以下のよなものがあります。
" わたしを強くして下さる方によって、何事でもすることができる。 (ピリピ 4.13)"
クラークが青年達に伝えたかったのは、「in Christ !」という強い意志であったと、ぼくは思います。北大キャンパスにあるクラーク像は胸像なので、敦風解のとおり、羊が丘公園のクラーク像を詠まれたと思います。右手は、真上ではなく水平に近いですが、はるかなる天上のキリストをさしているようにもみえるのはぼくだけでしょうか。
参考記事 Boys,be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement,… <青年よ、大志をもて。それは金銭や我欲のためにではなく、 また人呼んで名声という空しいもののためであってもならない…> 「教育大辞書 増補改版」同文館 1925年刊 『クラーク』の項 訳は朝日新聞1964・3・16「天声人語」より。 これと同じ英文は次の資料にも掲載されています。 「教育学辞典」岩波書店 1936年刊 『クラーク』の項 「明治初期教育思想の研究」稲富栄次郎著 創元社 1944年刊
但し、これらの真偽については諸説あるようです。
ひばりが丘グレイス教会牧師 重見通典先生のメッセージの一部を転載しておきます。
Boys ,be ambitious in Christ ! 「少年よキリストにあって大志を抱け!」 これは有名な、クラーク博士の言葉です。 一般には「少年よ大志を抱け」とだけ、キリストが削られて伝わりましたが、 本当はこういわれたのです。江戸から明治という国の大転換の時代に生きようとする青年に対し、 札幌農学校の校長としてアメリカからやってきたクラーク博士のハートは直接教える生徒にだけでなく、 日本中の青年に向かって、伝えたい熱き希望のメッセージだったことでしょう。
はるやまのふんえんてんのほことなる
ほとり:火山から、もくもくとわき上がっている噴煙。春山なので、明るい緑色の山肌や、やはり明るい空の色も見えてきます。山から上がる噴煙は山を覆うほど大きく、また天を衝くほどの勢いがある。山、噴煙、天と目線がどんどん上に広がり、誠にダイナミックな句と思いました。
とろうち:もくもくと噴煙を上げている山、桜島ですかね。ほとりさんの仰っているように明るい山肌、空の色まで見えてくるようですね。「鉾」という言葉から、なんとなく、神代の御代にそのままタイムスリップしていくようにも感じられます。「春山」という明るい、生命力に満ちた、それでいてのんびりした風景と、天を突く荒々しい噴煙の見事な対比。それがなんとなく神話のイメージと重なります。
きみこ:暖かな風の無い日の噴煙は、真っ直ぐにスーと伸びていて、天にも届くかのようで雄大な情景が、見えてきて「天の鉾」という言葉にぴったりのように思いました。
光晴:すーと読んでしまえば、長閑な雄大な景を感じるが、なんで春山の季語が動かないのかが判りません。鉾は障害をおかして、無理につきかかる意を含む字ということでますます判らない。教えてください。
ひろみ:私も光晴さんと同じに鉾が気になりました。姿は春の山の優しい趣ではあるが、地下ではマグマ燃え滾る、活動する山であるという、自然の偉大さを感じました。
とろうち:私がこの句を読んで神代を想像したというのは、この「鉾」という字からです。おそらく、この句は高千穂峰に行った時のものだと思います。高千穂の峰より、噴煙を上げる桜島を見て詠んだものではないでしょうか。高千穂峰の山頂には「天の逆鉾」というものがあります。また「天の逆鉾」とは国生みの神話で、イザナギ・イザナミの神が日本の島々を作った時に使ったものです。そうしたことを踏まえて、立ち上る噴煙を「天の鉾」に見立てたんだと思います。もちろん、実際に春の風景かもしれません。けれど国生みの神話、生命の誕生というイメージから、やはりここは「春の山」でなければならないのではないでしょうか。こんなこと言って、実際高千穂には行ったことがないんですけどね。
光晴:なるほど! よく解りました。天の鉾=天の逆鉾なのですね。これなら確かに季語も動かず、 国生みの神話のすばらしい情景が広がります。
よし女:身近な景でしか想像できませんが、九州の阿蘇山が浮かびました。吹き上げた噴煙が鉾のような形になっているという解釈では駄目でしようか。その景を目にしたときは、春山の季節。夏山、秋の山、冬の山と想像したとき、噴煙が鉾となった形に対して春山が最もふさわしいという気もするのですが。
みのる:火山の噴煙が天高くあがるさまは秋空が最も相応しいと思うのが常識ですね。でも先生は春山を持ってこられました。はたして季語動くでしょうか。ところでみなさんも感じられたように意外と春山の季語が効いていますよね。ぼくも、とろうち解のように春山に復活の命を感じました。冬山眠るが如し春山笑うが如し・・と言われるように。眠っているような冬の山容が、日に日に春山の雰囲気に変化していく様子は、生命の尊厳のようなものを感じます。また、冬の間は鉛色の雲に覆われて噴煙と曇空とのけじめも定かではないことが多いですが、春の明るい空にもくもくと吹き上がる噴煙のようすは、活火山の命の証しのように見えたのです。「鉾となる」という措辞に深い意味はないと思います。風のない穏やかな春の日の噴煙は、さほど横へ広がらずに鉾のように尖っているんでしょう。このあたりも「春」の特徴と見ることが出来ます。
ダンプカーてんぷくごとにやまわらふ
ひろみ:芽吹きの山を切り崩すトラックがひっくり返った。人間の私利私欲の為に自然が失われていくということに対する警鐘なのでしょうか。でも、季語の斡旋が「山笑ふ」なので、こぶしを振り上げて「断固、阻止!」というような感じではありません。トラックが山を切り崩すということもある意味、自然であり、あるがままなんだなあというように感じました。
ほとり:この「転覆」が私には曲者です。ひろみさんのように、文字通り、ひっくり返ったと解釈していいものか、わからないのです。「ごとに」ってことは、「幾度も」ってことですよね。ダンプカーが荷台をもちあげては土砂を落とす様を、転覆と表現したとは読めないでしょうか。春になって、山も工事が再開。笑う山と働く人々、すべてが動き出す季節。しかし、削り取られる山は笑うどころか泣く方が合っているし・・・。お手上げです。
とろうち:これは、私も本当に分からないというか、ほとりさん同様「転覆」の解釈に悩みました。で、結論として「転覆」というのはやっぱり、ほとりさんの仰るように、荷台の上げ下げではないかと思います。ただし山を切り崩しているのではなく、他の工事だと思います。ダンプカーが何度も何度も砂利をおろしていく。長い冬が終わり町に活気が満ちてきたのを「山笑ふ」としたんではないかと思うのですが・・・でも自分がこういう句を詠むんだったら、絶対「転覆」なんて言葉は使わないと思う。なぜこの言葉を使ったんでしょうね。
よし女:この句を何回も反復しました。仕事をしながら、お風呂の中でも。で、単純に解釈しました。少し離れた場所からの景ではと思ったのです。道の起伏に沿って走るダンプカーの見え隠れするのが、転覆を繰り返しているように見えた。ことに下りの急坂ではそんなに見えますよね。いわれて見ると。ときあたかも山笑う季節。
一楽:土砂の積み下ろしに転覆は使わないと思います。表現に無理、飛躍があります。但し句は文字通りの意味しか理解できません。
登美子:私もですが、なかなか皆さんも理解が難しいようですね。私は単純にダンプカーが転覆する時のどかっと大きな音をあげている様子。山笑う程度を人間世界を揶揄しながら表したのではないでしょうか。
とろうち:転覆=船、車両などがひっくりかえること。ひっくりかえすこと。ふと思ったんですけど、ダンプカーを真後ろから見ていたら、荷台がグイーンと上がっていくと、ダンプカー自体がひっくり返るように見えないでしょうか。昨日から気になってたまらない・・・
ひろみ:たしかに転覆とはひっくり返る意味なんですが、「ごとに」に最初悩んだんですよ。そうそう何回もトラックがひっくり返っていたら大変だし・・・よし女さんの見方がしっくりいくような気がしてきました。
一尾:昨年の秋から始まった近在のほ場整理では、里山を削りダンプカーで土砂を低地の田圃に運んでいた。これもやっとこの年度末で一段落。何度もダンプカーが行きつ戻りつ同じ動作を繰り返していた。この句に接した時、積み荷の土砂を放り出す動作を転覆と詠めば、この情景がピッタリ。山は眠っている内に一山削り取られたが、周囲の里山は芽吹きが盛んである。そろそろ隣接のほ場整理も進むそうだから、次は自分の番かと笑ってはいられない里山風景は淋しい。
みのる:確かにちょっと難しいですね。ダンプカーということなので、山裾の造成地の様子ではないでしょうか。宅地造成などでは、工事現場から土の出し入れをすると工事原価が上がるので、たいていは「切り盛りチャラ」になるように設計します。つまり、山の部分を削って、谷の部分へ埋めるのです。どの程度まで工事が進んでいるかによって状況は違いますが、土砂を積み込んでは移動し、谷へ降ろします。造成が進むまでは現場の道路は地道の状態ですから、春泥でぬかるんでいることも想像できますね。よし女解のように現場から少し離れたところから、工事の様子を眺めていると、まさに、ダンプカーが何度も転覆するさまに見えるのだと思います。冬の間は、風や凍てではかどらなかった工事が、温かくなって急ピッチで進んでいるというような活気もありますね。秀句を観賞するポイントは、詠み込まれている「季感」をどう見抜くかです。逆にいうと、季感を捉えた写生は俳句ですが、そうでない写生(季語動く)はただの報告ということになります。
一楽:みのる先生の解説をみて、かかった霧が晴れるように情景が見えてきました。春の現場を車体を大きく揺らして走るダンプカーが見えます。「季感を見抜く」鋭く含蓄のある言葉です。
遅足:皆さんのコメントを興味深く読んでいます。意味は大体分かってきました。新しい疑問が沸いてきました。作者は一体、何歳だったのかな? まるで子供のような句だと思うのですが・・・読んだ人に、どう? と、いたずらっぽく笑っている顔も見えるみたいです。
はるのみずをそのかづけばきとなんぬ
ひろみ:カワウソが餌を取るために、まだ水量の増えていないトロンとした川に潜り川面が黄色に濁った、というのどかな風景。川の音が聞こえない不思議な気がしました
とろうち:かわうそを見たことがないと思ったら、それもそのハズで、日本では高知県西部以外では絶滅してたんですね。特別天然記念物だったとは。かわうそが水の中に入ったら、光線の加減か、体が黄色に見えたと解釈しました。ひろみさんと同じく、とろりとした水音の聞こえない川の中の、ゆらりとしたかわうそを想像しました。
一楽:獺、今回漢和辞典でかわうその事とはじめて知りました。ダツと読むのでしょうか?潜の読み方が分りません。体が黄色になったと云う事でしょうが、なりぬではなくでなんぬと云うのがすごいですね。
一尾:をそ、かづく、なんぬ どれも日頃使わない用語であり、新鮮でした。カワウソは動物園で見たかなあくらいの記憶、ましてや春の水とのかかわりなぞ考えも及びません。師は古き良き環境時代にカワウソを見かけ、しかも偶然のチャンスを的確に写生していらっしゃる。まさに一瞬を切るのですね。水も温み、しかも豊か、ふっくらとしたカワウソがごろりと川に入れば底の泥をかき回し水は黄色に変わった。成獣は65〜80cmくらい、太くて長い尻尾が特徴。いまや動物園でしかお目にかかれないようですが、調節された春の水に潜るカワウソを動物園に出かけ見る価値はありそうです。
よし女:「春の水」と、「なんぬ」で逡巡していました。いつ頃どこで獺を見られたのだろうと思いました。何故春の川でなく春の水なのでしょう。もしかしたら、動物園の檻の水の中へ潜ったのだろうかとも思いました。おおよその見当はつくものの「なんぬ」の文法がはっきりしないので、口の中がもごもごして、飲み込めずにいます。黄の色の観察は細やかだと思うのですが。
みのる:・・・なんぬ。は俳句ではよく使われる古語です。「・・・なりぬ」と同意だと思います。 例の古語辞典には次のように出ています。
"「ぬ」(助詞)・・・た。・・・てしまった。"
最近では動物園でしか見られないかもしれませんね。早春の季語に、「獺の祭」(をそのまつり)と言う季語があります。魚を獲ろうと獺が潜るたびに、そのあたりの水だけが黄色く濁るのですね。川全体がにごるのではないので、春の水とされたと思います。
ポリバケツつぶそろひをるしじみかな
ほとり:一読して、何とも言えない愛嬌を感じました。「ポリバケツ」に親しみを覚えますね。私はスーパーで蜆にお目にかかる程度ですが、察するに、朝とれた蜆がポリバケツにいっぱい入っている。日の光と水と艶やかな蜆貝。明るさを感じるのは、蜆が春の季語だからでしょうか。「粒そろひをる」で、何だか小さな蜆たちが集まっておしゃべりしているようにも思えてきました。
由根:上5の「ポリバケツ」で青の強調をかんじます。蜆をとる湖の鉛色とそこからあがった蜆の黒の粒が、青のポリバケツの中に入っている光景としてうかぶからです。また、中7「粒そろひをる」としたところにバケツの中をのぞいて見ている動きと、きょうの成果についての充足・満足を感じます。そして大きさそろえたことが、漁師のしたことでなく蜆同士の競い合いと協調の結果とみると「めだかの学校」を彷彿させ、なか睦まじく微笑ましく思われてきます。
ひろみ:最初一読、この句は絶対選句出来ない句だ。と思いました。でも、秀句なんだからと思い、何度か読み返しました。。。。。ポリバケツ。。。。「大笊」に粒そろひをる・・・としたい様なところ、あっけなく、ポリバケツ。これが見たまま、そのままの虚飾なし、ということでしょうか。・・・と思っても、いざ自分が作るとなると、無い知識を総動員させてそれらしい句を作ろうとしちゃうんです。青畝師の写生の心を感じました。
よし女:ちょっと行って誰かが掘ってきた蜆。或いは、裾分けのものか。かなり大きい蜆。それを、ポリバケツの中で泥吐きをさせるため、何回か水を替え、きれいになった。「粒揃ひをる」で、舌を出し切った蜆が想像され、厨口で次の出番を待っている。このお句、私にはそんなイメージになります。ポリバケツなど、おおよそ詩語には似合わないものが、生きていると思いました。
とろうち:ポリバケツというとなんとなく安っぽいイメージがあります。もし自分が使うとしたら、せめてバケツとしたかもしれません。でも「ポリバケツ」としたことで、この蜆の主と作者との距離は、とても近しいものに感じられます。言葉というのは不思議ですね。
みのる:バケツに入っていると言うのですから、かなりたくさんの蜆です。多分、漁港か魚市場あたりを吟行されて、興味を持ってバケツの中を覗かれたのでしょう。「粒そろひをる」が具体的で上手いですね。
あをよぶはおほいしかりのどのひばり
よし女:雲雀が一斉に鳴くときは賑やかですよね。それが石狩平野となると、囀る雲雀の数も風景も、大景にひろがります。私を呼んでいるのは、この中のどの雲雀だろう。と解釈しました。石狩川が流れ、雄大に広がった場所で多くの雲雀との出会い。青畝師の感動がしっかり伝わってきます。
登美子:もう雲雀はたくさん鳴いています。一度に何羽も空に上がり、ここそこで鳴きます。それが石狩平野という、広い、見渡し良い所では尚更のことでしょうね。余程目の良い人でないと無理でしょう。そういうことは探鳥会の時に任せて、きっとその中の一羽が自分を呼んで鳴いてくれているという期待感は詩的ですね。
とろうち:例によって例のごとく、私はヒバリを知りません。でもこの句の光景ははっきりと見える気がします。空と大地の広がる、雄大な風景。前句がポリバケツの中の蜆だったのに、なんという、この世界の差でしょうか。詩人の世界は広いなあ。
みのる:句意は皆さんの観賞のとおりですね。この作品を鑑賞していて、青畝先生がよく言われた、「物心一如」という言葉を思い出しました。物心一如というのは、荻原井泉水が講演のときに以下のように語ったとされて有名になりました。
幾度も云ふやうに、俳句は物心一如のものであります。 物を重くみたのは子規の写生主義であり、心を重くみたのは芭蕉の心境主義であります。 俳句にはこの二タ筋がありますが、この二ツをしつかり見極め打ち出してこそ、真実の俳句なのであります。
つまり、「物心一如」というのは対象である自然とそれを見ている我が一つの世界を形成していなければならないというのです。理屈で理解するのは難しいですが、揚句は真理を教えているとぼくは思います。
ひえんこもごもだいえんていをまさかさま
よし女:当地ではもう飛燕を見かけます。本当にスーイス—イと気持ちよさそうで、彼らが来ると元気がもらえて嬉しくなります。飛んでいる燕がかわるがわる、大きな川か、つつみか、ダムへ、まっさかさまに突っ込んでいく様を活写されたのですね。水面すれすれに落ちて、また、すーいと遠ざかる。そんな繰り返しの景が浮かびます。子育てを終えた燕たちの何万の大群が、葦叢へ集結して、夜のねぐら入りをする様子ともだぶり、楽しく鑑賞させていただきました。こもごもの言葉が素敵ですね。
遅足:定年を迎えたせいか、燕もサラリーマンに思えてきます。会社人生、色々な人に出会いました。サラリーマンこもごもです。そんななか、真っ逆さまに大堰堤に添って曲芸飛行をする同輩もいました。私は平凡な飛行でした。今は枝で一休み。
とろうち:ツバメの季節はまだまだ先ですが、この句はよく分かります。高い空から急降下して、またそこからついっと急上昇。まさに天地を縦横無尽という感じで、見ていてすきっとします。 「大堰堤をま逆さま」で、とてもスケールの大きい句だと思います。
一尾:虫を捕らえて、急降下と思えば急上昇をくり返す燕の様が浮かびます。大堰堤を挟んで湖面側かあるいは放水側かちょっと迷いました。よく観察したいところです。落差のある放水側は「ま逆さま」の雰囲気にはあっているかなと思いました。かつて飛燕と言う名の旧陸軍の戦闘機がありました。
みのる:実は「こもごも」というのは曖昧な言葉だと思っていたのですが、念のために広辞苑で調べてみて驚きました。
こも‐ごも[副] (古くは清音) 互いに入れかわって。また、入りまじって。かわるがわる。
先生はちゃんと辞書を調べて言葉を使っておられるのだと感心しました。
よこちゃうのしゅんでいぢごくひをつらね
初凪:これは私にもよく判る景色です。狭い横丁が春の泥だらけ。何十年か前のことでしょうね。 今はどの路地も舗装が行き届いて泥道に難渋することはなくなりました。夜になっても乾かない水溜まりを除けながら歩いていると、いくつもある水溜まりにそれぞれ家の灯が映っている。春泥地獄とは大げさなようですが、的確な表現です。ぴょんぴょんと水溜まりを除けながら帰宅する勤め人の姿が思われます。身近にある現象を掬い取って句にすることのお手本の様な佳句であると思いました。
登美子:初凪さんがうん十年前の様子とお書きになってをり、よく目に浮かんできます。横丁とある所が庶民の日日の生活を水溜りの明かりに映している感じです。ちょっとした町の片隅に生きている人々の生活が目に見えるようです。また春泥は本当は綺麗なものではないのですが、語感が暖かく、たおやかな響きをもっています。地獄と書いても全然大げさな感じをしないところが青畝師の素晴らしさなのでしょうね。
とろうち:「春泥地獄」とはよく言ったもので、本当にあれは困ったものですよね。夜ともなればさらに。水たまりの中に映る灯りが地獄の火のようにも見えたんでしょうか。それとも、単に春泥のどろどろを嘆いたものなんでしょうか。いずれにせよ、ちょっと笑いを誘う句です。
光晴:春泥地獄と言い、前句の、こもごもと言い、本当に師は、言葉の魔術師ですね。ともに現在でも使用する言葉ですが、俳句にはなかなか思いつかない言葉です。
志乃:とろうちさんと同じ鑑賞をしました。横丁とありますが、繁華街の裏酒場の通りだと、面白いですね。昼見ればなんということもない泥のでこぼこが、灯に照らされることによって、明暗を強くし、おどろおどろしいまでの光景となったのでしょうね。
みのる:春泥に映りこんでいる横丁の町並みの灯がまるで地獄のようだ・・というのは面白い連想ですね。ぼくはそこまで気がつきませんでした。俳句では、何かの究極の悪い状態を形容して、**地獄という言い方をします。逆の意味で、**浄土という言い方も良く使います。覚えておくと便利ですね。揚句では、とてもひどい春泥が続いているんでしょうか、町の灯を頼みにしながら難儀して足の置き所を選んでいる人のすがたが見えてきます。裾からげしてへっぴり腰で・・・。 横丁と言われるとその生活ぶりも連想されて親しみがありますね。
しゅんかうのちからをしゃしてじゅうじきる
とろうち:春になって、また畑仕事ができる体であることへの感謝。また畑、大地への感謝もあるかもしれませんね。自分が健康であること、それがなにより嬉しいし、生かされていることに感謝しなければなりませんね。
初凪:年末の志乃さんの、晦日に畑に一礼する、という御句を思い出しました。自然への感謝働けることへの感謝、これは宗教に関係なく持ちたい気持ちと思います。それにしても春耕という季語は明るく労働と収穫への期待があふれた言葉ですね。春耕の力が具体的でより訴える力が強いと思いました。
みのる:なぜ春耕なの? という疑問をもちませんでしたか。秋耕では駄目なのでしょうか。春耕ですから、越冬をして雪が解け、やがてまた新しい年の収穫のために田を打っているんです。ことしもまた健康が守られて働けることへの感謝なのですね。十字を切るのですから、もちろんクリスチャンだと思います。草は萌え、山は芽吹き、小鳥達は囀り、川音は高鳴り、万象が春の到来を賛美している。そんな復活の摂理にも感謝している気分がありますね。ですから、春耕という季語は動かないのです。
かたぬぎぬそれよりたうちくはたかく
遅足:最近、鍬を持ちました。家庭菜園です。北風が強い日で、最初はセーターにジャンバーと厚着、でも、次第に汗ばんできます。だんだん薄着になって、さあ、まだまだと、鍬を振り上げました。最初は高く、すぐ肩までくらいです。何度も一休みでした。句は、ほんもののお百姓さんのことかな? 鍬を高く振り上げる姿が見えるようです。意気が伝わってきます。
光晴:春の陽射、雲雀の声そして昔懐しいあの臭いが感じられます。
一尾:機械化された農業ではだんだん見かけなくなった風景の一つではないでしょうか。肩ぬぎで作業の進行が、鍬の高さでは固い土ころを砕く力の入れ具合が伝わるようです。黙々と打ち込む篤農家の姿です。
みのる:お百姓さんの意気軒昂とした田打姿が、実に具体的に写生されています。 句に力がありますね。
むしゃさんのえにはなりさうたねのいも
註:武者さん・・は人名
とろうち:笑っちゃいました。これって野菜とかがごろりと置いてあるのを見た時に、誰でも一度は考えることではないでしょうか。一読してその種芋の色、形、風情までもがありありと見える気がします。「武者さん」という呼びかけもいいですね。武者小路実篤なんてフルネームだと、とても堅い感じがしますが、「武者さん」というと、とても親しみがあって、絵の雰囲気によくあってると思います。私もこれからそう言おうかな。今ならさしずめ絵手紙ブームですから、絵手紙の題になりさう、って感じですか。なにか参考になりそうです。
遅足:先日じゃがいもを植えました。種芋を扱っていても、俳句を作ろうという気はまったく湧きませんでした。この句、読んでしまえば簡単に見えますがなかなか出来るものじゃないですね。
みのる:ユーモアの漂う親しみやすい絵画作品を描いた文学者、武者小路実篤の独特の淡彩画は多くの人に親しまれています。ネットで探したのですが、実際の作品は見つけられませんでした。 でも、この種芋のようなのが二つ三つ転がった画を見たような記憶があります。武者小路実篤のことやその作品のことを知らないと観賞できないわけですが、逆に知っている人には、こういわれるだけで実に具体的に情景が連想出来ます。具体的に伝えるために具体的な写生を・・・というのはあたりまえですが、具体的に伝える方法として、上手に省略して、あとは読者の連想に委ねる・・という手法もあるわけですね。このあたりの極意がのみこめると、随分作句に幅が出来ます。
めぐむかとおおきなみきをなでめぐり
遅足:愛知県の奥三河に花祭と呼ばれる鎌倉時代から伝わる祭があります。冬至を境によみがえってくる太陽信仰を背景に持つ冬の祭です。山国の人達の春を待つ気持ちには、街に住む人には分からない切実さがあるようです。命の再生する春。句からも春を待ち望んでいた気持ちが強く伝わってきます。撫でめぐりという表現には、なにか切羽詰ったものを感じます。
とろうち:大きな幹は、大地の生命力を吸い上げて小さな芽を咲かせる。木というものを通じての、生命の輪廻をいとおしむ気持ちが「撫でめぐり」という言葉に表れているような気がします。これはなんの木なんでしょうね。ちょっと具体的に絵を想像しきれないところがあるんですが。
初凪:「芽ぐむかと」に作者のこの大きな木に対する愛情が感じられます。もしかして、古木でもう寿命かと思う弱り方を見せて冬を越したのかもしれません。どこかに小さな芽吹きを見付けたいという希望が感じられます。撫でめぐるという言葉にも命あるものに対する深い思いがありますね。何の木でしょうね? きっとそれは読者の想像に委ねられているのではないでしょうか?
よし女:初凪さんと同じように思いました。謂れのある大きな木、大丈夫だろうかとみんなが心配している幹を撫でながら、ぐるりと廻って見られたのでしょうね。
一尾:木の肌に触れることは気持ちが良いですね。ついでに耳を当ててみると何か音が聞こえそうです。「撫でめぐり」が木への期待を表わしています。木に問うように撫でめぐることはしせんが、芽がぽろっと落ちることがあります。あれー もう芽吹いているのだと知る時です。
みのる:全ての葉を落として、枯れ木のようになった大樹が芽吹き始めた様子をご覧になって、自然の摂理に深くて感動しておられるのでしょう。私達人間もまた神様の摂理によって生かされている。大きな老樹の幹を撫でながら改めて生命の尊厳を深く思う。そんな気分が感じられます。
いくたびのはるのおもひでさいぎゃうき
とろうち:西行というと、やはり思い出すのは「願はくば・・・」の和歌です。桜が咲くたびに、ふと思い出す和歌です。それと同じように、春が巡ってくるたびに思い出すいろいろの思い出があるのでしょう。何か、静かで透き通るような、そこはかとない哀愁を含んだ、美しい句だと思います。
こう:西行庵の前に咲いていた、桜が目に浮かびます。願われたように、花の季になくなられた西行法師。その道を慕い、法師の歩まれた奥の細道を行かれた芭蕉翁。青畝師も、慕わしく思い出されるのですね。私も、この細い道を奥へ奥へと歩みつづけたい。愛唱句になります。
よし女:願はくは花のもとにて春死なむ・・・と詠んで、かねてより釈尊入滅の日に死ぬことを願った西行法師。芭蕉翁の敬慕した旅の詩人。青畝師も幾たびか法師ゆかりの地を訪れ、この和歌を口ずさまれたのでしょう。そして、ご自分も願はくはと思われたのでしょうか。何年か前、必死で歩いて、吉野奥の院の西行庵へ辿りついたことを思い出します。奥千本の桜が盛りでした。凡人でもこの和歌を口ずさんでいたのです。春と西行忌と季重なりの感じもありますが、春が動かし難い季語でしょうね。西行法師の歿日は後人の伝承であって、定かではないとも言いますし。和歌の内容から言っても、春を切り離す事は出来ないと思いました。
みのる:よし女解の通り、「春」と「桜」は西行法師の代名詞のような言葉ですね。青畝師もご長寿で、永年、何度も西行ゆかりの各地での祭事に出席されるために旅をされ、いろんな思い出をお持ちだと思います。西行もまた旅の人でしたから、その思いとが重なって一句をなした作品で、青畝師でなければこうは詠めない作品だと思います。さらりと詠んでおられますが、とても情の深さが感じられます。
なつかしのじょくせのあめやねはんぞう
とろうち:これはちょっと難しい。「なつかし」という言葉は誰が感じているんでしょう。「濁世」というのはイコール現世ととらえていいですよね。そこに降る雨を「なつかし」と感じるのは、やはり「涅槃像」ってことになるんでしょうか。私は最初、ほら、この世に降る雨だよ、懐かしいだろう? と呼びかけているのかなとも思ったんです。でもそれじゃ「雨や」というより「雨ぞ」いうほうがぴったりしていると思うし・・・。あんまり理屈で考えちゃいけませんね。濁世とは言いながらも、この現世をいとおしいと思っている作者を感じます。
ひろみ:むずかしいです。もっと考えたほうがいいのかと思いましたが、書き込んでしまいます。 執着する心を良しとしないお釈迦様であったと思うのですが、そのお釈迦様が物である像として存在し、その像に未だに穢れたこの世の雨が降っている。お釈迦様も像として在られて、今でもこの世の雨を感じておられるのか。お釈迦様にとっては懐かしく思われるのかもしれませんがまだまだ、濁世、真っ只中ですよ。と、青畝氏は思ったのかなあと・・・
みのる:季語は、涅槃像です。季語にどんな意味があるかを調べると、「なつかしの・・」の意味がわかると思います。頑張って!
ひろみ:再挑戦です。春の温かい雨が、釈迦入滅のときの弟子たち、鳥獣虫魚の涙のごとく、しっとりと万物に染み入るように降っている。ただただ、涅槃像は慈愛の光を放ちながら、存在している。こんな解釈になりました。さっきと全然違うけど・・・
とろうち:季語がどれなのか全く考えていませんでした。反省!で、再挑戦なんですけど、やっぱり難しいです。だいたいひろみさんと同じような解釈になりました。雨は慈愛の雨、釈迦入滅に対する万物の涙を表しているように思います。でもやっぱり「なつかしの」がどういうふうに働いているのかというと、よく分からない。うむむむむ・・・。
みすず:現代語の<なつかしい>が懐旧の情を表すのに対して、<なつかし>という古語は、現在の相手の人柄のやさしさに、こちらから慕い寄って行きたい感じ、とあります。そうなると、<なつかしの>は、濁世の雨にかかるのでしょうか。あとは、ひろみさん、とろうちさんの解釈と同じです。青畝先生は、お釈迦様の入滅の御姿の像(画)を見て、やはらかな春の雨が、まるでお釈迦様を慕っている(万物の涙の)ようであることよ・・・と思われたのでしょうか。涅槃と濁世・・・対称的でありながら、雨がそれをしっとりと結び付けている、そんな風に感じました。美しい句だと思います。
よし女:ここ二三年風邪を引かないと安心していたら、立派に引いてしまいました。思考も感性も停止状態でしたが、ひろみさん、とろうちさんさんが頑張っておられるし、みすずさんの解釈を読ませていただいたりして、古語辞典を引いてみました。なつかしの古語は・・そばにおりたい、寄り添いたいという心情とありました。京都東福寺の涅槃像でしょうか。おりしも春の雨、青畝先生のお気持ちがこの雨のようなのかしらと思いました。世界三大聖人は釈迦とキリストと孔子だと思いますが、涅槃像はクリスチャンの青畝師の心に深く通じるものがあると思います。
みのる:大きな涅槃図に描かれた寝釈迦は、春の涅槃会の時期にだけ一般に公開されます。普段は、太い軸に巻き込まれて宝物殿とかに大切に保管されれているんですね。ですから折からの雨は、絵の中の寝釈迦さまにとっては、1年ぶりの懐かしい雨ということでしょう。この頃にはしとしととした春の雨が良く降ります。そうした、涅槃の頃のなんともいえない季節感が憎らしいほど見事に写生されています。青畝先生は涅槃の句を沢山作っておられ、どれも有名です。
めやなぎにせうとやはらぎそめむとす
初凪:これは戦後に詠まれた御句でしょうか? 今日通勤途中に中学校の柳がどの枝も残らず芽吹いて小雨に緑が美しく、また若々しい色に思えました。春の息吹を感じました。柳のたおやかな枝はある意味芯の強さも感じます。焦土と化した都も春を迎え柳が芽吹くこのごろ、やっと少しだけ凄惨な景色が和らいで来た、という風に鑑賞しました。
遅足:私は昭和18年生まれ、敗戦後は豊橋にいたので、句のような都は知りません。でも、軍都だった豊橋も空襲をうけ、だいぶ遅くまで、あちこちに焼け跡が残っていました。父や母は、とにかく戦争が終わってほっとしたと話していましたから、この句の気分だったのでしょう。イラクで戦争が始まろうとしていますが、そんな時、この句に接すると平和への思いが、ますます強くなります。
とろうち:春になると色々なものの芽が芽吹きますが、柳の芽はひときわみずみずしく感じます。一面の焼け野原の荒涼とした風景にある芽柳。力強さというよりは優しさを感じさせる句です。
ひろみ:東京大空襲なのでしょうか。焼夷弾で焼け野原となった東京の柳の木の幹は焦げてはいるが柳の芽は、確かに芽吹き、風に揺れていた。打ちひしがれたり、悔やんだりしている人が大半であったと思うのですが、希望を感じる句だと思いました
一尾:「銀座の柳の下で 待つは君ひとり」のあの東京ラプソディーが流れてくるようです。焦土と化した東京の復興を銀座の柳から感じ取られたのでしょう。いよいよ復興も始まらんとする春、人々も心に落ち着きを取り戻しはじめました。
みのる:初凪さんのお見通しの通り、昭和21年、終戦間もない頃の作品です。俳人教会発行の自註句集に、青畝師の解説が載っていたので、転載しておきましょう。
戦禍に廃墟となった都市を焦都という。造語である。 柳も黒焼だと思った。根が生きていたので芽をだした。 私も柳によって復興の元気がわいた。
なんと簡潔で情のある解説でしょう。先生の文章はいつもこうなのです。多くを語らず、深い思いを伝える。俳句も文章も同じなんですね。
めざしのめけむりをはいてもうこげぬ
ひろみ:私は、目刺焼くの季語が好きです。今の職場が下町にあるせいか、お昼になると、どこからともなく、目刺や鯵の干物やクサヤを焼く匂いが漂ってきます。下町生まれではありませんが、郷愁を感じます。この句は、今まさに焼けている目刺が表現されていると思います。しかも、じゅうじゅうとぱちぱちと音が聞こえてきます。ご飯が炊ける匂いまでするような・・・とても美味しい句です。私のストーリーは、下町のぐうたら亭主が奥さんがなかなか帰ってこないのに業を煮やして、目刺を焼き始め、ちょっと目を放している隙に目刺が焦げてしまった。こんちきしょう、俺の目も煙で沁みるじゃねえか! なんて、ぶつぶつ言ってるお父さんが主人公です。
とろうち:目刺しだから目玉はないんですよね。目のあった穴から、最初のうちはもうもうと煙が出てくるけど、そのうち焼けきってしまって煙も出ない。そんな光景を想像しました。ひろみさんのコメント楽しいです。ご自身で目刺しを焼くなんて、なかなか見上げたおとーさんだと思いますよ。
ひろみ:とろうちさんのコメントを見て、ハッと気づきました。ぐうたら亭主は、訂正いたします。妻思いの優しいおとーさんに、変更です! 青畝氏のお句なんですからね! うわー冷や汗・・・汗、汗、汗。私は、仕事場の場所柄、こういうおとーさんを良く知っていますのでつい、映像として浮かんでしまいました
よし女:目刺を焼くと目やひれなど、身のないところが焦げますね。目が焦げてけむりを吐き始めると、焼け具合も頃合で、お皿に乗せる。もう焦げないのですよね。このお句、読み返して味わっていると、「もう焦げぬ」が抜群ですね。いろいろな状態や、思い等が広がり、ほどよく焼けた目刺の味がします。
みのる:昔は、七輪の火に網の上で焼いたんですよね。焦げて炭になった部分をこそげながら、お茶づけでサラサラ・・という雰囲気ですね
あいかんをおらんばかりのますとらへ
ひろみ:お宝鑑定団で以前和竿の鑑定をしていました。一竿、何万何十万という物があり驚きましたが、きっとこの句の竿も銘の入ったとても良い竿なのでしょうね! その竿が折れてしまいそうなほどの魚が釣れて、嬉しいのだけれど、竿が折れたらどうしようと、悪戦苦闘した末に、大きい鱒を手に意気揚々としている釣人の姿が浮かびます。
光晴:大物が掛かった時の喜びと、その大物とのやりとりに満足している師の心が瞬間写生に見事に凝縮されています。私などニターとしてしまい、とても句など浮かばないうれしい瞬間です。
とろうち:今日の一句を読んでいつも思うことなんですが、なんてことのないことを詠んでいるんですよね。誰にでも経験のあること、共感できることをさらっと詠んでいる。でも単なる報告ではけしてない。この句も、ひろみさんや光晴さんがおっしゃるように、釣り人の意気揚々とした様子、興奮と喜びが十七文字のあとにどんどん広がっていきます。俳句とはこうでなければならないのだなぁ、とつくづく。
みのる:愛竿という言葉が効いていますね。ぼくも釣りをしますから、よくわかる句です。おそらく他の人が釣りあげたのをご覧になっての句ですが、本人が釣りをしているふうに作られているところに注目しましょう。俳句は、一人称の文学という人もいて、確かにそう詠んだ方が、シンプルで力強くなる場合が多いです。もし、三人称で詠むと、「竿折らんばかりの鱒を捕らへをり」 という感じになって、躍動感が半減しますね。
ひよのやのうわうさわうよつばきだに
ひろみ:まだ雪の残る谷合いに咲く藪椿を思い浮かべました。梢に絡まっていたヒヨドリの矢羽が風に吹かれて、右左と揺れながら落ちてきた。春まだ浅い冷たい風と静寂を感じました。羽などが落ちる様の句は、いろいろあると思いますが右往左往という言葉は青畝氏ならではのものと思います
よし女:「鵯の矢」は、ひよの飛び方、鳴声などの表現で、矢と断定されたのだと思います。飛び方は短い距離であれば、太い線で鋭くスッと飛び、長くなれば、その後、スウーッ、スウーッと、波状飛びをします。声は百千鳥の中でも、一と際高く鋭く、賑やかです。他の鳥の鳴きまねも上手です。身近な鳥で、群で見ることも多く、鴉、むく鳥等と共に田畑の青物あらしです。そのひよが、椿谷で、右へ左へ飛び交っている様子を写生されたのでしょう。「鵯の矢」「右往左往」などの表現で、多くの鳥がいて、ひよが際立っていることが想像できます。そして、この言葉は、前にみのるさんが言われたように、観察の鋭さと、作者の個性なのだと思います。真似の出来ない捕え方です。
光晴:先日、上野の山で藪椿を暫く見ていたとき、つやつやの椿の葉に日の光が照り、そこに、雀がたくさん飛び交っておりました。明るい花と葉の陰から飛んでくる小鳥は、なるほど矢玉のごとくでありました。私は結局、明暗に気を取られ1句も拾えませんでした。
ひろみ:よし女さんのコメント見ました。絶対、よし女さんの正解だと思いました!右往左往を羽の落ちる表現で使うのは、ちょっと変かなと思ったのですよ。それに、椿谷を季語と見るのではなく、あくまでも鵯なんですね。まったくの読み違えです。声を矢と見立てたこと、今になって読めばなるほどと思います。私は、椿が咲いている谷をまっさきに思い浮かべてしまったので、ひよどりは秋の季語だから、ひよどりの羽だな、と思ってしまいました。全然、静かじゃないですね、この句。しかも、秋だし・・・
よし女:ひろみさん、このお句むずかしいですよね。季語はひろみさんの最初の思いと同じで、椿谷ではないでしょうか。山口県にも萩城の鬼門方位(北東)に椿山があり、椿谷があり、毎年椿祭が行われますが、何万本の椿の中で、ひよどりは本当にこのお句のような状態です。山の上から見ておられるのかもしれませんね。
ひろみ:よし女さん、ありがとうございます。難しいと言っていただけると少しホッといたします。最初のコメント、消せないかな、ということで、一句。削除してしまひたき事春愁ひ。ということで、にゃは〜!
とろうち:「鵯の矢」というのがまず分かりませんでした。鵯自体は庭に毎日のように来るんですが、雀のようにぱたぱたぱたと来るのではなく、しゅっと目的の枝に来るんですよね。それを「矢」と表現したわけですね。なるほど・・・
みのる:矢のように飛び交う鵯のようすです。右往左往ということで、あたかも椿谷の両側から戦の矢の応酬をしているような、雰囲気もありますね。谷の奈落をのぞくと、鵯の狼藉で落ちた椿が地を血で染めたように見えます。そんな立体的な景が連想出来ます。やっぱり「椿谷」の季語が不動だという感じを、学びましょう。
はくはをしはかぬはうしやおちつばき
こう:なるほど・・とまず感心してしまいます。落椿って、本当にそうですね。「惜し」と「憂し」を並べて、落椿を掃く。情景と心情を、言い尽くしていると思います。あくまで美しい落椿です。
初凪:とても率直な御句ですね。こうやって素直に詠めば良いんですよ、という見本の様です。 椿の美しさも落ちている様子もどなたにも目に浮かぶことでしょう。
ひろみ:掃くのか、掃かないのか、どっちなんじゃい! と青畝氏の句に突っ込みを入れるのは、私だけだろうなあ・・・結構これ書くの勇気が要ります。本当の句会で主宰の句に突っ込みを入れるだなんて絶対にありえないことですから・・・悩んでしまうほど、風情のある景色ということなのだと思います。主観を述べて、写生する、難しい技法だと思いました。
とろうち:実家に椿があって、時期がくると、それはもうぼたぼたというくらいに花が落ちます。落ちた当初は、まだ本当にきれいで「掃くは惜し」なんですが、すぐに黄色くなってきて「掃かぬは憂し」状態に陥ります。この句も「落椿」ですが、椿を詠んだ句って、圧倒的に落椿の句が多いらしいですね。なんでだろ〜。
一尾:掃くにはしのびない、かと言ってそのまま打ち捨てて置くのも悲しいことよ。さてどうしたものか。決めなければならない心の揺れを巧みに写し出していると思います。しばらくはこの風情を楽しまれ、労るように掃かれたことでしょう。
みのる:落ち椿には、なんともいえない情があり、そのままはいてしまうのは惜しい。けど、掃かないで置くのもまた哀れ・・上手いですね。心象句ですが、押し付けがましいところがないでしょう。心象句というのは、「ピタリ」と決まらないと、佳句になりにくいのです。青畝先生は本来主情の強い作家だと自分で分析しておられます。けれども、虚子先生に将来大成するためにと諭されて、客観写生の訓練に励まされました。その若い頃の修練が、晩年に花開いて、自由自在、融通無碍の境地を獲得されました。
まやだしやみおもなるもののこるなり
よし女:冬の間厩にいれていた牛や馬を、二三月ころから日光浴や、蹄を固めさせるために野外に出す。その間に厩の汚れた敷き藁を取り替えるのですよね。出産まじかの身重の母馬、母牛は厩に残り養生するのでしょう。残雪の牧場の明るい雰囲気と、身重の牛馬への優しさ、いたわりが感じられます。
ひろみ:まだ雪の残る牧場のやっと春が来たという喜びと、生命の誕生の兆しの喜びとを深くかみしめている。
とろうち:厩出しという季語を初めて知りました。薄暗い厩の中で、静かにうずくまっている母馬を想像しました。作者の温かな目を感じます。
みのる:厩出し・・というのは、春の明るさと希望を感じさせる季語ですね。作者は、みんなが牧へ出払って空っぽになった厩舎にいます。ふとみると、出産近い母親の馬は、安全のためか残されているんでしょう。厩出し=戸外を詠む季語。という既成概念を変えて、部屋の中を詠まれたので、新しい感覚の句が生まれました。伝統的な季語の働きを大切に守りつつ、それを基盤にして、新しさを探求する。この姿勢が大切なのです。
あまのひざつくしとはかまふたわけす
よし女:土筆は山菜の中でも口に出来るのはほんの一瞬ですね。卵とじでいただくと、歯ざわり良くしゃきしゃき感がとてもいいです。でも節々の袴を除ける下ごしらえが、手間がかかります。 きちんと座られた尼様が、膝の両脇にきれいにした土筆と、除いた袴とに分けて、それが小さな山になっているのでしょう。作業の手順からだと、左にきれいにした土筆、右に除いた袴と二タ分けされているのでしょう。面白いお句だと思います。
光晴:先日、女房と買い物帰りに土手を歩き、土筆を取ってきました。我が家では机の上に新聞紙をひろげ、袴を取っていましたが、袴は嵩張りますので、本当に同じ分量の山が2箇所に出来ており、ずいぶんと袴の量があるものと驚きました。師にこのような句があるとは知りませんでしたが、おそらく師も袴の嵩に目を見張ったと思います。我が家では甘辛く煮て、夜の肴の一品としました。
ひろみ:土筆の食べ方、知りませんでした。よし女さんのコメントを見て、食べてみたくなりました。袴は取って、頭のところだけ食べるのでしょうか? あく抜きは必要ですか? すみません、俳句からだいぶかけ離れてしまいました。春の味のお料理のことに思いを馳せながら、自然の恵みに感謝している尼様だと思いました。
とろうち:私が住んでいる地方では土筆はほとんど食べません。ですからよし女さんのコメントを読んで、そういうふうに下ごしらえをするのかあ、と初めて知った次第です。最初に読んだ時は、縁側とかで膝の上に身の部分と袴を分けているのかと思ったのですが、光晴さんのコメントとか読むと、とても膝の上には置ききれないみたいですね。
一尾:尼さんの袴、いや これが土筆の袴で納得しました。膝の果たす役割は重要ですね。ものの区分けをはっきりさせています。「二タ分け」の表現は新しい知識でした。「背ナ」と言うのもあったようですが、学ぶべきこと多しです。
みのる:的確な観賞が増えてきて嬉しいです。几帳面な尼さまが、一つ一つ丁寧に作業しておられる様子が見えますね。
きみこ:きょう、猪名川の河川敷に土筆を取りに行ってきました。少しですけれど、有りました。袴を取るのはとっても根のいる作業で、そーとしないと、途中で千切れてしまってうまくいきません。尼さんは丁寧に土筆の袴をはずして膝を堺として、分けて置いたのでしょう。のんびりとして暖かな、情景が浮かんできます。
つかつかとゆなきてわらびゆにゆでぬ
よし女:豊かに噴出している温泉場。そこで働いている女性が、源泉の熱い湯で蕨を茹でている。「つかつかときて」で、湯を利用している暮らしが覗え、茹でているのが蕨ということで、山の湯治場なのかと想像します。他の茹でる物も、みんなそこへ持っていくのでしょうか。以前から、きれいな水の湧き出るところと、温泉の豊かな土地に憧れがあるのですが、このような暮らしは、羨ましいですね。
とろうち:「つかつかと」というところから、普段からよく、こういうことをやっているんでしょう。生活に根付いた自然との共存がよく分かります。
ひろみ:よし女さんのコメントを見て、またもや納得。源泉の熱い湯でというところ、私は普通に調理場を想像してしまいました。温泉卵ならわかったんだけど。推理小説を読むより楽しいかも。「つかつかと」で、きびきびした様子がわかります。
みのる:自分の食べる分を、慣れた手つきで手際よく作業して、さっさと帰っていった感じです。 蕨を茹でるのに丁度よい泉源、温度なのでしょう。
ひとならびほうけたんぽぽみちのくへ
遅足:たんぽぽの並んでいる田舎道。今は、なかなか見られない風景です。巾一間くらい、自動車はもちろん走ってこない、通るのはリヤカーくらい。村から村をつなぎ、陸奥まで続く道。両側には呆けたたんぽぽが並んでいる。ちょっと物憂い日差しのなかを、たんぽぽに導かれるように、旅人が歩いていく。行き先は陸奥、ドンヅマリ。人生の最終楽章へ。でも決して悲壮な感じはありません。見るべきものはみ見つ。足取りは遅足でしょうか?
とろうち:「呆けたんぽぽ」とは、一体?最初はたんぽぽが綿毛になったものかと思ったんですけど、ちょっと時期が早すぎるかしら?とも思いますし・・・。道ばたにたんぽぽが並んで咲いてるんですよね。道の先はみちのくへ・・・という感じなんでしょうか?それとも風に乗ってたんぽぽの種がみちのくへと飛んでゆくのでしょうか。ちょっと分かりません。
みのる:呆けたんぽぽ・・は、綿毛だけになった鞠のように丸くなったものだと思います。 それがひと並びみちのくの方向へ列なしているというのです。やがて風に吹かれて旅に出て行くことでしょう。青畝師の連想は、芭蕉のみちのくのたびにまで思いが馳せているのですね。
ぢろうしゅによひかたまけてらうぼかな
<|季語:治聾酒|>
光晴:治聾酒の季語、初めて知りました。じつに長閑で、耳の遠くなった母親を暖かく見守る 師の心が伝わってきます。かたまけて、が仮名なのもすばらしいと思います。
とろうち:「治聾酒」という季語も、「かたまく」という言葉も初めて知りました。これは優しい句ですね。すっかり耳も遠くなった母にお酒を注ぐ。酔いの回り始めた母に対するまなざしは、慈愛そのものといった感じがします。春のゆったりとした、やすらいだ時間を感じます。
みのる:春社の日(春分に近い戊の日の社日)に、酒を飲めば、耳の悪いのが癒るという言い伝えがあり、この酒を治聾酒といいます。ぼくも、青畝先生の句で治聾酒という季語を知りました。 現代では使われることはあまりないですが、ユーモアと哀れとが同居して、それでいながら作者の優しさが感じられる。そんな句ですね。
きたまどをかいはうおしょろうみまさを
とろうち:春になって北の窓を開けた。冬の間は暗い色だった海も、青い輝きに満ちて春の到来を告げている。という解釈でいいでしょうか。「忍路」は北海道ですね。北国の人にとっては、春の訪れは何よりも輝いて見えることでしょう。気持ちのよい句です。
きみこ:春が来て、寒さも和らいできた頃、長い間締め切っていた北窓を開ければ、忍路の海は、波も柔らかくなって来て、寒い冬の色と違って、ま青に何処までも広がっていて気持ちが良い。
一尾:窓を開ければ一面青と言うから怒濤逆巻く北海ではあるまい。白波は立っているではあろうが、まずは穏やかな今日の忍路の海。北窓を開けるを待つ気持ちが開放と言う言葉に現われる。 開放は同時に閉ざれた厳しい冬からの開放でもある。勢い窓も音を立てて開かれることでしょう。
みのる:「北窓開く」という俳諧らしい季語があります。北国の人たちにとって、春の到来は格別の思いがあるそうです。句意は、みなさんの解釈のとおりです。「北窓を開放」という大胆な季語のアレンジが青畝師らしいです。先生は、季語をばらばらにして言い方を換え、そこにあたらしさを見出すという挑戦、工夫をいつも考えておられました。季語の本質をよく理解した上でないと出来ない芸当なので、安易に真似ると失敗しそうですが、挑戦、冒険する気持ちは持ちたいですね。
ひとはだにおとるぬるさのはるごたつ
遅足:外は春とは名のみの冷たい風が吹いている。寒いなあと、一人、炬燵の火を見る。人は一人でいる時は、とくに寒さに弱い。孤独が寒さを倍増させる。二人はいい。肌の暖かさに勝るものはないのである。この句の場合、昨夜のことを思い出しているようにも取れますが、とくに何かがあったわけでもなく、二人で枕を並べて眠っただけでもいいのかも知れません。男の句だと思いますが、女の人もこうした句に共感しますよね。
とろうち:遅足さんのコメントを読んでやっと気がつきました。これって結構艶っぽい句なんですね。炬燵に入っていても、孤独の悲哀は暖められない。「人肌に劣るぬるさ」とは、またなかなか微妙な言い回しだと思います。
きみこ:暖かくなっても、三寒四温でまた、何時、寒くなるかもしれないので、なかなか、かたづける事が出来ない。春炬燵、「人肌に劣るぬるさ」で、一番ぬるい温度で調節していて、丁度ぐらいと感じるような気候となってきたのでしょう。毎日、コタツに入っているけれど、とんと、こんな句は、さずからない。
ひろみ:少し温度を上げようか迷う温度の炬燵。でも温度を上げるほど寒くはない。居間の隅に忘れさられたかのような炬燵ですね。炬燵掛け布団に干からびたご飯粒が付いているのを見つけてしまうのも、ちょうどこんな時だったような。
みのる:「人肌程度の温かさ」に劣るぬるさ・・・という意味で詠まれたと思うので、艶っぽい意味は作者にはなかったと思いますが、そう観賞できるということもこの句の面白さと思います。春寒を覚えて、炬燵に足を入れてみたところ、期待した温かさはなかったんですね。現代の電気式炬燵ならば、スイッチが切ってあったのかもしれません。春炬燵とあるので、説明されなくてもそんな連想が出来ます。冬の「炬燵」と「春炬燵」とどちらの季語でもいい句であれば「季語動く」ですが、この句はいかがですか?
しこくさのめにあらずやとしふしみる
参考・ヒント この句の「や」は、切れ字ではありません。 執す(しふす):心にかける、執着する・・の意。 蓮咲くを待つ煩悩に執しけり 富安風生 翡翠の飛ばねばものに執しをり 橋本多佳子
とろうち:庭かな? なにやらの草の芽がでてきている。春だなあ、なんの草だろう。でもあたり一面にはびこるような、たちの悪い草だったら困るな。そんなことを思いつつ、気がつくと、しげしげとのぞき込んでしまう。と、いったところでしょうか。雑草は雑草なりにかわいい花を咲かせたりしますが、あっというまにはびこるものもありますし。この句からは、雑草だったら即座に引っこ抜いてやろうといった感じよりも、むしろ、できれば抜かずに花を咲かせてやりたいという気持ちの方を強く感じます。
ひろみ:執し。はじめて知りました。勉強になります。でもこの句をどのように読めばよいのか、迷ってしまいましたが、お百姓さんの目としてみたら、どうかな? と思いました。物種を蒔き、順調に芽が出ているか確認しているところかなぁと思いました。
一尾:醜草とはつまらぬ雑草、いやな草と大辞林にあります。したがって特定の草を示さず、ふつう雑草と一括呼称されてしまう草のことですね。草にはそれぞれ固有の名前があるはずですから、芽に執着されて一体何の草か特定しよう努力されている姿かなと思いました。季語は草の芽。名草の芽といえば、とくに名のある草の芽のことであると「季寄せ」にありました。醜草の芽はその反対ですね。また「紫苑・しおん」を「鬼の醜草」とも言うことが分かりました。
みのる:ちょっと難しかったですか? 「醜草の芽にあらずやと・・」ですから、「ん!この草の芽は、どうもただの雑草ではなさそう・・」という意味です。そういわれると、意味がよくわかるでしょう。別に、青畝先生の作品に対抗したつもりはなかったのですが、
異な草と引きて吾妹に叱らるる みのる
というのがあります。対照して観賞していただくと面白いと思いました。
はたうつやつちよろこんでくだけけり
とろうち:ふと気がつきましたが「や」「けり」と使っているんですね。あまり気にはなりませんが。まさに農耕の喜びですね。「土よろこんで」というのは、本当に嬉しくなります。
遅足:定年で家庭菜園を始めました。宅地として開発された土地ですから土は固く、雨が降れば、ぐちゃぐちゃ、乾けばコチコチ。とても喜んでくだけてくれるような土ではありません。人間が手間を惜しまず手入れした土だからこそ、鍬を入れると喜んでくれる。自然と人間との共生というのは、汗を流した結果であって机のうえのプランではないと痛感しました。これって愛知県で開催される万博批判かな?
ひろみ:「や」と「けり」ですね。とろうちさんのコメントを見るまで、気が付きませんでした。 この「や」は詠嘆の「や」なのでしょうか? 冬が終わり、畑を耕す喜びが伝わってきます。ほっこりと土が耕されていく様を、よろこぶ、と言う擬人法で置き換えられていますが、本当に、喜んでいるように思われたのではないでしょうか。それだけに、喜びがひしひしと伝わってくるように思えます。
みのる:ぼくも気づかなかったのですが、「や」「けり」ですね。青畝先生の句なので赦しましょう。「降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男」を思い出します。さて、春耕の土が喜んでくだける・・とうのがこの句の命ですが、とろうち解のとおり、まさしく畑打つ人の喜びそのものなんですね。喜びを感じつつ作業しているので、土も喜んでいると感じるのです。青畝先生は、愛の心で対象物を見なさい。と教えられました。そうすると、対象物も愛を持って応答してくる。それを言葉で写し取る。そうして生まれた句は、観賞する人にもまた愛を共感させるのですね。 これが、ゴスペル俳句の世界だとぼくは思います。
しゅんてんにしょうしんのこゑまだをはらず
遅足:知人の奥さんが亡くなられた時、キリスト教会でお葬式がありました。初めて、亡くなった人が天に召されるということを実感しました。日本の神道では亡くなった人は神になるわけですが、キリスト教では神になることはないのでしょう。魂が天に帰っていったのでしょうか? 日本の祭も神様をお呼びして始まり、お送りして終わるそうです。お葬式なのか、別の儀式なのかは分かりませんが、春のこの儀式の間は神とともにある。その、ほんのつかの間の至福のココロを詠んだのでしょうか? 間違ったらごめんなさい。
ひろみ:昇神の儀式の祝詞のことでしょうか。ぽかぽかしたお天気の中、神主さんの祝詞が続いていて眠たくなってしまうようなのどかな春の日でしょうか。遅足さんのコメントにも書かれていましたが暖かい微風に神様の存在を感じてしまうような、穏やかな春の日ではないでしょうか。
とろうち:「昇神」という言葉の意味がよく分かりません。キリスト教の言葉かと思いましたが、ひろみさんのコメントを読むと、そういった儀式もあるようですね。でもそれもよく知らないし・・・今回はちょっとお手上げです。
みのる:みなさんは、神式の安全祈願祭とかに出席された経験はありませんか。これは、その神事のなかで、降神の儀、昇神の儀、という儀式が行われます。神主が、「ぅお〜〜〜」と10秒ほど、声を張り上げるのです。降神のときは、はじめが高く大きくてだんだん低く小さい声になって終わります。つまり、高いところから神様が地上に降りてこられる様子を形容しているのです。 逆に、昇神の声は、低く小さい声から始まって、だんだん高く大きな声となり、やがて天に消え入るような余韻を残して終わります。言葉で書くと難しいですが、一度でも体験された方ならわかるでしょう。起工式とか、いろいろ公式行事などでは、けじめのよい春先の縁起のよい日を選んで神事を行います。いかにものどかな感じのする句なんです。
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