サボテンにこがふえてをりはるひかげ
遅足:梅の花が終わったら桃、そして桜。春は静かに、確かな足取りでやってきました。こうした季節の変化は、誰の目にも留まります。しかし、サボテンは地味で目立ちません。でもサボテンにも春はちゃんとやってきていました。作者は、サボテンに子供が殖えていたのを見つけています。身の回りの小さな、見落としてしまそうな世界への目配り。読む人に春の幸せを配達してくれる句です。
とろうち:遅足さんのコメントとほぼ同意見です。今までまったく気にもしていなかったけど、ふと見ればサボテンの鉢に子が殖えている。春は確実に近づいているのだなぁという感じにとらえました。
ひろみ:サボテンの子というのですね。脇芽と言う感じでもないし、子はぴったりだと思いました。
みのる:鉢植えのサボテンでしょうかね。冬の間は、枯れたのではと思うようなものでも、ふと気づくと、たくさん子供が殖えているのに気づいて驚くことがありますね。とってもユーモアな感じがします。春日影という季語使いは、ちょっと難しいですが、春日と同意に考えてもいいと思います。春日蔭ではないので、日陰という意味ではありません。子供を増やしているさぼてんに、明るい春の日差しが射して、そしてそのサボテンの影が地に落ちてくっきりとわかる。そんな情景でしょうか。
もくぎょぽくぽくこだまぽくぽくながきひを
とろうち:日永という言葉には、なにかしらゆったりとした、けだるい雰囲気があります。お坊さんが木魚を叩いている。その音が静かな本堂に響いている。「木魚ぽくぽく谺ぽくぽく」という言い回しが、のどかで、なんとなく眠くなるような春の日を彷彿とさせます。
里登美:とろうちさんの解釈に納得です。ぼくぼくのリフレインや、Oの発音が繰り返されていて、お坊さんの単調なお経と木魚の音が聞こえてきそうです。そういえば、上五は字余りになっていますね。これも日永に合っているように思いました。
一尾:ぽくぽくの繰り返しが面白いですね。くり返し唱えるうちに早口言葉「ひよこぴょこぴょこ〜」を思い出しましたが、後は続きません。木魚と谺の織り成すリズムが山寺の春の一時を楽しませてくれます。
ひろみ:谺と言う字が、一瞬、欲という字に見えました。一切の欲を捨てることもできそうな春の一日・・・ 光晴:春の山寺の長閑な雰囲気のある、素晴らしい句ですね。しかし、この1句限定で、同様なリフレインも我々が使用すればもうだめでしょう。字余りの感も良く出ていますが、うまく使えない我々は注意すべきなのでしょう。
みのる:日永という季語の斡旋が抜群ですね。理屈ではこのような句は詠めないです
しゅんくうにきょしせっぽうづえがきけり
ひろみ:説法図を見てきた虚子が、空に向かって指で「ここに御釈迦様、ここには菩薩様・・・」と、描いてみせてこういう物を見てきたよ、と、みんなに教えているところ。お釈迦様や菩薩様が、春の空に浮かんでいるかのような錯覚を感じます。・・・まったく、自信ありません・・・
けんいち:春の空は秋天と異なり高くまた青くなく、霞んでいます。その霞模様が釈迦説法図に見えた。何故虚子がその様に見たかそれを青畝先生がどのような感慨でこの句を詠まれたのかその解釈に基本的な間違いがありました
とろうち:なんだか、最近の句は難しいのが続きますね。これも正直言って、なんのことやらさっぱり・・・。「虚子説法図描きけり」というのは虚子が説法図を描いた、ということなのか、それとも「虚子説法図」で一語なのか。だいたい、なんで虚子が説法図なのか、それが分かりません。けんいちさんが仰るように、春のあわあわと霞んだ空とお釈迦様と、なにかしら繋がるような感じはするんですが、うーん・・・分からないなあ。
よし女:もろもろの事情で、しばらく選句と投句が精一杯でした。お許しを。この句は「虚子説法図」が鍵でしょうか。青畝先生が聞かれた虚子先生の、花鳥諷詠に対する俳句理念みたいなものなのかなあと思ったりもしました。いろいろ繰っているうちに、みのるさんが書かれている初学講座2001年12月4日の欄に青畝先生の俳話がありました。その中に、虚子先生が「古壷新酒」のたとえで話された事が載っていました。これかどうかは疑問ですが、なにか、このようなものを春空に描いてうなずかれたのでしょうか。むずかしい句です。
みのる:ちょっと難しすぎましたね。ごめんなさい。この句は、高浜虚子先生のこと、そしてその弟子達のこと、もちろん青畝師もそのうちの一人ですが、そうした関わりをよく知らなければ観賞できません。現代の私達は、虚子を知りません。でも、青畝先生からは直接いろんなお話を聞き、教えていただきました。その一つ一つの教えの言葉は、いつまでも心の中にあり、終生忘れることはありません。青畝先生にとって、虚子先生というのは、それ以上の存在でした。句意は、よし女解のとおりです。では、なぜ春空なのでしょう。どうして青畝先生は、春の空を見て虚子先生のことを思い出されたのでしょうか。そこが、この句の観賞のポイントです。でないと季語が動きます。別に秋晴れの空でもいいわけですから・・・虚子先生の忌日は、4月8日でしたね。さらに、虚子先生の句に「春風や闘志いだきて丘に立つ」という句があります。これは、俳諧の頂点に立たれた虚子先生が、指導者としてその決意の程を表明された句として有名です。 こうした背景によって、「春空に・・・」の季語が、虚子追慕の句として効果的に働いているわけです。
あまうららたらひまはしにつなまきぬ
とろうち:海女というものを見たことがないので、綱を巻くというのが、どういった作業なのかちょっと分かりません。うららかな春の浜辺で、海女さんたちがなごやかに談笑しながら、順々に網を巻いている光景ととらえていいのでしょうか。潮の香りがただよってくるような句ですね。
けんいち:たしか海女さんは大きな盥をそれぞれに持ち、海に浮かべて海中にもぐり、さざえとかの獲物をそれに入れていっている筈です。そして自分の体と盥とを綱でつないでいるのではないでしょうか。この句はおそらく春のうららかな海で、数人の海女さんが仕事を終わり、それぞれの盥に体からはずした綱を盥に巻きつけながら談笑している風景と見ました。冬の寒い時はそれどころでなく早々と引き上げるでありましょう。そこを海女がうららとし、のどかさを強めたと鑑賞しました
よし女:海女さんたちの綱の巻き方結び方は、命を繋ぐ独特のものではないでしょうか。盥回しは、足で盥を回す芸のことで、それが、事を順送りで回すと言う意味になったのだと思います。そんな事からの連想ゲームなのですが、先輩から受け継いだ独特の巻き方があり、その中に海女としての心構えとか、海女として必要不可欠なものを、受け継いで命綱を巻き、また次の世代へ伝承して行くということなのでしょうか。自信はありません。「海女うらら」は好きな季語ですね。
初凪:盥まはしが理解できずに悩みました。よし女さんの書き込みでこの盥は道具としての盥ではなく、やはり「盥まはし」という言葉をいわゆる次々送り回すという意味合いで使ったのでは? と思いました。受け継がれてきた綱の結び方は、もしかしたら自分では結べない独特な結び方ではないでしょうか?自然が相手ですから、命綱をほどいたり切ったりしなければならない場合も想像できます。隣の人に綱を巻いて結んであげる。その人はまたその隣の人に結んであげる、という繰り返しを盥まわしと表現した様な気がします。海女うららというのですから、これから海へ入る弾んだ気持ちと、海を前に大声で話しながら支度をしている景色が思われました。あまり自信ありません。クイズを解いてる気分です。
みのる:真剣に考えると意外と難しい句ですね。ぼくも自信ありません。海面にぷかぷか浮かびながら、足で綱をあしらっている情景かと思います。ラッコがおなかを見せて浮きながら、上手に貝などを割って食するユーモラスな情景があるでしょう。海女うらら・・は、そんな情景に似ているかなと思います。問題は、「盥回しに」を、どう解釈するかですね。盥を回しているのではなくて、「盥回しの所作のように・・」という意味と思います。つまり、浮かんだままで、上手に足を使って綱をあしらい、身体に結び付けている情景、あるいは、潜りの作業が終わったので、足を使って長い命綱をくるくると巻いている。そのような情景をご覧になって、まるで盥回しをしているようだ。と表現されたのではないでしょうか。青畝先生自身にお聞きできればいいのですが、叶わないですから、今度、海女さんを見る機会があれば質問してみましょう。>みなさん。
たひらかなわさびだをみずほとばしり
けんいち:見当違いの鑑賞で投稿していておそらく笑われているいる初心者のけんいちです。勉強の為また恐れ知らずで投稿させていただきます。山葵は水稲と異なり常に清浄な水が入れ替わり流れる所で育ちます。湧き水が多く出て流れている所が理想的の筈です。透き通った水それがほとばしり流れる。そこに青い葉の山葵がある。なんとも心地よい句です。それと平らと山葵の山とのアンバランスな言葉の組み合わせが微妙であると見るのは読み過ぎでしょうか。
廣美子:信州に魅せられて、何年も通っています。大小の山葵田があって、清らかな水が、正しくほとばしっています。ほとばしる、勢いがありますね。心洗われるような句です。ただ、平らかなという表現は私には難しいですね。平らかな山葵田、広々として、どこまでも続いていると言う感じでしょうか。
とろうち:なんとも清冽な句ですね。ただ見たままを詠んでいるだけで、何も飾らず何も言い足さずという感じです。でも流れる水の冷たさ、清らかさ。山葵田を含む周りの景色まで、色鮮やかに迫ってきます。いい句というのは、その句を窓にして無限に世界が広がるものなのですね。
よし女:一面の山葵田が浮かびます。きれいな水が、斜面でもないのに流れている。湧き水の豊かな土地なのでしょうね。勢い良く流れる水の音も聞こえてくるようです。水のきれいな土地へは強い憧れがありますが、うらやましいですね。
みのる:よし女解が正解です。山葵田を見た経験のある人には、清冽な水の流れが思い出されて合点される句ですね。「平らかな」の措辞が、作者の感動であり、小主観でもあり、そしてこの句の命です。大量の水が川のように流れる・・というイメージではなくて、平らかな、山葵田の表面を走るように水が流れているのです。広辞苑には、
ほと‐ばし・る【迸る】勢いよく飛び散る。たばしる。
とありますから、清冽な水が木洩れ日に眩しく輝く水勢が目に浮かぶようですね。いかにも、「自然の命」を感じます。
けうぼくのこぶしあたりをはらひけり
けんいち:またまた勇気を出して投稿させて頂きます。この喬木は欅なんでしょう。欅の大木がまだ葉をつけず枝がのびている。その横にそれほど高くない辛夷がその枝を避けて咲いている。辛夷の花の健気さ又なんとなくはかなさを感じさせる句と鑑賞しました。
よし女:喬木と言うからには、太い背の高い辛夷が想像されます。山地などで、びっくりするような大きな辛夷を目にすることがありますが、そのような辛夷を想像しました。あたりを睥睨しているように花の白さが、際立っているのでしょう。
光晴:私もよし女解だと思います。辺りを払う、は周囲を威圧する、との意でしょう。単純な句ですが、山の辛夷らしさを良く出しています。
里登美:この合評は本当に勉強になります。私は、辛夷あたり、と意味を続けていて頭が混乱しました。喬木の辛夷で切ればすっきりとその情景が浮かんできます。よし女さん有難うございました。
けんいち:後の皆様の合評をみてああそうであるなと納得しました。有難うございました。勉強になります。私は喬木が辛夷のあたりを払うと解釈したための間違いです。文脈的にも無理がありますね。
とろうち:里登美さんと同じで、私も最初「辛夷あたり」と読んでしまい、わけが分かりませんでした。そうか、そういう意味なんだ。
みのる:辛夷という季語の本質をしっかり学びましょう。辛夷から、庭木や街路樹のそれを思い浮かべるのは基本的に間違いなのです。辛夷は、春の山中に木々が芽吹き始めるより早く、真っ先に花をつけます。田打ち桜ともいわれ、まだ枯山にみえるような早春に、辛夷が咲き始めると、お百姓さんたちは、田打ちをはじめるという習慣があったのです。山中では、群生している辛夷は余り見かけず、あちこちまばらに淡く白い辛夷が咲くのです。遠景では、気をつけていないと見落とすこともあります。さて、この辛夷は、樹齢を重ねた大木なのですね。あたりの木々は、まだ眠っているような情景のなかなので一際その清純な白さ、明るさが目立つのです。
阿波野青畝門で、河本和さんの句に、
という句があります。これも、辛夷の特徴をよく捕えています。草花や花木、樹木などを詠むときは、特徴や習性などをよく理解して、季語が動かないように詠まなければいけません。逆に、こうした題材はどうしても季語が動きやすいので、よほど、確かな写生でなければ、上級者の支持は得られないということもいえます。青畝俳句研究は、俳句の命である「季語」の働きについて学ぶことを、最大の目標にしています。
くもうごかずはくれんのはなのみさわぐ
一尾:雲動かずから風の吹かない穏やかな日が想像されます。そこに騒ぐとはいささか穏やかではありませんが、蕾が開くものもあれば開いた花びらの時が来て落ちるものもある様を騒ぐと詠まれたものと思います。開く様はちょっと観察はできないでしょうが、やや大形な花びらの落下にはすぐ気づきます。見上げるもくれんのその先に雲の構図が浮んできますが、一点凝視の成果と思います。せっかちには詠めない句です。
よし女:青い空にはくれんの花の白さが映えて色彩の美しさが想像できます。何かの拍子にぱっと翔った鳥がはくれんの花びらを散らして去った。そんな光景も浮かびました。
けんいち:空にぽっかり白い雲、風がなくそのまま浮かんでいるのどかな春日。はくれんが咲いている。風もないのにはくれんが揺れている。鳥がとまりそして飛び立ったのか、あるいははくれんの大きな花が落ちた拍子に一枝がぶるりと揺れたにか。私もそのような風景と解します。しかし雲動かずが雨天あるいは曇天であり風もなく何時までたつても晴れそうにない状態とも読める、又周囲に他の樹木なり花がありそうなのに何故はくれんの花のみと、のみ、がつくのか、いろいろ考えて頭がこんがらがってきました。
とろうち:山葵田の句と読み方は同じかな、と思いました。雲も動かない、風のない穏やかな晴れの日のはくれんの花。その、はくれんの花だけがざわめいている、ように見える。はくれんは花が大きいですから、たくさん咲くと本当に賑やかというか、特に白の花は背景の色に映えて、わらわらと華やかですよね。時々、はなびらがほとりほとりと落ちてくるのかもしれません。確かな観察眼なしには詠めませんね。
ひろみ:雲は流れてはいませんが、ほんの少しの風に花弁が揺れていた、というのは駄目でしょうか? 芽吹いたばかりの木は柔らかい葉もまだ小さく風に揺れるほどではなく、はくれんの花弁だけ揺れていたのではないでしょうか。
きみこ:暖かな春の日、ぽっかりと浮かんだ白い雲。その下では、はくれんの花だけが大きく白く、咲き満ちて、まるで騒いでいるように見えたのではないでしょうか。
こう:はくれんの花は、よく見るとおしゃべりですね。華やかで、賑やかです。白くて、大きくてぽっかりと開く朴の花とは、随分違います。雲動かず・・と対象的な捉え方が印象を強めていると感心しました。
みのる:よくよく観察すると、意外に難しい句ですね。穏やかな晴れ、ほとんど風もなく空に浮かんだ春の雲も動く気配がない。でも、ときどき吹いてくる微風に、白木蓮の大きな花は、大げさな動きを見せている。ここまでは、みなさん共通の観賞ですね。昨日まで美しく咲いていた木蓮の花が、ある日突然、ばっさりと散っているのをみます。白木蓮の場合は、特に哀れさがありますね。先生は、そんな風前の灯の状態の白木蓮の動きを、「騒ぐ」と感じられたのかもしれません。掲出しておいて無責任ですが、この句はちょっとお手上げです。
しゅんげうやすぐにととのふめだまハム
とろうち:グッモーニン、グッモーーニン、目玉目覚めてま・す・か。なんて古い CMソングを思い出してしまいました。「春暁」ですから、かなり早い時間ですよね。何か朝早く出かける用事があって、急いで朝ご飯の用意をした、という句でしょうか。急いでいるから簡単でいいよ、というわけで、トーストとハムと目玉焼きのお膳立て。私としては、急いでいるときは目玉焼きよりオムレツの方がてっとりばやいんだけど。
ひろみ:目玉ハムに驚きました。目玉焼きとしても字数は問題ないのに目玉ハムとしたところに。いつもハムエッグのことを、おうちでは「目玉ハム」と呼んでいるのでしょうか。とってもユーモアの溢れる句だと思いました。
けんいち:小生もハムエッグの事を目玉ハムと表現したところが洒脱でユ-モアを感じました。しかしご自分がお料理されたのでしょうかね。あんがいハムエッグは難しいのです。卵が黄身が硬くもなくまたお皿に流れ出るように成るほどやわらかくなく又ハムが焦げないよう卵とハムが渾然一体となるには相当の技量が必要です。春の朝早く出かけられる先生のため奥様が手早くおつくりになつた、てなことを想像したりしました。
よし女:朝早い出発に、まるで手品師の技のように出されたハムエッグ。「すぐにととのう」の措辞。「目玉ハム」の言い回し。それが春暁の季語とよく調和していると感心しました。
一尾:春眠暁を覚えずがふと浮かびました。すぐが効いています。すぐには起きられない春暁、すぐに調理ができる目玉焼きとハム。まさに「有り難きかな ハムアンドエッグ」です。
みのる:なんでもない句ですが、「春暁」の季語か効果的なので、やられた・・・という感じがする句ですね。食堂の窓を染めている春暁は、見る見る褪めてゆくような気配なのですが、まだ、その余韻が消えるまもないくらいの、瞬時に朝食の目玉焼きが出てきた、という驚きです。
きょしのこえおんばんにきくはるのよひ
よし女:青畝先生が、蓄音機のレコードをかけ、講演か何かの虚子先生の声を懐かしく、聞いておられるのではないでしょうか。虚子の忌日が4月8日なので、春の宵の季語が生きてくると思いました。
とろうち:よし女さんとほぼ同じです。懐かしく、そしてほろ苦いような哀しみと。「音盤」という、今では聞かないような言葉が印象に残りました。
まこと:4月8日は虚子の忌ということで、「虚子の忌や・・・」と作句したばかりでこの句に接し、俳句を読むスタンスを思いしらされました。
ひろみ:この句は虚子忌とせずに虚子を悼む気持ちが表れていて、すばらしいなあと思いました。 春の宵と言う季語の持つ感傷的な余韻、まさにぴったりだと思います。
光晴:虚子の「春の宵」季題解説によれば、春の宵は秋の夜と違い、どことなく若々しい華やいだ、なごやかさ、明るさ、媚めかしさがあり、色彩的な感じに満ちている。しかも又一面には魅惑的な歓楽的な、刺激的な、淡い甘い哀愁さへ漂っているようにも感じられるのだ。とありました。虚子の教えをさへ、この1句は表していると驚きました。
みのる:ぼくも聞いたことがあります。昔の SP盤とよばれるレコードで、ラッパのようなものがついていて、手回しハンドルでばねを巻いて、レコードを回転させる、いわゆる蓄音機というものでしょう。「春の宵」は、4月8日の虚子忌を踏まえたものであることは、違いないのですが、蓄音機から聞こえてくる虚子先生の声は、さほど明瞭なものではないので、「声おぼろ」の感じがあるので、「春の宵」を使われたと思います。昭和天皇の敗戦宣言のラジオ放送を記憶しておられる方も多いと思いますが、不明瞭にモガモガと聞こえてきますね。あんな感じです。
かりねしてまちをるねこのはるのやみ
廣美子:うたた寝をしている猫が居る。春の日差しの中で。ぬくぬくと。世の中は、春真っ盛り。 でもこの猫ちゃんは、相思相愛の相手に巡り合えていない、だから春の闇。好機を待って片目を開けていたりして・・・。と言う風で良いのでしょうか? 違うかな。犬は飼っているので分かるのですが猫は・・・。
とろうち:春の夜は猫の恋のステージ。それはいとしの君との甘いささやきになるのか、ライバルとの恋のさやあてか、はたまた、決闘の夜となるのか。いずれにせよ、雄はせつない声で鳴きながら、忍びやかに夜の闇に消えていきます。その夜に備えて、今は仮寝のひとときかい。猫とはけっこうつきあいがありますが、こんなふうに考えたことはありませんでした。忘れられない句になりそうです。
よし女:昼間はごろんと眠っていて、夜になると外に消えていく猫。それを仮寝をしていて、春の闇の夜を待っている猫と見た作者。恋猫に対する暖かいまなざしを感じます。
登美子:春の闇というのはただ単に春の夜の暗さだけではなく、暗さの中に何か恐さ、恐ろしさを含んでいると教えて頂いたことがありました。この句は恐ろしさよりも微笑ましさを感じます。こんな風に洒脱に作れたらさぞ楽しい句が出来て来るのでしょうね。青畝師のこういう捉え方は随一だと思います。猫にとっては切実な夜の闇なのでしょうね。
ひろみ:春の宵の次に、春の闇。春の闇の季語から感じることは、真っ暗な中に何か朧な暗さが あるように思います。ちょうど梅の花が咲いている頃で、梅の匂いも暗闇から漂い、艶かしい季語だと思います。丸くなって寝ている猫の耳がレーダーのようにかすかに動いて、外の気配を窺っているところだと思います。恋の猫と言わずに、春の猫のそわそわした感じが良く出ていてすばらしいなあと思いました。
光晴:虚子の季題解説、春の闇。幽かな情感をさへ包んだ柔らかい、なつかしいうすら闇が考えられる。女性的な柔みと神秘とを持って、夜の我が地球を、大空を、人間を、野や森を、しづかに匂やかに塗り込めているのが、春の闇の気持ちであろう。とありました。
みのる:恋猫の季語であることがわかった方は合格です。いかにも青畝師らしい句ですね。俳句は、季語が必須なのではなくて、季感が重要であることを、教えられます。
しゅんとうをつらぬくごとしテナーきく
ひろみ:このテナーはテノールのことでしょうか? 朧夜のオペラ鑑賞の時のことでしょうか。ビロードのようなテノールの響きと春の灯の季語、付きすぎかな? とも思いましたが、「つらぬく」で、テノールの声が一段と感動するものであったことがわかるとおもいます。
とろうち:最初に見た時に、なぜ「つらぬくごとき」でないのかと思いました。テナーはおそらく独唱ですよね。豊かな声量と力強さ。これは、秋灯でも冬灯でもあわない、「春灯」でなければと思います。でも、もし「つらぬくごときテナー」と言ってしまうと、このテナーのもつ豊かさ、膨らみのある感じが「つらぬく」という言葉で消されてしまうようにも感じます。だからこそ「つらぬくごとし」と切れているのかな。情景は容易に浮かびますが、難しい句だと思いました。
一尾:つらぬくごとしと言い切るところがよいです。華やいだ春の照明のもと、高音のテナーは真直ぐに先生に飛び込んでくる。これは素晴しいと感動、照明に影響されず聴き方にも真剣さがまします。歌手、聴衆とが一体となった音楽会の様子が伝わるような一句です。
よし女:男子の最高音テナー。太く幅があって貫いているのが春灯なのがいいですね。数日この句を味わっているうちに、声が聞えて来るような気がしてきました。音楽会行きたいですね。
みのる:春灯といわれると豪華なシャンデリアが吊られた、ホテルの大宴会場のような場所での音楽会を連想します。高音の声を張り上げて歌うのが、テナー独特の歌い方ですから、「つらぬくごとし」はとても的確で、巧みな比喩ですね。如く俳句は、ピタッと決まると良い句になります。
ゆげむりののぶればかくすはるのつき
けんいち:温泉の露天風呂に入っているのでしょう。中空には春の月が。と一瞬春の夜風が吹き湯煙が上に伸び月を隠した。瞬間をとらえた句と鑑賞しました。なんとものどかで自分が露天風呂に手足をのばしゆつたりと入っている気分になります。
里登美:実に初歩的な疑問なのですがゆげむり、を平仮名になさった意図はなんでしょうか。視覚的に漢字は硬く平仮名は柔らかい感じがします。その点を強調なさったのでしょうか。
とろうち:露天風呂の立ち上る湯気が、ふやけたような、柔らかな春の月を隠した。情景も、音の響きも柔らかな、春の句だと思います。
よし女:春の月をめでていて、露天湯に沈んだとき、ゆげむりがゆらゆらと伸びて、一瞬春の月が見えなくなった、という様子が良く解ります。すべてが句になるのですね。
ひろみ:湯煙じゃあ、駄目なんですね。ゆげむりでなければ・・・「げ」と濁ることで、なんともいえない風情を感じます。ひとつのことを詠むのでも、一文字で違うものなのですね。一文字を大事にしなくてはと、思ってはいるのですが・・・
みのる:ゆげむり・・と、ひらがなにされたのは意図的でしょうね。漢字よりも、やわらかくてたおやかな感じが出ます。さて、夏の月では、駄目なんでしょうか? ここが、この句を研究するポイントです。春は、まだ朝夕気温が下がるので、大げさに湯気がたちますね。そして、湯げむりに隠れようとする月に、「朧」な雰囲気を感じます。実感を捉えて作られているので虚構を感じさせないのです。
なかずしてでんぐりがへるかめのしょさ
初凪:歳時記に「亀の雄は雌を慕って春に鳴くというが、鳴くのではなく水を含んで呼吸する音だといい定かではない」とあります。作者は亀をじっとご覧になっていたのではないでしょうか? ちょっとの音(声?)も聞き漏らすまいと見入っていたらなんと亀はでんぐり返ったと言う。すかさずその様子を俳句になさったのですね。「亀鳴く」をひとかたまりの季語としてでなく、鳴かずして・・・と新鮮な使い方をしています。「あら、こんなのもあり?」と思ってしまいました。
とろうち:亀さんのでんぐりがえし。見たこともなければ想像したこともありませんでした。まさか自分でひっくり返ったというわけではないですよね。起きあがれるんですか? どこからか落ちてひっくり返ったけど、うまくもう一回転して起きあがったとか。ユーモラスでのどかな句ですね。
けんいち:昨日ある小河川の土手を散歩していたところ、川の中の三尺四方程度の平らな石の上に、十数匹の亀が押しくらごっこをする如くかたまって甲羅干しをしているのを見かけました。なにやら一瞬不気味ではありました。しばらく眺めていましたが微動ともせずでしたが、たとえばその内の一匹が急にうごけば周囲のどれかがでんぐりかえる可能性もあるとも思えました。亀は裏返しになれば自分の力では起き上がれないと聞いています。その場合このような集団性をもつているのであるから他の亀が助けるのかも知れません。(亀を数えるのに匹でよいのか不勉強で判りませんが)
よし女:「亀鳴く」の季語を「鳴かずして」との逆戦法は、青畝師の手腕ですね。「でんぐり反る」の言葉も新鮮で、リズミカルです。何かの拍子にでんぐり反り、暫くばたばたと四肢で宙を掻いていた亀。右の後ろ足をつっぱってもとに戻り、するりと水中に消えた場面が浮かびます。 小型の亀でしょうか。
ひろみ:必死で足をばたばたさせてもがいている亀。声の出るものなら、「うわー」とか「ぎゃー」とか「たすけて〜」とか「きゃいーん」とか、言うのだろうけど、亀だから、鳴かない。一生懸命さと同時に、ほんの少しの哀れさを感じたのですが・・・
みのる:亀鳴く、という季語は、俳諧的ですが、心象的な季語です。ですから、具体的な情景を組み合わせないといけません。心象的な季語を使って心象を詠むと、観賞する側には具体的な情景が浮かばないので、結局独りよがりな句になりやすいのです。「亀鳴く」の季語には、春の物憂い雰囲気が隠されているので、春愁な気持ちで池のほとりを眺めている作者が浮かびます。そして、滑稽な亀の所作にこころが慰められているのですね。
はなのもんほうたいかふのもんとびら
一尾:インターネットで「豊太閤」を検索、京都は醍醐寺の「豊太閤花見行列」を詠まれたものと思います。さらに「醍醐寺」のホームページから行事の大要は分かりましたが、この句の情景はちょっと湧いてきません。全て桜の花尽くし、桜綾なす千なりびょうたん紋の扉、それに続く桜トンネルを進む一行様が浮かびますが。季語は花、行事は4月第2日曜日、今年は4月13日でした。
よし女:太閤秀吉ゆかりの場所にどっしりと構えた大きな門。万朶の花を背景に、扉には豊臣家の紋様がくっきりと刻まれている。そんな光景を想像しました。秀吉の生涯を思い浮かべると、爛漫の花がふさわしいようです。どこの門扉なのでしょうか。
けんいち:大阪城ではないでしょうか。現在の大阪城近辺は桜の名所が多くあります。城址公園、淀川両岸、造幣局等々。しかし小生大阪城のどこかの門に太閤秀吉の紋があるのかどうかは不詳です。大阪城と見たとき、華やかさと同時に桜と同じく散る運命、一種の滅びの美学がこの句にあるのではないかと感じました。
ひろみ:秀吉はとても桜が好きだったということを考えると、この門を秀吉は通ったのでしょうか? 絢爛豪華な宴と満開の桜がこの門を開けると見えるような気がしました。
みのる:豊太閤というのは、単に豊臣秀吉の代名詞のようなものなので、特に豊太閤花見行列を指すことばではありません。要するに、天下を誇った豊太閤ゆかりの大門ということでしょうね。大阪城であることも考えられます。鄙びたところでは、兵庫県有馬温泉郷にある、瑞宝寺公園の大山門のような気もします。この山門は、明治初年(1868年)京都の伏見桃山城の遺構から移築したと言われています。
はりのばうならべしごときひがたかな
よし女:我が家から少し歩くと、遠浅の干潟が望めます。坂になっているので、途中から干潟がきらきら光り始め、晴天のときには目が開けられないほど、眩しいときがあります。それを「玻璃の棒並べしごとき」と表現されたのは、さすが、青畝師ですね。本当にこのとおりだと、共鳴しました。
一尾:潮の引いた干潟にはさざ波の跡のような砂紋が残ります。砂紋の谷の部分には潮が少し残り光を映します。これを玻璃の棒と例えたのでしょうが、美しい表現です。一方の山をとったら何と表現するのでしょうか。玻璃に相当する言葉がみつかりません。見つかるまでじっくりと構えよう。あれあれ 縄のれんに見えてきたよ。
ひろみ:玻璃の棒がわかりませんでした。よし女さんのコメントを見て、なるほどと思いました。 今度、干潟に行ってみようと思いました。
けんいち:小生も海辺で生まれ育ちましたが、砂浜が多くこのような干潟をあまり見たことがありません。よし女さんのこの鑑賞で成るほどと納得いたしました。そういえば宮崎の青島近くの干潟がこのようであったと思いだしました。
みのる:玻璃はガラスのことですね。俳句では、玻璃窓、大玻璃、などという使い方もします。ステンドグラスの窓を、彩窓(あやまど)などとも言います。さて、観賞としてはよし女解でいいと思います。兵庫でも、日生、牛窓などの海岸の干潟の風景は特に綺麗です。宇部の波雁ヶ浜も美しいのではと思います。この潮干と夕日時が重なるとまた最高ですね。
ほのたちしごとくはまぐりやかれけり
とろうち:海関連の句は苦手なのです。海になじみがないもので。ですから前回の句などは、はっきり言っておてあげなんですが、この句はなんとか分かりそうです。蛤を網の上で焼いていて、口を開けた姿が、ヨットなどの帆をあげているように見えるんですね。個人的には、浜で焼いている姿を想像したいと思います。おいしいでしょうねえ。
ひろみ:ホタテ貝じゃないんですね。帆立貝は、帆が立っているようだから帆立貝なんですよね。 蛤が帆の立ちし、だから面白いのだと思いました。
よし女:焼かれる前の蛤は口を硬く閉ざしています。熱が加わってくると、ある瞬間ぱっと開き、開ききると帆が立ったようになります。大きな背景が想像され素敵な句です。
みのる:じつによく観察の行き届いた写生句ですね。「帆の立ちしごとく」は、作者の感性です。揚げしごとく・・ではなくて、立ちしごとく・・なので、パッと蓋を開いたときの瞬間の驚きがありますね。だから、観賞するひとに力強さが伝わるのです。
" 間延びのした写生ではなくて、瞬間を切りとって写生しないさい"
と、先生に教わりました。
みふたつにをりてまてほりあきらめず
きみこ:若かりし頃、馬刀貝を取りに連れて行ってもらったことがあります。鍬で砂をかいて、穴の空いている所へ塩を入れると、馬刀貝が出てきます。すばやく貝を掴むのです。掴みぞこなったら最後もう、掘っても、掘っても何処にも姿が見えません。何処へ行ってしまったのでしょう。先生は、あきらめず、屈み込んで、馬刀貝を堀り続けられたのでしょう。一生懸命の様子が、伺えます。
廣美子:アサリしか採ったことがありません。きみ子さん、お陰で情景がよくわかりました。おもしろいですね。身二つにとか、あきらめずなどで、一生懸命で粘りある性格まで表現できるのですね。
とろうち:「馬刀掘」ってマテ貝を掘るって意味だったんですね。私はてっきりお堀の名前かなんかかと思ってしまいました。広辞苑で調べなきゃ、なんて思ってたところです。マテ貝堀りって難しいんですね。知りませんでした。経験者ならではの句ですね。しゃがんで、かがみ込んで、「身二つに折りて」で、その姿はまざまざと浮かびます。
ひろみ:浅蜊取りのようには、いかないのですね! コメントを読むまで、わかりませんでした。 身二つに、あきらめず、というのが良く理解できました。
よし女:海に近い我が家では、子供達が来ると、四季を問わず貝堀に行きます。馬刀貝掘りを一番喜びます。貝の穴を見つけて塩を入れ飛び出した瞬間を捕まえるのです。そこなったら最後、身二つに折って掘れども掘れども、捕れません。干潟を1メートル以上掘ったことがあり、とうとう諦めました。それがまた面白く、このお句はそのようなことを思い出させてくれます。
みのる:馬刀掘を見たことがないとこの句の観賞は難しいですね。ぼくも、兵庫県新舞子の潮干狩に時々出かけて、馬刀を掘ります。入浜料なんてのを取られます。アサリは毎日舟で撒いているんです。でも、馬刀貝は天然ものです。美味しいんですよね。虚子先生の句にも馬刀堀の句があります。
つぼやきはシャボンのあわをふきにけり
里登美:これは栄螺の壷焼きの一景でしょうか。蓋を上にして醤油をたらし網で焼くと、確かに汁が泡を吹いて、それはそれは香ばしい匂いがして・・・シャボンのような泡と見ていらっしゃるところがとても微笑ましいと思います。
ひろみ:シャボンの泡で、石鹸の味を思い出してしまったので、ちょっと、不味そうな壷焼きだなと思ってしまいました。すみません。
よし女:つぼ焼きの香ばしい美味しそうな匂いがしてくるようです。じゅくじゅく吹く泡を「シャボンの泡」と見た断定が、非凡だと思いました。
敦風:里登美さんの鑑賞のとおりだろうと思います。ただ、単に「泡を吹く」と言わずに、「シャボンの泡を」と言い、「噴く」の漢字を使ったところに惹かれますね。単にぶつぶつ泡が出て来るんじゃなく、シャボンのようにプーッと膨らんだり、ぼごぼごと噴出するような様子を巧みに描写したように思えます。「けり」もいいですね。この句を読んだとき、サザエのつぼ焼きの様子が一気に見えました。活写の句だと思います。
みのる:泡を吹き出したら、もう食べごろに焼きあがっているんでしょうね。匂いまで漂ってきそうな連想が働きます。的確な比喩によって成功した句ですね
さしあげしてにいちまいのおほあはび
ひろみ:素潜りの風景でしょうか。波間から息を整えながら手を高々と上げて、大鮑を見せている。大漁の大喜びの様子と、水のきらめきが見えるようです。海とか、波とか何も言っていないのに、凄く海を感じてしまいます。あれ、それとも、魚市場の風景ですか。でも、やっぱり素潜りです。
よし女:海女さんが浮き上がって来た手に大きな鮑が握られていた。「さしあげし手」と「一枚の大鮑」とで、海女さんの喜び、見ている人の感激、あたりの様子など、いろいろな景が描けて、楽しくなります。
けんいち:ごく普通の言葉、又言葉の並びも普通、にも拘わらず海女さんの喜び、周囲の反応が目に実景の如く浮かび上がります。俳句は技巧でないと如実に教えられます。
敦風:わたしも、まず、海女の様子だろうと思いました。ただ、海女が、少々の戦果でいちいちそんな大仰な喜び方をするだろうかという、ちょっと疑いの気持ちもあります。その点、アマチュアのダイバーなら、ごく自然な動作かなァと。けれども、海女である方が断然絵になりますし、感興もありますので、海女として鑑賞します。「さしあげし手」と「一枚の大鮑」。これだけの言葉で鮮やかに情景を描き尽くした。叙景句としても、人間のたつきへの賛歌としても、平明かつ印象的な絶品の句ですね。やはり、感動することの出来る心がこういう力のある句を詠ませるんでしょうね。
みのる:けんいちさんの記事うれしいです。それを理解してほしいと願って、この合評を続けています。観光地などで海女の実演をショーのように見せているのではないでしょうか。取れた幸は、料理されて客人たちの夕餉になるのでしょう。手に翳した大鮑にズームインされた写生によって、かえっていろいろと周りの情景が連想できるから楽しいですね。俳句はできる限り焦点を絞ることが大切です。
でんたくのはやわざにゆれさくらさう
よし女:電卓を叩く指の速さ。それを早わざとの見立て。そして、その小さな振動に揺れる桜草。なにげない景を実に細やかに観察され、豊かな表現に仕上げられています。今ならさしずめパソコンでしょうか。ずっと前は、タイプライターだったんでしょう。想像が広がります。
とろうち:電卓をタタタタと打っていくのは、調子がいいと本当に楽しいですよね。数字を打ち込んで、+のキーを打つ時とか=のキーを押す時には、少し強めにダンッて感じに打ち込んで、最後にダダンッと合計をだした時の達成感は爽快ですらあります。そんな、電卓を打つたびに揺れるわけですから、この桜草は鉢植えでしょうか。ちいさな鉢植えの可憐な桜草が、事務所の机で揺れている。あまり大きな会社というよりは、ごくごく小さな会社というほうが似合う気もします。「早わざ」という言葉に今あてはめるとしたら、ケータイのメールですかね。桜草は揺れませんが。
ひろみ:町の郵便局の窓口を想像しました。「速達と80円切手3枚・・・・510円!ですっ!」 日常の些細な出来事なのに、早わざと言う言葉で何か特別の情景のような新鮮さを感じます。
敦風:わたしは、正直な気持ち、どういうときでも余り鉢植えを想像したくないんです。田舎育ちなので、草花はみな地面に生えているものとして見て来ましたから。電卓を素早い動作で打つ。ふと見ると庭の桜草が揺れている。あたかも電卓を打つ早業に揺らされたように。・・・ウーン、ちょっと無理でしょうかね、やはり。で、やはり机の上の鉢植え。そして、わたしは、町の小さな店のレジを想像したい。店のおかみさんのレジの素早い指さばき。「ありがとうございます。975円です」。チーン、ガチャ。傍らの桜草が揺れて。人間の営みと、美しい花との関わりを面白く描いた、洒脱な句だろうと思います。
みのる:電卓は、電子式卓上計算機の略ですね。真剣に眺めると面白い日本語だと思いませんか。 さて、電卓を叩いているのは卓上ですから、素直に観賞すれば、鉢植えの桜草であることは明快です。別に桜草でなくてもいいのでは? という気がしないでもないですが、情景には可憐な小さな花が似合いますね。
うみをまへせうべんこぞうチューリップ
とろうち:広い湖に向かって、小便小僧クンはさぞや気持ちのいいことでありましょう。チューリップというのがかわいいですね。よく合っていると思います。ただ個人的には、三句切れのような感じがして、リズム的にこの句はあまり好きではありません。
ひろみ:赤や黄色のチューリップの中に白い小便小僧。コントラストがとても良いですね。狙って出来るものではないと思いますが、スナップ写真のような印象になってしまっているのではと思いました。
敦風:「湖を前」というのは、湖を前にして、という意味なんでしょうが、ちょっと好きになれない言い回しですね。それと、とろうちさんのおっしゃるのと同じように、三段切れと言うんでしょうか、この句のリズム構成は、わたしもやはり好きになれません。でも、情景はよく見えますね。色彩感覚も鮮やか。小便小僧がいいんでしょうね。やはり青畝師の力なんでしょうか。湖を中心に配してさまざまの花の景色が展開する兵庫県のフラワーセンターを、わたしは思い描きますね。小便小僧があったかなかったかは、いまちょっと思い出せませんが。
みのる:三段切れ・・なるほどそうかもしれませんね。大きな湖に向かって水を飛ばしている少年の面白さ。そして、湖といわれると風を連想するので、たくさんのチューリップが、湖の風に大揺れ小揺れしている情景も連想出来ます。のどかな湖畔の一点景ですね。
さへづりをみにふりかぶるめしひかな
ひろみ:先日、白い杖を持った方がコンビニから出てきて、まぶたを閉じたまま空を見上げて、お店の人に「今日は良い天気ですね!」と、笑いながら話をされていました。その時、私は感動したのですが、句にすることが出来ませんでした。感動に匹敵する言葉が見つかりませんでした。 健常者とはいえ、私はどれほど物を見つめ、音を聴き土の感触をありがたく思っているのだろうかと愕然ともしました。先日の全盲の方は、全身で青空を感じていられたのだなあと思いました。 この句の、身にふりかぶる、とても感動いたしました。素晴らしい句をありがとうございました。
とろうち:ひろみさんの仰るとおり「ふりかぶる」が秀逸ですよね。お宮の杜などに行くと、本当にたくさんの鳥たちが、それはそれは賑やかに囀っています。いい句ですね。
敦風:わたしはこの句を読んで、すぐ気になったことが一つあります。ここの「盲」というのは誰のことだろうか。囀りの中に身を置いているどなたか盲人を見て作者は詠んだのか。そうではないようにわたしには思えます。囀りが降りかかって来る。その囀りをかぶっているのは作者自身。そこにあるのは音だけの世界。作者は全身を耳にし、感覚を耳だけにして囀りを聞いている。そういう自分の存在を、「盲」と表現したのではないだろうか。そう見ると、囀りの中に身をひたして、全身で興じている作者の姿が鮮明に見えて来て面白いと思います。俳句は一人称の文芸だと、どこかで読んだ覚えもあります。いつもいつもそうだと云うわけではないんでしょうが、ここでは、それが当てはまるのではないかという気がします。そうであれば、「ふりかぶる」も一層切実な表現のように感じられます。ちょっと考え過ぎかなぁ、とは思いますけれど。
よし女:「見にふりかぶる」の表現の非凡さと同時に、「多くの鳥が鳴いていていいねえ」という、めしいの人に対する愛が感じられます。我が家の近くにも盲導犬と散歩される女性がおられ、「蓮田のそばを歩いたとき、花の開く大きな音がして、いい匂いがしましたよ」と言われ、「その音を聞いてみたい」と話したことがあります。
みのる:随分昔の作品です。いまなさらさしずめ差別用語として議論をかもす句ですね。まえにも書いたと思いますが、ことばそのものに差別があるのではなく、作意の中に差別の気持ちがあるか否かが問題だと思うのです。よし女解のように、ぼくも青畝師のこの作品には、むしろ優しい思いやりを感じます。一人称かどうかは、微妙でなんともいえませんね。
たくざうのぜんしんはるのひかりあり
敦風:春の光の中に立つ十字架にかけられたイエスの像。そういう句なんだと思います。青畝師の信仰心が強く表現されているのでしょう。キリスト教の根本は、イエスの復活を信ずること、すなわち救世主信仰ですから、春の光は復活ということと照応する季語であろうと思います。「全身春の光」が力強く美しい措辞であろうと思います。まことに神々しい句。さすがにわたしも襟を正して鑑賞します。
ひろみ:春の光あり。春の日が像に差しているのではなく、自ずから発光しているかのような 印象を受けました。現実には、春の日差しを受けて、光って見えたのでしょうが、光あり、とすることによって、キリストの自愛の光を垣間見たような、とても神々しい句だと思います。心が日常の些細なことにささくれ立っている時に、このような句を拝見しますと、身体が温かくなってまいります。
とろうち:教会の高い窓から差し込む光に照らされた、白いキリストの像を思い浮かべました。差し込む光は天上よりの光。暖かい春の光。慈愛に満ちた神々しい光でもありましょう。思わずそこにひざまずくような光景だと思います。
こう:十字架に架けられたイエスの全身から、光が溢れている。あたかも、時は春。すべての人を照らすまことの光があって、世にきた(ヨハネ1:9)青畝師は、磔像に春の光が当たっている実景を詠われつつ、まことの光を強く印象されたのだと思います。
みのる:この句の観賞で注意してほしいのは、「春光」という季語です。春光は、春の日とは少し違う意味で、どちらかというと、「風光る」に近い季語です。したがってこの季語があるときは、 室内ではなく、屋外の情景だということです。ですから、私達が句を詠むときでも、春光と春日とを混同してはいけません。イエスは十字架につけられ、三日目に蘇られました。キリスト教会では、これを記念して、イースター(復活祭)を祝います。復活のキリストを賛美する作者の気持ちが感じられますね。
シャガールのそらをさがせるはるのてふ
敦風:「シャガールの空」というのは、シャガールの「空飛ぶアトラージュ」(福岡市美術館)の「空」のことではないかと思います。大戦後、絶望の淵から再起を期して描いた一作だそうです。 一組の母子を乗せて小さな村の上空を翔けるそり(アトラージュ)に、シャガールは、戦火に苦しんだ故郷の人々や亡き妻への鎮魂の意と再び訪れた平和への希望を込め、自らの再出発の記念としたのだと言われているようです。春の空の蝶は、新生の季節を迎えた作者の心そのものでありましょう。その飛ぶ様子は、あたかもシャガールの描こうとした希望と新生の空を探しているように見える。「空を探せる」の表現に、期待を込めて新たな時間に踏み込もうとする作者の気持ちが伝わって来るようです。上記のわたしの鑑賞は、例のごとく考え過ぎ、決め打ちに過ぎるかも知れませんね。ここで思うことは、わたしはたまたま上記の絵のことを知っていたので、上記のような鑑賞をします。違う絵のことを考えたら、もう少し違う鑑賞になるのかも知れません。あるいは、シャガールの色遣いから、「シャガールの空」と言ったらその特徴ある色調の空を指す、既に多くの人の合意のある言い方なのかも知れません。けれども、シャガールの絵をご存知ない方にはなんのことか分からない句ということになってしまうでしょう。
ひろみ:シャガールというと、青を想像します。シャガールの青は、実物の青よりも、青らしい青だと思います。ほとんどの絵は、印象的に青が使われていて、その青の存在は平和であったり、信仰であったりすると、聞いたことがあります。あてどない飛び方をしている蝶を見て、もっともっと青い空を求めているかのように作者は思い、このような句ができたのではないでしょうか。
とろうち:シャガールの絵は知っていますが、具体的にちょっと思い出せません。何か空を飛んでいるような絵があったと思うんですが。春の蝶というと、夏のアゲハチョウのように大きくもなく、秋の蝶のように空高く舞い上がっていくわけでもなく、ひらひらと花から花へ飛んでいる姿を想像します。それとシャガールの空とどう結びつくのかな、という気はします。私にはちょっと鑑賞しきれないですね。
よし女:昔、シャガール展で求めたリトグラフは、記憶の端になるのですが、タイトルが「恋人達」だったような気がします。それを手繰ると、暖かい赤が浮かび、二人の男女が手をつなぎ、空中に並んで浮いている構図だったような。そうなると春の蝶がぴたっと決まるようです。蝶がそのシャガールの空を探しているように思う感覚は、青畝師独特のものだと思います。幻想的で美しい句だと思います。
みのる:敦風解のとおり、確かにシャガールの「空飛ぶアトラージュ」の絵を連想しますね。また、ひろみ解のとおり、シャガールの青の使い方には個性が強く感じられます。そのほかにも、恋人たちが空中で接吻しているようなものもありますし、結局、シャガールの、絵は、空とか空中、宇宙などをモチーフにしたのが多いということではないでしょうか。青畝師の詠まれた、「シャガールの空」というのは、そのような幻想的な夢の世界を指しているのではないかとぼくは思います。なぜかというと、季語が春の蝶だからです。例によって、季語が動かないかどうかをチェックするために、春の蝶のところを、夏の蝶、秋の蝶、冬の蝶と置き換えてみましょう。 どうですか。春の蝶は生まれたばかり。夏の蝶のような、力強い飛び方ではなく、また秋蝶のように風に乗って飛ぶという感じでもありません。幼子がはしゃぐように、何となくあっちこっちと飛び回ります。そして、私たちはその様子に長閑さを感じます。これが「春の蝶」のもつ雰囲気です。青畝師も、そんな様子をごらんになって、あたかもシャガールの世界を捜し求めて飛んでいるのかな? というふうに感じられたのではないかと思います。先生は、自らも写生やスケッチをよくされます。素敵な画集も発刊されました。そうした絵心、絵画に対する興味が、このような大胆な感動を生まれさせたのですね。知識や常識に縛られた俳句では、どうしても類句が生まれます。雑念を離れ、心をあそばせて、決して他人には詠めない、個性的な感性の句を目指したいですね。
しゃぼんだまたはらにふくれあがらざる
よし女:しゃぼん玉を吹いていつも丸くなるとは限りませんよね。いろんな形になり、吹き込む息の力の違いで大きさも変ります。このしゃぼん玉は俵型にふくれて、じきに消えてしまったのでしょう。吹く時の勢いが良すぎたのでしょうか。
ひろみ:ビヨーンと膨らんでいくシャボン玉がすぐに浮かびました。俵にふくれ、が面白く、また揚がらなかったというところも、面白いと思いました。すぐに割れてしまったのですね。しゃぼん玉には軽やかで、儚いイメージがありますが、俵としたことで、大きくて、ドヨーンとしたシャボンの重量感を、感じることができるのではないかと思いました。
一尾:ふくれが面白いです。シャボン玉が膨れる、俵につかえ揚がらないどころか留まっているうちに割れてしまった。遊ぶ人は面白くもない膨れっ面。俵に文句を言ったところでしようもないのに。
とろうち:さてさて、この句も悩んだんですよ。「俵にふくれ」とはどういうことか? シャボン玉が俵型になった、というのは想像できなかったので、やはり俵にくっついてしまって空に揚がることなく消えてしまった、ということでしょうか。でも、それだと「俵にふくれ」という言い方が不自然に感じますし・・・。いつもいつも悩んでばかり。
千稔:この句は、みのるさんが入門俳句レッスンの中で、懇切丁寧に解説されておられますように 「俳句は幼子にも分かるように、瞬間の驚きと感動を平明な言葉で写生するもの」にピッタリの一句だと思います。幼き頃、誰でも一度はシャボン玉遊びを体験し、友達と大きなシャボン玉作りを競い合った記憶が残っていると思います。先生の句は、まさにこの記憶を瞬時に呼び覚まし、シャボン玉を大きく俵型に膨らまし、ハラハラ、ドキドキ、なかなか成功しない大きなシャボン玉作りを競い合っている情景が眼前に浮かびます。
みのる:ストローの先にシャボン液をつけて程よく息を送ると、きれいなしゃぼん玉が飛び出します。ところが、液が多めについたりすると、うまくストローも先から離れず、二個三個の玉が引っ付いて、俵の形のようになります。実際にシャボン玉の経験があるとすぐわかると思うのですが・・子供たちの様子を写生されたのか、ご自分で遊ばれた体験を詠まれたのか、判別しにくいですね。敦風さんが、おっしゃったように、「俳句は一人称の文学」という意味では、青畝先生自身の様子と観察したほうがこっけいに感じます。この句を鑑賞していて、聖書の言葉を思い出しました。それは、イエス様の言われた、『心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。』(マタイの福音書18:3)という個所です。90歳を超えてなお、融通無碍の世界に心を遊ばされた青畝師ですが、私たちもまた、知識や常識、羞恥心や自尊心などなど、世俗的なこととは無縁になって、幼子のようなこころで自然に対峙しないと、ほんものの俳句の世界は見えてこないのかもしれませんね。
とろうち:俵というのは俵が積み重なった形を想像すれば良かったんですね。私は俵そのものの形を想像したので、全然分かりませんでした。なるほど。頭は柔軟に働かさなければ。
しゅんみんのゆびをはさみぬきょしはいわ
けんいち:小生にもよくあります。本は「虚子俳話」ではありませんが。本を読んでいるうちに、眠くなり、気がつけば、読みかけのページに指を挟んでいたという状態です。難解な本をベッドにもちこみ読めば早く眠れるといいますが、勿論この句はそのような状況ではありません。おそらく先生は「虚子俳話」を座右の書とされ、暗誦出来る程よみこまれておられると想像します。春「虚子俳話」を手に、おすきな所をよまれているうち、つい眠られた。春眠のまどろみの中に師のお姿も夢みられたのではないか。師を敬愛されるお気持ちがこの句を通して、ほのぼのと伝わってきます。
遅足:春眠暁を覚えず。ついつい心地よい眠りのなかに入り込むこの頃です。私も本を読んでいて、いつの間にか眠ってしまうことが、よくあります。その本が師匠の本であったという意なんでしょうね。「こら、私の本を読んで眠るとはなにごとか」と、師匠が叱る。そんな声が聞こえてきそうです。私は戦後民主主義の申し子のような世代で、師匠という言葉にはなんとなく拒否感があります。先生なら100%尊敬というような師はありえませんから。でも、句のなかの師弟関係はいいですね。
よし女:「虚子俳話」を読んでいて眠くなり、読みかけのところに指をはさんでおられたのでしょう。なんでもないようで、少し首を傾げて読み取りました。こんな状態のことでも句材になるのだと、大いに刺激されます。
とろうち:「虚子俳話」を読んでいるうちに、いつのまにかとろとろとしてしまって、気がついたら読みかけのページに指を挟んでいた。よくあることですよね。春はぽかぽかといつのまにか眠気を誘いますし、虚子の言葉に思いを当時に馳せていたのかも。「春眠」という言葉がよく効いていると思います。
ひろみ:俳句を作り始めてからというもの、寝るときに、だいたい歳時記か、好きな句集を見ながら寝てしまいます。好きな句や季語の中のイメージが膨らんでくるもののところで、その中に入り込んで楽しむというひと時が、とても心地よく<上手くすると、夢の中にその情景が入り混じっていることもあります。大好きな本を読みながら眠りに落ちた、至福のひと時。
みのる:いつまでも、虚子先生の教えを忘れず、自己チェックしておられる先生のお姿が見えてきます。春眠なので滑稽な雰囲気もありますね。夢の中では、虚子先生との懐かしい思い出がめぐっていることでしょう。作者がわからずに鑑賞するのと、青畝師の句だと思って鑑賞するのとでは、深みが変わってきますね。俳句は、そうした一面も持ちあわせていますが、わたしたちの詠む作品では、それを望むのは無理なので、ちょっと悔しいですね。
トルソーにしゅんしうなくもなかりけり
よし女:この句は三月だったかの朝日新聞の「折々のうた」に掲載され、大岡信さんが解説しておられたと記憶しています。その記事を切り抜いていたのに、雲隠れしてしまいました。で、すべて零からの鑑賞です。トルソーは胴体だけの塑像とあり、私は洋服を着せる顔なしマネキンのイメージになります。春着を着ているのでしょうか。それが、未完成の人間のようでもあり、ロボットのようにも見えるのでしょうか。憂鬱でもないけれど、春愁がなくもない。なんとなく愁いを感じておられる青畝師のお気持ちは、計り知れず難しい句です。
とろうち:この句で初めて「トルソー」という言葉を知りました。語彙が豊富でないとだめですね。ふつう愁いというものは、顔の表情とかで感じるものですよね。ところがトルソーには顔はおろか、腕も脚もありません。さて、胴体だけの塑像のどこに愁いを感じたのでしょうか。私は、このトルソーは何も着ていないものを想像しました。顔も何もなく、ただそこにある。愁いなんてものを秘めているなんてまるで思えないようなもの。でも、何も持たないがゆえに、なにやらそこに愁いというか、そこはかとない哀しみが漂っているような、そんな気にもさせられる。本来あるものがそこにない時、人は無意識にそこにあるべきものを想像するものらしいです。「なくもなかりけり」という言葉は、そんなあやふやな、実体のないものをよく表していると思います。「春愁」という季語も、あやふやな感じがしますよね。あーあ、書いててこっちもよく分からなくなってきてしまった。
初凪:私は姉が洋裁を仕事にしていますので、このトルソーとやらを見る機会がたびたびあります。「ボディ」と呼んでいましたが、初めて正式な名前を知りました。で、このトルソーで一句詠みたいとかねがね思っておりましたが、春愁の季語で作るなどということは全く思ってもみませんでした。青畝先生は果たして何もつけていなトルソーを見て愁いを感じたのか、それとも華やかな色の春の服を着ていることに愁いを感じたのか、興味のある所です。なくもなかりけり、というあやふやな言い方が面白いです。言い切っていないことに何やら作者の子供の様な率直さを見るような気がします。とろうちちさんの鑑賞には思わず笑ってしまいました。よくわかります。
ひろみ:なくもなかりけり、はどのように訳せば良いのでしょうか。なくもない、でしょうか。トルソーに春愁はなくもない。・・・? っていうことは、少しはある、って言うことなんでしょうか。人の形をしてはいるが、人の様に思いをめぐらすことはないトルソーだがもしかしたら、ちょっとは憂う気持ちがあるのだ、でしょうか。煙に巻くような言い回しの後の「けり」の切れ字の使い方はどのように見ればよいのでしょう。
けんいち:美術教室のデッサン練習用の顔、手、腕の無い胴体だけの塑像と解釈しました。感情移入せずに単にデッサン技術訓練の為の教材であるが、これが人体としてそろっておれば、一つの美術品として鑑賞することもある。そう考えればなにがしかの哀れさを感じなくもない。それを「春愁なくもなかりけり」と詠んだ。と解釈しましたが、非常に難しい句です。
きみこ:粘土や石膏で作った胴体だけの像、に春愁を感じたと言うのでしょうか。「なくもなかりけり」で師の感じた心をお読みになったのでしょう。何でもない所からでも、俳句が生まれてくる。さすが。
みのる:なくもなかりけり・・古文法の世界なので、敦風さんの出番なのですが・・「ないということもない」つまり「ある」という意味ですが、「あるはずがないのに、なんとなくあるように感じた」という、なんとも不可思議な感覚を覚えられたのです。よし女解のとおり、じっとトルソーを見ていると、作者自身がなんとなく春愁を覚えたのでしょう。トルソーと作者との間に心か通っているということですね。そうなるまで、じっと対象物と向き合うことの大切さを学びましょう。
これこそはへいいはぼうのねぎばうず
千稔:最近では、めったに見かけないが昔の修行僧に出会って「人生の悟りを開かれた思いがする」という心境だと思います。「弊衣破帽の葱坊主」という表現は葱が種をつけて枯れ朽ちるまでの一生を観察して理解しておかないと、出て来ない表現では。改めて、万物への凝視の凄さを感じます。
けんいち:私はユーモア溢れる洒脱な句として鑑賞しました。昔の旧制高校生のバンカラ(ハイカラの逆で蛮カラ)の代表的姿が破れ服に破れ帽子すなわち弊衣破帽です。葱坊主にその姿を見た。なかなか我々には気がつかない所を、表現された。非常に面白い句として鑑賞しました。
ひろみ:幣衣破帽はバンカラな学生のことを想像すれば良いのでしょうか。父が学生の頃、学帽をわざと破いたり、汚い日本手ぬぐいを腰に提げたりしたと、話していたことを思い出しました。 破れた帽子から飛び出た毛が、葱坊主の花のように見え、汚い学生服、または汚れた手ぬぐいが、茶色く枯れた葱の葉と見立てこれこそは、と、なったのではないでしょうか。春の風に吹かれる葱坊主が、バンカラな学生のどこ吹く風という風貌と相まっていたのではないでしょうか。擬人化が、ぴたっと決まっていて、面白いと思いました。
千稔:私も勇気を出して、今日から合評今日の一句にトライしましたが、考えすぎたようです。蛮カラよりも坊主の方にとらわれたりして。何度も詠み直すと、ひろみさんのコメントがピッタンコのように感じます。
こう:けんいちさん評に同感です。これこそは・・が面白いですね。バンカラ、ヤンチャの感じがぴったり。
まこと:旧制高校のバンカラ、その伝統は戦後の高校にも残り、田舎で高校時代を送った私どもの時代にも残っていました。頭は坊主がりなのです。こういうのも俳句になるのですねえ。ハイネ、ショウペンハウエル、ダンテなどと、口に泡を飛ばして論議する若者を葱坊主とされたところは、葱の青臭さも入って、うれしくなりました。
みのる:この句のユニークさは、幣衣破帽の措辞につきますね。参りました・・というのは、このような句のことでしょうか。
どせきりうまぬがれもゆるつつじかな
とろうち:土石流のあとは無惨ですよね。台風とかの映像でよく見ますが。一面の泥、泥、泥。でもその中に燃えるように咲いているツツジ。色のない世界の中の燃え立つ赤。色の対比が見事です。
千稔:躑躅の咲く時期に、かなりの雨が降り続き、土石流発生のニュース。たまたま、発生現場を見ると土石流を被ることなく、見事に燃えるような色で咲いている躑躅に対して、偶然の出来事でなく、何か神秘的な力さえ感じた。と鑑賞しました。本当に平明な言葉での表現力には感服しますね。躑躅は、濡れ色になるといっそう補色対比が増すようにも感じます。
ひろみ:赤い花を燃えるとした比喩は、安易ではないかと考えていました。でも、情景が土石流の残骸の中ということで、この燃ゆるはただ単に赤いことが言いたいのではなく、生命力漲る躑躅を表したかったのだと思いました。
敦風:土石流は、いわゆる災害という規模でなくとも、ちょっと山間に入ると見ることがあります。斜面の緑や木などを覆っている土くれや石など。いま自分の通っているこの道を作るために山を削ったことによって起こっている現象なんだろうと思いつつ、車を走らせます。そういうところには、この季節ですと、この句のようにつつじが咲いていることもまた多いですね。この句は、TVで報道されるような、おそらく災害という規模の土石流の跡を詠んだものと思います。心胆を寒からしめる自然の猛威と、ほっと気持ちの安らぐつつじの花との取り合わせの絶妙さの句でしょうね。色彩的にも、泥の色と、つつじの花の赤と、そして多分白とピンク、その葉の緑、そういう鮮やかな景ですね。社会思想的な解釈もできないではありませんが、私もそこまでは深読みはしません。「燃える」についての論評は、私もひろみさんに同感です。生命の力を詠った措辞として適切な印象的な表現のように思えます。
みのる:躑躅は種類も多く一概に言えませんが、特に霧島躑躅は、「燃える」の措辞がぴったりの品種です。みなさんが鑑賞しておられるように、大自然の摂理、生命の尊厳、というものを感じます。
ゆくはるやあふみいざよふうみのくも
遅足:芭蕉の句が本歌ならぬ本句? にあるのでしょう。春という季節の持つ、ただならぬ気配を裏に秘めていると読みました。すべてのものが流転変化していく。しかし秋のそれとは違って、春は妖しい気配を持っています。そんな風情を湖の国、近江はもっているのではないでしょうか?いや芭蕉が発見したのかも。雲も人も万物がいざよふ。終着点は人は死、雲は消滅。そして再生。万物の流転を映し出す水の国の春。そんな永遠なるものを感じさせる句かな?
ひろみ:近江の歴史を語るには、てんこ盛りの場所ですね。やはり、この歴史を踏まえて読まなければいけない句だと思いますが、ひやーぁ、歴史のお勉強、もう一度してまいりまーす。私も、行く春や湖北の・・・・なんていう句が作りたーい!
とろうち:今、ちらっと歳時記を見ましたが「近江」と暮春の句って多いんですね。みんな芭蕉の句に触発されての句なのかしら。さて、この句ですが、琵琶湖の上に雲がかかっている。ゆっくりとゆっくりと流れていく雲に行く春を感じた。昔、芭蕉もこんな風景を見たのだろうか。という具合に鑑賞しました。もっと深い意味もあるのでしょうか。
敦風:ずっと以前、琵琶湖一周のドライブをしたことがあります。神戸からずっと高速道路。京都を過ぎ、大津あたりから高速を外れて北上し、湖を時計回りです。帰りに茨木の親戚に寄ったりしましたが、一日では駆け足の旅でした。途中の多くの時間、右手に湖の広がる景色を見ながらの運転は、なかなかのものでした。当時は、芭蕉の「行く春を近江の人と惜しみけり」の句のことも念頭にはありませんでしたし、この青畝師の「行く春や近江いざよふ湖の雲」の句や、とろうちさんのおっしゃる「近江」と暮春を詠んだ諸々の句のことなどは知りもしませんでした。まことにもったいない話です。芭蕉は、「行く春を」の句の「近江」は他の国名や地名でも良いのではないか、と問うた門人に、いや、これは「近江」でなくてはならないと答えたとか。近江の古い歴史を彩った人々に思いを馳せるなどの必然性があるものと思います。この青畝師の句は、皆さんおっしゃっているように、上記の芭蕉の句が念頭にあるいわゆる本歌取りの句でしょうね。
芭蕉の句を踏まえた上で、青畝師は、「行く春や」と言い、「近江いざよふ湖の雲」と詠んだ。これをすこし理屈っぽく読むと、「近江をいざようふ雲」または「近江にいざよふ雲」でしょう。そしてその「雲」が「湖の雲」だというのは、これは狭くは「湖の上にかかった雲」なのでありましょう。あるいは「湖に映った雲」ということかも知れない。などと理屈っぽいことを書きましたが、そういうことはさて措いて、鑑賞する人間にとっては、湖の上を覆う雲、そしてこれを映す湖、そして湖に映る雲。これら全部を渾然と言い表したもののように感じます。これは、「近江(ちかつあふみ)」の漢字「近江」は、「遠江(とほつあふみ)」と照応した文字だけれども、「おうみ(あふみ、あはうみ)」の読みはもともとは「淡海」、すなわち琵琶湖そのものを指す古い言葉だということから来る感じかもしれません。いざよう雲、その下に広がる淡海(おうみ)、その淡海の波、そしてそこに映る雲。木も草も万物もこれからさかんになる、その夏の少し前のゆったりとした自然の動きの中にあって、近江の歴史の中に生きた人々に思いを馳せながら、終わりつつある春を惜しんでいる詠み手の心。そういう句であろうかと思います。現在、自分が琵琶湖のほとりにあって句を詠んだらどう詠むだろうか、どう詠めるだろうか。そう思ってこの句を読むと、これはもう尋常ならざる練達の言葉の使い方だと感じられますね。
みのる:近江、湖とくれば、琵琶湖のことであることは明らかですね。敦風解のとおり、少し俳句に親しんだひとなら、必ず芭蕉の句を連想します。「いざよふ」は、進もうとして進まない・・という情景なので、大きな琵琶湖の空に逡巡としている雲の様子を想像できて風情がありますね。 行く春を惜しみながら、芭蕉をはじめ、多くの先人たちへの思いも創造できます。歴史的背景を上手に利用した句です。安易といえばそれまでですが、俳句に地名を読み込むケースの例として取り上げてみました。地名などの固有名詞を使うときは、歴史的に有名であること、あるいは全国的に知名度の高いこと、などが重要で、且つ、その歴史的、地域的な特徴を捉えていることが重要です。ただし、俳句は存問、また座の文学ともいわれ、挨拶句としてご当地の固有名詞を入れるなどという手法もあります。
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