俳句入門の心構えについて説かれたもの

初学講座の第一時間

芭蕉に、古人の真似をしないが、古人が誰も同じように捜しもとめていたある真実なものを自分は一生けんめいに求めなくちゃいけない、と言った意味のことばがあります。

また、虚子先生も、古壷新酒のたとえによって、詩の形式は古いのであるが、中味となる詩は新しいものでなければならない、とおっしゃっておられます。

初学の俳句作家は、まず俳句という概念にうろついておられます。俳句とはどんなものかを知ろうとして、昔の句を聞いたり読んだりして覚えられます。

何よりも俳句という形式を身につけておきたいためにやむを得ぬことだけれど、古人の真似をされるのが順序らしいのです。

ある真実なものというのは、自分のたましいにぎくっとこたえるものなのです。

これは自分のものなのです。そして他人にも充分にこたえるものです。

自分のたましいにこたえて他人にこたえないというのは、根づよい真実にはなりません。 そういう自分のものであるがゆえに、自分のこころが活動していなければなりません。

つまり自分の努力、自分の創作力に俟つことになります。

初学作家は、俳句という概念を受けて、その概念を脱却する場合、最も勇敢な行動をとられ、そして自分の努力、それに倚って開拓されればよいのです。

概念的な世界に恋々としている人は、古人の真似を繰り返しているのにすぎず、決して伸びる人ではないのであります。

真実を求めることは真に難行であります。

なぜならば、自分のこころが動いて、他人のこころをも動かさねばならないからです。

自分のこころが動くだけですむ独善的なものでないからです。

しかし、何ごとでもやってみなければわからぬことで、独善的か否かを試験すれば、それに対して答えてくれます。

それゆえ初学作家には、よき師よき友というのが大切だと思います。すぐれたパイロットは正しい進路を命令してくれます。

よき師、よき友を選びそこねたら、だめです。却って悪所へ通い、自分のたましいをすり減らしましょう。写生は一番よき師よき友であります。言葉で答えないが、真実を示して教える師友なのです。

時世は刻々にうつってゆき、人間の感情は新しく変わってゆきます。

そして変わってゆく現実を底流する真実というものは、誰のたましいにもひびくものであります。

殊更に古人を真似ずとも、古人のこころと共通する一貫した強靭な紐帯のような精神があります。

わかる俳句を

俳句は三尺の童子にみせても大意がわかるような表現を用いたほうがよいと思う。

俳句の内部に潜んだ思想とか象徴とかいった奥行の深さについては、とうてい三尺の童子では理解できるはずはないが、表面に現れた事柄は、誰が見ても日本語が分かるように同じようにわかるものにしたいものである。

徒らに奇をてらってみたり、日本語としてちょっと疑われそうなちぐはぐした措辞を得意としてみたりして、俳句を俗人には判らぬようにして、仲間の少数人にとっては非常に斬新極まるスタイルと構想であるかのように装う俳句というものがあるけれども、私はそうした難解な俳句に一向頭を下げようとは思わない。

その代りに意味が誰にも判り、誰にも作れそうに感じられるくらい親しさをこめた俳句のうちで、よく味わえば味わうほど句のひろがりが無限につづくように思われ、その対象が自分の前にありありと立っており、それこそこの大宇宙の生命がこもっていると言わねばならぬ奥の深さをそれとなく汲みとられる俳句があると、私は逆上して嬉しくなるのである。

そして私らの俳句修行は、どんなにむつかしい思想でも素材でも構成でも、ほんとうに自家薬籠のものとなるまで自分の身の内で燃焼させてしまって、どんな鋳型へでもつぎこんだらその通りの形のものを造ることのできるような具合に、三尺童子を相手にしてうなづかせてみせる平易さのところまで表現の工夫をくりかえす。俳句修行はすなわちかくの如くあるべしものと考えている。

大言壮語は素人をおどかすのに都合がよい。しかし真に人の生命をゆりうごかすものではない。

私らは人の生命をゆりうごかそうと念願する。それには表現という問題が一番大事になってきて、いいかげんなことで大言壮語を放ち、瞞着してはいけないのであって、ほんとうによくこなれた言葉が生まれるまで、自分を責める、自分の工夫をあくまでもやりとおす覚悟である。

これは実に地味な仕事で、しんぼうの要することと思う。

けれども俳句においても流行がある。流行をはばむことがあってはならない。

うまく流行を善導する用意を怠けてはならないと考えるのである。杓子定規を持っていてはならぬという一語を付け加えたいのである

自然への愛情

いかにも漫然としたことをいうが、しかたないことと思っていただきたい。

われわれが俳句をつくって楽しむのは、自然に愛情を寄せないではいられないからであると思う。

われわれは自然に対していつも感謝しながら生命をつないでいる。それゆえに自然を愛するのである。

自然を愛するという気持ちは、自然に即するという覚悟でなくてはならない。

「松のことは松に習へ、竹のことは竹に習へ」という芭蕉のことばのように、自然のふところへわれわれ自体が融けこんで一如といわれる境地をつくらねば嘘であると思う。

われわれが自然を愛するというのは、自分の感情を自然に移入することではない。

自分の持っているものを相手に受け入れさせるという行きかたは、つまり自然と人間との双方対立であって、これは西洋式の哲学系に属する。

しからば東洋人として生まれたわれわれの考え方はどういうぐあいになるのか、ということを厄介だけれど考えてみようと思う。

われわれが自然に対する態度は、自然と人間との二元的にならないようにして、自然一元の覚悟をもって、われを捨てる。

それは自然を愛することによってわれを生かすということであり、そうなってはじめて自然はわれわれにほんとうの喜びを感じさせてくれるのである。

自然に即すところにわれわれの生活があり、われわれの俳句の喜びがある。また逆に言うこともできる。

われわれの生活に即し、われわれの俳句の喜びに即すところが自然にあって、そこに融けあった一如の境地を生むわけである。

一如の境地とは、もののあるがままの世界を楽しむことで、そうゆう境地に到ったときには、ちょうど別天地がぽかとひらかれたような気がして、自然の秘密をつかみ得たと悟るものである。

近ごろは西洋思想に影響されて、日本の最も誇るべき文化さえも陳腐と考えるようになり、何もかもいっさいを西洋式にぬりつぶして新しく見せかけねば承知できないありさまで、大いに混乱を来たしているように思う。

変なたとえになるが、鴉は鴉の本性、鵜は鵜の本性を発揮してこそおのおのの存在価値があるというもので、鵜が鴉の真似をしては破滅に陥る。

鴉が鵜になるということも、多年の修練、知恵、淘汰を積みかさねた上でなら実現するかもしれないが、一朝一夕に成功するとおもえば大怪我の因である。

われわれのわがままな考えを主として自然を愛すると、どうしても人間と自然とが対立の関係になり、そのまま進んでゆけば自己の主張を押しとおして自然を屈服させるようにもなる。

人間の知識力が自然を征服して現代の文化を招来したと得意に酔っているその人間が、自己の知識力に却って脅迫される不安を自分の手で招いているといってよろしい結果をたどっている。

現代の不安な社会状態に直面しているわれわれ日本人は、日本人らしく自然を愛するという情熱をもやしつづけなければならないにもかかわらず、むしろ幻惑されてしまって一時的享楽を追い、自然より遠ざかろうと努力しているかにみえる。

それでは自然とは何をさすのか。山川草木だけではない。われわれの周囲そのままが自然と見るのである。

かようにありのままの世界を愛すると気分はひろびろする。

芭蕉が「風雅におけるもの造化に随ひて四時を友とす。見るところ花にあらずといふ事なし。思ふところ月にあらずといふ事なし。かたち花にあらざる時は夷狄にひとし、心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄をでて鳥獣を離れて、造化に随ひ造化に帰れ」といっているのは、造化すなわち自然に帰る覚悟を持てと唱えているのである。

花鳥諷詠の精神は、この芭蕉の風雅に従って自然を愛する、すなわち一元的に自然に没入するという真剣な愛情をもって自然を愛することであると私は解釈する。花鳥諷詠を誤解している人が多いためあえてペンをとった。

個性と写生

私は時折に個性のにじみでている句がほしいという。

しかしそれは芸術の高さを高めるためにいうことであって、俳句を作りはじめて日の浅い人に対しては誤解を招くことになろうと思うので、個性について少し説明してみよう。

個性を目的として私らは俳句を作っているのではない。

個性を目的として作ろうといかに努力してみても、たやすく自分の個性が光りでてくるものではない。

私らはただ良い俳句を作ることを願いとするのである。

目的はそれである。良い俳句である。立派な芸術作品といわれる俳句を作らんがために一生けんめいになればよいのである。それは自然に没頭することだと私は考える。

ある人の説を借れば、個性は汗のようなものである。汗を出そうと思っても出てくるものではない。

けれども激しく運動すれば、汗を出すまいと思っても勝手に流れ出てくる。

汗が運動の目的でもなければ汗を出すことを目的ともしないのに、しぜんに出てくるのである。

ちょうどそれと同様に、個性は俳句を作るのに一生けんめいになればおのずからにじみ出てくるのであって、個性を出そう出そうと思っても直接にあらわれてくるものではない。

個性を忘れていても、それは俳句をはげんでいるうちにおのずからあらわれてくるのである。

個性の強さはどうしてあらわれるか。それはただ自然に没頭する強さである。

芭蕉が「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と教えたように、対象と一体に成りきろうとする努力や覚悟の程度が、個性の強さを示してくれるであろう。

松の事は松に習い、また竹の事は竹に習うとは自然によく学ぶということである。

かりそめにも自然を軽侮する態度があってはならない。いわゆる捨身没頭の意気ごみをもって自然に肉迫してゆく、これを写生の道と私は呼びたい。

写生という意味は今日区々に解釈されて、初心の人も古参の人も迷わされていることは事実である。

自然の形相が俳句化された後の自然の形相と相似の場合は問題がない。写真が写生になるような場合である。

題材となった自然と、俳句化された後の自然とが別種のものであるかに見える場合に問題となるのである。

このように別種のものに見えるような場合も写生といえるかどうか。

写真で見たその人よりも、漫画のように省筆して描かれたその人のほうが、格段とその人の真が伝わって感じられるという場合が多い。これは道理に合わぬようで、むしろ真に迫るからふしぎである。

このようなことは俳句にも行なわれていて、こうした俳句に現われる変容は、作者の直感が最もよく正直に写しこなした描写である。

例えば、作者は屋根の瓦の一枚一枚をとうてい意識に捉えることはできないがために、全体の形の中に不完全のままで見、その中から意味を直感的に把握して屋根の形の面白いところを印象させてくれる。

つまりこの作者は不必要な夾雑物をふりおとして純粋のものばかりを簡潔に感得しようとしているのである。

それがゆえに行なわれた変容であるから、もちろん作品として意味を持っている。

対象の生命をつかみとって描写していることが、対象そのままの形相と比較して歪があろうとも欠けておろうとも、私は写生に外ならないのだと考えたい。

写生とはこのように大切な芸術活動である。

片々たる単なる撮影家や報道班のような仕事と同等視されて甘んじてはならないと思うのである。

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