みのるの作句理念をまとめたものです。
みのるの作句理念をまとめたものです。
もっとも簡単でかつ大切なのは、
何度も読み返して推敲する
ということです。
芭蕉は "舌頭に千転せよ" と教えました。
誤字脱字のチェックや、独りよがりの句になっていないかどうかを確認するのです。
何度もチェックすることを「推敲する」といいます。作りっぱなしというのでは本当の実力は身につきません。
一篇の詩が癒やしを与え明日の力に変えてくれる。そうした句作りを心がけましょう。
心を無にして自然と対話していると、自然のほうからこちらへ語りかけてきます。その感動を十七文字に写すのが俳句なのです。
句会のあとのお茶席で句談義に花が咲いた。
今日の句会で先生が選ばれたうちの一句は無季の句ではないのか…
その句には季語らしいことばがなかったというのである。そのとき先生は、
季語の有無ではなく、季節感を宿しているかどうかが一義である。
と教えてくださり、目から鱗の落ちる思いがしたことを今も忘れません。
知識がないから、経験が未熟だからいい俳句が作れない…
それは違います。
子供の頃の純粋な好奇心や感動する心が退化してしまっているからなのです。
祈り心をもって謙虚に自然と対峙し、自然のほうから語りかけてくるまで30分でも一時間でもじっと忍耐します。必ず心が動いて句が授かります。
俳句は自分で作るものではなく自然から授かるものなのです。
ある程度学びを積んだ人なら、その作品が事実に基づいた写生か虚構であるかは簡単に見抜くことが出来ます。
ありもしない情景を言葉巧みに構成し、その響きに自己陶酔する世界もあるでしょう。
でも時が経てその句を読み返したとき、はたして感動が蘇るでしょうか。もともと命の無いものが蘇ることは決してありません。
虚構ではなく事実の感動を詠む
初学のうちに必要以上に俳誌や俳論を読むことは上達のさまたげです。
無垢な状態でひたすら句を詠むこと。結局これが一番上達の近道なのです。必要な知識は折に触れて自然に覚えていきます。
具体的な例をお話しましょう。
ゴルフの上達本を山ほど読んだAさんと、本は読まず教えられるままに黙々と練習場でボールを打ったBさんとが一緒に初めてのコースにでました。
Aさんは本で得た知識を頼みに自信たっぷりにコースに出ましたが、ああでもないこうでもないと悩んでゴルフになりませんでした。
一方練習を積んだBさんは、山あり谷ありのコースでは平坦な練習場のようにはうまくボールを打つことはできませんでしたが、そこそこのスコアーでまとめることが出来たそうです。
その後、Aさんも実践練習の必要性が身にしみたので懸命に練習に励みましたが、知識が邪魔をしてさらに悩み思うように上達しませんでした。
やがて後輩たちにも次々追い越されて惨めになり、結局挫折してゴルフを止めてしまいました。
これは私の周囲で実際にあったことです。
理論や知識の先行は上達のさまたげになるという一つの実例です。勿論、経験に基づいて身についた理論や知識は有用です。
感動のない情景を写生しても、それは単なるスナップショットに過ぎません。
感動というのは本来主観です。
俳句も詩である以上、作者の主観は絶対に必要です。でも、もろにそれが出てしまうと詩の命である余韻が失われるのです。
客観写生によって主観を包み込む
難しいですが、これが大事なのです。その訓練のためにまず理屈や主観を封印して客観写生を訓練するのです。
簡単なようで難しいですが答えは簡単、固定観念や知識を封印すればよいのです。
俳句は三歳の子供にでもわかるように作りなさい
と俳聖芭蕉は教えました。
幼子に観念や知識はありません。ただあるのは好奇心と驚きの心(感動する心)です。
純粋無垢であった三歳児のころの自分にタイムスリップして自然に対してみてください。
なんとなく…ではなくて具体的に感じるという習慣、訓練が大切です。
大人なら「きれいだね〜」というところを、幼子たちは、
○○みたいだね!
と言うはずです。
静かな海を見て「何と静かな海だ!」と感じるのでは平凡、子供たちならきっと、
鏡みたいだね!
と言うでしょう。
具体的かつ素直に直感を働かすには、
知識、常識、概念などの色眼鏡を外して自然と向き合う。
ことです。
どうしても自分には出来ない。
と、おっしゃる方を何人も知っています。
佳句を作ろうと構えた段階で、すでに感性をシャットアウトしてしまっていることに気づいてないのです。
繰り返しますが俳句は知識や理屈ではありません。ひねりだすものでもないのです。
拙作で恐縮ですが、分かりやすい実例があるので紹介しましょう。
原句:花筏早瀬の波に躍りゆく
花筏というのは桜の落花があたかも筏を組んだように集合して川などを流れていくものを言います。
この作品を小路紫峡先生は次のように添削してくださいました。
花筏早瀬の波にさしかかり
添削句では「いよいよこれから…」という躍動感とともに、やがて躍り去って行く情景までも連想できます。
この違いわかりますよね。
さてこの句を阿波野青畝先生選のかつらぎに投句しました。青畝先生はさらに次のように添削されたのです。
花筏今や早瀬にさしかかり
そうです。早瀬といえば当然、波は連想できますから省略できます。「今や」という言葉でより鮮明に瞬間写生になりました。
俳句は斯く詠み斯く推敲(添削)する…と言う見本として実にわかりやすい例だと思ったので書いてみました。
言葉を省略して瞬間の驚きを写生する
瞬間写生の句は切れ味が鋭く力強いです。
でもそれを意識しながらの多作は難しいので、推敲で仕上げればよいのです。
難解漢字や熟語を使って表現することが格調高い佳句だと誤解している人がいます。でもこれは大間違いです。
平明なことばで表現をすることが共感をえるための重要なポイントなのです。
俳句は目で読むだけでなく耳で聞く文芸でもあるので、声を出して読んだときの響きも大切にしなければいけません。
文字で示されると「なるほど」とわかる作品でも耳で聞くだけでは??と思うことは多いですよね。
見ても聞いても心地よくひびきのよい佳句。それは「平明なことば」なのです。
必要に応じてルビをふることは別段咎められる行為ではありません。
多用すべきでないという声もありますが、初心者中心の句会ではそうした配慮もかえって親切かもしれません。
とても読めそうにない漢字をあててルビをふり、無理やり読ませるというのはやめた方がいいでしょう。
俳句に大切なのは「切れ字」というより「切る精神」です。
あめつちの静かなる日も蟻急ぐ 鷹女
この句は「切れ字」はありませんがAとBで切れています。A部を首部といい、B部を飛躍切部といいます。
AとBの距離が離れているほど面白い俳句ということになります。勿論、離れすぎると訳が分からなくなります…
古池や蛙飛こむ水のをと
むめがかにのっと日の出る山路かな
いずれも芭蕉の句ですが、前句は句中に切れがあり、後者は句末に切れがあります。
当然ながら一句の中に切れ字は一つです。
切れ字は文章で言うと段落みたいなもので句の流れを切ってしまいます。
なのでセオリーとして切れ字は一句にひとつと言うのが定説です。初学の間は素直に従ったほうがいいでしょう。
降る雪や明治は遠くなりにけり
有名な中村草田男の揚句は二つの切れ字を使っていますが、これは例外とすべきです。
季語に対する間違った知識や理解が上達を妨げることになります。
一句中に季語が複数あることを「季重なり」といい、基本的にタブーとされます。
季語は俳句の命かつ一章の焦点でもあるので複数あると焦点が呆けてしまうからです。
さらに異なる季節であった場合は、いよいよわけのわからない句になります。
本物を目指すなら、季重なりの句は絶対に作らないという気構えで修練しましょう。それが上達への近道だからです。
「彼岸」は春の季語、秋は「後の彼岸、秋彼岸」という表現でこれを区別します。この種の季語は扱いにくいですね。
また「紫式部」と書けば「紫式部の実」を意味し秋の季語となります。「式部の実」という表現も許されると思いますが素直に「みむらさき」というほうが一般的です。
このように単に季語といっても、長い歴史によって培われてきたそれぞれの季語のもつ味わい、本質というのがあります。
こうした季語のもつ本質や深みについては、時間をかけていろんな句と出会い経験を重ねないと覚えられません。
歳時記を丸暗記したからといっても実作で役立てることはできません。
知識として覚えるのではなく感覚として記憶する必要があるからです。
指導者にもよりますが、今の季節を詠まねばならないという規則はありません。
見た情景によって秋に夏の情感を得ることもあります。俳句は報告書ではなく文芸ですから「上手に嘘をつく」こともまたテクニックとして存在するのです。
これは実景を見ないで空想だけで作る虚構の句とは根本的に違います。
要するに、眼前の情景に「秋らしさ」を感じるか「夏らしさを」を感じるかの感性が重要で、その点は伝統俳句でも自由なのです。
俳句は季語が命だといいました。培われた季語の働きがあるからこそ、わずか十七文字でも深い深い余韻を生み出せるのです。
命を吹き込むのにどの季語が最適かを考えればよく当季云々に縛られるのは愚かです。
北海道と沖縄では季節感覚がまるで違います。また地球環境の変化で実際の月日と季節感に差異が生じているのも事実です。
けれども伝統を無視して時代が変わったのだからと勝手な解釈で季語をアレンジしたり鑑賞したりしてはいけません。
時代や環境が変わっても伝統で培われた季語の本質は不変です。北海道で春の花が初夏に咲くのは当然のこと、春の風情と感じてそれを詠むのが正しい姿勢なのです。
生活習慣や環境の変化によって死語となっていく季語があることはとても残念です。
他の季節の季語に置き換えても意味が通じてしまうことを「季語動く」と言います。
例えば、
垣こえて道に散り敷く赤い薔薇
という句を例にして見ましょう。
赤い薔薇…という措辞は「白い薔薇」でもよく「凌霄花」でも「椿かな、牡丹かな」でも意味が通じますね。
この情景にはこれしかない…といえるくらいの季語を斡旋することが大事なのです。
添削に頼るだけではなく、季語が動かないかどうか、もっと適切な季語がないかどうかなど自分で推敲する訓練も上達の秘訣です。
斡旋した季語が一章の中であまりにもお膳立てが整いすぎているケースをいいます。
作った本人は自己陶酔していて判らないのですが、他人が鑑賞するとすぐ判ります。
高度なテクニックになるのですが、
"出来るだけ季語を離す"
ことが佳句を詠む秘訣とも言われます。
離れすぎると「季語が動く」との葛藤がありますが、「つかずはなれず」のぴったりな季語が見つかると溜飲が下がります。
拙作で恐縮ですが次の作品を鑑賞してみてください。
温泉を引けるパイプなるべし草紅葉
温泉は「ゆ」と読みます。
草紅葉の説明は一切していませんが、温泉場の林中景として「草紅葉」がよい仕事をしているのをおわかり頂けるでしょうか?
季語のもつ本質を感性に覚えさせて的確に用いることが上達のキーポイントなのです。
虚子先生は客観写生を強く提唱されました。私もまた紫峡師から徹底して客観写生を教えられました。
でも感動は心です。心の昂ぶりを伝えるのに主観は不可欠です。
恩師である青畝先生は主情の作者で知られますが、その作風の根底は客観写生です。
主観と客観は物心一如である。
先生は手をさし出しておっしゃいました。
この手が主観であり客観なのだ。しかも客観は手の甲、主観は手のひら、この手を握りしめれば手のひらは内側に隠れて主観は見えなくなる。
主観と客観は便宜上分けていっているのであって、別々のものではない。それを別々にしたら死んでしまう。
実際に句を作るときは、主観を忘れて客観を良く働かせることが一番大事です。ともすると主観があらわに出て邪魔をします。
ちょっと難しいですが、とても含蓄のあるお話なのです。
客観写生とは「見たままを出来るだけ具体的に表現すること」と説明するとそれでは報告の句になるのでは…と迷いが生じます。
確かに客観写生と報告とは紙一重です。この極意をどう説明すれば理解して貰えるのだろうかと日毎悩んでいました。
過日、淡路島の俳人「大星たかし」さんから贈呈の句集が届き、その中のいくつかの作品をみて「これだ!」と思いました。
たかしさんの作品を示せば冗長な解説を重ねるより一読瞭然だと確信したのです。
原句:浜の家でて踊子の急ぎけり
四国阿波踊り吟行の作品で浜での踊りに加わろうと急ぐ踊子の姿を写生したものです。
客観写生の句として十分と思われますが青畝先生は次のように添削されました。
添削:浜の家でて踊子の走りけり
急ぎけり…は主観、走りけり…は客観、両者の躍動感の違いを味わって下さい。
もう一句。
ストーブに干物を焼きて教師酌む
たさしさんは中学校の教師でした。
生徒たちが帰ってしまったあと、漁師町の親御さんからの差し入れの干しスルメをストーブで焼き、濁り酒を酌みながらあれこれと教育論を戦わせる教師像が浮かびます。
推敲に推敲を重ねた末、最終的に句集に載せられた作品は次のようになっていました。
ストーブに干物を反らせ教師酌む
焼きて…は説明ですが、反らせ…は客観写生です。ストーブの上で焼かれている干物の変化が目に浮かぶようですね。
添削指導の目的について書いてみました。
俳句が完成するプロセスを整理すると、
ということになります。
このうち添削でお手伝いできるのは(2)と(3)です。原則として(1)のお手伝いをすることはありません。
ですから(1)の感動の伝わってこない作品は添削できないのです。
添削方針は指導者によって異なるので絶対的なものではありません。指導者が違えば添削の内容や方法も異なるでしょう。
一番注意して頂きたいのは、
作りっぱなし、添削に出しておしまい
ということが当たり前にならないようにすることです。
なぜそういうふうに直されたのかを復習して吸収していくことがとても大切です。
添削はとても気を遣う作業です。直しすぎると添削者の句になってしまうからです。
投稿した句が全没では創作意欲を失います。そこで添削者は何とか一句でも添削して応えようと労するわけです。
感じ方や方向が間違っていると思われるときときには大鉈を振るって改変に近い添削をくわえることもあります。
添削の意味を理解し納得できればご自分の作品として受け入れて頂けたら嬉しいです。
もしそうでないなら、私への気遣いや遠慮は全く無用なので、その句は捨ててください。
どんな優れた指導者でも10割の働きをすることは難しいからです。
添削された句を自分の句として残すか否かの選択は作者の自由意思です。
鑑賞力は俳句経験の度合いによっても変わってきます。
大切なのは句を理解することよりも、語調の整え方、ことばや仮名づかい、切れ字の使い方などを感覚として覚えることです。
わからない句とにらめっこしても時間の無駄なので読み飛ばします。何年かあとに見直すと分かることもあります。
句集の読み方のお薦めは速読して繰り返し読む…ことです。ぱらぱら読み進む中に必ず琴線に触れる句が見つかるはずです。
それらが暗誦できるくらいまで繰り返し読んで下さい。
そうすることで自分好みの句のリズムを右脳に蓄えるのです。
句を詠むことと鑑賞することとは相関の関係、佳句を吸収するほど鑑賞力がつき、その裏返しとして作句力も向上するのです。
大事なのは具体的に鑑賞できること、何となくいい…では駄目、何処にどう感動したかを説明できなければ鑑賞とはいえません。
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