エッセイ集 Vol.1 / やまだみのる
エッセイ集 Vol.1 / やまだみのる
春先になって最初にあらわれる蝶を初蝶という。
小さくて力弱く群を作らずにただ一匹で舞う姿は、春の訪れを知らせてくれる使者のようだ。
このような小動物に親しみつつその営みを観察していると、私たちもまた神によって生かされていることを深く覚えるのです。
小動物や植物は言葉を持たないけれど、自然の摂理のままに生きることによって健気に神を証ししている。
福音を伝えるのに理屈や努力はいらないと思う。
育む生活の中に喜びと賛美が溢れていれば、私たちはそこに神の臨在を見るでしょう。
雪解水がちょろちょろ山道を走り始めると春の到来である。
日射しは明るく、万象が蘇ったように輝いて見える。
ほころび始めた雪間からは、ものの芽が顔を出し、総身に雪を被いて立ち往生したかのような大樹も
「生きておるぞ!」
と、ばかりに自己主張して震える。生きとし生けるものの全てが復活の春を賛美し始める。
花の少ない冬の間は温室で育てられた室咲が花舗を飾ります。
「新しく預金口座を開設すると花鉢をプレゼントします」という銀行のキャンペーンを見かけたので、早速木瓜の花の小鉢をもらってきて事務所の窓辺に置いた。
天恵の陽射しに応えて次々と咲き続け、暫くの間慰めてくれた。
わたしも頑張らねば・・・
今年もイースターの日が巡ってきた。
島四国遍路で知られる小豆島はキリスト教とも縁が深く、オリーブ園の丘の上には大きな十字架が建てられ島の殉教史が記されている。
また、この丘から一望できる穏やかな瀬戸の内海の景はガリラヤの海に似ているとも言われる。
ガリラヤ湖畔でイエスは多くの教えをなし、数々の奇跡を行われた。昏れなづむオリーブの丘の上に佇って残照の海を眺めていると殊に感慨深い。
豪快な打ち揚げ花火の音を聞くと何故か血が騒ぐという人は多い。
でも、わたしは小さな線香花火に郷愁を感じます。
行水から上がると鼻の頭に天花粉を塗られ、家族で花火を楽しむのです。
ぱちぱち爆ぜる火の粉が怖くて小さな手がおどおど震える。それを包むようにして励ましてくれた温かい母の手の感触を今も覚えている。
秋の野のさわやかさに誘われて大の字になって大空を仰ぐ。
静止しているやに見えていた鰯雲がゆっくりと動いているのに気づくとき、大宇宙の全てを支配される神の存在といと小さき自分との対比をあらためて実感する。
空を翔ぶ鳥や野に咲く草花たちは、明日を思い煩うなと教えてくれる。
私たちが意識してもしなくても、大自然の摂理は全てみ手の中にあり、私たちもまた神さまの哀れみと恵みによって生かされているのである。
暖かい冬日に誘われて外に出てみる。
庭隅の柊の花は早や散りそめていて、その足下の土を白く染めている。うち屈んで近づくとこぼれ花のほのかな香りが伝わってきて心地よい。
私たちの肉体も、やがては朽ちて土に帰っていくことと思うけれど、召しのあるその時までキリストのよき香りを放つものでありたいと願う。
燭火礼拝で聖歌隊が「ハレルヤ!」と歌いおさめる。
やがて手に手にペンライトを持ちキャロリングに出発する。星空高く聖夜を刻む天文台の大時計を仰ぐと、とても満たされた気分になり手足の悴むのも忘れる。
終末の到来かと思われたあの阪神淡路大震災で子午線の大時計は動かなくなった。もちろん時間が止まることはなかったが、修復が終わって再び時を刻むようになったとき胸が熱くなるような感動と復活の喜びを実感した。
きよしこの夜、大時計は何事もなかったかのように、歴史の針を重ねようとしている。
時は流れ人の世は移る。
けれども神の愛はいつまでも変わることがない。
Vol.1 は、キリスト教祈りの小冊子「月刊ベラカ(2008.4〜2009.3)」に連載されたものです。
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