3月のスワン吟行は神戸の王子動物園と決まりました。 運が良ければ桜もチラホラと咲き始めているかと思います。
さて、動物園俳句には少し気をつけないといけない注意事項があります。 みのるの日記に記事がありますので、もう一度目を通しておいてください。
いつもお話していることですが、動物園での吟行なので動物を詠まねば…とこだわり過ぎると句が詠めません。 子供たちの表情や親子連れの様子も句材になりますし、園丁や飼育係の作業の様子を写生するなど幅広い視野でゆったりした気分で吟行を楽しみましょう。
俳句結社ひいらぎを離脱してから、敬愛する品女さんとの交流も遠慮していたのですが、お正月にはがきが届いて春には会いたいとおっしゃってくださいました。品女さんは入院中の家内の母と一歳違いで、昨年は体調を崩しておられたそうです。
家内の実家から徒歩5分くらいのところですので、近々温かくなったらお見舞いも兼ねてお訪ねしようと思っています。 その前に、昨年 GHのメンバーで品女さんの句を鑑賞しているので、その記事を事前にお送りしようと思い PDFファイルにまとめました。なによりの励ましになるかと思います。
プリントアウトしてお読みになりたいという方のためにサーバーにもアップしておきましたので、ご自由にご覧ください。 右クリックして保存を選んでくださればダウンロードできます。
おはようございます。
今日の神戸はとても良いお天気になり暖かい日差しが射し込んでいます。
さて、吟行の秘訣の後編を書かなければと思っていますが、前編の内容がご理解いただいているという前提でなければ先へ進めないと思うのです。過日の落穂句会の時にある初心者の方から『季語と季感の違い』という意味が解らなという質問がありました。
季語というのはただの文字であって季感(季節感)というのは、その季節らしいという雰囲気の意味で文章表現から醸し出されるものですよと説明したものの、ますますよくわからないというような顔をしておられました.
このレベルの初心者にはこのテキストはかえって混乱を招くだだけである意味では有害なものとなります. 難しいですね。
後半を書くための心備えはあるのですが、そのあたりが少し引っかかっていて逡巡としています。皆さんの忌憚ない意見を談話室に書いてくださるとまた勇気が出るかもしれません。
俳句は単なることばあそびではなく『詩』であることを忘れてはいけないと思う。
そこで、あらためて『詩(ポエム)』の定義を調べてみましょう。
一定の韻律などを有し、美的感動を凝縮して表現したもの。 人の心に訴え,心を清める作用をもつもの。また、詩的趣があるさま。
伝統俳句ではこれらに加えて、『わび、さび、滑稽味』というあたりでしょうか。
青畝先生はどのように考えておられたかを少しご紹介しましょう。
私は読者に愛を感じさせなければいけないと思っています。 どんなことを詠んでも、不愉快な感じを与えるのではよくない。 苦しさの見える句であっても、そこに救いが得られるような気持ちを与えなくてはいかんと思う。 だから写生と言っても、ただ温かさだけのものではなくて、 ああ、こんな楽しみがあるなあ、と読んだ人に思ってもらえればいいですね。 〜春陽堂文庫「阿波野青畝三百句」より引用
これらのルーツに照らし合わせて伝統俳句と真剣に向き合うための私達の姿勢をチェックしてみましょう。
奇を衒った表現をして読者の受けを狙ったり、自己満足の言葉遊びになっていませんか? 面白おかしく批判したり揶揄したりという作風になっていませんか? そうした嗜好を好む読者もおられるので現代俳句は混沌としているのですが、 少なくともそれらは伝統俳句とは言いがたいとぼくは思います。
教会学校奉仕の体験で学んだことですが、自分は教師だという目線で接していたのでは決して子どもたちは心を開きません。 子どもたちの目の高さでおしゃべりし、彼らの話を遮らないでよく聞いてあげること。 そしてなによりも大事なのはやさしい愛の心で接するということです。
私達が俳句を詠もうとするときに対峙している自然や対象物も子どもたちといっしょです。素直で優しく忍耐をもって謙虚にそれらと接するとき、かならず相手の方から何かを語りかけてきます。その感動を写しとるのが俳句なのです。
だんだん難しくなっているようでごめんなさい。今回はちょっと雑談で一服しましょう。
よく、「自分には語彙力がないので…」と悲観されるかたがおられます。 確かに語彙が豊富であれば表現の幅が広がります。けれども油断すると独りよがりの言葉遊びに陥りやすいです。 経験豊富な人ほどその傾向があるので特に注意しましょう。ぼくも例外ではありません。
辞書を調べて無理に格調高い言葉を探さずとも自分の語彙の範囲で平明な言葉を選べばいいのです。 体型に合わない高級な一張羅を着ているよりも個性にぴったりあった普段着姿のほうがよほどかっこいいとぼくは思います。
句会のときに披講や選者の添削を注意深く聞いていると、やさしい表現なのにとても俳諧味のあることばに遭遇することがあります。 そうした面白い言葉に遭遇したら必ずメモして、記憶の引き出しにしまっておくという心がけは大切です。 こうした地道な努力の積み重ねによって本物の語彙力が身につくのです。
※内緒話:ことばとの出会いの一例 『七輪に全長乗らぬ秋刀魚かな 品女』 → はみ出すといわないで全長乗らぬが具体的 『北窓を開放忍路(おしょろ)海ま青 青畝』 → 開けばではなく開放:大きく景の展ける印象がある 『海の日のつるべ落としや親不知 青畝』 → 季語を分解して使うと新鮮な印象となる 句集を斜め読みしているだけでも新鮮な言葉との出会いがある。
吟行句会の一番の魅力は、同じ吟行地で他の人が何を見てどのように感じて詠んでいるかを知ることができることです。 自分自身の作品や成績に執着して他の人の作品に興味を示さないタイプの人は決して上手になりません。 互選の得点が大事なのではなくて、誰がどんな句を選らんでいるかという「質」が重要なのです。
披講のときに名乗り遅れるというようなことは最も戒めなければいけません。私語は慎み、全神経を集中させて聞ききます。 自分が採り損ねたと思う句があれば追加して控えます。また自分の予選と合致するものがあればその選者名を小さく書いておきます。
自分の予選と選者の選とがどのくらい一致しているかというのもチェックしておくと納得がいきやすいです。 こうした工夫をすることであとでいろんな分析ができるからです。選句というのはそのくらい大事なワークなのです。
あなたは毎日句会できちんと予選していますか。
リストを画面で見ながら二句選んでそれでおしまいというのでは悲しいです。 本物の句会と同じように必ず予選してメモに書きましょう。そしてその中から二句に絞り込んでチェックを入れるというのが正しい学びの姿勢です。
予選メモはみのる選の周期に合わせておかれるといいです。そして、みのる選の結果とどのくらい合致したか、またみのるがどのように添削しているかなどにも着目して復習されると優等生です。
理解できない疑問に出くわしたら遠慮なく談話室に書いてください。
吟行に強い、弱いというのは、どれだけ季語のバリエーションを感覚として知っているかということに比例します。
基本季語というものはそれほど多くはないので一年も俳句に関り歳時記を繰っていれば大体は分かるようになってきます。 でも、季語の本質というのは経験を繰り返しつつ感覚として吸収するのもなので普段からその意識と意欲とが必要です。
英単語をまる覚えしても英会話の上達に直接結びつかないのと同じで、歳時記を読んで覚えただけの季語知識では佳句を詠むことはできません。プロゴルファー石川遼のコマーシャルではありませんが、生きた英会話を繰り返し聞いて耳に覚えさせることが大事なのです。俳句で言うと秀句鑑賞や選句の学びを通して生きた季語の使い方、理屈ではなく感覚として季語の本質を身につけることが重要なのです。
ところで、季語の本質とは何でしょうか。
"春の月" "夏の月" "秋の月" "冬の月" "薔薇" "秋薔薇" "冬薔薇" "春の雨" "夕立" "秋の雨" "冬の雨" "春の鴨" "残る鴨" "鴨" "薄紅葉" "紅葉" "散紅葉" "冬紅葉"
月は秋、薔薇は夏、鴨は冬というようにその季題が最も美しく映え、特徴的な雰囲気を醸し出すいわゆる旬というものが主季語となります。 吟行したタイミングが秋だったから秋の月、秋の雨ではなく、春の時期に見たから春の鴨、冬だから冬薔薇、冬紅葉なのでは決してありません。
主季語に対して旬のずれたそれぞれの季語には、先人たちが育んできた独特の季感があるのです。歳時記の解説を読めば理屈ではわかりますが使いこなすためには季語の本質を感覚的に覚えなくては難しいのです。
"吟行時には必ず当季の季語で詠むように" という厳しい指導をされる先生もおられるようですが、それを守ろうとするあまり間違った季語の斡旋をしていてはせっかくの佳句が台無しになってしまいます。
無理な季語の斡旋をしないで出来るだけ単純に旬の季語を使うようにしましょう。少々季節がづれていても GHでは全く構いません。
では、旬からずれた季語を使いこなせるようになるためにはどのような勉強をしたらいいのでしょうか。
それはまず、主季語の旬の特徴をしっかりと覚えることです。他の季節へ派生した季語は大抵その旬の時季の華やかさや特徴と対局的な雰囲気を醸しているときに使う場合が多いからです。旬のころを連想しては季節の移ろいを感じ、侘び寂びや懐かしさを感じるはずです。吟行していてそのような感興を覚えた時に初めてその季語を斡旋するのです。
理屈ではない微妙な感覚を身に付けるには、スピードラーニング同様にひたすら秀句を鑑賞することです。
丁寧に辞書を引いて一語一句を理解する必要はありません。ひたすら読み流すだけのほうがいいです。それでも何句かは必ず琴線に響くはずです。何度もなんども読み返すうちにだんだん分かる句が増えてきます。それが感覚というものだと思います。
ぼくは、文庫本のホトトギス雑詠選集(虚子選)や青畝師の句集をいつも携行し、ボロボロになるまで読みました。作句が不調になればなるほどそうしました。スランプ脱出にも良い方法と思います。
また、普段の句会での選句の姿勢によっても同様の学びをすることができます。その具体的な方法について次回お話しましょう。