土曜日になると、毎日句会の一週間分の全投稿を印刷して秀句を再選する。 すっかりぼくのライクワークとして定着した。 全体を眺めながら一句一句をあらためて鑑賞していると、参加者の方お一人おひとりの生活ぶりや感動が伝わってきて、とても幸せな気分に浸れます。
サイトを運用することは確かにエネルギーを使います。でも、それを遥かに超えた充実感があり、感謝と喜びで満たされるのです。しかも、みなさんの熱心によって僕自身も励まされそれが新しいエネルギーとして充電される。そんな毎日を心から感謝しています。
本人は案外気が付かないものですが、選者という立場で見るとみなさんの上達振りがよくわかります。 調子がいい時とスランプの時、一皮向けて脱皮されようとしている時など実によくわかるのです。 おっ!と思うような作品に出くわしたとき、ほんとうに選者としての満足感で満たされます。
毎日句会をはじめて本当によかったと思います。早いもので7月で半年が経過しようとしています。 毎日という過酷な条件で句会をしているサイトは多くありません。 続けるだけでも大変なことで強い意思が必要ですが、でも続いているんです。 何だか不思議な感じがしますね。
参加者のどなたかがおっしゃいました。「今日こそはちょっと休もう・・」といつも思うのだけれど、 つい覗いてしまう。毎日句会には不思議な魔力(魅力?)がある、、、、と。
僕もそう思います。(*^_^*)
6月25日付けの結城さんの日記を読んだ。「ゆるせない、という思いからの解放」 というタイトルで、 なにか今のぼくの状態を言い当てられた感じがして恥ずかしかった。
結城さんの日記を読んでいると時々ハッとさせられるときがある。 反省、反省、また反省。
最近サイト運営に関連したミニトラブルが続いてストレスが募ることがある。 あまりにもサイトが祝福されているので、これを壊されたくないという思いが強くなるからだと思う。 祈ること、委ねることを忘れて、すぐに自我が出てしまう。
神のなされることは皆その時にかなって美しい。 (伝道の書 3:11)
聖書の言葉を信じて、全てを益に変えてくださる神様にお任せしよう。結城さんありがとう。
毎日句会のメンバーのSさんは、ときどき嬉しいメールを下さってぼくを励ましてくださる。
[ゴスペル俳句の世界]サイトにお世話になり、四ヶ月が経過しました。 毎日のリハビリが吟行となり、楽しい日課に変わりました。 しかし暑さに厳しい私の病気は、これからが胸突き八丁です。
それに対して、みのるさんの献身的なサイト運営には頭が下がります。 読み捨て句にも値しない私の愚作のただの石を、 宝石の輝きにする添削エネルギーは一体何処から生れてくるのか? そのことを思うと、私の病気など病気のうちに入らないと、 何時も勇気づけられています。
前にも書いたかもしれませんが、 決して奉仕精神というような感覚でこのサイトを運営しているわけではありません。 僕自身のためなんです。 ですから、お礼を言わなければいけないのはぼくのほうなんです。 みなさんの作品を見せていただきながら、
”あっ、こんな感じ方もあるんだ!”
と、 いろんな感じ方を学ばせていただく。 そして懸命に添削することで僕自身の表現力も磨かれることになると思うのです。 『選は創作なり』といわれた虚子先生の言葉は有名ですが、全くその通りです。 ぼくが教えていただいた阿波野青畝先生も、また小路紫峡先生も選の幅の広さという点で有名です。 指導者の型に嵌めるのではなく、作者の個性を伸ばす指導が重要だと思うのですが、 特に青畝先生はこの点で素晴らしい先生でした。
先生に近づくことなど、おこがましく到底不可能なことですけれども、 ゴスペル俳句で選ばせて頂いた作品は、いいかえればぼくの作品と同じだという思いなのです。 日々精進してできるだけ選の幅を広げること、豊かな表現力を身に付けること、 そして、句を作る喜びを参加者の皆さんと共有することがぼくの喜びであり、 このサイトを運営する目的なのです。
久しぶりに夏日がさして、まさしく梅雨晴れ間。 今日も暑かったけれど一日中事務所にいたので楽だった。夕方6時ごろに大阪の会社を出ると、 7時過ぎには神戸須磨の最寄駅に着く。 プラットホームは小高い山の中腹にあるので静かな瀬戸の内海が一望できる。 電車を降り立ってから5分〜10分ほどこの海を眺めるのがぼくの日課。 その日の時刻や天候、また季節によって海はさまざまな表情を見せてくれる。 毎日毎日見ているけれど厭くということはない。
海を見ているときはたいてい何も考えていないけれど、 じっと眺めているだけで心が癒されていく感じがする。 仕事や人間関係で気持ちが滅入っているとき、仕事がハードで肉体的に疲れているとき、溜まっている いろんなストレスが身体から抜けていくようなそんな癒しを感じるのである。
洋々とした海を見ていると実に荘厳な感じがする。そして創造主のことに思いを馳せるとき、 些細なことに思い煩っている自分の愚かさにふと気づかされることも多い。 海に限らず、大自然には人の心を癒す力があるのだと思う。
今日の海は美しい夕焼けに染まって、殊更に神秘的だった。
今朝の神戸は夏霧が立ち込めたが、日が高くなるとともにぐんぐん気温が上昇した。この夏最高の暑さと思う。職場についても月曜日なのでクーラーの効きが悪く、机の引出しをかき回して扇を捜した。 扇面には涼しげな桔梗の絵が書いてあって、ひとあおぎしては眺めつつほっと一息つく。
大汗はかかないタイプなので比較的夏には強いほうだが、クーラーが苦手でいつも上着は携行して出歩く。 でも、結局今日は一度も上着を着ることがなかった。あ、つ、い、、、、(^^;
今年の2月からはじめた毎日句会も、はや5ヶ月になろうとしています。 三日も続くかどうかと疑心暗鬼だったのに、いまやゴスペル俳句の名物というか、 メインコンテンツになった。 これはまったく予想もしなかったことですが、管理人であるぼく以上に参加者の皆さんが なんとかこの句会を持続成功させようと協力してくださったからで、心から感謝しています。
どうして、そんな雰囲気になったのか今もって不思議ですが、とにかく息も絶え絶えだった 句会に忽然と救世主のように数人の強力なメンバーが与えられ、 弱気になりがちなぼくを励ましてくださった。 この時期、参加者は5〜6人。作品の内容がどうのこうのというより、 皆勤を続けるのにぼくも含めてみんな必死だった。
そのご、月を数えるごとにメンバーが増し加えられ、 いまは数人休む人があっても平均して15人前後の参加者がある。 メンバーがまたお友達を誘ってくださって、メンバー間の交流も生まれてきた。 最近設置した、『おしゃべり会』というチャットルームは連日連夜、メンバーの俳句談義で にぎわっている。ときどきぼくも参加させてもらうけれどとても雰囲気がよく、 みなさん10年来の知己のように仲がよい。自然とよきコミュニティが育ってメンバーの定着率も高い。
こんなふうにサイトが祝福されるなんてぼくはとても幸せ者です。 サイトの雰囲気がよく活気があるので、アクセスログをチェックすると随分ROMのかたも増えているようだ。 ときどき、あらしもどきのアクセスもあって悩まされたこともあるが、神様が守ってくださると信じている。 初めは、”管理人であるぼくが守らなければ”、と力んだときもあったが、いまは全てを神様にお任せすることにした。
とにかく、今はメンバーの一人一人がこのコミュニティを育てようと気を遣ってくださる。 お互いの憩いの場、癒しの場として、その雰囲気を守り育てようとしてくださるのが伝わってくる。 ぼくはそんな様子を満足げに眺めながらひとりでニヤニヤしているのです。みなさんありがとう。神様感謝します。
今日は一日中雨。体がだるくてつらい一日でした。 でも、家へ帰って一息ついてパソコンの前へ座るとちょっと元気になるから不思議。 楽しくないことをするときは体が拒否反応して、好きなことをするときは元気になる。 身勝手ですよね。でも、今日は早く寝ます。
先週の激務が老骨にこたえたので今日は特別休養日。お昼まで寝ていた。(^^)v
前から、纏めたいと思っていた『GH-四季選集』を作成公開した。まだ見落としたものもあると思うので、 日を改めて見直しをするつもりです。月平均20句と仮定すると年間で240句。 小冊子として纏めるにはちょうど適当な数かもしれない。1ページに5句並べて約48ページになる。
さて、この企画いつまでも続くことを祈りたい。
今朝はすばらしい五月晴れ。昨晩遅く帰ったので昼前まで寝てましたが、気分は爽快です。 お天気のおかげかもしれないけれど肩の調子もまずまず。
昨日が月例句会の締め切りだったので、句会用の清記をまとめてメンバーに配信。 そのあと、毎日句会 『今週の秀句』の選をして発表しました。回数を重ねるごとにみなさんの上達振りに驚きます。 強引に毎日句会を始めたことを後悔したこともあったけれど、 参加してくださるメンバーが互いに励ましあってここまでこられたと思う。感謝!m(__)mm(__)m
昨夜のチャット句会は都合で参加できなかったけれど、家に帰ってから覗いてみると無事に終わったようで一安心。サイトを立ち上げたころは自分自身で必死に運転している感じだったけど、いまは後部座席でひっくり返って寝ていても、メンバーのみなさんが上手に運転してくださる。そんな感じです。
とりわけ若くて(気持ちが・・・)強力な『若葉組』女性軍に感謝!(^^)v
男もがんばろ〜な〜 >男性軍諸氏殿
日にち薬のような感じで癒されています。感謝!
でも、このじめじめはつらいです。
今朝は寝返りが打てました。(^^
痛みが完全になくなったという事ではないですが、腕もだいぶ高く上がるようになったし、少しずつ回復している兆しはあります。でも、よく冷房の効いた通勤電車のなかではなんとなく鈍痛があるようでないようで気持ち悪かったです。
最近はアクセスも向上し、ゴスペル俳句で俳句を始めてみようかな・・・と、決心される方も増えてきました。俳句は十七文字と短いのでとてもとっつき易い反面、作り始めてみると意外と奥が深くて難しいことに気づいて壁にぶつかります。 その最初の壁で立ち止まって足踏みを始めるとなかなか前へ進みにくいので、何も考えずに作りつづけてくださいとお願いするのですが・・・・
二日ほど前から右肩が痛くて上へあがらない。症状からするとどうも五十肩のようだ・・・
家内にキボードの叩き過ぎではないかといわれて(x_x;)しゅん。 起きているときはそれほどでもないんだけど、横になると痛いほうの肩の方向へは寝返りも打てない。 しっかり動かしたほうがいいというのでいろいろ試みている。少しずつ回復しているようにも思えるんですが・・・
今日は花の日。キリスト教会ではいろんな人にお花をお届けする習慣がある。 教会学校の分校では、会場提供とかで日ごろお世話になっている地元の方々に、 また本校では近くの派出所のおまわりさんや病気で礼拝にこられない長老の方々にお花を届けた。 礼拝が終わってからは施設へ入っておられる教会員の方々へも手分けしてお花を届けた。
ぼくも、車で約1時間30分くらいのところにある擁護施設で闘病しておられる姉妹を訪ねた。 施設の中にはいろんな障害と戦っておられる方々が明るい笑顔で迎えてくださった。 施設で働いておられる若い職員の方々もみな明るく、励ましに行ったぼくたちが逆に励まされて帰ってきた。
健常者である私たちは感謝することを忘れ、些細な困難についわがままなつぶやきを洩らす。 明るく健気に病気と戦っておられる方々の輝くよな笑顔を見てなんだか恥ずかしくなった。 このホームページにある、「本当の苦難の意味」という課題についてのメッセージを思い出しながら、 束の間の逢瀬を惜しみ、お別れのお祈りをして帰ってきた。
会社の机の引出しを整理していたら、10年前の懐かしい写真が出てきた。 在りし日の阿波野青畝先生と一緒に写っている写真。 たぶん大切にとっておかねばと考えすぎて机の奥深くしまいこんだのを忘れていたんでしょう。(^^
当時青畝先生はたぶん卆寿(90歳)、ぼくは47歳くらいのときですね。(若い!) 「ひいらぎ」の記念大会を開催するというので、記念品に先生の色紙をお願いに伺ったときのものだと思う。 帰省したおりに広島の波出石品女さんから託された鈴虫をお届けしたりなど、 そのご先生のお宅へは何度かお邪魔したと思うが、 その都度、先生からみれば赤子どうぜんのぼくを、「みのるさん・・」と呼んでくださって、 いろんなお話をしてくださったことを懐かしく覚えている。
満面に汗して報い求めざる 青畝
敬虔なカソリックの信者であられた先生のお人柄は、まさにこの一句に象徴されている。 先生から俳句の手ほどきを受けた弟子は星の数ほどおられると思うが、 指導者として、時と労を惜しまず心血を注いで弟子の指導に奉仕された青畝先生のご苦労を 知っている人は多くない。
1992年 阿波野青畝先生のご自宅で (左:みのる 右:青畝師)
結城浩さんのHPを真似て、各コンテンツごとにFeedBack用のフォームを置いている。 ときどき、「すごく感動した」とか「よかったよ!」というコメントを頂くと、 万歳したくなるくらい嬉しくなる。 つたない文章を読んで下さるだけでも感謝なのにFedbackで励ましていただくと、 疲れも吹っ飛んでしまう。 勉強だと思っていろんな文章にチャレンジしているが、ぼくにとって文章は俳句より難しい。 技術系のぼくがこんなふうに文字文化に親しむなんて思っても見なかった。
十五年ほど続けていた俳句活動をある事情で休んでいたが、 しばらく経ってやっぱり自分自身のためにも俳句を作りつづけないといけない、 という思いにかられ、ずっと祈っていた。 『ゴスペル俳句』というホームページを立ち上げる構想はごく自然に与えられ、 見えざる御手の導きを感じつつあっという間に1年が過ぎた。 紆余曲折閉鎖を考えたこともあったがここまで守られ、最近はほんとうに献身的に 支えてくださる方が何人も増えてきている。 いまはぼくの個人サイトを運営するという位置付けを超えて、 みんなでみんなのサイトを育て守るという雰囲気になってきた。ほんとうに嬉しい。感謝!
開設当初は30ヒット/日程度だったのが、200ヒット/日に届く勢いになってきた。 これは、検索サイトでのランキングがかなり上昇してきたことにも関係があるようだ。 きのうはチャットあらしの被害に遭った。掲示板に歓迎しない書き込みをされることも少なくない。 有名税だと喜んでいるわけにも行かなくなってきた。
気をつけなければと思っていた矢先に、おしゃべりチャットが被害を受けた。 相当悪質である。 使っている手口からして、多分かなりネットに精通している常習犯の可能性が強い。
ほぼ犯人は特定できているので、二度とゴスペル俳句にアクセスできないように措置をするつもりだ。 とりいそいで、パスワード制のチャットに置き換えた。きょう少し試運転したが大丈夫のようだ。
今回のトラブルは管理人であるぼくの責任です。 チャットに参加してくれたメンバーのみなさん。ご迷惑をおかけしてほんとうにすみません。
ホームページの運営方針は、サイト管理者の考え方によっていろいろ異なる。 とくにメールアドレスを公開するか否かは賛否両論あい分かれるところです。 個人情報を公開することはトラブルの元になると考えて、 ゴスペル俳句では意識的に完全非公開にしているのです。 フリーの掲示板CGIはほとんどメールアドレスが公開されるようになっています。 このサイトで利用しているものはそれらをカスタマイズして非公開仕様に変更してあります。
一方、メールアドレスの記入を必須にすることで、無責任な書き込みを予防するという考え方の 管理人もおられます。 でたらめなアドレスを書くこともできるので完全予防の手段にはなりませんが、 少なくとも書く人の良心には作用するはずなので全く効果がないということもありません。 でも参加者の立場にたてば、個人情報が公開されない方が安心ですね。
管理人として一番気を使うのは当然自分のサイトの健全運営であり、モラルや雰囲気の維持です。 基本的には完全オープンなので、決してよい人ばかりが訪ねて来てくれるとは限らないし、 意図的に嫌がらせや妨害をする人もいる。無意識なんだけども雰囲気を壊す人もいる。 前者は論外だけれど、後者の人の扱いはとても難しく気を遣います。 参加者同士の誤解やトラブルがサイト運営の命取りになることも多く、 そうした芽を的確に摘むことも管理人の大切な仕事です。 でも、些細な書き込みにいちいち反応するのではなく、
変な書き込みには応答しないで無視する。
というのもサイト管理のこつだと結城さんに教えていただきました。 ゴスペル俳句のような福音を扱ったサイトはある意味でもっとも狙われやすいのです。 ぼくはクリスチャンなので神様を信じています。 このサイトが意義あるものと神様が認めてくだされば必ず守ってくださるでしょうし、 もしそうでないなら、潔くサイトを閉じる覚悟は出来ています。
ある程度参加者が定着してくると、管理人があせらなくても自然に自治現象が起きて サイトの雰囲気が定まってきます。 そしてそれを受け入れてくださる方とそれになじめないで離れていかれる方とに 区分されます。それを繰り返しながらそのサイトの独特の味というのが醸し出されてくるのです。 こうなればしめたものですね。
ゴスペル俳句の世界は、みなさんの応援のお蔭で、今その味が出始めようとしています。 感謝!
俳句を始められた方がしばらく添削や句会に参加されたあと揃ったように仰るのは、
”俳句がこんなに奥が深いものとは思わなかった。”
ということです。 始めのうちは無心に作句されるので添削して選れるのですが、 少し慣れてくるとあれこれ考えて作り出すので誰でも最初の壁にぶつかります。 残念なのは、
”やっぱり自分には俳句の素質がないのだ・・”
と、 この段階で挫折されるかたが多いことです。 ぼくは、”俳句に素質なんて関係ない”と、正直いまも信じています。 なぜなら、技術畑一途、文学無関係、歴史地理は大の苦手で俳句などとはまず縁がないと自他ともに 認めていたぼくが、ほんとうに不思議な縁で俳句をするようになって今日があるからです。 ぼくの場合自分で努力したというより、師事した先生がとにかく一生懸命だったので、 それに応えようとしかたなく?必死に頑張ったという方が正しいでしょうか・・
一つの壁を乗り越えてもまた次の壁がやってきます。 昔、開けてもあけても次々と新しい箱が出てくる手折り紙で作った仕掛けがありましたね。 あれと同じで、一体何時になったら終わるのかと思うくらい次々に壁がやってきます。 でも、あきらめたら負けです。
たとい素質があったとしても努力しなければそれは磨かない玉と同じだと思います。 俳誌「ひいらぎ」主宰の小路紫峡先生は『俳句は生涯学習』と言われました。 牛歩であっても休まずに努力することが大切で立ち止まってはいけません。
ぼくの尊敬してやまないクリスチャンプログラマー「結城浩」さんの 5月31日付けの日記にとても有意義なことが書かれていたので転載します。
2001年5月31日 (木) 昼 - 六百六十六について 以下は「六百六十六」という数を恐れている方からのメールへの返信です。 結城浩です。 六百六十六というのは、聖書の黙示録の13章18節に登場する「獣」の数字が六百六十六 であるという記述から来ていると思います。この文脈からは、悪魔あるいは反キリスト的な 存在を表現する数です。ただし、黙示録そのものはとても難解であって、さまざまな解釈が あると思います。 もともと、六という数は、聖書で「象徴的に」悪魔を表したり人間を表したりすると言われています。 しかしながら、数字は単なる数字であって、その数字で呪われるわけでもありませんし、 害があるわけでもありません。 桜や富士山が象徴的に日本を表す場合があるように、数字が象徴的に何かを表すことはありますが、 数字そのものを恐れる必要はありません。 あなたの上に神さまの祝福がいつもありますように。
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