やまだみのる

なぜ歴史的仮名遣いか

この主題について論じるには、俳句の歴史を遡る必要があるため、どうしても長いお話をしなければいけませんが、 結論だけ先に言うと、私自身は歴史的仮名遣いが好きですし、 で学ばれる皆さんにも基本的には歴史的仮名遣いをお薦めしています。

けれども「絶対に」というほどの信念もなく、「ねばならない」と押し付けるつもりもありません。表現の自由という権利は、法律でも守られていることであり、ひとにはそれぞれの主張や好みがあるからです。

伝統俳句と現代俳句

伝統俳句と現代俳句の歴史、経緯については、手っ取り早く 『空とぶ猫』楚良のブログ の記事から引用させていただきます。

1894年(明治27年)、子規が『獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ』を連載し、俳句の革新運動を始めます。 明治後半、虚子と双璧していた河東碧梧桐が、五七五調に捉われない新傾向俳句(自由律)を主張し全国展開します。 それに対して虚子は、俳句は伝統的な五七五調で詠まれ、季語を重んじ、平明で余韻があるべしとして碧梧桐と激しく対立します。

春風や闘志いだきて丘に立つ(大正2年)

やがて、伝統的な俳句を守るために「ホトトギス」を復活させ、大正時代と昭和戦前までの俳諧を席捲します。 俳壇に君臨していた虚子は、昭和2年「花鳥諷詠」「客観主体」を唱えます。 しかし、その俳句観の相違により。秋桜子が「ホトトギス」を離脱して「馬酔木」を創刊します。新興俳句の誕生です。

新興俳句の流れは、人間探求派などを輩出し、昭和22年に設立された「現代俳句協会」となります。一方、伝統俳句を守ろうとする「ホトトギス」は昭和15年に「日本俳句作家協会」を設立し、のちの「日本伝統俳句協会」(昭和62年創立)となります。以来、現代俳句と伝統俳句は対立関係になりますが、その違いはなんなのでしょう?

現代俳句には、自由律、無季句も含まれます。新しい時代に合った句を作るという大義によって、破調でも無季でも俳句だと定義つけられてしまいます。伝統俳句は、五七五調の定型で季語を重んじることですが、近年に詠まれている作品の中には、口語調あり、現代仮名遣いありと除々に自由度が広がり、現代俳句との区別も曖昧になりつつあります。

なぜ歴史的仮名遣いか

本題に入る前に、"歴史的仮名遣いって何?" という方のために、以前、みのるの日記に書いた記事を紹介しておきましょう。

知っておきたい歴史的仮名遣いの基礎知識

照屋眞理子さんの記事

の読者のみなさんに、どう書いたら主題の件をわかりやすく説明できるだろう…

と思いめぐらして WEB検索をしていたときに、思わず膝を叩いて合点と拍手したいような下記の記事を発見しました。

全文の転載は、憚るかと思うので、上記リンク先の記事をお読みいただくとして、とても面白い序の箇所を引用してみます。

遅まきながら、夏井いつき第一句集『龍』の復刊を読み、ついでに既に手許にあった第二句集『梟』も思い出して開いてみたのだが、二冊には、作品の変化よりも先に大きな違いがあることに気がついた。

第一句集は歴史的仮名遣いであるが、第二句集は現代仮名遣いになっており、第二句集の「あとがき」には、「『歴史的仮名遣い』の呪文めいた効果を捨てがたく、迷う時期が長く続いたが、‥‥肝要なのは自分の感動を表現するのに最も適した『手法』『文体』『律』等を探し求めることであって『文語表現・歴史的仮名遣い』の遵守に腐心することではない……」とある。

夏井氏の決断に異を唱えるつもりは全くないが、「『歴史的仮名遣い』の呪文めいた効果」は、はてそれだけのことであろうかと、ふと思った。

夏井いつきさんの論は是としつつも、「歴史的仮名遣いには、もっと別の役割があるのでは?」とプレゼンしています。後半の結論の部分を引用してみましょう。

意味より先に音を楽しむ、定型詩にはそんな楽しみ方がある。現在まで歴史的仮名遣いを残してくれた数多の先達は、そのことをよく知っていたということではないだろうか。

音を楽しむという、詩の音楽性の一端を歴史的仮名遣いは担っているのではないか。そして、やや乱暴で唐突な飛躍かも知れないが、言葉の音を蔑ろにすると、言葉は意味だけが幅を利かせてしまう。そんな風に考えるのだが、いかがなものだろうか。

現代仮名遣いと歴史的仮名遣い、新旧どちらが正しいかと言うことではない。ただ、どちらが楽しいかと考えるなら、歴史的仮名遣いの方が断然楽しいという話である。

俳句も詩である以上、音楽性というものを無視できないというのである。照屋氏は、短歌や俳句もつくられていて論者としても著名な方のようですが、その作品を読むと伝統俳句の人ではなく、どちらかと言えば現代俳句寄りの印象です。

彼女の記事を読みながら、何となく伝統俳句=歴史的仮名遣い、現代俳句=現代仮名遣い、と思い込んでいた私の先入観は、間違いだったと気付かされました。

俳句は五感で感じ、五感で表現するもの

これは、阿波野青畝先生から教えられたことばです。見て、聞いて、触れて、味わって、嗅いでと全ての感覚、表現を駆使せよとの意味です。ひょとすると第六感も含んでいるかもしれません。

単に17文字を羅列するのではなく、披講を聞いていて耳に心地よいことばやリズムになるように工夫したり、色紙や短冊に句を揮毫するときに、どの部分をひらがなにし、あるいは漢字にし、どう配置したら見栄えがするかというようなことも考えて句を作りなさいといわれるのです。「言葉の魔術師」といわれた青畝師のことばだけにとても説得力がありますね。

照屋氏の記事を読んでいて、ふとこの青畝師の教えに通じる点があるように思いました。

ゴスペル俳句は、歴史的仮名遣いなの? 現代仮名遣いは駄目なの?

「伝統俳句=歴史的仮名遣い」ではないとすると、「なぜ歴史的仮名遣いか」という主題について、明快な別の定義が欲しいですね。

先に紹介した 『空とぶ猫』楚良のブログ の記事にそのヒントを見つけました。

虚子が唱えた「花鳥諷詠」「客観主体」を俳句の『作法』だと言ってしまえば、それ以外は俳句ではないということになります。 でも、価値観や感性は、その時代によって変化していくものだと思うのです。

従って、「花鳥諷詠」「客観主体」は『技法』と考えたほうが、すんなり行くと思いますが如何でしょう。

「作法ではなく技法」というのは面白い着想ですね。この説に便乗すれば、「歴史的仮名遣い」もまた技法の中の一だと考えるほうが納得しやすいのではないでしょうか。 つまり、著名な指導者や結社の考え、価値観は、作風・技法であって、それに共鳴できる方々がそれぞれの指導者、結社に師事を仰ぐのだと思います。

は、結社でもなく、みのる自身はプロの指導者でもありません。お薦めは「歴史的仮名遣い」としていますが、絶対ではなく作者の好みでどちらでも構いません。ただこの事に関して論じ合うことは認めません。俳句は多くの人と一緒に楽しむものだと思うからです。

山本健吉氏が「俳句とは何か」と問われたときに、「俳句は滑稽なり、俳句は挨拶なり、俳句は即興なり」と答えています。その通りだと思います。 いろんなことを理詰めで理解しようとすると堅苦しく、俳句はつまらなくなり、廃れてしまうでしょう。