やまだみのる
やまだみのる
俳句を始めてみようと志される方には二つのタイプがあります。
論理派の方は何事も論理的に説明できなれば納得できず、 句を作ることより疑問を解決するほうを優先されるのでどうしても議論になります。 どこがどうゆうふうに悪いのか指摘してほしい。何故?と悩まれる。 作るときにも論理的に句を構成しようと考えるのでなかなか句が生まれず、 やがて句を作ることにも疲れて俳句から離れて行かれるというケースが多いのです。
一方、何度「没」になっても黙々と句を作って送ってこられる寡黙派の方は、 特に説明などしなくてもめきめきと上達して行かれます。 寡黙派の方への指導はその求めの熱心さに呼応すればよいだけなので、教えるほうにとっても楽で疲れない。
GHは、「入門俳句サイト」という看板を掲げている以上、どちらのタイプの人にも対応できないと意味がないと思います。 ですから、ぼくの最大の課題は理論派の方をどうしたら導けるだろうかと言うことなのです。
プロの指導者ではないけれど、経験に基づいた理論は多少なりとも持ち合わせています。ですから議論に対して議論で応えることは出来なくはありません。事実そのように対応したこともあります。でも論理派の人は決して説明だけで納得されることは少なく、議論はまた必ず新たな議論を生み、それが解決しないと先に進めないので終わりが無いのです。
要するにいくら高等な議論で対応しても議論で論理派を納得させることは出来ないということをこのサイトの運営を通して悟りました。
あちらがよくて、こちらが悪いという意味でははないので誤解のないように願いたいのですが、 プロの俳句指導者にも実作派タイプと論理派タイプがおられます。 実作派は自らの作品の魅力で弟子を牽引していきます。 一方理論派は作品の欠点や作風について理路整然と解き明かしてくれるので、その論理に傾倒した人たちでその群れを形成していきます。
あるとき俳諧でこんな事件がありました。ある論理派がひとりの実作派の作風を批判し、公の俳句誌上で物議を投げかけました。そしてもしこの指摘に不満があるなら明快な論理で反論してみよ・・・と。 その実作派は論理派の批判には一切言い訳をせず、こう切り返したのです。
"あなたがそこまで言われるのなら、わたしならこう詠むという実作を示して下さい"
この一言で紛争は終結しました。
いくら人を唸らせるような論理を誇っても、実作が伴わなければただの空論であることは明白です。本当に実力のある指導者の論理には力がありますが、そうした指導者は多くを語りません。それは、『理論ありき』ではないことを承知しておられるからです。
サイト運営の知恵について神様からのヒントがほしくて祈っているときに、ふとこの昔話を思い出したのです。ぼくは今まで、論理派の人にどうゆう理論で説明したら、その真理を伝えることが出来るだろうかと日々悩んでいました。 しかし、この昔話のなかにその答えが隠されていたのです。
いくら議論を重ねても決して真理は見えません。
しかし、これが本物だという作品を示せば、 必ず目が開かれて真理が見えてくるはずだと思うのです。
曲がりなりにも指導者まがいのサイト運営を続けるのであれば、まず自身の作品の内容を高めてその方向を示すことが必須であると確信しました。 そのためには、ぼく自身も学ばれる方々以上に研鑚をつむ必要があると思います。 学ぶほうも指導するほうも、真剣勝負というのはまさにこのことですね。
(2001年6月12日)