青畝俳話:その主張…自選自解句集より
青畝俳話:その主張…自選自解句集より
この俳話は「自選自解 阿波野青畝句集」の巻末に掲載されたものです。
タイトルは「歩んだ道は」とあり、副題として "--その主張--" と記されています。ご自身の半世紀にわたる俳句生活を顧みて綴られた云わば「青畝ヒストリー」ですね。
その記述の端々からは確とした青畝師の俳句信念と伝統俳句への愛が感じられます。それはまた明らかに意図して書かれたものだと感じます。副題に「その主張」と記されていることが何よりもそれを証明していると思います。
俳句をはじめたばかりの読者には、俄に理解し難い内容も多いと思います。
でも直接青畝師の薫陶を受けて今日ある私にとっては、青畝師の熱いあつい情熱が伝わってきます。ゆえに師から託されたこの精神と信念とを継承し後世の人たちに伝えることが私たちの使命ではないかと思うのです。(みのる)
(ここからが俳話の本文です。)
私の生家は大和にあった。まず、生家の思い出を語ろう。
先祖は高取藩の微禄を食んでいた。母は百姓出の父を養子に入れた。父よりも年上、その上躾ぶりがきびしく、また倹約家だった。
前栽はいつも芸術品みたいに手入れがよかった。歩くときは必ず備えの竹の皮の草履をはかねばいけない。
ある日私は猿のように跣ではねまわった。庭石の高低が面白いから勢いよくとんだ。万年青は乱れ満了は折れた。母はこの現場を見て叱ったこと、---今なお思いが消されない。
よく青苔ののった前栽だった。かといって湿地ではなく、少し掘れば抵抗するかたい岩盤があった。
苔のせいで万両は元気。高いのは背よりもすごい。風があるとゆらゆらうごく。
美しくて好きな草花を取ってきても、前栽には植えられない。
万両や万年青が威ばって占領する。
鵯が万両の実を盗みにくる。代わりに肥料つきの種を蒔いてはくれた。
私と俳句とのつながりには、この万両のような因縁があるかと思う。
中学の友には短歌や詩に熱中したものが多かった。俳句を隠居道楽と軽蔑していた。はじめ私も情熱の啄木が好きで、万葉集と共に愛誦はしていた。
だが、俳句に病みついたらもう断念する考えはなかった。
それは使命を感じたからだ。隠居道楽の通信俳句を文学作品に向上させたい。今の若さの情熱と希望とは俳句でのみのらせたい。たしかにそんな野望を掲げ宿命を感じたに違いない。 人間の運命を定めるものは出会いである。
私が見ても見えないところに歯車が回っている。私が一つの歯と咬みあったら出会いで、即ち私の運命が約束される。
大正六年(1917)高浜虚子と出会いして私の進むべき方向が決まったのである。
その前に虚子を師表としている原田浜人が私を育てていたから全く偶然ではない。
困った話は国漢の担任教師の野田別天楼が、他系統の俳句をすすめたが、歯車の歯に咬みあわなかったのである。
顧みるにホトトギス俳人は当時寥々としていた。語るに友なく、ただ孤独のみ。この孤独は私の耳疾にも大きな原因となった。
父は末子の私の将来を心配した。
俳句に夢中になればなるだけ、そんなことやって飯が食えるか、と何回嘆息したことだろう。飯が食える、食えないの問題を言われると蛇のごとく嫌った。好きなことは止められないのだからと父を恨んだ。
俳句は文学であるために低俗な俳句を駆逐することだ。懸賞をつける月並み俳句が腹立たしかった。
その一面、逆に文学意識過剰の私でもあった。
十七字、この短小詩型は小説の代理にはならぬ。若い客気の私はそのことが合点できずに、一人よがりの難解俳句を作った。
虚子師はこれを喜びはしない。詰問に似た私の陳情に師はおもむろに答えた。
御不満の御手紙を拝見しました。浜人君からも似かよった御手紙をもらいました。
しかし、私は写生を修練しておくということはあなたの芸術を大成する上に大事なことと考えます。今の俳句は全て未完成でそのうち大成するものだと考えたら腹は立たないでせう。
そう考へて暫く手段として写生の練磨を試みられたならあなたは他日なるほどと合点の行く時が来ると思ひます。不取敢其(とりあえずそれ)だけを御返事といたします。
これが思い上がりの私を諭した全文である。良き詩を選んだ。良き人の薬恵まれた。出会いを得たことに心から掌を合わせている。
大正十二年(1923年)阿波野の姓をおかして都会の大阪に移った。境遇の大変化が起こった。
都会に来て初めて自然が母の如く恋しい。自然を愛する態度の不徹底さを都会に住んで痛く悔した。
処女句集『万両』はいわゆる望郷の自然詩である。都会に住みながら都会詩ではない。
大阪は十露盤の玉の動く都会である。私は角帯をしめた管理人。最も封建主義のもとに入って忍辱の修業をつんだ。
阿野家の養家は徳島県の出、もと香美の姓である。初代の曽祖父は異母弟に家督をゆずり、単身奉公に大阪へ出て商人となった。この人は書画に興味があって牧渓に垂涎した日記がある。
牧渓の省筆と気品とは、金原省吾の『東洋画論』を読んでから私に深い影響を与えた。その時曽祖父の心を私は感得した。
牧渓の示す簡素は、俳句に共通する問題だと考えた。十七字の形式を生かす途は簡素化だ。
複雑を巧緻(こうち)に省略すること。何よりも精神の集中にある。力点の付加である。それを思えば右顧左眄する八方美人の行き方を一切止めよう。
巷間(こうかん)に季題を俳句のレッテルにすぎない扱いをする。季題は圧縮した季節感情 、最も簡素なる題と認識しなくてはなるまい。
無季容認とか自由律とか新しい説をいいはじめる世の中に私は耳を藉さない。格を出るにはまず格に入る。格があるゆえに内容深化の可能性がある。こうして自然を愛する情熱をたぎらそうという私の悲願である。
簡素はよく単調や平凡と誤解された。形式の上にあぐらをかいて精神を忘れるから単調になる。古人の跡を求める自慰行動である。
唱えるお題目だけで自然は開扉せぬ。自然に親しむべく写生の修練の必要を感じた。
手段として写生の技をみがいたが、感情的になる私は満足できない。それは根本的に精神である。手段を超えた作家の写生精神を昂揚すべきであると思うからだった。
そもそも、子規が洋行帰りの画生の話から、事実を写す、粉本を避けて描く意味のスケッチを写生と称した。斎藤茂吉は写生の定義を拡張し、実相観入によって生を写すのが写生と説破した。この飛躍した説に私はおのずから同調しはじめた。
客感写生の修練を虚子師によって琢磨したために、玄々妙々の隠微をもつ自然と肌をふれる歓びを知った。観念の陳腐さをふりかえることができた。そういうとき切に一期一会という意味がわかる。
一回性のわが人生を俳句によって生きる幸福感で充実させられるか、どうかわからないが、いまは自信を持って努力をつづけようとしている。
虚子師は碧悟桐に比して顕著な主観詩人だった。師事のはじめの理由もまたそこにあったわけである。いわゆる商才にろうらくされ追従するような者ではない。
虚子の俳句は好模範で、日々心酔し来たった。この師より抜け出る努力は常に失敗する。失敗を失敗たらしめぬことはやはりけんめいな努力だ。古人の求めたる処を求むべしという目的に向って蟷螂は蟷螂なりの最善の精進をする覚悟をもっている。
私は懐疑を知らぬような人間をあまり興味におかない。
懐疑は悟入の発端をつくる。まわりみちとなってもよい。師説を鵜呑みにする人の不消化よりもその人にとって幸福となる。
夜があるから朗らかな暁に期待があるように、俳句に懐疑があって当然なのだ。爽やかに解決のある日を待つまでのあいだ焦燥苦悩は貴い経験である。この苦悩は後の悦楽を倍加するものだから。
ともかくにも私の俳句生活が五十年だ。単調ではなかった。俳句を捨てようと思った日もあり、五里霧中でやってもきたが、初めに書いたとおり、狭い苔の間に万両が育ち、その万両が処を得て伸びるがごとく、私の宿命の俳句なる文学がつきまとっていた。
大戦後、作品至上主義より、俳句生活主義に切替えることによって、われわれの日常と自然とをわれわれの伝統の血のつながりであたため、心の楽士を築き上げようと祈念している。
(俳話の本文はここまでです。)
この俳話は過去にWordファイルやPDFとして公開してあったのですが、合評俳句研究を再開するに当たり「自選自解 阿波野青畝句集」を教材として選びましたのでその巻末に記されたこの記事もウエブ上で閲覧できるように新たにHTMLファイルに書き起こしました。
印刷してゆっくりお読みになりたい方のためにワードとPDFへのリンクを貼っておきます。
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