青畝俳話:桑原武夫の第二芸術論に触れて…説かれたもの
青畝俳話:桑原武夫の第二芸術論に触れて…説かれたもの
この俳話は「俳誌かつらぎ」昭和22年4月号の巻頭言として掲載されたものです。
タイトルは「自然諷詠」ですが、副題として "第二芸術論に触れて" と記されています。ゆえに本論を紹介する前に「第二芸術論とは…」について触れておく必要があります。
「第二芸術論」というのは戦後間もない昭和21年、文化研究者であり評論家であった桑原武夫氏が雑誌『世界』に発表された小論です。その内容は俳句を徹底的に否定した書として当時の俳壇に大きな衝撃を与えました。
この論文が火付け役となり、短詩型文学の本質を問い直すきっかけを与え大きな論争を巻き起こしたのです。
しかし俳諧の牽引者であった高浜虚子はこの論に対して一言も反論せず黙し、翌春のホトトギス誌上に「春風や闘志いだきて丘に立つ」という句を発表して弟子たちを薫陶したのです。
穏やかな春風の中、新しい目標に向かって「よし、頑張るぞ!」と強い決意を抱き丘の上に立つ姿が描かれています。リーダーとしての決意や新しい時代・生活への希望が込められた前向きで勇気を与えてくれる俳句です。
気色ばって反論するは愚か、私を信じてついてきてくれ…という虚子の強いメッセージを感じますね。その姿は私には丘の上に立って弟子たちに神の国を説かれたイエス・キリストの姿が重なりました。(みのる)
(ここからが青畝師の本論です。)
よい俳句を作るには、まずものを見なくてはならない。深く見ること、じゅうぶんに心にひびくところまで見ることでなくてはならない。それには愛の気持が肝心で、ものを懐かしんで見ようと思わねばならないのである。
自然と言おうか、周囲と言おうか、私らが物を見る時の対象を、何度でもくり返して深く見ているうちには、向こうから私らになついてくる感じがする。私らは向こうから愛を呼びかけてくるのを大変幸福に思う。いつのまにか相抱擁しているといっても少しも差し支えない恍惚境が与えられるのである。
自然を軽視しそうな人はほんとうに判ってくれないかもしれぬ。また実際に自然を余り高く買うことを嫌がる人の多いことは私も知っている。これはつまり食わず嫌いというものだと思う。一度謙虚な気持ちになってみて、自然から美を捜してみようとしたらどうか。
一旦自然の美を感得したら、そのあとはお互いに交流しうる道が開けるかと思う。
愛の気持ちの通わない自然の見方は、実に冷酷な人間である。そういう人間に詩性は求められない。
愛は芸術の華である。俳句では愛を自然にふり向けることである。どこまでも自然と共にあることである。自然を離したら、よい俳句はありえない道理になる。
自然から離れるという訳でもないが、ちょっと角度を反らして他面に愛を向けようとする。そうするうちに、他面に向けることを主眼視する傾向に歩んでゆくことがある。たとえば人間の欲望に主なる興味を寄せるとする。
そして人間ということが面白くなって、追っかけてゆくならば、俳句はある限度まで膨張するが、ついに破綻の悲運を見るということになるだろうと思う。
私は常に俳句には限界があるということを言いたい。ある程度拡張してゆくことも結構だとは思うのであるが、やはり俳句は自然を中心に守りぬかねばいけないのである。
小説があるゆえ小説に行けばいいじゃないかと言わねばならぬ。小説に行くまでに連句の世界がある。連句はたしかにそのために設けられた俳人を導く世界だと思われてならない。
だから連句は今日の安全弁になると考えているので、私は連句の世界をうまく利用したいと思う。
話はいつか連句にまで来てしまった。連句のことは別に言う時があるとして、俳句は自然をよく観察するのであらねばよい句はできないわけである。
防風のこゝまで砂に埋もれしと 虚子
桑原武夫氏は第二芸術の例としてこの句を凡作視するのである。私の句「芽ぐむかと大いなる幹撫ぜながら」も例にのせられているけれど、私の句はここで何も申し上げぬことにしたい。
防風の句の面白さがどうして分かってくれないのだろうか。若い防風を砂浜に見つけてよろこぶ人でないからであろうか。自然の美としてそういうことのあるのを知らぬためであろうか。否とすれば句の解釈が不十分であって、句の醍醐味を掬し得なかったのであろう。
句の解釈というものほどわれわれにおいて厄介なものはない。句作と同じように解釈においても凡人の一知半解では甚だ困るのである。誰にでも解釈できて欲しいのだけれども、そうは問屋で卸してくれないので、もどかしく思うのみで致し方ない。
その道に長けた人があり、その人がよく解釈してくれていることによって、句の生命は伝統されつつあるし、私らも一応それで安んじる気持ちがあるのであった。
自然をいつくしみ、こよなきものとまで自然に愛情をふりそそぐならば、自然を諷詠するところの句を解釈するのは決して厄介だとは思えないのである。唯自然を軽蔑しそうな人が解釈すると、秀句でも何でも駄目にされてしまう。俳句に理解を持てない人の批判は狂人に刃を渡すのと同類である。
防風の句の面白さは、砂上に僅かに芽をのぞいていたらしい防風が、ある友の手に砂を深くのけて掘り出されたのを、唯何のわけもなく持ってこられた。そして白い茎のところを見せてここまで砂に埋もれていましたと言うて、採った際の愉快さを物語ってくれたのである。
これは早春の最も好ましいまた気の利いた季節の挨拶と受け取れるし、第一、防風のあの香りの高さを読者が嗅ぎ、春に対する喜びに胸躍らせるものなのである。この喜びを感じないのであろうか。
またこうした新しさはこれまでになかった。この新しさが作者の情懐から発していることは「句は人なり」とも言える。そこまで感じてくれたら幸福である。
つらつら思うて、桑原氏が凡作と秀作の見分けをつけえなかったことの情けなさが、私たちを不幸にすると同様に彼をも不幸にしている。
自然は誰にも彼にも公平に接する。依怙ひいきするような、そんなけちな自然ではない。私らは努めて自然の暖かい懐に飛び込もう。(昭和22年4月号)
(青畝師の本論はここまでです。)
青畝師の主張をお読みになられたあとの感想はいかがですか。あなたの琴線に響いたでしょうか。
私はクリスチャンとして、
自然=神が創造された自然
という概念がごく日常の意識の中にあります。
自然を愛することはもちろんですが神が創造された自然を敬う、自然の摂理を通して自らの生き方を学ぶ、自然から習う…という謙虚な姿勢で自然と対話することの大切さをこの俳話から教えられたように感じています。
とりわけ「句は人なり」のことばは重いですね。恩師小路紫峡先生からも「作品はその作者の人格を映す鏡であり、修練を通して人格の陶冶を目指すことこそが伝統俳句の正しい進むべき道」だと教わりました。
さかのぼって俳聖芭蕉もまた「松のことは松に習え」と教え、「物事の本質を知るためには、他の情報に頼るのではなく対象そのものを深くじっくりと観察しなさい」と弟子たちを諭しています。
知識を詰め込むよりも、実際にそのものと向き合うことの重要性 を説いていたのですね。(おわり)
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