やまだみのる

はじめに

正岡子規の『俳諧大要』は、現代俳人のバイブルとも言えるものです。

俳句は文学の一部なり。俳句と他の文学との区別はその音調の異なる処にあり。

俳句は文学の一部だと宣言し、俳句を学ぼうとする人の初学のころから達人の域に至るまでの道程を、修学一期、二期、三期というふうに区切り、それぞれに応じた俳句の作り様について解説しています。

文語体で書かれているために現代の私達にはやや馴染みにくいのですが、単なるハウツー本として書かれたのではなく、俳句未来に対する子規のあつい思いが込められていると思うのです。

原本は青空文庫で公開されています。このページでは子規の遺言たる要素に着目してダイジェストの形で纏めてみました。

 青空文庫『俳諧大要』

修学第一期【初学の人へ】

俳句をものせんと思はば思ふままをものにすべし。巧みを求むる莫かれ、他人に恥ずかしがる莫かれ。

俳句がうまくなりたいと思うのなら、思うがままにそのままおやりなさい。決して技巧にはしらないこと。他人の評価を意識して恥ずかしがる人がいるが、そんなのは一切気にしてはだめだ…と言っています。

俳句を思いついたなら、なんでもいいからとにかくメモしておきなさい。時々繰り返して口に出して読み返しているうちに、初めはうまく云えなかった言葉が見つかるかもしれないし、自分の進歩のバロメーターにもなる…と、具体的な作法も示しています。

月並に学ぶ人は多く初めより功者を求め婉曲を主とす。宗匠また此方より導く故に終に小細工に落ちて活眼を開く時なし。

古い流儀に固執する人たちの月並俳句に学ぶと初めから技術に走り、理屈をこねてうまく上手に作ろうとする。そのような指導者に教えられても小細工ばかりやる癖がついてしまって活路も開けず、開眼もせずに終わるのが落ちなのだと警告しています。

初心の句は独活の大木の如きを貴ぶ。独活は庭木にもならずとて宗匠たちは無理にひねくりたる松などを好むめり。

初学の人は独活の大木のような句を詠むべし…というのはわかるようでわからない例えですが、要は、はじめから小細工をして庭木を整えるような俳句を詠まず素直に詠みなさいということになるでしょうか。昔の宗匠たちはそれにあきたらず、盆栽のごとくにひねった松とかを好んでそういう句を作らせようとする。

宗匠の俳句は箱庭的なり。しかし俳句界はかかる窮屈なる者に非ず。

宗匠(古い約束事を固守しようとする指導者)の俳句は箱庭のようなものである。自然のまま森林を詠うのでなく、人工的で虚構な似非自然を詠うものになり下がってしまう。近代の俳句はもっと自由に諷詠してよい。窮屈な月並の世界から飛躍しようではないか。

このところを読んでふとよぎったのは、水原秋桜子が虚子の花鳥諷詠に反発して唱えた「自然の真と文芸上の真」」云々の論文である。もし仮にこの時代に子規が存命していたならば、云わずもがなと一喝したであろうと思う。

子規はこれから何年生きてゆけるかもわからないという不安の中で、薄命に火点しながら次世代への警鐘としてこの書を残したのではないだろうか。

修学第二期【俳人への道】

利根のある学生俳句をものにすること五千首に及ばば直ちに第二期に入るべし。普通の人にても多少の学問ある者俳句をものすること一万首以上に至らば必ず第二期に入り来たらん

勉学に勤しむ学生(学識経験者と置き換えるほうがわかりやすいかも)であれば五千句も作れば次なる段階に進める。普通の人であっても国語がある程度できれば一万句でその段階へ進めるものだという。

初学の第一期とは違ってかなり厳しい試練です。五千句というと仮に一日一句作る人で約十五年、もっと作る人でも十年はかかる計算になります。虚子もまた「多作多捨」という概念を説いていますが、たくさん作ってたくさん捨てよということです。

けれども、松の盆栽的な技巧派の俳句づくりをしていたのでは、とてもそのような多作は困難です。多作を可能にするためには、やはり「写生」という作句法が求められてくると思います。

さらに観念や主観ばかりではよほどの天才でないかぎり類句類想になってしまいます。そこで物を見てそれを諷詠する「吟行」という概念が必須になってくるのです。

初学のころに小細工することを覚えると必ずその癖がつきます。その癖は生涯抜けないかもしれません。だから子規は、多作をもって達人を目指すための自然諷詠の道を提唱したのです。

壮大雄渾の趣は、説き難しといへども(略)空間の広きものは壮大なり。湖海の渺茫たる、山嶽の峨峨たる、大空の無限なる、あるいは千軍万馬の曠野に羅列せる、(略)大風の颯々たる、怒濤の澎湃たる、…

写生は、天地万物の壮大な摂理をただただ諷詠すべしと言っています。まさに『ゴスペル俳句』そのものではないでしょうか。

とはいっても、それらの風景を黙々と写生することはなかなか難しいことです。しかしながら、そのような覚悟と情熱をもって句作をするのだよ…という心がまえを説いているのだと思います。

修学第三期【達人への道】

修学は第三期を以て終る。(略)第三期は卒業の期なし。入る事浅ければ百年の大家たるべく、入る事深ければ万世の大家たるべし。

俳諧大要におけるその修学の人生は、この第三期にして終ることになります。

けれども、この期に卒業というものはなく後世に名を残すような達人の域を目指すには永遠の修行が必要だというのです。この第三期というのは、正直いって私達には有名無実の感がありますが、後世の俳人たちに対する子規の期待の大きさを示しているのではないでしょうか。

さいごに

子規の遺言としての実践は第二期までで十分であろうと思います。第三期は私達への直接メッセージではなく、死を覚悟した子規の夢であり未来の日本の俳諧にたいする奨励のメッセージなのだと思います。

不思議な導きによって近代俳句の原典というべき『俳諧大要』に触れることになった私達は、この子規の遺志を継承するためにも心して研鑽しなければならないですね。

子規の最期の言葉

極美の文学を作りていまだ足れりとすべからず、極美の文学を作るますます多からんことを欲す。一俳句のみ力を用うること此の如くならば則ち俳句あり、俳句あり則ち日本文学あり (正岡子規・二十八歳)

この言葉は、修学第三期の最後の部分に記されています。自身が死してのちもなお、俳句が、文学が永遠にこの日本に残ることを切望して後世の若者達に託した辞世のメッセージなのではないでしょうか。