こんにちは、やまだみのるです。
このページは、青畝俳話集『自然譜』から抜粋してまとめたものです。
俳句は難しいものではありません。
難しくややこしくしてしまうので分からないのです。心持をごく素直にもてば素直な俳句ができてくるのです。
俳句の深浅はしばらくおいて、ものを素直に受け取って描写することが大切なことです。
いうまでもなく俳句は季節が感じられているものでなければなりません。
即ち季節詩です。季節をあらわすところの季題が必要です。
季題は、省略によって十七字なる小天地となっている文学を、連想でひろげる役目を果たそうとする働きを持ちます。
また俳句が小さい詩であるということは、即ち即興詩に適しているようです。
だから、心に瞬間に映るものをさらりと詠みたいものです。
十七字が五七五の音調であることは、詠む人の感情の波を伝えるもので、主観的な意味を文字につづらないでも、感情のリズムが生じて、ひとりでに作者の時間も共ににじみあらわれるようになっています。
それで、なるべく俳句は自然を描写するものであって、自己の思想を表白しないようにこの小天地の機能に最も適する方法をとるのが賢明の策と信じます。
俳句を作るのには季題と十七音律との二つの約束を知ってもらいたいと存じます。
季題は季節を示すもので、われわれが季節に対する感情を叙べる詩である限り、この季題を大切に取り扱うことにしています。
季のない俳句に佳い句のできるはずがありません。というのはなぜかといえば、無季は重要な連想を伴わず、孤立した小さい貧弱なものに陥るからです。
仮に籐椅子という季題を入れて俳句が詠まれたならば、作者は籐椅子を描くことによって夏の生活を連想してもらいたいとしていることが容易に察しられます。
読者側も夏の生活を自分の経験に照らし合わせて大いに共鳴したくなってきます。日本の自然や人事には季題の種類の最も豊かなことを長所としますので、季題を大切に取り扱うことは当然と思います。
次に十七音律であります。
これは誰でも俳句は十七文字だということをよく知っています。詩というものはリズムが大切で、日本語の感情の色合いはリズムに自然と現れるわけです。
感情の語を露骨に並べずとも、うたうしらべ(リズム)が雄弁に作者の気持ちを運んでくれます。
十七文字はまことに小天地です。
この小天地をしていかに生命を生かすかが作者の手腕にかかってきます。焦点を定めること、省略を生かせること、連想を起こさせることなどに技量を見せるのです。
季題もまた焦点になり、連想の基礎になってくる。その意味においても季題の必要があります。
季題を詠み入れた小天地のわずかな十七文字を、じゅうぶんに働かせるには、詠もうと思う内容を単純にしてしまわねばなりません。
我々は何でも内容を複雑にしたい欲望を起こします。世の中のことや人の感情が一口に言いあらわせないぐらい複雑であり多岐でありますから、どうしても考えることが複雑になります。
しかしながら複雑な事柄を、よく見つめて、整理してゆくと焦点が決まります。
つまり、焦点は、爽雑物を省いた結果残された最も純粋なものが要素となって浮かび上がったのです。
ですからよく見つめて、何を詠まねばならないかという内容の純粋なものに、煎じつめて、そのとき未練もなく爽雑物をふるい捨てる勇気をだします。
そういうふうに心がけると複雑であったものが、条理の通った内容となり、ごく単純な形にまとまってまいります。
単純な形ならば十七字にすることは易しい仕事であります。難しいのは複雑を単純にする操作であります。
この操作は常にファストインスプレッションをとり逃がさず、忠実に整理してゆかねばならないので、いい加減なところで妥協すると、陳腐な事柄や、あるいは只の綺麗事になって、そこには作者の心のかげも見られなくなります。
すべてのものが複雑化する時に、反対に単純化を求めるという心の使いかたをすることは、ひとり俳句ばかりでなく大切な修養であるように考えております。
優れた俳句は、それを舌に載せて声を出せば、そのリズムが胸に溶け込んで恍惚とした気分がわきます。
そのとき日本語が何と美しいものであるかと感心致します。日本人は日本語を自分の血肉同様に親しみ、つかい馴れさせています。
で、我々の日常に抱く感情を表白する時、すぐ我々の言葉を働かせます。我々の言葉が日本語であるから、日本語の働きを気をつけて観察すれば、まことに微妙繊細なものだということになります。
俳句は日本語で綴るべき小詩であります。小詩であるがゆえに一層日本語を巧みに取捨選択する必要があるのです。言葉の数を減らさねばなりません。
同じ意味の言葉があっても感じにぴったりとくる言葉をとらえた方が勝ちで、概念の説明に流れる言葉では負けとなり、句のしまりも悪く迫力も失います。
いかにすれば美しいよい言葉が拾えるでしょうか。それは私心を離れて写生したら、実感となって言葉の発見に恵まれるに疑いないのであります。
実感から言葉が連鎖的に生まれます。優れた作家はいち早く優れた言葉を掴み取ります。その言葉は血が通い、肉の一部でもあり、作者の神経が深く行き渡ってくるわけです。
我々は言葉を反省してみましょう。
俳句には、素直な心が尊ばれます。
この世の中の複雑さにひどく揉まれているうちに、我々は弱い人間ですから、知らず知らず物事を素直に見ないでずいぶん勝手な解釈をおし通しがちになります。
昔、芭蕉は「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」と言いましたが、これは易しいことに違いないのでしょうが、なかなかそうはできないものです。
自分の中に私心とか詩情とかを持っていて、つい私心を立てて間違った松をこしらえ竹をこしらえるので、本当に松という或いは竹というものの本質を掴めていないのです。
我々は自然を親しんで、それを俳句に作るのですから、素直な姿の自然を見た時に、自ずから素直な心を我々に甦らせてくれます。
そういうありがたいチャンスを、みすみす取り逃がして自分流な解釈によって自然に対することが正しくなく、いかにも悔しいことだといつも考えるのです
自然と作者とが、出合います時、作者は謙虚な態度で、あくまでも自然の懐に飛び込んでそこに融け込もうという勇気があってほしいものです。
自然はいつもの時も素直であります。人間のようによこしまな真似をやりません。
我々は安心して、自分を忘れた気持ちで、自然に随順することは、ひいて自分を忘れることではなく、自分を生かす手段であった…と、最後に我々は教えられます。
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