俳句のこころ:初学講座の第一時間

初学講座の第一時間

阿波野青畝(昭和24年1月)

芭蕉に、古人の真似をしないが、古人が誰も同じように捜しもとめていたある真実なものを自分は一生けんめいに求めなくちゃいけない、と言った意味のことばがあります。

また、虚子先生も、古壷新酒のたとえによって、詩の形式は古いのであるが、中味となる詩は新しいものでなければならない、とおっしゃっておられます。

初学の俳句作家は、まず俳句という概念にうろついていられます。

俳句とはどんなものかを知ろうとして、昔の句を聞いたり読んだりしておぼえられます。

何よりも俳句という形式を身につけておきたいためにやむを得ぬことだけれど、古人の真似をされるのが順序らしいのです。

ある真実なものというのは、自分のたましいにぎくっとこたえるものなのです。

これは自分のものなのです。

そして他人にも充分にこたえるものです。

自分のたましいにこたえて他人にこたえないというのは、根づよい真実にはなりません。

そういう自分のものであるがゆえに、自分のこころが活動していなければなりません。

つまり自分の努力、自分の創作力に俟つことになります。

初学作家は、早く俳句という概念を受けて、その概念を脱却する場合、最も勇敢な行動をとられ、そして自分の努力、それに倚って開拓されればよいのです。

概念的な世界に恋々としている人は、古人の真似をくりかえしているのにすぎず、決して伸びる人ではないのであります。

真実を求めることは真に難行であります。

なぜならば、自分のこころが動いて、他人のこころをも動かさねばならないからです。

自分のこころが動くだけですむ独善的なものでないからです。

しかし、何ごとでもやってみなければわからぬことで、独善的か否かを試験すれば、それに対して答えてくれます。

それゆえ初学作家には、よき師よき友というのが大切だと思います。すぐれたパイロットは正しい進路を命令してくれます。

よき師、よき友を選びそこねたら、だめです。

却って悪所へ通い、自分のたましいをすり減らしましょう。

写生は一番よき師よき友であります。言葉で答えないが、真実を示して教える師友なのです。

時世は刻々にうつってゆき、人間の感情は新しく変わってゆきます。

そして変わってゆく現実を底流する真実というものは、誰のたましいにもひびくものであります。

殊更に古人を真似ずとも、古人のこころと共通する一貫した強靭な紐帯のような精神があります。