やまだみのる
やまだみのる
GHインターネット句会を始めて3年になろうとしています。
最近は、毎日のように新しい登録者があります。 管理人としてはうれしいのですが、逆に不安も募ります。 GHの目指している俳句理念をよく理解し、共感して その流れを助けてくださる同士が多ければ、 句会は正しい方向に舵を保つことができます。 ところが、初心者比率が高くなりすぎると、 ゴスペル俳句として示している方向が十分に理解されず、 誤った方向へと流れが変わっていく恐れがでてくるからです。
この状況をどう修正していくかが、良質な俳句サイトとして 生き残れるか否かの分かれ道だと思います。 俳句レッスンのテキストだけでは限界があると思って、 「今日の一句合評」にも力を注いでいます。 どうぞ、このために祈ってください。 また、みなさんのご理解とご協力をよろしくお願いいたします。
今日は、ここ数週間、毎日句会の選をしていて気づいたことを書いてみます。
互選の高点句のなかに、取り合わせの句が目立ちましたが、 残念ながら季語の動くものが多くて採れませんでした。ごめんなさい。 これらは、頭で考えて句を作り、後で適当な季語をつけているか、 たまたま、そこにあった季語をつけているかのどちらかだと思います。 実感を大切にし、写生で句を作ることによって、季語の動かない確かな句が授かります。 季語に触発された心象句なら良いのですが、 虚構で創作した心象句はどうしても取り合わせの句になりますから、季語が動きやすくなります。 季語の本質をしっかり身に付けて、素晴らしい心象句を作るためにも、 初心のうちはできるだけ写生句の訓練をされる方が賢明です。
選と添削の基準についても触れておきましょう。 伝統俳句は季語(季感)が命ですから、命のない句は採れないのです。 命のない句を添削して命を吹き込むこともできないことはありませんが、 それは添削の域を超えることになるのでできません。 逆に、表現は稚拙であっても命をとらえている作品は、 その命がよりいっそう輝きを増すように添削できます。 これが添削の原則なのです。 俳句の修練は、この命をとらえることであって、その方法、手段として、客観写生がやかましく言われるのです。 表現のテクニックはあせらなくても年期が経てば自然に覚えます。
他人の秀句をまねたり、ことばを借りて作ったと思われる句もありました。 秀句の表現法を真似るのは悪いことではありません。 けれども、句意そのものを真似ることは、類句、類想として戒められます。 また、他人の句のユニークな措辞を上手に利用することもテクニックのひとつですが、 実感が伴わないまま安易に使うと、 とってつけた感じの意図が見え見えになってかえって嫌味になります。
類句類想句を見つけると、鬼の首をとったように騒ぐ人がありますが、 見苦しく愚かな行為です。無意識のうちに類句や類想が生まれることはやむを得ませんから、 そっと教えてあげるのが愛ある人の行動です。 また、類句類想をおそれず、どしどし冒険の句を作りましょう。 もしそうと気がついたり、指摘されたときは素直に認めて取り消せばいいのです。
連想や感じ方が俗から脱皮できていない作風も目立ちます。 ほとんど「みのる選」に入らない・・・と嘆かれる方の大半はこれに該当します。 これらは、全くの独りよがりか意味不明の句が多く、 残念ですがとても詩とは言えません。 またこのケースでは、ご本人はそうと気づいておられない場合が大半で、 たまたま同じような趣味の方がいると得点が入るので、いよいよ拍車がかかり、泥沼状態に陥る。 管理人としては、これを一番心配しているのです。 たくさんある俳句結社や俳句サイトの中には、そうした世俗的な思想や作り方を好むところもあります。 けれども、少なくともゴスペル俳句の進むべき道ではないと考えています。 結社や俳句サイト側は参加者を選べません。参加者のほうが選ぶのです。 ですから、GHに参加されておられる方は、 基本的にGHの趣旨に添って投稿して頂いていると信じたいのです。
以上のことは、あくまでみのるの独り言です。
(2003年06月27日の日記より)