やまだみのる

添削をさせて頂いていて気のついたことを少し書いてみました。

無料添削を希望される方は全く初めて句を作られるというケースがほとんどです。最初は無心に作られるので表現力は乏しいけれども素直なものが多く添削で直して採り易い。不安一杯で投稿された作品が添削で素敵な句に変身すると幸せな気分になり、「俳句は面白い!」ということになって本気で取り組み始める。すると俄かに入門書などを読み漁ったり、難しい言葉やひねった表現をして「佳い句を作ろう」と構え始める。このパターンにはまると必ずスランプに見舞われます。

俳句は作るのではなく「感じる」のだと言ってもなかなか実感として理解しづらい。とにかく「これでもか、これでもか」と句を作って送ってこられる方はすぐに上達するが、あれこれ悩んで句が作れなくなり自信喪失になって作句から遠ざかるという方も多い。せっかく俳句との縁が出来たのだから気楽に気長に付き合っていただきたい。

自然写生の意味を誤解して季語の説明を句に詠まれる方が多いがこれは間違い。例えばある花の美しさをいくら説明してもそれは既に了解していることなので「ああそうですか」という印象しか伝わらない。そうではなくどんな場所にどんな時間にどんな風に咲いているのかを写生するのです。また、その花の説明は一切しないでその周囲の状況だけを写生することで対比として鑑賞する人の連想によって広がりを感じさせる。これが余韻のある俳句を作る秘訣です。

漫然と自然を眺めていても感動は湧いてきません。写真のことを知っている人は「マクロ撮影」ということを聞いたことがあると思います。要するに超近接撮影なのですが、この種の写真を見ると「あっ!」と驚くような発見をすることがあります。俳句も同様でとにかく対象物に接近して焦点を絞り感動が湧いてくるまでよく観察することが大切で、そこに思いがけない発見があるのです。

歳時記をぺらぺらと繰りながら頭で考えた句をいくら量産しても進歩は無いし、苦しいだけで本当の喜びは見出せません。作句テクニックを習得することよりもまず感性を磨く方が優先されるべきなのです。歪んだ感性ではなく素直で正しい感性を身につけることが俳句修練の目的で、いいかえれば人格の陶冶(とうや)です。ひねくれた知性でひねりにひねった作品はおおよそ俳句とはいえません。

(2001年4月17日の日記より)