除夜の火は金の砂子を撒いてをり 阿波野青畝
クリスマス以降何となく慌ただしく、気がつけば大晦日でした。
お節の準備も一区切りついたようで奥様は出窓になにやらお正月の風情を飾っています。
セットになったものではなくあり合わせです。
いまはもう死語に近い季語ですが、日本の伝統的なお正月のゲームで「投扇興」というのが俳句では詠まれています。
さて、いまから今年最後のみのる選です。
その地方で羊飼いたちが野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 すると主のみ使いが現れ、主の栄光が彼らをめぐり照らしたので、彼らは非常に恐れた。 み使いは言った。
「きょうダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」
<新約聖書 ルカ福音書2章>
イエス・キリストの誕生の知らせは、苦しんでいたユダヤの人々にとって大きな喜びでした。 クリスマスを単なる世間的なお祭りとして過ごすのではなくて、本当の意味について考えてみる機会にしたいですね。 たとい苦しい中であっても、いつも神様に守られていることを感じることが出来ますようにお祈りします。
ベツレヘムの星と思へば悴まず 阿波野青畝
息災が至福余生の日記買ふ みのる
昨日までは、まだ少しふらつく感じの頭痛がありましたが、今朝おきたら随分すっきりした感じでかなり回復したみたいです。 みなさまのお祈りを感謝します。
髪の毛が黒いので、回りから "みのるさんは若い" と囃され、自分でもうっかりその気になっていたのですが、目の前に70歳の大台が見えはじめてから、一寸したことで体調を崩すことが増えてきました。
どのケースでも予兆の信号が出ているんですが侮っていました。心を入れ替えます。
明日は、初孫亮君の一歳のお誕生日、偶然ですが青畝先生の命日と同じなんです。ママのご両親も名古屋からいらっしゃるので、みんなで一緒にお祝いパーティーです(^_^)
石に彫る帰天の月日霜柱 阿波野青畝
阿波野青畝先生が亡くなられたのは、1991年12月22日(平成3年)ですから、今週の土曜日は、丁度10周年記念の日になりますね。この作品を読み返すときどうしても青畝先生の在りし日のお姿とダブってしまいます。 自分の健康が守られている限り、青畝先生、紫峡先生から教わり託された「俳句のこころ」を継承し伝えていきたいと切に願います。
ご心配頂いた首筋の凝りですが、昨日病院で調べて貰い、眼精疲労によるメニエルだというでした。早い話パソコンのやり過ぎ・・・のようです。もともと三半規管が弱く乗り物にもよく酔う体質で、夏場で疲労が重なったときに何度かおなじ症状を体験しています。
「パソコンは一日に二時間まで」と書いた紙を家内に貼られてしいました(^_^)
イエス手を翳すがごとき枯木かな 小路紫峡
何となくからだがしゃんとしないので、真向体操は休んで少し近所の公園を散歩してきました。 みなさんからご心配、お見舞いのメールを頂き恐縮です。 あさこさんが談話室に書いて下さったように、侮らず注意して養生しようと思います。
散歩道で見つけたナンキンハゼの大枯木を撮ってきました。覆い被さる曇天をうち払うかのように枝を広げている大樹を仰いでいると、ふと紫峡先生の掲句が脳裏を過ぎりました。
私たちが意識してもしなくても神様はいつも限りない愛で私たちを見守って下さっているんだなぁ~という実感があります。
GHみのる選をアップしました。個性的な作品が増えてきているようで嬉しいです。
何じかはと小言を吐けり風邪の妻 阿波野青畝
今日はアドベント第三週、礼拝堂には三本のローソクに火がともされました。 風邪でお休みされている方も多かったのではやっているんでしょうか。気をつけて下さいね。
首筋のこりがひどいので、昨日、鍼治療に行ってきました。お陰で今日は随分と楽です。
木曜日の朝にちょっと目眩がして怪しかったのですが、どうやらこの首筋のこりが原因(家内曰く、パソコン画面の見過ぎ?)だったみたいです。明日は真向へ行ってまたほぐしてきます。
炉話の即決や手を鳴らしたる 阿波野青畝
今日なんとなく、結社「ひいらぎ」のホームページを見たら、年度作家制度が休止になるということが載っていた。
40歳の時、結社のなんたるかも解らないままに冷やかし半分で入門した僕でしたが、先生の熱意に動かされて猛特訓を受けました。 以来、結社の年度作家に選ばれることを目標に切磋琢磨してきたのですが、その制度が休止されることは何となく虚しい感じがします。
年度作家は、ひいらぎに関しては、複数の幹部同人による総合点で選ばれるので、主宰の評価に偏ったものではなく実に公正な制度です。 けれども、競い合うという仕組みである以上、どうしても不平分子が出てくるのは致し方ないことです。
GHは結社でもなくメンバーの数も少ないので和気藹々ですが、大勢で切磋琢磨するとき、得てして闘争心、見得や尊厳というような悪魔の働きに支配されて自らを冷静に見つめる謙虚さを失いやすいので注意が必要です。
僕は師事をしたお二人の先生から、とにかく個性と人格とを磨くように教えられました。よき個性というのは人格の陶冶から滲み出るもの・・・という意味ではないかと思います。と同時に数千人の弟子を導いて行かれるためにどれだけの心血を注いでおられるかと言うことも間近に見てきました。指導者のその為人に習うこともまた結社で学ぶことの意味ではないかと僕は思います。
息災が至福余生の日記買ふ みのる
今日も気持ちのよい朝日が差し込んで温かくなりそうです。
昨日は子午線句会の納め句会でした。
いろいろとメンバーの事情が重なり出席者6人のやや寂しい句会でしたが、神様に守られて無事一年間を導かれたことを感謝してみなでお祈りしました。
来週はいよいよ GHの納め句会ですね。
体調を崩しやすい時期ですのでみんなが元気に揃って一年間の感謝が出来るようにお祈りしています。
埋火をさぐれるちんば火箸かな 阿波野青畝
今朝の神戸は少し凍てが緩みました。この時期はまだからだが馴れていないのでいろいろと体調を崩しやすいので気をつけて下さいね。
いよいよ師走本番、駅頭の街路樹はみな裸木になってしまいましたが、夜には華燭を纏ってクリスマス気分を盛り上げています。 振り返ってみれば、完全退職して GHメンバーのみなさんと一緒に吟行できるようになってから2年が過ぎようとしています。 プロでもないそんな僕に付き合ってくださり、支えて頂いていることを心から感謝てします。
ところで、ぼくは毎朝、GHのページを開いたときに青畝先生の一句を見るようにしています。
"青畝先生おはようございます。"
という感じの挨拶がわりなんですが、何となく力が頂けるようなそんな気がするのです(^_^) 合評記事もときどき読み返して懐かしんでいます。
昨日は家庭集会でした。毎月、みのる庵を開放してキリスト教の家庭集会をもっています。
教会から牧師先生にも来て頂いて賛美歌を歌ったりやさしい聖書のお話しを聞きます。そして集会の後は持ち寄りのお菓子とお茶で楽しい交わりのときを持ちます。
今月は、少し早いですがクリスマスの感謝を兼ねての集会でした。 いつもはそれぞれの近況などをお喋りするのですが、昨日は、みんなで「よかった探し」をしました。
一人づつ順番に今年一年間で体験した「よかったこと」を証しするのです。それぞれのよかったを聞いているうちにだんだん恵まれて幸せな気分に満たされます。よかったことを集まったメンバーで共有することで、その恵みが倍増していくのだと思います。
マイナス思考で生活していると、よかったことはなかなか見つからず、出てくるのは悔いばかりです。たとい事故や病気などマイナスなことがあっても、この程度で済んでよかった、回復できてよかったとプラス思考で感謝できれば、勇気や希望につながります。
ぼくの今年のよかったこと・ GHバージョン(^_^)
- 今年もみなさんの協力を得て一年間 GHの活動が続けられたこと。
- 新しいメンバーが句会に参加して下さるようになったこと。
- 添削指導で熱心な方がつぎつぎと与えられていること。
- この一年間で GH全体のレベルがかなり底上げされたこと(昨年と今年のみのる選を比べるとわかる)。
- 一年間途切れずに近詠を発表できたこと。
- みんなで祈っていたあさこさんが復活して下さったこと。ご長男のお嫁さんも句会に参加して下さったこと。
- 明日香さんも少ずつ元気になられているとのこと。
- その他の GHメンバーもそれぞれいろんな重荷を背負いながらも互いに励まし合って頑張っておられること。
来週の忘年句会で、ぜひみなさんのよかったことも教えて下さいね(^_^)
"世界には65億人の人がいるが、もしこの世界を100人の村に縮めてみるとどうなるでしょう。"
先週の日曜日(12/2)からアドベント(待降節)に入りました。 街のあちこちに賑やかにクリスマスツリーが飾られ、夜には華燭が氾濫します。でも本当のクリスマスとは何でしょうか。
毎年この時期になると、表題のメッセージを思い起こします。
お金に執着することなく 喜んで働きましょう かつて一度も傷ついたことがないかのごとく 人を愛しましょう 誰も見ていないかのごとく 自由に踊りましょう 誰も聞いていないかのごとく のびやかに歌いましょう あたかもここが地上の天国であるかのように 生きていきましょう
2001年3月、ワシントン DCにある世界銀行本部に勤務されていた中野裕弓(なかのひろみ)さん宛てに元同僚から届いた一通のメール。 このメールの "メッセージ" に心揺さぶられた彼女が、メッセージを自ら翻訳・発信したことで日本にも広がり、テレビでニュースになったりドラマや本にも描かれました。 当時から10年以上の歳月が過ぎましたが、このメッセージは今もなお生き続けて、地球平和のあり方と、私たちの世界観に対して大切な道しるべとなっています。
教会学校の奉仕をしていたときクリスマスになるといつもこのメッセージを子どもたちに伝えました。GHのみのる日記でも何度か取り上げていると思います。 自分自身が不遇だと落ち込んだときにも、このメッセージを読み返すと勇気が湧いてきます。
俳句を詠む私たちの姿勢についても教えられます。 揶揄的な視点で句を詠んだり、無季や破調の句風を面白おかしいとする世界は間違っているとぼくは思います。 愛の目と心を持って自然の営みに習うという謙虚な姿勢が俳人としての責任だと思うからです。 自らの作品を通して、周囲の人を幸せな気分にさせるような、そのような日々の感動を句に詠みこんでいきたいですね。
今日は、このメッセージの原訳者である中野裕弓さんのオフィシャル WEBサイトをみなさんにご紹介しますので、ぜひご一読下さい。
今朝の神戸は、日差しは明るいのですが寒風が吹きすさんで、ときおり間遠に虎落笛も聞こえます。
追加の鑑賞がないようなので、みのる作品の合評欄にコメントを書きました。できればもっと多くの方が合評に参加して欲しいです。
俳句の鑑賞というのは、必ずしもその作品の句意を直訳することではなく、その作品を読んで自分が何を感じたか、連想したかと言うことが大事です。具体的には下記のお二人の鑑賞文が参考になると思います。
落柿舎にいとま心や添水打つ
菜々解:「いとま心」の措辞に「もう少し居たい」という作者の気持も感じました。
苦吟する吾に一喝添水打つ
よし女解:落柿舎での作品だと思いますが、固有名詞がないので普遍性があり作者の内面も伺えて好きな句です。
作品をとおして作者の内面を探る、読み込まれてはいない周囲の情景や包み隠された感情(主観)を連想する。こうした訓練が作句にも活かされてきます。客観写生というのは感情(主観)をもろに表現しないための手法であり訓練なのです。目に見える表面的なことだけで句を詠むと報告になりがちです。対象物の内面まで探って心が動かされたときにその感動を写生するのが本物の客観写生です。
時間をかけて対象物と関わらなければ内面までは見えてきません。そのことを意識して次々と忙しく移動するのではなくて、ここと決めた一カ所で頑張るという吟行スタイルに少しずつでも変えて行かれるといいです。そのためにも合評掲示板で積極的に鑑賞文を投稿して観察力の訓練をして欲しいです。
同じ作品であっても鑑賞する人によって感じ取るものは違うと思います。複数の方が合評に加わって下さることでその学びがさらに有用なものとなります。過去の作品でも構いません。好きな作品だけでは無くてぜひ、全句に挑戦してみて下さい。作品を深く深く味わう訓練が出来るともっと俳句が楽しくなりますよ(^_^)v
いよいよ今年も師走を迎えました。私たちの身辺もいつも平安な日々ばかりではありません。思いがけない苦難もやってきますが、祈りつつ慰め励ましあって乗り越えていきましょう。
今朝、なにげなくお庭を見ていたら、バードバスに四十雀の番がやってきました。仲良く水浴びをしたあと、すっかり葉を落としたアオダモの梢でしばらく羽づくろいをしてから翔んでいきました。 お庭を改造する前には、樫の木に吊した巣箱にきて営巣したこともあるのですが、近隣の自然林が開発されてからは、お庭で営巣する小鳥たちを見なくなりました。来年は期待できるかも・・・
小鳥や小動物たちの営みを観察していると本当に励まされます。厳しい自然との戦いの中で賢明に生きているからです。 私たちもいろいろとめぐってくる神様の摂理に逆らうことは出来ませんし、自分で自分の運命を変えることも出来ません。 小鳥たちのように明日を思い煩わず、今日生かされていることを感謝し喜んで生活したいですね。