ただの報告の句だと思わないでほしい。猫が窓辺にまどろんでいるという状況に季節感はないが季語を菜種梅雨としたことで句意は恋猫(春の猫)の哀れを詠んだ作品として命を得るのである。
春も闌となり猫族にとっても恋の季節の到来である。ところが来る日も来る日も雨が続いてなかなかラブハントに出かけられない。やむ気配のない長雨を恨めしそうに窓越しに眺めながらふてくされて居眠りをしているのである。哀れでもあり滑稽でもある。
寒く長い冬が明けると待ちに待った温かな春が到来する。本来なら気分も明るくなりのどかな日々となるはずなのに、なんとなくわびしく物憂い気分に襲われるのもまた春なのである。
若者にとっては学校や職場での人間関係であったり、老人にとっては歳を重ねることで何かと複雑な思いがある。遠く離れた娘からの存問の電話越しゆえに気が緩んで長々と愚痴になるのであろう。これもまた親孝行と忍耐している作者の様子も目に浮かぶ。
原句の「今朝の雨」を「昨夜の雨」に添削した。原句だとそれが何時やんで晴れたのかが曖昧で、夜のうちに降った雨が朝にはやんで朝日が射している…という情景にしたほうが具体的になる。
俳句は報告ではなく文芸なので実感で得たものを推敲し、上手に嘘をつくことでストーリが生まれ、絵画的な作品に変身するのである。虚構や美辞麗句で構築したものはすぐに見破られる。実景を見て写生したものは原石、それを推敲で磨いて玉に変えるのである。
日本にある書店の数は、この20年ほどで半数以下に減った。書店が大幅に減少している背景には単に本が売れなくなっているという要因だけではなく日本独特の出版産業の構造があるといわれる。
日本の書店は雑誌の販売で利益を上げてきた。IT文化への変遷で雑誌が売れなくなったのである。永年通い親しんだ揚句の大店もシャッターが降ろされ閉店通知の札が貼られていた。本来なら山積みの新春増刊号で賑わうはずだったのにと虚しさを感じているのである。
3月下旬になると顔を出し始めるつくし、畑や田んぼなど土のよく肥えた日当たりのよい場所にあちこちでたくさん生えている。旬の味覚を味わいたくてつくし狩りに出かける人も多いですね。
つくしの頭の部分が傘状に開いたものが「つくしの花」だそうで、味は特段変わらないと思うのですが、料理するときの見栄えを考えて傘の開ききっていないものを選んで摘むのが秘訣だそうです。なるべく形の良いものを…と目移りしている状況が伺えて滑稽ですね。
風花とは晴天の日に雪が風に舞うようにちらちらと降る現象で、普通の雪と違うのは穏やかな日差しをかき乱すかのように突然降りだすのが特徴と言える。日照雨の雪バージョンのイメージですね。
明るい日が射して穏やかな吟行日和だったのに突然前触れもなく激しい寒気と風花に覆われた。傘もなく避ける術がないので、やむなく近くの茶店へ逃げ込んだのであろう。そのうち通り過ぎるだろうと温かいお汁粉を頂きながら一息ついているのだ。
交番が無人になる主な理由の一つは、警察官が地域パトロールや緊急対応に従事していることです。二人勤務という時代もあったように思うが昨今は人員不足もその要因なのだろう。
通りすがりにふと覗くと机に飾られた可愛い手作りの紙雛が寂しげに見えた。地域の子どもたちからのプレゼントだろう。「留守番は」の措辞によって無人であることもわかり、紙雛に通わす作者の情と地域に密着した駐在の親しさと温かさが伝わってくる。
一読ストーリー性のある作品で、読者の連想次第で幾通りもの物語に展開する。これこそが短詩系俳句のもつ最大の魅力であるが、同時にそれを探るための鑑賞力も求められるのである。
亡くなったことを知らずに届いたのか、遺族を励ますためにあえて故人名で届いたものなのかによって展開が異なる。春便りの季語は存問の意を伴うので故人を偲ぶ気持ちを込めて送られてきた後者ではないかと想像すると差出人の温かさも伝わってくるのである。
私もそうだが高齢になると命のことについて深く考えさせられることが多くなる。必ず死を迎えることは理屈ではわかっていても達観して心穏やかに暮すことは難しいのである。
穢れのない無垢の寝顔を見せていた嬰がふと身じろぎ伸びをしたとき握りしめていた拳が緩みはっきりと生命線が認められたのであろう。これから始まるであろうこの赤ちゃんの夢と希望に満ちた長い人生に思いを通わせつつ生命の尊厳を感じたのである。
宝蓋草(ホトケノザ)は葉の形が仏様が座る蓮華座に似ていることに由来しているという。こぼれ種が秋に発芽し越冬して翌春にかけて生育する一年生冬雑草(越年草)である。
手つかずのままの荒地となったが草々は逞しく生命をつないでいるのである。大地を埋め尽くすほどに咲き満ちたそれはさながら浄土のようだ。仏と浄土の取合せがやや憑きすぎとの指摘もあろうが、自然の摂理へのリスペクトが感じられるので良しとした。
蚕糸業が衰退したのは和装需要の減退、安価な輸入糸や二次製品の増大等による生糸価格の低迷等によって養蚕農家や製糸業の経営状況が悪化し離業者が増加 したことである。
かつては多くの生命を育んだであろう桑の老木である。放置され乱れ放題ながらも春になって健気に芽吹いている。昨今の蚕糸業は自然死に至りかねない危機的な状況にあり、季語としてもまた死語になりつつある。時代の変化とはいえ儚さが募る情景である。
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