釣りには、磯釣り、船釣り、川釣り、池釣り、波止釣りなどと様々なスタイルがある。揚句は海に面した沖一文字波止で互いに適当な間隔を保って糸を垂れている釣人たちの姿かと思う。
四六時中釣れるわけではなくて時合というタイミングがある。ことに朝まずめ、夕まずめは、餌となるプランクトンが動き出して魚がよく釣れることで知られる。夕まずめどきを期待して立ち並ぶ太公望たちに西日が差してその影が波止に伸びているのである。
毎日使う包丁は、お肉や野菜などを切ったりしているうちに刃先が摩耗して尖っていた状態から丸くなってしまい切れ味が悪くなるので定期的に研いでメンテナンスする必要がある。
奥様のリクエストで包丁を研いだのであろう。「研ぎ終わった包丁でトマトを切ったら…ビックリ! トマトを押さえずに片手で包丁を横にスライドさせただけで、こんなに薄く切ることができました!」というテレビコマーシャルのワンシーンを連想する。
ひと昔まえは油蝉と熊蝉を聞き分けて楽しんだりもしたが、近年は地球温暖化のせいか油蝉はほとんど見かけなくなり騒音のように熊蝉が叫ぶばかりで風情がなくなった気がする。
俳句では、日盛りの蝉時雨のほかに朝蝉、夕蝉などと表現してその風情を詠み分ける。蝉時雨には序破急がありひとしきり啼いては一休みしてそれを繰り返すので、遠近掛け合いのように聞こえてくるそれを「左右の耳の」と捉えたところが上手いと思う。
京都鷹ヶ峯の名刹、源光庵には「悟りの窓」と名付けられた丸窓と「迷いの窓」という名の⾓窓がある。悟りの窓の円型は「禅と円通」の心を表し、円は大宇宙を表現しているそうだ。
秋にこの窓から見える真っ赤な紅葉の庭は特に美しいといわれるが揚句の季は若楓の頃かと思う。本堂に座して静ごころに庭の緑を眺めながら無為の至福時を得ているのであろう。悟りの窓ゆえにより涼しさを覚えるのであって、迷いの窓では心落ち着かない。
夏の季語である藍玉とは、藍の葉を発酵・熟成させた染料である蒅を突き固めて固形化したもの。現代では化学染料で藍色が出せるようになり、藍玉そのものの生産は衰退しているという。
匂いの正体は、“藍玉菌”というバクテリアの活動によるものだそうで、チーズや納豆・糠床のような匂い、また土っぽいような鉄っぽいような匂いなどとも。各地の伝統工芸館などで藍染体験ができるそうで、藍玉に焦点を絞って工房の雰囲気を的確に伝えている。
瀬付き鯵は回遊性の鯵(沖あじ)と違って、瀬に居ついているため餌をたっぷり食べ脂がのってふっくら肉厚なのが特徴。旬の時期は春から夏にかけてなのでこちらを主季語と捉えたい。
山口県萩沖には天然礁(瀬)が多く、プランクトンやシラスといった餌に恵まれているため、鯵が定着しやすい環境だと云われる。萩のそれは特に美味だそうで「萩の瀬付き鯵」と呼ばれて全国的に有名なので揚句の「萩の」の地名は動かないのである。
今週は題材として新しさのある作品に惹かれた。二番煎じや類想を避けるために新しい句材に目を向けたい。
秋に種を蒔き翌春(3~5月)に収穫するものを春キャベツという。巻きがふっくらとしていて柔らかく葉が瑞々しいのが特徴。特に出始めの3月~4月初めのものを新キャベツと呼ぶ。
田舎暮らしの近所付合いは構えるところがなく、気さくなエブロン姿で隣家を訪ねておしゃべりしたあと「これ持って帰って!」とお裾分けされたのである。エプロンを広げるほどなので一個ではなかったかも知れない。長閑な田舎生活の日常風景である。
魚道とは遡行を助けるために設けられた魚専用の水路のこと。急斜面を下る川では流れを弱めて川床を保護するために堰やダムが設けられて遡行を妨げるので別に魚道が必要となる。
魚道に設けられる堰は魚たちが自力で遡行できるよう低く設計される。町中の魚道は暗渠のものが多いが揚句のそれは開渠になっていて涼し気な水音を奏でながら勢い良く流れているのが眼前に見える。ときには遡上魚のはねる姿も見えるのかも知れない。
モダンな都会風のカフェではなく村人や旅人などが気さくに立ち寄れる古民家風の建物であろう。地産の食材や生活用品などをも提供する道の駅を兼ねたような佇まいを想像する。
カフェの主人もまた暇々に手づくりの野菜などを育てていてそれも店頭に並べて提供しているのであろう。今年は適当な降雨と好天に恵まれたので西瓜が大豊作、注文された飲み物や軽食とは別に自慢の甘い西瓜を切って無料サービスしているのである。
夏期テストの季語が期末テストを意味するのかあるいは学習塾などで行われる夏季学力診断テストを意味するのかで鑑賞内容が変わってくるが上五中七から連想すると後者かと思う。
学力診断テストは、受験結果に基づいて適切な学習アドバイスを受けられるという仕組みで、新学期に向けて最適な学習をスタートするための目安を判断するもの。期待していた結果が得られずに落ち込んでいる受験生を面談の先生や保護者が励ましているのである。
季語は「バナナ」で夏。いまでこそ年中見られるが、昔は台湾や南洋を象徴する珍しい果物で且つ高価だった。栄養価が高いので病気になった時にしか口にできなかった記憶がある。
ここ数年の猛暑は、異常気象を通り越して定常化しつつある。あまりの暑さのゆえに食欲も減退し日に日に体力の衰えを覚えたので、これではいけないとバナナで栄養補給をしているのである。季感の薄れたバナナの季語を上手に活かしたところが非凡である。
書を晒す、曝書という季語を踏まえた作品である。曝書とは蔵書を陰干しにして風を通し虫に食われたり黴たりするのを防ぐ書物の虫干しのこと。和装本の時代に生まれた季語である。
父が俳句に親しんでいた当時、作者は子育てに追われる日々で俳句どころではなかったが時を経てようやく俳句に親しむ日々を得た。手ずれでボロボロになった遺愛の歳時記を晒しながら、いまになってようやく亡き父と心が通い合うような心情を覚えたのである。
昨今は事業形態のひとつとしてさまざまな商品の無人販売所が増えているが、揚句の場合は、畑に隣接したような農道沿いに設置された掘っ建て小屋のような簡易な野菜販売所だと思う。
専業農家ではなくて自給を満たしてなお余る収穫を道行きの人に安く提供しているのである。畑仕事姿のまま日焼の手を伸べて野菜を並べている農夫に声をかける。手に焦点が絞られているが朴訥で親しみやすそうな笑顔の日焼顔もまた目に浮かぶのである。
一読世界遺産チェコのプラハの街を連想した。北欧の国々には街のあちこちに美しい尖塔が抜きん出ている。それは古城であったり大聖堂であったり街のシンボルとして親しまれているのである。
それらはみな古く長い街の歴史とともにそこに住む人々の誇りであり旅人たちには得も知れぬ旅情を与える。作者の位置はその街を見下ろせるような高台にあるのではと感じさせる。尖塔を掠めるように自在に飛びまわる燕たちの姿も又平和の象徴だと思う。