梅雨の季節を迎えると引いても引いても切りがないほどに日ごと雑草が伸びてくる。中腰にうち屈み噎せ返る暑さに耐えながら土と汗にまみれての草引きは老骨の身には厳しい限りである。
体力の限界を越えても終わりの見えない草引きの姿勢に足腰が耐えきれず、やがては四つんばいの姿勢になり膝頭も地面についていざるように草を引き続けるのである。その姿はまるで強い夏の日が落とす己が影に畏まって侍っているようだというのである。
せめぎ合う青海波のように大輪の毬を犇めき翳して咲き誇る紫陽花は梅雨のこの時期がもっとも見事で美しい。けれどもひと度長雨に打たれると己が重さに耐えきれず忽ち項垂れてしまう。
大輪種は持ち直すことも難しく、やむなく早めに剪りとって手入れされる。揚句では剪りとられた紫陽花の毬を大きな手水鉢に浮かべて鑑賞させているのであろう。そしてそれらは、あたかも安寧の場所を得たかのような安らな表情を醸しているのである。
稲のわら、雑草などを巻き込んで何度か田起こししたあと、肥料をまき耕運機などで混ぜ合わせて田植えの準備が整う。やがてすべての田に水が満たされ五月空を映した美しい代田の景が広がる。
田植え機で苗を植えたあと、苗の切っ先が見える程度まで更に水を張り満たしてようやく一息つき、その後は日ごとに巡回して苗の成長を見守るのである。ようやく風に靡くまでに伸びてきた苗の様子を眺めながら収穫までの平安な日々が守られるようにと祈る。
夏は雑草も勢いよく成長しいたるところにはびこる。暑いさなかにしゃがんだり腰を曲げたりして草取をするのは大変な重労働なので早朝などの涼しい時間帯を選ぶことが多い。
朝日といえども夏の直射日光は厳しいが、幸い太陽高度の低いこの時間帯は東側の隣家が良き陰を落としてくれるのでそれを頼みに勤しんでいるのである。「隣家の影の失せぬ間に」の措辞は実感とユーモアがありこの季語の例句として非凡である。
今年も初鰹の季節がやってきた。この時季に獲れる鰹(別名・上り鰹)は、フィリピン沖から黒潮にのって北上してきたもので、秋口の「戻り鰹」と比べ赤身が多くさっぱりとした味わいが特徴だ。
生の鰹は刺し身もいいが、「たたき」で食べるのが一般的、茗荷や生姜、ニンニクなどたっぷりの薬味にポン酢やしょうゆをつけて食べるのが一般的だが昨今は「塩たたき」も知られるようになった。鰹の本場高知ならではの食べかたを満喫しているのである。
昨今は家庭園芸ブームといわれ自宅の庭で山野草などを育てて楽しむ人が増えている。その結果、雑草には見えない名草なども風や小鳥たちによって運ばれて思いがけない場所で芽を出すことがある。
ひと目で見分けがつかず、ときに「これ何?」というものも多い。しかも揚句のそれは蕾までもっていていぶかしい。私はその昔に躊躇なく引いてしまって大目玉を食らった苦い経験があるが、作者はその正体がわかるまで蕾のあるものは引かずに残したのである。
ジャガイモの芽とその芽の根元には、天然毒素が含まれているといわれており料理するときはこれらの部分を取り除く…と料理教室で学んだ。作者はその部分を笑窪と表現したのである。
新じやがなのでそうした芽はまだ深くないと思うが、採れたては皮が薄くタワシでごしごし洗うわけにいかないので、手のひらでこすってやさしく丁寧に水洗いするのであるが、笑窪の奥に黒点のような土が残るので爪先ではじいては除去しているのであろう。
市街地にある公共のバラ公園であろう。薫風の五月、お天気のよいこの日は大好きな先生に引率されて保育園児や幼稚園児たちが色とりどりの帽子をかぶって公園内を散歩するのである。
薔薇の花はちょうど園児たちの目線の高さに咲くものが多いので、左見右見しながらぺちゃくちゃと賑やかである。やがてお散歩の列は薔薇アーチに差し掛かる。立ち止まって天辺の花を指差したりバンザイをしながら歩いたりと興奮やまない園児たちである。
江戸時代には夕涼みがてら蛍を捕まえて遊ぶ「蛍狩」がさかんに行われた。その様子を描いた浮世絵を見ると道具には、うちわ、扇子、竹や笹の葉、虫捕り網などが使われたことがわかる。
昨今はどこも原則禁止のところが多いが一時的に捕まえてその場ですぐに放すことは大丈夫とされる。揚句は捕まえた蛍を幼子の両手包の中へそっと移してあげているのである。逃さないように慎重に息を凝らしての緊張感とドキドキ感が伝わってくる。
生産地に近い地域の野菜売り場か朝市の風景であろう。トマトは採れたてから2日間くらいがピークだと言われる。要するに採れたてが一番美味しくそれ以降は劣化の一途をたどる。
トマトは今日の買い物予定には入ってはいなかったのであるが、採れたてだといわれると買うしかない…というような衝動にかられてついつい買ってしまったのである。作者は採れたてトマトの美味しさを体験で知っているのである。
「髪洗ふ」は夏の季語。 角川文庫『新版俳句歳時記夏の部』に「夏は婦人は汗と埃で、頭髪から不快な臭気を発するので、たびたび洗わなければならない」とあります(男も同じですが……)
女性は男性より長髪が多いので髪洗うが季語になったものだと思う。お庭かボランティア園丁などで草引き作業をして土にも触ったので普段より念入りに髪を洗ったのであろう。日の匂ひ土の匂ひ…という措辞が上手く、今日一日の作業を具体的に連想させている。
撫牛とは、自分の身体の病んだ部分や具合の悪い部分をなでたあと、その牛の身体の同じ箇所をなでると、悪いところが牛に移って病気が治るという俗信であり、風習である。
天神さまにとって牛は神のお使いとされているので天満宮の境内には多くの牛が鎮座している。みなに撫でられるのでどの部位となくてかっているが夏の強い日差しと汗ばんだ手で撫でられるので、てらてら…という擬態語をつかって汗びかりの感じを表現した。
晩春から初夏にかけては蝶の他にもいろいろな小動物が繁殖のために庭中の草木に卵を産みつける。うっかり油断していると孵化して毛虫や青虫となって新芽や若葉を食べ尽くすのである。
園芸を趣味とする人は、この時期朝ごとに存問して毛虫を見つけたら即座に獲って退治するのであるが、作者は綺麗な蝶になる毛虫だけは見極めて許容しているのだ。半端な妥協を許すと後悔するのであるが特にこだわりのある美しい蝶の毛虫なんだろう。
ボランテイア園丁さんたちの薔薇手入れの様子を注意深く観察していると、散りかけている花だけではなくまだまだ鑑賞に耐えると思われるものも潔く剪られていくのに気づく。
その理由を尋ねたことがある。天気が良く陽射しが強くなりそうな日は、朝は元気そうでも昼過ぎには散りはじめるのでそれを見極めてそのたぐいは朝のうちに剪るのだという。早めの剪定によって次なる蕾が促進されて結果的に長期間楽しめる…のだとも。納得!
六甲山の山頂には天狗岩と呼ばれる巨石がある。明日香の地にも鬼の雪隠石などと親しまれて「こんなところにどうして?」と思われるような巨石が山中に存在する。
眠りから覚めた山々も夏闌になると青葉が茂りはじめみるみる膨れる。揚句の巨岩はその万緑を抜きんでてなお存在感を主張しているのである。山は見る方向によって異なる表情をもつが揚句は横顔から巨岩の鼻がつき出ているように見えるというのである。
ビルの谷間とあるのでビルが林立するビジネス街を連想した。よく似たビルが立ち並んでいるので迷いながらメモした住所と名前を頼りに目的のオフィスビルを探し歩いているのである。
白日傘の女性は羅をまとった上品な高級バーのママさん。請求書をもって訪ねるような無粋なことはしないと思うので手土産をもって贔屓筋の商社などへの挨拶回りをしているのだと連想を膨らませてみた。私の勝手な推量なので間違っていたらごめんなさい。
信州・信濃といへば「日本の屋根」と呼ばれる標高三千メートル級の山々がそびえ、豊かな森林と清流が織りなす雄大な自然の景が浮かぶ。またコシヒカリで有名な米どころでもある。
高き信濃の空…の措辞は、そうした山々を従えるように広がっている青空であろう。広々とした信州平野には山清水を源流とした田水が満たされ美しい代田の景が展けている。そして水面に映し出された青空は遥かなるアルプスの山々にまで続いているのである。
薔薇は5月の中旬頃から見頃となり各所の薔薇園には老若男女が集って大いに賑わう。地域のバラ公園などではたくさんのボランティア園丁たちがかり出され手入れに余念がない。
雨に打たれたり強い陽射しに倦んで傷みが見られる花は惜しみなく早々と剪られていく。次なる蕾をうながすためだと教えられた。剪られた花殻は土嚢袋のようなのに集められるのであるが、その袋からほんのりと薔薇が香っている。花の命を慈しむ気分がある。
芭蕉の新しい葉が巻かれた状態にあるものを「玉巻く芭蕉」といい、この巻葉の解けるのを「玉解く芭蕉」という。いづれも初夏の季語であるが巻葉の解ける五月頃の芭蕉が一年を通じて最も美しい。
風雨に嬲られてぼろぼろになった古葉を項垂れていた芭蕉が、初夏になり巻葉を立ち上げてきたので注意していると、とある日の通勤帰りであろうか玉を解いたばかりの瑞々しい新葉が夕風をいなしてしっかりと自己主張しているのに出会って感動したのである。
若葉風といえば初夏、更衣の時候である。通勤のOLたちもスーツやジャケットを脱いで軽装のブラウス姿が目立つようになり、街路樹もまた若葉に満ちて明るく風薫る快適なシーズンを迎える。
ブラウスの中を風が通り抜ける…という大胆な表現が新しいと思う。女性がブラウスを着こなす場合、たいてい第二ボタンあたりまで外してネックレスなどのジュエリーが見えるようにすると思うので胸元を風が通り抜けるという感覚も頷けるのである。
高浜虚子の代表句に「白牡丹といふといへども紅ほのか」がある。白牡丹という名の花だけれど、よく見ればほのかに紅い色が差しているよ…という意味である。
大輪の牡丹は美しいが故に命の儚さをも思わされる。虚子の句を意識したか否かはともかく、作者もまたよく観察しようと白牡丹に顔を近づけた。ふとそのとき牡丹に映った自分の影が、あたかも白牡丹自身が憂いの表情を見せたかのように感じたのである。
原句は「まなかひに」であった。嘘をつけない作者の性格がそう詠ませたと思うけれど、校歌に歌われた故郷の山を賛美するのであれば母校の教室の窓から見えるほうがより親しい。
ことあるごとに愛唱した校歌に繰り返し歌われ、晴の日も雨の日も四季折々の表情を見せながら登下校や校庭で遊ぶ子どもたちを見守ってくれた山。いうなれば親友のような存在の故郷の山なのである。今年もまた新しい年度となり新緑を湛えているのである。
三尺寝は夏の季語として分類されるが猛暑の炎天下でこのシチュエイションはありえないと思うので晩春か初夏の設定ではないかと思う。里山などでのんびりとした農風景として鑑賞してみよう。
農具や肥料などの資材を軽トラに乗せて畑に横付けし、午前中の作業を終えて昼食をとったあと暫く休息の仮眠をしているのである。軽トラの場合は背もたれを倒してというわけには行かないので運転席に横向けに寝てなお余った足を窓から出しているのである。