ビルの谷間とあるので高層ビルの林立するビジネス街を連想した。よく似たビルが立ち並んでいるので迷いながらメモした住所と名前を頼りに目的のオフィスビルを探し歩いているのである。
白日傘の女性は羅をまとった上品な高級バーのママさん。請求書をもって訪ねるような無粋なことはしないと思うので手土産をもって贔屓筋の商社などへの挨拶回りをしているのだと連想を膨らませてみた。私の勝手な推量なので間違っていたらごめんなさい。
信州・信濃といへば「日本の屋根」と呼ばれる標高三千メートル級の山々がそびえ、豊かな森林と清流が織りなす雄大な自然の景が浮かぶ。またコシヒカリで有名な米どころでもある。
高き信濃の空…の措辞は、そうした山々を従えるように広がっている青空であろう。広々とした信州平野には山清水を源流とした田水が満たされ美しい代田の景が展けている。そして水面に映し出された青空は遥かなるアルプスの山々にまで続いているのである。
薔薇は5月の中旬頃から見頃となり各所の薔薇園には老若男女が集って大いに賑わう。地域のバラ公園などではたくさんのボランティア園丁たちがかり出され手入れに余念がない。
雨に打たれたり強い陽射しに倦んで傷みが見られる花は惜しみなく早々と剪られていく。次なる蕾をうながすためだと教えられた。剪られた花殻は土嚢袋のようなのに集められるのであるが、その袋からほんのりと薔薇が香っている。花の命を慈しむ気分がある。
芭蕉の新しい葉が巻かれた状態にあるものを「玉巻く芭蕉」といい、この巻葉の解けるのを「玉解く芭蕉」という。いづれも初夏の季語であるが巻葉の解ける五月頃の芭蕉が一年を通じて最も美しい。
風雨に嬲られてぼろぼろになった古葉を項垂れていた芭蕉が、初夏になり巻葉を立ち上げてきたので注意していると、とある日の通勤帰りであろうか玉を解いたばかりの瑞々しい新葉が夕風をいなしてしっかりと自己主張しているのに出会って感動したのである。
若葉風といえば初夏、更衣の時候である。通勤のOLたちもスーツやジャケットを脱いで軽装のブラウス姿が目立つようになり、街路樹もまた若葉に満ちて明るく風薫る快適なシーズンを迎える。
ブラウスの中を風が通り抜ける…という大胆な表現が新しいと思う。女性がブラウスを着こなす場合、たいてい第二ボタンあたりまで外してネックレスなどのジュエリーが見えるようにすると思うので胸元を風が通り抜けるという感覚も頷けるのである。
高浜虚子の代表句に「白牡丹といふといへども紅ほのか」がある。白牡丹という名の花だけれど、よく見ればほのかに紅い色が差しているよ…という意味である。
大輪の牡丹は美しいが故に命の儚さをも思わされる。虚子の句を意識したか否かはともかく、作者もまたよく観察しようと白牡丹に顔を近づけた。ふとそのとき牡丹に映った自分の影が、あたかも白牡丹自身が憂いの表情を見せたかのように感じたのである。
原句は「まなかひに」であった。嘘をつけない作者の性格がそう詠ませたと思うけれど、校歌に歌われた故郷の山を賛美するのであればやはり教室の窓から見える俺が山のほうがより親しい。
ことあるごとに愛唱した校歌にも繰り返し歌われ、晴れた日も雨の日も四季折々の表情を見せながら登下校や校庭で遊ぶ子どもたちを見守ってくれた山。いうなれば親友のような存在の故郷の山なのである。今年もまた新しい年度となり新緑を湛えているのである。
三尺寝は夏の季語として分類されるが猛暑の炎天下でこのシチュエイションはありえないと思うので晩春か初夏の設定ではないかと思う。里山などでのんびりとした農風景として鑑賞してみよう。
農具や肥料などの資材を軽トラに乗せて畑に横付けし、午前中の作業を終えて昼食をとったあとしばらく休息の仮眠をしているのである。軽トラの場合は背もたれを倒してというわけには行かないので運転席に横向けに寝てなお余った足を窓から出しているのである。