酪農家に飼育されて放牧されている牛であろう。長い舌を伸ばして春になって萌え出てきた新鮮な草を美味しそうに喰んでいる。その親しみやすい姿をつぶさに見たいと柵の近くまでよってみた。
人馴れしている牛たちは近づいてくる人間に興味を示して反芻の口を休むことなく移動してきて何かもっと好物でも差し入れてくれるのかと期待するかのようにつぶらな瞳で柵の上に顎を乗せるように顔を出したのである。いかにも長閑な牧歌風景である。
余寒は、大寒もすぎ、立春もとうに過ぎたのにまたまた残っている寒さをいう。四温の暖かさがしばらく続いてようやく体がほぐれ始めてからの寒の戻りは特に老骨にはこたえるのである。
ちりちり…という措辞が非凡で神経痛系の痛みを連想させる。この種の痛みには特効薬もなく温めたりマッサージを受けたりして耐えしのぎながら温かくなるのを待つしかなく厄介な症状、体験した人にしかわからない鬱な気分、春愁の気分である。
桃の花は3月下旬から4月上旬頃に薄桃色の花をつける。おそらく年末か年の初めに生まれた赤ちゃんであろう。風邪をひかせてはならじと温かい室内で大事に大事に育てられたのである。
ようやく玉の春日がさすようになり庭の梅も淡い花を咲かせ始めたので、今日はご近所さんにも初のお披露目、桃の花のようにほっぺを染めてしばらくご機嫌だったが、ついと小さな口を尖らせて欠伸がでて御眠になった。これまた可愛いと喝采なのである。
初老のご夫妻が手に手に句帳をもって仲睦まじく谷戸の里道を一緒に散策吟行しているのであろう。四囲の山々も新緑に笑いそめていて行くてには雲ひとつない底抜けの青空が展けている。
「あっ、雲雀だ!」蒼穹の一点を指差して妻が叫んだ。「ほら!あそこよ、見えないの?」青空高く揚がった雲雀は点のようにしか見えず、しかもひとところにじっと留まってるわけではないのでそんなに急かされても直ぐには捉えられないのである。
秋の大型台風や冬の豪雪に耐えかねた森の樹木が途中で折れて倒れているのを、風倒木、倒木とよぶ。これもまた大自然の摂理で、その結果自ずから樹間がひらけて日が届くようになる。
春の洩れ日を縫いながら雪解けの山路を分け入るとあちこちで倒木が道を塞いでいる。跨いだり迂回しながら進むと、折れ残った根方のあたりから新芽が吹いている。朽ち果てたかと思えた老幹ながらなお復活の命を宿していることに感動したのである。
由緒ある旧家のあるじが代々当家で受け継がれてきたものや折々に集めた地方の珍しい雛人形なども一緒に飾って、節句の頃になったら雛の宿として地域の人たちに公開しているのであろう。
座敷狭しと陳列された雛とは別の部屋にコレクションの趣味が高じて集めたであろうと思われる地酒の数々や焼物の猪口、貴重な古銭などの類も並べられている。雛の客たちが代わる代わりに「凄い!」と驚いてくれるのが宿あるじのささやかな慰めなのである。
句の雰囲気から連想するとミッション系スクールの卒業式で送辞、答辞、感謝の祈りと進んだあと卒業歌としての賛美歌が生徒全員で高らかに讃美されているのではないかと思う。
当然ながら保護者席に参列している生徒の父兄家族もクリスチャンが多いので、思わずつられて一緒に口づさんでいるのです。原句には「メゾ和す」とあったので、生徒たちとは対象的に控えめに唄っているのでしょう。口パク程度の感じかもしれないですね。
温かい日差しに誘われて句帳を手に近くの池まで足を伸ばした。冬のあいだ賑やかだった水鳥たちの姿はすでに無く、みな北へ帰ってしまったようで池面は静かな水鏡状態だ。
なにげに池塘を散策していると木屑のようなものが池の面にぷかぷか浮沈しているのに気づいた。なんだろうと目を凝らしてよく観察すると水の中から浮いてきた亀が息継ぎのために首を伸ばしているのだ。そう言えば啓蟄の候だったわねと納得したのである。
300年以上の歴史を持つ越中富山の薬売り。昭和時代はどこの家にも配置薬の預け箱が置かれ、次回訪問した際に使った分のみ代金をいただくというしくみで「先用後利」と呼ばれた。
寒い冬が明けて春になると毎年決まったように馴染みの訪問員がやってきては互いに存問し世間話をしながら新しい配置薬と交換していくのである。季節の変化にも気づかないほど慌ただしい日常の中で彼らがやって来ることで春の到来を実感するのである。
クレソンは各地の湿地や水辺で見られる野草で春が旬。別名「オランダガラシ」食べるとピリッと辛味があり、洋食の普及と共に水耕栽培で量産されたものが市場にも広まっている。
冬の間はやせ細って心細かった川のながれも春の訪れとともに雨や雪解け水などで日毎に嵩が増し瀬音はいま復活の春を奏でている。「水ゆき渡る」の措辞によって岸辺のクレソンの群落にまで恵みの水がゆき渡ってきたよ…という春の喜びが感じられる。
時雨は降ったかと思うと晴れまた降りだし短時間で目まぐるしく変わる通り雨をいう。俳句では初冬の季語として好まれ、無常の心と美しさをさびれゆくものの中に養われてきた。
春雨は霧のような小糠雨が多く傘をさすほどでもないことから「春雨じゃ、濡れてまいろう」の有名な言葉があるが、揚句の春時雨もまた束の間で嘘のように真青な明るい空を置土産にして去っていったよ…という。この春時雨の季語はピタリと嵌って動かない。