席譲らるる…云々と説明っぽくなりやすい題材だが、回りくどいいい回しをせず、バスなのか電車なのかの説明も省略したことでことばに余裕が生まれ素直で心地よい響きの句になった。
春コートという季語の斡旋もよく席を譲ってくれようとしているのは、好感のもてそうな若者であることをイメージさせている。一連の所作と会話だけにスポットをあてたことで、潔くすくっと立ち上がった若者の姿を頼もしく写生できている。
庭の草花を育てたり自然と親しむことが大好きであった故人のために月命日にはいつも仏花を絶やさず、仏壇の位牌に話しかけながら日々を過ごしている作者の姿が浮かぶ。
よい季節には、散策で詰んできた野草や庭で育てた草花を供花にできるのだけれど、寒い冬の間や早春の頃にはやむなく花舗で買ってきた供花に頼らざるを得ない。かろうじて早春の猫柳が先んじて庭に咲いていたので剪ってつけ添えて報告したのである。
患者に寄り添って…と理想論は立派ながら、昨今の若い医師は患者の顔を見ようともせずパソコン画面の情報を睨みながら他人ごとのように早口で説明する…というタイプが多いみたい。
とりあえず診断結果の説明は受けたのだけれど、専門用語を並べた遠回しな説明にいまひとつ納得できず、何度となく聞き直したり質問を繰り返すのだが、わかるようでわからない曖昧な返事の繰り返し。「あなた本当に医者なの?」と心の声が聞こえるようだ。
姉妹が嫁いでそれぞれ家庭人となった。日々の家事をこなし、ご主人を支え子どもたちを育てて月日が過ぎたのである。何かと苦境も体験したが、その都度相談相手になり姉妹であるがゆえに詮無き愚痴も分かち合ってたがいに乗り越えてきた。
子どもたちも独立し、やがてそれぞれご主人を先に看送って二人共独り身となった。慌ただしいお正月の接待もようやく落ち着いたので、今日は二人で落合い心置きなく女正月を寛いでいるのである。
若者には箸が進みにくいのか三が日を過ぎて彼らが帰ったあとでもなお余るお節である。暖冬や暖房で足も早くなるので火を入れなおし少しアレンジしたものをリメイクと表現したところが新鮮である。
そんなこととは知らないご主人は、あたかも新作の料理であるかのように勘違いして、「うまい、うまい」と喜んで食べてくれている。そんな姿を微笑ましく眺めながら作者は心の中でガッツボーズをしているのである。
青畝師の作に「座について庭の万両憑きにけり」がある。茶室に招かれた作者は慣れない正座の脚を持て余しながらふと小さな躙口を覗くと、零れるほどの真赤な実をつけた万両が目についたのである。
「万両を見むとかがめば…」が原句であるが、万両にしてみればせっかく美しい実をつけて最高に輝いているのに誰も気がついてくれないのは寂しい。ようやく小さな躙口から覗いた顔と目が会ったので懸命に訴えているのである。俳句のこころは斯く遊びたい。