喧嘩して怪我をさせたとか、なんらかの失敗をして他人に迷惑をかけたとかのトラブルがあったのだろう。泣きべそをかきながら子供が帰ってきた。詳しい事情はともかく日の残っているうちに一刻も早く相手にお詫びしておくのが最善と判断したのである。
私にも似たような思い出がある。自分に非のないことを懸命に言訳して解って貰えたのだが、相手が悪くても怪我をさせたのはいけないことだからと諭され、渋々母についていったことを覚えている。
大相撲の春場所すなわち大阪場所が開催されている難波の街の賑わいを写生した。贔屓の力士名が刷りこまれた旗がたちならび風にはためいている景は何場所であっても同じであるが、「街は春」の措辞が実に効果的でうららかな春風を連想させている。
◯◯場所…と詠んだ句をよく見かけるが大抵は何場所でも意味が通じていわゆる季語動く…の句が多いが。揚句は春場所といわずに、街は春…と詠んでそれを連想させているところが非凡である。
校長先生から手渡された卒業証書には実にみごとな墨書で自分の名前が書かれてあり感動したのである。それは校長先生自らが書いてくださったものであることを人づてに聞いて更に驚いたのである。
校長先生は儀式などで訓話を聞く程度で平素はほとんど関わることはなかったのだが、心を込めて書かれたであろう証書の達筆ぶりを眺めていると俄に親近感が湧いてくるのである。父兄の立場で詠まれた作品かもしれないが一人称とするほうが詩情がある。
里山吟行で出会った無人販売所を写生した作品。地の人たちの丹精した朝採れ野菜が並べ売られているのであろう。囀の季語は長閑さを代弁し、直射日光を避けた木陰となる場所であろうことも連想させる。修練によって完成された省略の妙をこの作品から学び取りたい。
人間の良心を前提とした無人売場は田舎ならではの風情で立ち寄るだけで生産者の人たちとの触れ合いを感じて癒やされるが、都会でのそれは悪事を働く人のニュースをテレビで見るたびに悲しくなる。
春の川…の下五によって水彩画の絵の具筆を洗うための水であることがわかる。水を掬ひし…ではなくて、水を貰いし…の措辞が非凡であり、ここに作者の詩情が隠されていることを見逃さないでほしい。
水辺のほとりか草萌える土堤に画架を立てて春景を写生しようとしているのである。描き終わった筆を洗うためにではなく、描きながら使うための水を川から汲んだと連想するほうが情感がある。一人称なのか三人称なのか…などという詮索は愚かである。
早春の園をめぐり、休憩するために四阿に立ち寄ると先客があった。軽く会釈を交わして「やっと暖かくなってきましたね」と気軽に声をかけたことから思いがけなく話が弾み心が通いあえたのである。
あたたかし…の季語は体感的なことを説明するだけではなく、ほっと心が和んだ情景を詠むときにも使える季語である。自然との一会を求めてだ吟行するだけではなく、出会った人や吟行地の人たちにも声をかけ話を聞き心を通わすことによって句が授かるのである。
大阪府の天然記念物として枚方市の丘の上にあり鋳物師が椋の葉で鋳物を磨くために植えられていたものだと作者から教えてもらった。ケヤキ、エノキ、ムクノキはよく似ていますが葉の表面がざらざらしているのが椋の特徴で漆器を磨くのにも使われたという。
高樹齢の大樹の幹を撫ぜていると様々な試練に耐えてきたであろう古木の暦年と自分自身の人生の来し方とが重なる。老いを受け入れてなお頑張れ…という大樹からのメッセージが伝わってくるのである。
半仙戯(なかば仙人になるような気分がすることからいう)は「ぶらんこ」の異名。主人公は高齢の作者自身ではないことは明らかであるが、基本通りに一人称で詠まれてあることを学びたい。
小学校高学年になると乗り方もいよいよ大胆になり、勇敢さを競うかのように「立ちこぎ」を始める。まさに揚句のような「空を蹴り山を蹴り上げ」状態になる。元気なのはいいことだけれど無茶して怪我しないでね…と祈り心で眺めている作者も見えてくる。
とつぜん医師から愛する家族の余命宣告を受けた深い哀しみと断腸の思いとを十七文字に託した作品。選評に取りあげるか否かについて随分悩んだけれど作者の了解が得られたので鑑賞してみたい。
溢れる涙を見せまいと仰いだ御空遥かに新天地へと渡っていく鳥たちを認めた。その姿は「永遠の命に生きるために先に天国へ旅立つだけ、必ずまた再会できる」のだと教えている。揚句には、哀しみを希望に変えて頑張ろうという作者の覚悟が隠されていると信じたい。
鳶が輪を描くように飛ぶのは上昇気流のふちを飛ぶと羽ばたかずに済むからで、楽に飛びながら上空から餌を探している。獲物が動き出す啓蟄の時候によく見かけるのには理由があるのです。
雪が解け里山に辛夷の花が咲き始めると春田打ちが始まる。冬の凍てで固くなった土を鍬で天地返ししてほぐすのだ。春空高く舞う鳶は、「よし、ことしもまた頑張ろう!」と士気を高揚させてくれる。大いなる…の措辞は、新たなる希望の大きさでもあるのだ。
寒かった冬も終わり啓蟄の暖かい日差しが戻ってきた。そろそろ畑仕事の準備をはじめねばなと野良着のチェックをしているのである。
土や泥で汚れたり何かに引っ掛けて破れたりということを気にしなくてもよいので野良着には普段着のお古などが好んで使われる。汚れが染み付いたものは新しくすればいいと思うのだが、サイズ感とか着心地などがぴったりフィットするものは捨てがたく愛着があるので、汚れては洗い、破れては繕っていつまでも使うのである。