パソコンのキーボードか机上の事務なのか、はたまた新聞を読みながらなのかはわからないが、いづれにしても老眼鏡をかけて作業中、傍らのテレビは、寒波襲来・大雪警報のニュースを急告している。
やがて一気に部屋の温度が下がりだし紛れもなく雪催い、玻璃窓は真白に結露している。もう降ってるよ!という家人の声に腰を上げて窓へ寄り、玻璃の結露をささっと手でぬぐい老眼鏡をさげて雪の積もり具合をうべなったのである。平明ながら写生の効いた佳句である。
野辺に石仏などのある郷では、代々道祖神や産土信仰が受け継がれ祀りごとも多い。そうした風土で育った子どもたちもまた暮らしの中で神仏を敬うという習慣を素直に受け入れているのである。
神を恐れることは知恵の初め…だと聖書にあるが、幼い頃からごく自然に培われた信仰心は、人間形成の上でも学問や知識にまさる価値があると思う。何でもない子どもたちの所作を見て授かった句であるが、ほのぼのとした温かい感動を覚えて成った句だと思う。
主題は寒卵だが、この時季なので多分親交のある地元のお百姓さんとか知り合いから頒けてもらった新米だと思う。新米の炊きたてを釜のなかで天地返ししたとき、米粒は立ち、ダイヤモンドのように輝く…と形容されるが、とにかく相好が崩れるほどうまい。
美味しい卵かけご飯の食べ方には、諸派、諸説あるらしい。我が家では、白身だけ先にご飯とお醤油と一緒に混ぜ、最後に黄身を真ん中に落として、箸で崩しながらご飯と一緒に食べる。どちらにしても寒卵とのとりあわせは絶品であろう。
役所の中で住民の健康や生活を守るのが福祉課である。当然ながら窓口に訪れるのは高齢者や社会的弱者が多いのであるが、得てして無愛想で事務的なお役所的対応が多く虚しい思いをすることも多い。
ところがお正月早々訪れた揚句の窓口は、福寿草が逞しく花を上げて迎えてくれたのである。役所の上司がそんな経費を認めるとは思えないのできっと窓口担当者の自腹の気配りなのだろう。笑顔の対応と相まってその優しい配慮に身も心も励まされたのである。
昭和世代の老夫婦の二人鍋を連想した。ぺちゃくちゃお喋りをするでもなく寡黙に鍋をつつきあっているのであるが、ご主人が好物の種をとりやすいようにと何気なくそっと寄せてあげたのである。
若い夫婦ならすぐ反応して、「ありがとう」と声を出して感謝すると思うのだが、亭主関白を自負する昭和前期族は、内助の優しい所作に気づきつつもあえてあたり前のように黙して箸を運んでいる。ふとそんな夫婦像を想像してみたが違ってたらごめんなさい。
平凡な描写だと思うかもしれないが、延々とつづくコロナ禍の現状を踏まえて鑑賞するとどこか希望を感じさせてくれる作品である。
公園の遊具に子どもたちの姿がないという異常な状況が続き、第八波のいまもなおという感が強いが、久しぶりに日脚の伸びた夕暮れの公園に散歩に出ると子どもたちの元気な声が響いていてほっと救われたような気分を感じたのである。マスク無しで大声で遊べる日が早く来てほしいものだという作者の祈りが隠されている。
何でもない身辺の寸景を詠んで一句に仕立てあげる作者の個性にいつも驚かされる。揚句も説明の必要がないくらいに具体的で且つ明快、上六の字余りながら全く違和を感じさせない。
屋根仕事の材料は、エレベーターのような梯子で上げ下ろしするので、職人は昼休憩のとき以外は屋根から降りてこない。一服も屋根の上に腰してである。そのような職人さんに差し入れのみかんを放り投げて手向けた。ナイスキャッチに笑みが溢れ心が通い合う。
鍋料理には、いろいろと種類があるが、寒い冬の時期に家族とか親しい仲間などで楽しくおしゃべりしながらひとつ鍋を囲んでつつきあうことで美味しく身も心も温まる冬の定番料理である。
一緒に囲むはずであった家族が急な入院とかの事情で留守になり、やむなく一人で鍋をつついているのであろう。ただの報告の句ではなく、いつもと変わらぬ味付けなのにひとりで寂しくつつく鍋はなんと味気ないものであることよ、と言っているのである。
黙々と努力を積み重ねて鍛え上げてきたその道の匠というのは、多くを語らず大抵は寡黙な人柄である。揚句の刃物研ぎ師もまた賑やかしい市の片隅で黙々と商っているのである。
昨今は砥石なども進化し電動のものも使ったりするが最後の最後の仕上げは、研ぎ師自身による手研ぎの技がものを言う。「冬帽を目深に」という写生によって俯きながら黙々と作業をしている研ぎ師の職人魂のような気迫を具体的に連想させているのである。
一読、印半纏の襟をきりりと立てて祭礼の儀式を兼ねた初仕事であろう事が連想できる。作者のなりわいから漁業関係であろうことも想像できるが、どちらにしても省略の効いた新しい句と思う。
江戸時代に一般庶民に羽織禁止令が出たため、襟を返さない法被が普及し、職人や商家の使用人、町火消などが着るものとして、人々の生活に根付いて来たと言われる。襟や背中に屋号や家紋を染め抜いた襟を返さない法被のことを印半纏と呼ぶようです。
初喧嘩の季語から、お正月の団らん中の幼い兄弟姉妹の喧嘩であろうことが連想できる。お母さんや爺婆たちが代わる代わる仲裁に入るのだけれども相譲らず一向に収まる気配がない。
ついに黙って屠蘇を酌んでいたお父さんの鉄拳が飛んで喧嘩両成敗、万事休すとなったのある。ただ座っているだけでおそろしく威厳のある父親像というものを私も覚えているが、時代は変わりつつあるようだ。けれども揚句のお父さんは、なかなかかっこいい。
原句の「産みたてを貰ひて嬉し寒卵」では、やや季語が動く。産みたてを貰えれれば寒卵でなくても嬉しいからだ。俳句は斯く詠むべしを皆にも解って欲しかったので大鉈を奮ったことを赦して欲しい。
「産みたてだよ!」と手移しで受け取ったと具体的に写生することで、産みたての温もりを実感させることができ、「寒卵」の季語が動かないのである。このような優しさと温もりとを頂いたのだから「嬉しい」の措辞は言わずもがな、写生は、省略かつ具体的にである。
料理本を立ち読みしているのだから煤逃げのぬしが主婦であろうことにはすぐに気づいてほしい。となると其処へ至った経緯が短編小説のように見えてくるから俳句は楽しいのである。
あれこれと采配を振るい家族の協力で順調に進みそうなので、買い物などと言い訳してちょっと息抜きに煤逃げしたのである。けれども夕食のやお節の準備のことなどが頭を離れず、気づけば料理本を立ち読みしていた…という図式かと思う。歳晩の主婦はいつも忙しい。
湯気立ては、部屋の乾燥を防ぐため蒸気を発生させるという冬季の季語であり、炊飯器のそれは四季を問わないので季語動くとの批判もあるかと思うが、冬季のそれはより迫力があり、ほのぼのとしたユーモアが醸しだされている作品として選ばせていただいた。
買い替えたばかりの炊飯器が炊きあがりの匂いとともに機嫌よく湯気を立てている。「湯気もまさら」だと感じたのが作者の個性である。日々おおらかな気分で過ごしていないと見えてこない景である。
パソコンが普及した昨今、消息まで印字された味気のない賀状が多い。いっぽう、ここぞとばかりに達筆を奮ったものに出会うといつもながら関心するとともにいささか劣等感も感じるのである。
金釘のように、細くてひょろひょろしたり、妙に折れ曲がったりしている下手な字をあざけって金釘流といわれる。揚句の作者も決して誇れるほどの達筆ではないことは自認しながらもせめて賀状くらいは自筆でとこだわって心を込めて書いているのである。