養蜂は蜂蜜を採ること以外に、農作物の受粉を助けるという重要な役割を持っています。 そのために花は蜜をためて蜂を集めます。このような連鎖は人が作り出したものではなく、全ては神の摂理であり、私達はその恵みを享受しているのです。
養蜂家の家族もまたそのことに感謝し、蜜蝋キャンドルを点して聖夜の祈りを捧げているのであろう。現在世界中で蜜蜂が大量に失踪や死滅しているという。自然の摂理を破壊しているのは人間である。
鰭酒は、粗悪な酒をいかに美味しく楽しむかという工夫から広がったという。一読、富裕層ではない労働者たちが熱燗で互いに今日一日の労をねぎらいあっている様子が浮かぶ。
肉体労働が資本となるような過酷な職場は、ある意味で戦場、普段は寡黙に耐えている彼らにも百戦錬磨の武勇伝があるのである。作者の生業からは漁業関係者であろうことも想像できるが、「飲み干してより」の措辞が上手く、具体的に情景を描写している。
禁猟区は、鳥獣の保護・繁殖の目的でその狩猟が禁じられる区域のこと、もちろん鳥たちは知るよしもないことであるが、本能でそれを感じとってそのパラダイスで安らかに眠っているのである。
平明に写生されていて多くは語っていないが、ロシアによるウクライナ侵攻を機に急変した不安な世界情勢を思うとき、眼前の浮寝鳥たちの様子を見て、日々の平安、平和がいかに大いなることであるかを感じての作品であろうことが想像できる。
炬燵に足を入れて宿題をしたりゲームを楽しんだりと思い思いに過ごしている幼い姉妹の様子を連想してみよう。ゲームに興じて大はしゃぎする妹に勉強中のお姉ちゃんが、"静かにしてよ!" と軽く足先で小突いたのがきっかけでバトルが始まったのである。
やがてお母さんの仲裁が入って収まったのだと思う。子育てに追われる日々の中でも、こうした身辺を句に詠むことで懐かしい思い出として鮮明に残せるので俳句はたのしい。
イエス・キリストの御降誕をお祝いするための子供聖歌隊の写生である。暖房の効いた暖かい部屋でも頬がほてるが、揚句の "頬染めて" からは、チャペルの中ではなくて街頭賛美を連想してみた。
子どもたちの透き通るような美しい歌声を形容するのに「透る」の措辞がうまい。聖歌は、聖樹とともにクリスマスの季語として分類されてはいるが、「聖歌隊」を連想できるように詠まないと季感が弱くなるので注意が必要である。
なんでもない平明な詠みっぷりであるが、「次からつぎへと悲報や耐え難いできごとと遭遇してとてもつらい一年間であった…」 という事実が暗示されていることを見逃さないで欲しい。
そうした中でも思いがけない久闊の出会いなど、心安らぐこともあったことを振り返り、前向きな気持ちに切り替えて頑張ろうと自らを励ましているのである。苦しいときにこそ『よかった探し』をすることで、希望と勇気に変えてくれることを教えてくれる。
なにかと気ぜわしい極月である。特に主婦にとっては日常の掃除洗濯に加えてお節の準備など厨仕事にも追われる。家中を走り廻ってひと息つくまもない。まさに師走なのである。
目の廻るような忙しさの中でも宅急便は容赦なく届く。年の瀬となればお歳暮などでその回数も多くなる。水仕事の最中に呼び出され、エプロンで手を拭きながら慌てて走って出ては宅急便を受け取っている主婦の姿がとてもリアルに写生されている。
その昔、平家の落人が残された土地を開拓しても、粟やひえ等しかなく、それらを粉にするために石臼を回すことが大変重労働であった。その労を慰めるために誰の口からともなく歌い継がれたのが徳島県の代表民謡「祖谷の粉ひき唄」である。
旅宿の若い女将がもてなしの炉火を育てながら、伝統の唄を披露してくれたのである。粉挽き唄はとても哀愁があり、旅情を盛り上げてくれる。唄を聞きながら作者もまた旅の夜を寛いでいる。
「冬至の日に柚子湯に入ると風邪をひかない」と言われる。おじいちゃんかおばあちゃんと一緒に柚子湯で温まった赤ちゃんをタオル手に受け取っている若いお母さんの姿が見えてくる。
都会では買ってきた柚子を二、三個浴槽に受かべる程度だが、揚句のそれは、家庭で収穫された柚子がバスタブに溢れるほど浮かんでいるようだ。その一つが赤ちゃんと一緒に湯から上がってきたのである。ほのぼとした家族の様子が連想できる。
寒風の中を駈けて帰ってきた吾子の手は凍りつくような冷たさである。思わず両手に包み込んで "寒くなかった?大丈夫?" と白息を吹きかけながら温めている優しいお母さんの姿が目に浮かぶ。
誰にも一度や二度は、幼い頃のこのようなお母さんのとの思い出が残っているはず。私にも何度か覚えがあり、優しかった母の手のぬくもりは八十路を目前にした今でも忘れることなく蘇ってくる。
長引いていたコロナ禍もようやく出口が見え始め、外国人観光客も増え始めて街々にももとの賑わいが戻ってきた。折から今日は小春の観光日和、お店の主は大きな掛け声で客の呼び込みに余念がない。
日本人客には地域訛りの日本語で呼びかけ、中国人のツアーグループを見つけるとやおら片言の中国語を並び立ててと慌た だしく商いしている様子が見えてくる。「うらら」は春の季語、「冬うらら」とも使われるが、「小春」とすることで陽射しも出てくるのでより実感があると思う。