毎日句会の週間秀句と選評(最新2ヶ月分を表示、他は過去一覧から)
毎日句会の週間秀句と選評(最新2ヶ月分を表示、他は過去一覧から)
咳は、肺や気管などの呼吸器を守るために自然に出るものだが、寒さや風邪引が原因で咳こむことが多いので冬季の季語となっている。暖房で部屋の空気が乾燥していても咳がでやすくなる。
咳くことをはばかるような状況で我慢しようとするほど止まらなくなるから厄介である。揚句の作者も美容院で座についたとたんにそういう状況になり困惑しているときにそっとのど飴を差し出してくれた美容師の優しさに感動したのである。
太陽の塔は、1970年に開催された『日本万国博覧会』のために芸術家の岡本太郎が制作した建造物で、頂部には金色に輝き未来を象徴する「黄金の顔」、現在を象徴する正面の「太陽の顔」、過去を象徴する背面の「黒い太陽」という3つの顔をもっている。
斯く詠まれてみると確かに黄金の顔の目は碧眼である。それに気づいた作者の着眼点がこの句の手柄で、澄んだ秋空を季語に配したことでより焦点が強調されうち仰いでいる作者の姿も見えてくる。
一読手入れの行き届いた美しい苔庭の風景が連想される。照葉の季語が斡旋されているので、小春の日差しが庭紅葉を真っ赤に燃やしその洩れ日が苔庭にも射し届いているのでしょう。
びっしりと苔に覆われて暦年を物語っている庭石に目を移すと赤ちゃんの掌のような実生の紅葉が日に照らされて輝き「我ここにあり」と自己主張しているようだ。紅葉は初夏の頃にプロペラ型の種がつくがそれが岩苔にとりついて養われ実生となったのである。
夏は特にうるさいと思われる蠅も秋冷の頃ともなれば流石に元気を失い弱々しい。その存在感もうすれ、じっと止まっているのを見ると何やらもの悲しさしさを覚えるのである。
秋の蝿故に打つまでもなく手で払うと失せていなくなるのであるが、どこからともなく人恋しげにまた現れるのであろう。秋の蝿という季感を上手に捉えた佳句である。日溜りに縋って身じろがない冬の蝿とともに季節によってその本質が異なることを学びたい。
反抗期は2~4歳ごろの幼児期と、13歳前後から15歳までの思春期に起こるとされている。揚句の場合は、幼児期のそれが連想される。第一反抗期とも呼ばれイヤイヤ期として知られている。
原句は "べそかいて" だったが蹴り上げる動作の方に焦点を絞ることで句に力点が生まれるので添削させていただいた。悔しさをぶちまけている幼子の所作がまた微笑ましい。自己主張の芽生えの様子を遠い昔の自己体験と重ねて温かい眼差しで見守っているのである。
仏像の御手にのっている「宝珠」に似ていることから仏手柑と呼ばれるようになったとかで、主に観賞用として栽培されることが多くお正月飾りやお茶席の生け花などにも使われている。
そうした古風な伝統を受け継いでいる老舗の町家の風情を連想させてくれる作品である。事情があって京に仮住まいをされている作者であるが昨今の作品には古都の情緒を詠まれたものが多く視点や感覚の変化に目覚ましいものがある。さらなる奮闘を祈りたい。
玉眼(ぎょくがん)は、仏像の目をより本物らしくみせるために水晶の板をはめ込む技法。仏像の眼に生々しさを与え、これに光が当たれば時として眼球が動くように見えることもあるという。
京都では長岳寺の阿弥陀三尊が知られる。秋思を払拭しようとお参りして心静かにみ仏とあい対しているのである。まるで生きておられるかのような鋭いその眼差しは何気に物憂い作者の心のうちを見すかしておられるように感じたのである。
大切な訪問客を迎えるとなると家の掃除や部屋の片付けをし、おもてなしのご馳走は何がいいだろうか、茶菓の好物は何だったかしら…などなどあれこれと気遣いながら準備に忙しい。
でも今日の客はそんな気遣いのいらない気心のしれた仲、生活のストレスを解消するのが目的でぐちを聴いてほしいがためにやってくるのだとわかっているのである。おでん酒を酌み交わしながら他愛もないおしゃべりをしてガス抜きするのである。
仏教では西に極楽があると考えられていて太陽が真西に沈む「秋分の日」に極楽浄土にいるご先祖様を敬いご供養を行う秋彼岸がある。そんな中に独り静かに額づき祈る秋の人が揚句の主人公である。
キリスト教では春のイースターの頃にお墓参りをのが一般的なので、召天記念日か何かでお墓を訪ねて故人を偲んでいるのではないだろうかと思う。お花を献げるのは同じだが、天国への呼びかけの祈りをし故人が生前に愛唱した賛美歌を唄って手向けとするのである。
この夏、各地のスーパーから米が消え「米不足」と大騒ぎになりましたが、現在では以前のように並ぶようになってきました。そして早々と早稲の新米も出回り始めて人気があるようです。
新米のほうが栄養価が高いというようなことはないけれども赤ちゃんの健康が守られすくすく元気に育つようにとの家族の祈りをこめて縁起物として新米でお粥を炊いてたべさせたのであろう。無垢な赤ちゃんはいつも家族団らんの中心であり王様なのである。
2000年には全国で73万台あったという電話ボックスですが、昨今はスマホが普及したため取り払われ年々減少しています。机の引き出しからも使い残しのテレホンカードが出てきたりしますね。
散歩途中にふと気づくと公園の入口付近にあったはずのそれが取り払われて跡地には夏草が生っていた。あるべきはずのものが姿を消してしまったという喪失感と小さな命をつないでなおほそぼそと鳴いている残る虫の儚さとが共感しあって一句となった。上手い句である。
昨今は行政の福祉政策も充実してきていて、要介護状態になっても自宅でできるだけ自立した生活を送れるようにということでデイサービス(別名通所介護)という仕組みが普及している。
認知とかの症状もなく普通に思考して生活できているのにただただ老骨が思うように動かないということでこのような仕組みに甘んじなければならないという現状に、ありがたいことだと感謝する気持ちとはうらはらに一抹の歯がゆさや悔しさが募るのである。
長い闘病生活の苦しさは体験したものでなければわからないが、日々の体力を保つことだけではなくて何がなんでも克服するのだという強い意志を持ち続けることが一番大事だと聞く。
孤独な戦いの中では、背後にあって見守り祈り続けてくれる家族や友人がいるということが大いなる慰めなのである。「元気になってよかったね」と親しく肩を並べて星月夜を仰いでいると長く苦しかったことは忘れて健康であることの幸せがこみ上げてくるのであろう。
旧約聖書の詩篇に「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。」という一節がある。ものが溢れ飽食の時代と言われる近年だが自然と戦いながらの農業生産者たちの苦労は昔も今も変わらない。
とりわけ若者の離農で過疎化が進み、加えて近年の異常気象のなか老骨に鞭打って作業されている姿は痛々しく見える。そんな里山も今は無事収穫を終えて静寂と漆黒の中に散らばる家々からは団らんの灯がこぼれている。作者もまた安堵の気分を共有しているのである。
下戸の私には違いはわからないのですが、熱燗は徳利の底に手が触れられるくらいが適温(約50℃)で、それを目安にぬる燗、上燗、熱燗の好みの燗具合を見るのだそうです。
時代劇などのシーンで飲み屋の女将さんがそっと徳利のそこに手をあてて加減を見ているというそんな仕草が目に浮かびます。あるいは客が運ばれてきた徳利の温め酒を自分好みの燗加減かどうかを見極めているのかもしれない。前者と鑑賞するほうが艶っぽさがある。
仕舞屋は、もと商店をしていたが今はやめた家をいう。路地にせり出すように並べた陳列台のうえに商品を並べ売るなんでも屋のイメージである。都市化の進んだ古い町並みに多いが現代では希少である。
弓張月は弦を張った弓のように見える半月のことで中秋の季語として扱われる。古町の路地は両側に長屋が立ち並ぶイメージで夜空もほんの一部しか見えないのであるが、あたかも投げ入れたかのようにある弓張月の風情に賑やかであった古き時代を回想しているのである。
芭蕉翁の「秋深し隣は何をする人ぞ」はあまりに有名。晩秋のもの淋しさの漂うころのことをいうのであるが多分に心理的な季語でもあるので出来るだけ具体的な情景描写との取り合わせが求められる。
子どもたちはみな社会人となって独立して家を出でゆき、配偶者にも先立たれて独り老後の生活になった作者の姿が浮かぶ。春耕にはじまり収穫までの期間は感傷にひたる暇もないのであるが、秋深むころになり落ち着くとふと独り暮らしの寂しさを実感するであろう。
萩の声(おぎのこえ)は、荻の葉を揺らす風がたてる音のことをいう。おぎは、神または霊魂を招くという招代(おぎしろ)から来ているとされ古人は荻の葉のそよぐ音に神の声を聞いたのである。
対馬や壱岐など九州辺境防備のため東国諸国から徴発された防人やその妻たちの歌を防人歌という。荻の原に埋もれるように建つ碑(いしぶみ)には望郷や妻恋の防人歌が刻まれていたのであろう。荻の声に包まれながら彼らの哀愁にも思いを馳せたのである。
クリスチャンには聖書輪読の集いという活動があります。数人の人が教会や家庭に集ってその日に決められた聖書個所を輪読し、そのあとで賛美し、ともに祈り、親しく信仰の交わりをするのである。
残暑の時期も過ぎて気持ちの良い秋日和、教会では粛々と聖書輪読が進められているのである。全開された窓からは爽やかな秋風が通い窓辺の梢にはともに神を賛美するかのように小鳥たちもやってくる。クリスチャンにとっては聖霊に満たされたひとときなのである。
飛行雲は俳句の題材としてよく詠まれる。青空を真一文字に切り裂くようなそれであったり、厚い雲の中に消えたかと思うとてまた出てきたりという描写が多いが肝心なのは季語が動かないことである。
秋の雲は厚みもなく、かすれたような雲や羊群が遊んでいるかのようにとびとびに浮かんでいるのが特徴だと思う。揚句の飛行雲はそのちらばった雲を串刺しにするかのように直線を描いているのである。しかも低空ではなく高空であることをも連想させている。
たまたま出会った時期が春だから春の蝶、夏だから夏の蝶、秋だから秋の蝶と詠む…というのでは面白くなく下手をすると季語が動いてしまう。季節に応じて種類や翔び方などにそれぞれ風情の違いがある。季語のもつ本質を捉えて詠まなければ成功しないのである。
使者のごとく現れる春の蝶、力強く翔ぶ夏の蝶を連想すれば、どこからともなく現れては消えていく秋の蝶との違いが歴然であろう。舞へるとも(風に)吹かれをるとも…の措辞が上手いと思う。
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