最新2ヶ月分を表示、他は過去一覧から…
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香具師(やし)俳句は作者の得意とするところだが同じ課題に一徹に取り組むことは容易そうでいてなかなか出来るものではない。飽くことなく挑戦される作者の忍耐と努力に敬意を表したい。
香具師は祀り行事の日程に合わせて各地を転々としながら露店商を営む人たちの事であるが、揚句の香具師と客は長年の縁で顔なじみになっているのである。互いに年老いたけれども今日まで守られて今年もまた再会できた喜びを語り且つ励まし合っているのである。
苜蓿(うまごやし)は、シロツメクサやクローバーとも呼ばれ春から晩春にかけてよく成長する。啓蟄などを目当てに啄む雀たちの姿を隠すほどに伸びた草々の様子を「雀隠れ」とも詠む。
この野良猫はそうした雀とか蝶、バッタなどを獲物に見立てて少し離れたところから背を低くして腹ばいに距離を縮めているのである。原句の「距離を詰めゆく」でも悪くはないが、猫の所作だけに焦点を絞るほうがより緊迫感が増すので添削させていただいた。
あれほどの鴨いつの間に発つたのか…と詠まれた句。素直で素敵な発見なのに共感者が少なかったことが悔しい。渡り鳥の鴨である故にこの作品に命があるのだということを覚えてほしい。
群鴨は「ぐんおう」と読み古歌にも詠まれている。温暖な地域で越冬した渡り鳥が北の繁殖地に移動すること北帰行というが作者は日課の散歩で得たこの驚きにふと寂しさを覚えながらも群鴨たちの長旅の安全が守られるようにと祈り心で思いを馳せているのである。
一読人間ドックでのレントゲン撮影のシーンを連想した。薄い下着一枚になって寒々しい撮影版に張り付き「はい、息を止めて…」とアナウンスされる瞬間は誰でも不安な気分になる。
春寒の季語とともに「春寒の胸」という措辞の斡旋が実に見事で感服させられた。検査室には暖房が入っているとは思うけれど薄着になると肌寒く、検査結果に対する不安も重なって何気に心細い…という心象を的確に代弁して揺るがないことばである。
昨今はファミレス風のお店や行列の出来る○○などという名物料理に特化した専門店が賑わいを見せているが、そのむかし高度成長期のころには一膳飯屋と呼ばれる大衆食堂が多かった。
色あせて屋号の判別さえも難しい襤褸のような暖簾が目に浮かぶ。季語が春泥なので年度替わりとなるこの時期、道路普請などに携わる職人さんたちがドロ靴のままに押し寄せて賑わっているお昼時なのであろう。忙しげに対応している女将の姿も浮かぶ。
時節柄春の大雪を連想させる作品である。昨日からの予報が的中してにわかに雪が降り出した。一向にやむ気配もなく不安げに眺める窓景色もみるみるのうちに白変していくのである。
テレビのニュースは道路交通の不安や積雪による大きな被害も予想されると警告している。地球温暖化による異常気象が定常化しつつある昨今、天変地異は人類の愚かさに対する天罰かとも思うけれど、慈悲にすがり赦しを乞うて祈るしかないのである。
探梅行といえば魁の梅の花との出会いを期待しつつ山路や野路を散策するのが通常であるが、揚句の場合は豪邸街と呼ばれ高塀をつらねた大きな屋敷の立ち並ぶ大路を探索しているのである。
豪邸の庭は和風あり洋風ありとさまざまであるが、どの屋敷にも姿、形の見事な庭木が植えられていて道を歩いていても塀越しにその美しい姿が楽しめるのである。探梅の作品として新鮮さがありユニークな着眼点を得て佳句となった。
皇居西の丸にそびえる優美な伏見櫓は、豊臣秀吉が京都伏見に築城した伏見城の櫓を解体してここに移建したと伝えられており、「伏見櫓」の名称はそれに由来する。
青空から俄に降り出した風花が乱心のごとく伏見櫓を目指して風に高舞う様子は実に壮観であろう。美しくもありまた儚くもあるその情景に栄枯盛衰を繰り返していた戦国時代に思いを馳せつつ伏見櫓の蒼穹を打ち仰いでいるのである。
老いて身体の衰えが始まり日々の生活にも助けが必要になってくると、要支援となり更に進むにつれて要介護1から5まで段階的に認定区分が定められ行政支援が受けられるようになる。
よくはわかっていないが其のために定期的に問診や画像を使った神経心理学的な検査テストがあるのであろう。思いがけず百点満点という結果に「本当かしら」と疑心暗鬼な気分になったのである。うそ寒し…は心象を代弁するのにも使える便利な季語である。
作者とチャイムを押す子供との位置関係に思い巡らして連想を働かせることが揚句の鑑賞のポイントとなる。断定はできないが恐らく玄関インターホンのモニター画面に写り込んだ冬帽子かと思う。
背の低い幼子は背伸びをしなければチャイムのボタンに届かないので背伸びをし更に精一杯腕を伸ばして押しているのである。従ってモニターには冬帽の先っぽだけが写っているのであるが、作者にはそれが可愛い孫であることはわかっているのであろう。
作者の住む兵庫県北部豊岡はコウノトリの郷として有名であるが、冬の寒さも厳しく時に大雪にも見舞われる。安全のために公共交通利用促進も叫ばれているがそれでもマイカー利用者が多い。
揚句のシートベルトもまたマイカーのそれであろう。正面を向いて運転するには支障なくても達磨さんのように着膨れて運転席に座ると、シートベルトの挿し口あたりを目視することができず手探りで四苦八苦しているのであろう。滑稽味のある作品である。
初大師は、弘法大師(空海)の新年最初の縁日(1月21日)のことで初弘法とも呼ばれる。境内では達磨や久寿餅などのみやげ店が並び終日賑いを見せ初詣以上に賑わう。
参拝者が手や口を洗い清める御手洗に祈願の千羽鶴が吊るされているのである。昨年はお正月早々に能登半島地震があり更に追い打ちの豪雨災害も重なり今なお復旧の進まない状態である。そうした被災地の一日も早い復興を祈念した千羽鶴であろう。
「雪折れ」という冬の季語があり、降り積もった雪の重みで枝や幹が折れることをいう。裏山などから響き聞こえてくるその音は生者の悲鳴にも聞こえるという。一方竹林の雪折れは、大樹のそれとはまた違って「ポーン! 」という大きな音が鳴るそうだ。
春の訪れとともに雪解がはじまる。折れんばかりに太い竹を撓ましていた雪塊が婆娑と落ちたその反動でのけぞるかのように伸び上がった力強い姿に感動した。瞬間写生のお手本となる作品である。
寒見舞は晩冬の季語。寒中に安否を気遣って手紙を出したり直接訪ねたりすること。暑中見舞いほど一般的ではないが手紙なのか訪問なのかが判別できるように詠むことがポイントとなる。
この種の題材は得てして常識的になりやすく類想も多いが、「感嘆符つく」という捉え方が新鮮かつ具体的だと思う。この冬は事情があって特別な弱さを覚えていたのであろう。「元気出してね!」「また一緒に吟行しましょう!」などと励まされたのである。
あたゝかな雨が降るなり枯葎(正岡子規)という有名な句がある。枯葎という冬の季語が含まれているが、主季語は「あたたか」であって春の下萌の気配を詠んだ作品なのである。
一方揚句の季感は一歩手前の「春隣」であることに気づいてほしい。子規の句の下萌に対して揚句は土の匂いを捉えたのであり、その微妙な違いが面白いのである。季語云々を論じる人が多いけれど、正しく季感を汲み取ることが何より大事であることを悟りたい。
防災無線は、災害等により電線が切れてしまっても稼動できるようバッテリーを内蔵した地域無線情報システムのこと。携帯電話の普及で縮小されたが地方にはまだ残っている。
不測の有事に備えて定期的に試験電波が発信されて生活する家々でも受信して確認するのであるが、阪神忌の今朝5時46分に黙祷を促すアナウンスが流されたのである。揚句の防災無線も阪神淡路大震災を教訓にして設置されたものかも知れない。
ものの芽俳句と揶揄されながらも高浜虚子師の教えを堅く信じて写生俳句道を貫き通した高野素十の生涯を想う。ものの芽に対峙して心を通わせることは 俳句理念の原点でもある。
大地を割って健気に顔をだしたものの芽が早春のやさしい日差しに応えるかのようにいま解れそめている。地上部は枯れてすっかりなくなっていたのが、新しい命として生まれ変わり復活の春を告げている。蹲って存問している作者の姿も目に浮かぶのである。
あんか(行火)は金沢の方言だそうで炭火を内蔵したこたつのこと。昨今では電気ヒーターや化学発熱体などを内蔵したものが主流となったが昔ながらのそれは自動で温度調整ができなかった。
寝るときは適温であったものが徐々に温度が上昇してくるので無意識のうちに蹴飛ばしていたが、朝方の冷え込みで冷たくなった足が逃げたあんかをまさぐり探しているのである。爪先で…の措辞が的確にリアルさを写生しており俳諧的滑稽を醸している。
近年は環境的な事情もあり工場生産の堆肥が流通しているが、揚句の場合は昔ながらに自家製の堆肥を作っているのであろう。温湿度調整も必要なために屋根付の小屋で管理しているのである。
霜の朝は放射冷却によって一気に気温が下がり飽和空気の状態となるゆえに醗酵堆肥から蒸発する水蒸気が湯煙となって見えるのである。霜で白変した風景の中に湯煙がたつ状況を連想すると里山の人たちの生活ぶりがほのぼのと伝わってくるのである。
お正月の間はお節の準備や帰省家族の接待に追われ新聞を読む時間もないほど忙殺されていたのである。無事お正月が過ぎ、皆が帰ってようやく一息ついた主婦の実感が伝わってくる作品である。
原句の「六日かな」でも不満はなかったが今年の暦に特化する感じがしたので、正月中忙しかった女性をねぎらう日とされている「女正月」の季語を斡旋したほうがより実感が醸し出されると思ったのであえて添削させていただいた。
文字を書くのに最も大切な毛であるところから毛筆の穂先のいちばん長い毛のことを「命毛」と呼ぶそうで、恥ずかしながら書に疎い私はそのことを知らなかったが揚句に教えられた。
書の達人の筆さばきの様子を動画などで見ているとまさに筆の穂先に意思がある如くしなやかに筆が運ばれていくのに驚く。その情景を「命毛はしる」と形容したことで儀式としての筆始めの厳粛な雰囲気が的確に写生されていると思う。
お正月に孫家族が実家に戻ってきて「ひいあばあちゃん、新年おめでとう。百歳おめでとう。まだまだ元気で長生きしてね」と皺くちゃな百寿の手を握りしめて励ましているのである。
昨今は高齢者を支援するための社会福祉制度や対応施設が充実し、百歳ともなれば施設に入所して生活される方も多くなっているが、揚句の場合は、むかしながらの自宅介護であろうことが連想できる。命の尊厳と人の温かさを共有させられる作品である。
お雑煮も新年の季語になるので季重なりとはなるが御慶の句として作者の深い愛情が伝わってきたので選ばしていただいた。遺影の主と作者との関係説明は省略されているが作者の境遇を知る人には「遺影の夫に」であることは容易に連想できる。
存命であったころには、元気にお正月を迎えられたことを二人で一緒に感謝し、差し向かいで御慶を交わしてお節の膳を祝った。そうした日々を懐かしみつつ遺影に呼びかけたのである。
大掃除である煤払いに協力せず時間をつぶしに外出することを「煤逃げ」という。煤払いの際に、病人や老人、子どもを別室に籠うことを「煤籠り」ともいうが、揚句の場合は粗大ゴミ扱いされて追い出された隠居組の雰囲気があり滑稽である。
「面子(メンツ)が揃う」という表現は、会合などの顔ぶれが揃っていることを意味する。互いに利害関係は伴わず、他愛のない世間話や雑談で盛りあがる気心の知れた常連衆なのであろう。
冬銀河は冬の夜空にかかる「天の川」のことで、秋の天の川と違って冴え冴えとした趣がある。「夫に見せたき銀河かな」ではなく「冬銀河」としたのは作者の深い悲しみを代弁しているのである。
病床に付き添って介護している部屋の窓から眺めているのではなくて作者とは離れた遠い場所から闘病中の夫に思いを馳せているのであって、叶うことなら肩を寄せ合って二人で眺められたら…という作者の祈りが隠されていることを見逃さないでほしいのである。
日々の生活はある意味戦いでもあるので良きことばかりではなく悪しきことにも打ち克って乗り越えていかなければ負けてしまう。出来ることなら憂きことは日記には記さずに常にプラス思考でありたいという作者の心情が感じられる作品である。
一年を振り返り日記の中から良かったを探しながら耐え難い苦難に思わず愚痴となってしまった日々を見つけた。そうした試練からも守られ良かったことに変えられたことを感謝しているのである。
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