毎日句会の週間秀句と選評(最新2ヶ月分を表示、他は過去一覧から)

2024年6月24日

我が影に侍るがごとく草を引く

うつぎ

やまだみのる選

梅雨の季節を迎えると引いても引いても切りがないほどに日ごと雑草が伸びてくる。中腰にうち屈み噎せ返る暑さに耐えながら土と汗にまみれての草引きは老骨の身には厳しい限りである。

体力の限界を越えても終わりの見えない草引きの姿勢に足腰が耐えきれず、やがては四つんばいの姿勢になり膝頭も地面についていざるように草を引き続けるのである。その姿はまるで強い夏の日が落とす己が影に畏まって侍っているようだというのである。

紫陽花の毬の寧けし花手水

たか子

やまだみのる選

せめぎ合う青海波のように大輪の毬を犇めき翳して咲き誇る紫陽花は梅雨のこの時期がもっとも見事で美しい。けれどもひと度長雨に打たれると己が重さに耐えきれず忽ち項垂れてしまう。

大輪種のものは持ち直すことも難しく、やむなく早めに剪りとって手入れされる。揚句では剪りとられた紫陽花の毬を大きな手水鉢に浮かべて鑑賞させているのであろう。そしてそれらは、あたかも安寧の場所を得たかのような安らな表情を醸しているのである。

植田いま風を誘ふ丈となり

明日香

やまだみのる選

稲のわら、雑草などを巻き込んで何度か田起こししたあと、肥料をまき耕運機などで混ぜ合わせて田植えの準備が整う。やがてすべての田に水が満たされ五月空を映した美しい代田の景が広がる。

田植え機で苗を植えたあと、苗の切っ先が見える程度まで更に水を張り満たしてようやく一息つき、その後は日ごとに巡回して苗の成長を見守るのである。ようやく風に靡くまでに伸びてきた苗の様子を眺めながら収穫までの平安な日々が守られるようにと祈る。

2024年6月17日

草を引く隣家の影の失せぬ間に

よし女

やまだみのる選

夏は雑草も勢いよく成長しいたるところにはびこる。暑いさなかにしゃがんだり腰を曲げたりして草取をするのは大変な重労働なので早朝などの涼しい時間帯を選ぶことが多い。

朝日といえども夏の直射日光は厳しいが、幸い太陽高度の低いこの時間帯は東側の隣家が良き陰を落としてくれるのでそれを頼みに勤しんでいるのである。「隣家の影の失せぬ間に」の措辞は実感とユーモアがありこの季語の例句として非凡である。

初鰹ひと振り土佐の天日塩

うつぎ

やまだみのる選

今年も初鰹の季節がやってきた。この時季に獲れる鰹(別名・上り鰹)は、フィリピン沖から黒潮にのって北上してきたもので、秋口の「戻り鰹」と比べ赤身が多くさっぱりとした味わいが特徴だ。

生の鰹は刺し身もいいが、「たたき」で食べるのが一般的、茗荷や生姜、ニンニクなどたっぷりの薬味にポン酢やしょうゆをつけて食べるのが一般的だが昨今は「塩たたき」も知られるようになった。鰹の本場高知ならではの食べかたを満喫しているのである。

草を引く蕾のあるは残しけり

なつき

やまだみのる選

昨今は家庭園芸ブームといわれ自宅の庭で山野草などを育てて楽しむ人が増えている。その結果、雑草には見えない名草なども風や小鳥たちによって運ばれて思いがけない場所で芽を出すことがある。

ひと目で見分けがつかず、ときに「これ何?」というものも多い。しかも揚句のそれは蕾までもっていていぶかしい。私はその昔に躊躇なく引いてしまって大目玉を食らった苦い経験があるが、作者はその正体がわかるまで蕾のあるものは引かずに残したのである。

2024年6月10日

新じやがの笑窪をはじく爪の先

よし女

やまだみのる選

ジャガイモの芽(芽とその芽の根元)には、天然毒素が含まれているといわれており料理するときはこれらの部分を取り除く…と料理教室で学んだ。作者はその部分を笑窪と表現したのである。

新じやがなのでそうした芽はまだ深くないと思うが、採れたては皮が薄くタワシでごしごし洗うわけにいかないので、手のひらでこすってやさしく丁寧に水洗いするのであるが、笑窪の奥に黒点のような土が残るので爪先ではじいては除去しているのであろう。

園児らのお散歩コース薔薇アーチ

満天

やまだみのる選

市街地にある公共のバラ公園であろう。薫風の五月、お天気のよいこの日は大好きな先生に引率されて保育園児や幼稚園児たちが色とりどりの帽子をかぶって公園内を散歩するのである。

薔薇の花はちょうど園児たちの目線の高さに咲くものが多いので、左見右見しながらぺちゃくちゃと賑やかである。やがてお散歩の列は薔薇アーチに差し掛かる。立ち止まって天辺の花を指差したりバンザイをしながら歩いたりと興奮やまない園児たちである。

息凝らし螢火そつと幼な手に

もとこ

やまだみのる選

江戸時代には夕涼みがてら蛍を捕まえて遊ぶ「蛍狩」がさかんに行われた。その様子を描いた浮世絵を見ると道具には、うちわ、扇子、竹や笹の葉、虫捕り網などが使われたことがわかる。

昨今はどこも原則禁止のところが多いが一時的に捕まえてその場ですぐに放すことは大丈夫とされる。揚句は捕まえた蛍を幼子の両手包の中へそっと移してあげているのである。逃さないように慎重に息を凝らしての緊張感とドキドキ感が伝わってくる。

2024年6月3日

採りたての札に誘はれトマト買ふ

千鶴

やまだみのる選

生産地に近い地域の野菜売り場か朝市の風景であろう。トマトは採れたてから2日間くらいがピークだと言われる。要するに採れたてが一番美味しくそれ以降は劣化の一途をたどる。

トマトは今日の買い物予定には入ってはいなかったのであるが、採れたてだといわれると買うしかない…というような衝動にかられてついつい買ってしまったのである。作者は採れたてトマトの美味しさを体験で知っているのである。

日の匂ひ土の匂ひの髪洗ふ

なつき

やまだみのる選

「髪洗ふ」は夏の季語。 角川文庫『新版俳句歳時記夏の部』に「夏は婦人は汗と埃で、頭髪から不快な臭気を発するので、たびたび洗わなければならない」とあります(男も同じですが……)

女性は男性より長髪が多いので髪洗うが季語になったものだと思う。お庭かボランティア園丁などで草引き作業をして土にも触ったので普段より念入りに髪を洗ったのであろう。日の匂ひ土の匂ひ…という措辞が上手く、今日一日の作業を具体的に連想させている。

てらてらと撫牛光る夏の宮

たか子

やまだみのる選

撫牛とは、自分の身体の病んだ部分や具合の悪い部分をなでたあと、その牛の身体の同じ箇所をなでると、悪いところが牛に移って病気が治るという俗信であり、風習である。

天神さまにとって牛は神のお使いとされているので天満宮の境内には多くの牛が鎮座している。みなに撫でられるのでどの部位となくてかっているが夏の強い日差しと汗ばんだ手で撫でられるので、てらてら…という擬態語をつかって汗びかりの感じを表現した。

2024年5月28日

毛虫とる蝶に化けるの見きわめて

明日香

やまだみのる選

晩春から初夏にかけては蝶の他にもいろいろな小動物が繁殖のために庭中の草木に卵を産みつける。うっかり油断していると孵化して毛虫や青虫となって新芽や若葉を食べ尽くすのである。

園芸を趣味とする人は、この時期朝ごとに存問して毛虫を見つけたら即座に獲って踏みつけて退治するのであるが、作者は綺麗な蝶になる毛虫だけは見極めて許容しているのだ。半端な妥協を許すと後悔するのであるが特にこだわりのある美しい蝶の毛虫なんだろう。

潔き鋏づかひや薔薇手入れ

澄子

やまだみのる選

ボランテイア園丁さんたちの薔薇手入れの様子を注意深く観察していると、散りかけている花だけではなくまだまだ鑑賞に耐えると思われるものも潔く剪られていくのに気づく。

その理由を尋ねたことがある。天気が良く陽射しが強くなりそうな日は、朝は元気そうでも昼過ぎには散りはじめるのでそれを見極めてそのたぐいは朝のうちに剪るのだという。早めの剪定によって次なる蕾が促進されて結果的に長期間楽しめる…のだとも。納得!

天辺に巨石鼻だす青嶺かな

せいじ

やまだみのる選

六甲山の山頂には天狗岩と呼ばれる巨石がある。明日香の地にも鬼の雪隠石などと親しまれて「こんなところにどうして?」と思われるような巨石が山中に存在する。

眠りから覚めた山々も夏闌になると青葉が茂りはじめみるみる膨れる。揚句の巨岩はその万緑を抜きんでてなお存在感を主張しているのである。山は見る方向によって異なる表情をもつが揚句は横顔から巨岩の鼻がつき出ているように見えるというのである。

2024年5月21日

迷ひつつビルの谷間を白日傘

あひる

やまだみのる選

ビルの谷間とあるので高層ビルの林立するビジネス街を連想した。よく似たビルが立ち並んでいるので迷いながらメモした住所と名前を頼りに目的のオフィスビルを探し歩いているのである。

白日傘の女性は羅をまとった上品な高級バーのママさん。請求書をもって訪ねるような無粋なことはしないと思うので手土産をもって贔屓筋の商社などへの挨拶回りをしているのだと連想を膨らませてみた。私の勝手な推量なので間違っていたらごめんなさい。

田水張る高き信濃の空映し

風民

やまだみのる選

信州・信濃といへば「日本の屋根」と呼ばれる標高三千メートル級の山々がそびえ、豊かな森林と清流が織りなす雄大な自然の景が浮かぶ。またコシヒカリで有名な米どころでもある。

高き信濃の空…の措辞は、そうした山々を従えるように広がっている青空であろう。広々とした信州平野には山清水を源流とした田水が満たされ美しい代田の景が展けている。そして水面に映し出された青空は遥かなるアルプスの山々にまで続いているのである。

花殻を集めし袋薔薇香る

むべ

やまだみのる選

薔薇は5月の中旬頃から見頃となり各所の薔薇園には老若男女が集って大いに賑わう。地域のバラ公園などではたくさんのボランティア園丁たちがかり出され手入れに余念がない。

雨に打たれたり強い陽射しに倦んで傷みが見られる花は惜しみなく早々と剪られていく。次なる蕾をうながすためだと教えられた。剪られた花殻は土嚢袋のようなのに集められるのであるが、その袋からほんのりと薔薇が香っている。花の命を慈しむ気分がある。

2024年5月15日

夕風をいなし玉解く芭蕉かな

むべ

やまだみのる選

芭蕉の新しい葉が巻かれた状態にあるものを「玉巻く芭蕉」といい、この巻葉の解けるのを「玉解く芭蕉」という。いづれも初夏の季語であるが巻葉の解ける五月頃の芭蕉が一年を通じて最も美しい。

風雨に嬲られてぼろぼろになった古葉を項垂れていた芭蕉が、初夏になり巻葉を立ち上げてきたので注意していると、とある日の通勤帰りであろうか玉を解いたばかりの瑞々しい新葉が夕風をいなしてしっかりと自己主張しているのに出会って感動したのである。

ブラウスの中通り抜く若葉風

かえる

やまだみのる選

若葉風といえば初夏、更衣の時候である。通勤のOLたちもスーツやジャケットを脱いで軽装のブラウス姿が目立つようになり、街路樹もまた若葉に満ちて明るく風薫る快適なシーズンを迎える。

ブラウスの中を風が通り抜ける…という大胆な表現が新しいと思う。女性がブラウスを着こなす場合、たいてい第二ボタンあたりまで外してネックレスなどのジュエリーが見えるようにすると思うので胸元を風が通り抜けるという感覚も頷けるのである。

顔近く寄せれば翳る白牡丹

うつぎ

やまだみのる選

高浜虚子の代表句に「白牡丹といふといへども紅ほのか」がある。白牡丹という名の花だけれど、よく見ればほのかに紅い色が差しているよ…という意味である。

大輪の牡丹は美しいが故に命の儚さをも思わされる。虚子の句を意識したか否かはともかく、作者もまたよく観察しようと白牡丹に顔を近づけた。ふとそのとき牡丹に映った自分の影が、あたかも白牡丹自身が憂いの表情を見せたかのように感じたのである。

2024年5月9日

教室の窓に校歌の山笑ふ

はく子

やまだみのる選

原句は「まなかひに」であった。嘘をつけない作者の性格がそう詠ませたと思うけれど、校歌に歌われた故郷の山を賛美するのであればやはり教室の窓から見える俺が山のほうがより親しい。

ことあるごとに愛唱した校歌にも繰り返し歌われ、晴れた日も雨の日も四季折々の表情を見せながら登下校や校庭で遊ぶ子どもたちを見守ってくれた山。いうなれば親友のような存在の故郷の山なのである。今年もまた新しい年度となり新緑を湛えているのである。

軽トラの窓から足や三尺寝

みきお

やまだみのる選

三尺寝は夏の季語として分類されるが猛暑の炎天下でこのシチュエイションはありえないと思うので晩春か初夏の設定ではないかと思う。里山などでのんびりとした農風景として鑑賞してみよう。

農具や肥料などの資材を軽トラに乗せて畑に横付けし、午前中の作業を終えて昼食をとったあとしばらく休息の仮眠をしているのである。軽トラの場合は背もたれを倒してというわけには行かないので運転席に横向けに寝てなお余った足を窓から出しているのである。

農小屋でやりすごしたる春驟雨

千鶴

やまだみのる選

長い冬が終わり啓蟄の時候を迎えると凍てて固くなっていた土を耕し次なる準備のためにいよいよ農作業本番を迎える。今日もまた良いお天気に恵まれたので朝から畑仕事に精出して余念がない。

終日晴れるという予報だったのに突然雨が降り出した。でも空は明るいので多分通り雨だろうと読み休息も兼ねて農小屋の軒下にエスケープしたのである。しばらくすると雨は晴れたので畑に戻ると雨にほぐれた土が芳しく匂っている。さてまた頑張るか。

2024年4月30日

咲き満ちて藤棚千客万来す

澄子

やまだみのる選

地に触れんばかりに咲き満ちた著名な砂ずりの棚藤であろうか、満開、見頃との情報を聞きつけた大勢の見物客が入れ代わり立ち代わりして賑わっているのである。

よく晴れて明るい日差しがさす日には、咲き満ちた藤の花が虫寄せのフェロモンを発するので大小の虻や蜜蜂たちが集まってきてホバリングしながら藤房に頭突きをくりかえし様々な音色の羽音があい和してさながら協奏曲を奏でるのである。

三線に手の踊りだす花筵

あひる

やまだみのる選

いろいろななりわいで故郷を離れ都会での生活を余儀なくされている沖縄県人会の人たちが満開の花下にあい集って望郷の思いを共有しつつ慰め励まし合っている宴の様子が目に浮かぶ。

宴もたけなわとなると自ずから三線の出番となりなつかしいメロディーを爪弾きながら沖縄なまりの地唄を合唱しだすと、連鎖するようにごく自然に体が動きだして手拍子まじりに踊りだす。このひと時だけは喧騒な都会ぐらしを忘れて癒やされるのである。

藤棚の下に人垣将棋盤

こすもす

やまだみのる選

咲き満ちた藤の花が心地よい薫風に香り、ほどよい陽射しのこぼれる明るい藤棚の下のベンチはとても快適で地域の老若男女が集ひ他愛のない井戸端会議で賑わう格好の社交場となる。

いくつか置かれたベンチの一つに人垣ができていたので何だろうと覗き込むと近所のおじいちゃんたちが将棋に興じているのであった。対戦している二人は寡黙に考えながら指しているのだが、それを取り囲んだ外野席が丁々発止と賑やかなのである。

2024年4月23日

三輪山の薄雲払ふ桜南風

明日香

やまだみのる選

桜南風(さくらまじ)は桜の咲くころの南風のこと。晩春の油を流したような穏やかな南風は油南風(あぶらまじ)という。単に南風(みなみかぜ・みなみ)と言うと夏の季語になる。

三輪山は、大和三山(香具山・畝傍山・耳成山)と共に大和を代表する御神体として親しまれ日本最古の神社といわれている。桜のころは花曇りが多くいつも薄衣を纏っているかのように見えるのだが今日は温かい南風が吹いてそれを脱がせたよ…と見たのである。

先生に桜蕊降る離任式

みきお

やまだみのる選

離任式は三月の修了式と同じ日に行われることが多いが一部の地域では四月に行われることもある。対象となるのは定年を迎えて退任する重職の先生や人事異動で他校への転任となる先生たちである。

揚句は桜蕊を季語としているので四月だと連想できる。花束贈呈が終わり式場を出た先生が桜の樹下で生徒たちとの別れを惜しんでいるのである。先生のスーツの肩にお疲れさまとばかりに桜蕊が降り注ぐ。第三者目線ではなく一人の生徒の目に浮かぶ景として鑑賞したい。

十字架の塔抽んでし花の雲

かえる

やまだみのる選

桜の花が一面に咲き連なっているようすを雲に見立てて「花の雲」という季語が生まれた。 やや遠景として詠まれることが多く揚句もチャペル本体は花の雲に隠され尖塔だけが抽んでているのである。

何かが花の雲を抽んでる…という例句は多いが、十字架を配したところが揚句の命となっている。桜といえば三月下旬から四月上旬キリスト教では復活祭の時期にあたる。毎年季節を違わずに花を咲かせる桜に復活のイエス・キリストへの思いが重なるのである。

2024年4月16日

祝福のごとく総身に花吹雪

むべ

やまだみのる選

一読、新郎新婦の退場の際に祝福の意味合いを込めて参列者が米を振り掛けるライスシャワーのシーンを連想させる。近年ではお米ではなくて小さく切りきざんだ紙吹雪でそれを模すことが多い。

咲き満ちた桜は早や散りはじめていて、ときおり吹く気まぐれな風に高舞ひながら飛花落花する。美しくもあり且つ儚くもある情景ながら健康で生かされている幸せを実感し、キリスト者である作者は天からの祝福の洗礼を浴びているようにも感じたのである。

試歩の母饒舌となる花の道

康子

やまだみのる選

歳を重ね高齢になるほど足腰が弱くなり、あちこちに痛みがでたりしてついつい出不精になりがちである。しかも日中は家人がみな勤めに出るのでお喋りの相手もなく独りで留守番をすることになる。

今日は仕事も休みで温かい日差しも賜ったので老い母を励まそうと杖代わりになって散歩に誘った。満開の桜並木の道は心洗われるような美しさ。そんな花に癒やされるように日頃は寡黙な母もいつになく饒舌になってお喋りが弾むのである。

この平和永遠にと願ふ花の下

たか子

やまだみのる選

花の下と書いて「はなのもと」と読むのは自明、「願はくは花の下にて春死なむ…」と詠んだ西行の歌を思い浮かべます。桜を春の風物詩として愛で親しむのは日本独特の習慣です。

満開の花を愛でながら癒やしを得られるのも平和が保たれていればこそながら永久の保証はない。世界に目を向けるとあいかわらず理不尽な戦争が耐えることなく悲惨なニュースに心が傷む。穏やかな花下に佇みながら平和な日が続くようにと祈り願うのである。

2024年4月11日

行き一分帰り三分や花堤

あられ

やまだみのる選

寒の戻りで開花が大きく遅れていたが、待ちにまった開花宣言のニュースを聞きいち早く名所の花堤を訪ねた。さすがにまだ咲き始めたばかりなので贔屓目に見てもちらほら一分咲きというところ。

さすがに人出もまばらで肌寒さも残っていたが晴れた青空であることが慰めであった。花堤を歩き尽きた頃には日も高くなり温かくなってきた。やがて来た道を取って返すと往路はなんと三分咲きくらいまでに進んでいるのに気づいて幸せな気分になったのである。

花冷の両手につつむふるまひ茶

なつき

やまだみのる選

桜の時期だけ公開されている名苑のさくら祭りかと思う。要の大樹をはじめ天地人をなして咲きほこる苑内の桜をゆっくり愛でられるように要所には緋毛氈床几がおかれたりしている。

あいにくこの日は花曇りで気温も低く苑内を散策しているうちにすっかり体が冷えてしまい、招き入れられた数寄屋風の屋敷の部屋で休憩させてもらうことにした。屋敷主の気遣いであたたかいお茶がふるまわれもろ手つつみに一服いただいてようやく一息ついたのである。

白皙に深く被りし春帽子

かえる

やまだみのる選

これはただの報告の句ではない。季語として斡旋された「春帽子」がまったく不動と言っても過ぎないくらいみごとな演出効果を発揮していることに気づいてほしいのである。

紫外線は春頃から急激に強くなりはじめるので、この春先が油断大敵なのである。対策に余念のない主人公はつば広の春帽子を深々とかぶり、さらに念の為に春日傘も掲げているのかも知れない。白皙美人を維持するために斯く努力を惜しまないのである。

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