みのるの愛唱聖句書を集めています。
みのるの愛唱聖句書を集めています。
青年ラザロが死んで四日も経っているという現実の中で、
石を取りのけなさい
と言われた主のお言葉に従ってひとびとは石を取りのけた。
果たしてわたしにそれが出来るだろうか。
クリスチャンであると宣言しながらも、
あなたは、ほんとうに心から神の存在を信じているか?
と詰問されると自信がゆらぐ。
信じていると言いながらゆだねきれないであれこれ悩む。
祈ることを忘れ、ただの観念的信仰に陥ってしまう。
主よ信じます。不信仰なわたしをお助けください
と祈るとき平安が与えられ不思議なように道が開かれる。
そんな体験を幾度もしてきたのに、また同じことを繰り返す弱いわたしである。
このみことばを素直に聴き、主に祈り従うものでありたいと願う。
ひどいひきつけの子をもつ父親は、
できますれば、わたしどもをあわれんでお助けください
とイエスに願い出た。そのときイエスは
もしできれば、と言うのか。信ずるものには、どんな事でもできる
と答えておられる。
このお言葉によって父親は息子に問題があるのではなく、自分の不信仰に問題があることに気づかされるのである。
わたしたちも病気や悩みにある家族や友人のためにとりなしの祈りをよくする。
ともすれば、
主よ、出来ることなら…
と祈ってはいないだろうか。
全能の神の力を信じて祈る。これが祈りの原点だと思う。
受洗の喜びも束の間、わたしはクリスチャンらしく振舞うことに疲れてつまづいた。
自分の努力で変わろうという幼稚な信仰は直ぐにメッキが剥げ、敗北感に打ちのめされてしまった。
自分の力に頼らず、祈ってゆだねるとき主は不可能を可能とする力を与えてくださる。
主が共にいてくだされば、恐れることは何も無い。
それに気づくまでに三年ほど悩み苦しんだが、これもまた主の訓練であったと思う。
神を信じていても苦難や戦いはやってくる。
むしろ信仰のゆえに避けられない戦いも生まれてくる。
ときには「なぜ?」と、神様に文句を言いたくなるほど不信仰な気持ちになって祈れなくなり、牧師に祈ってもらうことも多い。
その度に、
わたしたちの信じている神様は必ずつじつまを合わせてくださる
と、繰り返し教えられた。
時がたって振り返ると決して無駄な戦いではなかったことがよくわかる。
神さまのご計画を知ることはできないけれどどんな試練も喜んで受け止められるようになりたいと願う。
斯くありたいと祈ってはいるがこのような霊的体験を実感したことはまだない。
しかしこのみことばによって勇気を与えられたことは何度もある。
人間関係によく躓くわたしだが、それでも最近はそれに疲れることはなくなった。
牛歩ではあるがやがてこのみことばのような信仰が備わり、主のみそばへのぼることのできる日が来ることを祈っている。
望むものはことごとくそなわり、全く満足すべきなのに何か満たされない思いがわきあがってくる。
この漫然とした不安がやがて幸せを奪う。
これはサタンが私たちを陥れる常套手段だ。
日々の祈りが希薄になっているときをサタンは狙っているのである。
いくら物質的に満たされていても水や空気がなければ肉体は生きていけないのと同じように命の泉であるみことばとのかかわりなくして健全な心は維持できないと思う。