やまだみのる

最近、どうしたらGHの理念を正しく伝えられるだろうかと言うことをよく考えます。

今日は標題のことについて、一例をあげて説明してみます。 でも、あまり難しく考え込まないで、適当に読み流してください。 あれこれ理屈に照らしながら、俳句を作るのは一番よくない習慣なのです。

鼻欠けの野仏落とす砂の汗

この作品は毎日句会の2点句ですが、みなさんはどう思われるでしょうか。 確かに「汗」という季語は入っています。 けれども、「砂の汗」ということになると季語にはならないので、 「無季」だと指摘されるかも知れません。

でも、「野仏に付着してこぼれている砂が、汗を流しているように見えるよ・・」  という句意だから夏の季感はあるでしょ・・という風に説明されればどうでしょうか。

同じ情景を冬に見たのであれば、作者は、「汗のようだ」とは感じなかったでしょう。 炎天下の野仏を見て感じたから、作者はこのように詠まれたと思います。 ですから、この作品の場合、「砂の汗」は季語としては働いていませんが、 一句の中に夏の季感は宿していると、ぼくは判断します。

この句をみのる選に採らなかったのは、無季だからではなく観念が覗いていると感じたからです。 野仏が汗を流すことなどありえないのに、汗を流しているように見たこと。 しかも雨雫のような汗に近いものではなく、砂であること。  ”どうして砂がついているの?”という疑問もありますね。 こうした不自然さがこの句に命を与えられなかった原因だと思います。 「遊んでいる幼子の顔についた砂が汗のように落ちている」というのであれば、まだ無理はないですね。 このあたりの感じ方、捉え方が、観念と写生との分かれ道なのです。

吟行に出かけて、実景を写生しているつもりでも、つい観念が邪魔をする。 どうしてもそういう言い方をしないと気がすまない。 そういう傾向の句に惹かれる。だれでも最初はそうなのです。 毎日句会の互選結果がそれを証明しています。 でも、どうか忍耐をして観念俳句からの脱却を志してください。

”心を無にして、自然の営みに心を遊ばせる”

理屈では分かっていても、難しいことですね。 でも、観念の世界に遊んでいるうちは、充実した本物の俳句ライフは見出せません。 それどころか、ますますエスカレートして、いよいよ独善的な世界に溺れて行き、 やがて疲れてしまって自滅します。

俳句に限りませんが、染み付いた習慣を取り除くのはとても忍耐と努力の要ることです。 けれども、客観写生の訓練を徹底して続けることで、 必ず本物の喜びを知ることができるのです。 現在の自分の選と写生に徹して頑張った一年後の選とを比較してみられると、 その価値観の変化に気づかれるはずです。 公開5年目となる今のGHには、このことを実際に証して下さるメンバーが何人もおられます。 各地のGHオフ会に参加されれば、そのお話を聞かれる機会もあるでしょう。

とにかく本物に目が開かれてくると、いままでは見えなかったものが見えてきます。 自然の摂理を通して、自分もまた生かされているのだと言う実感に浸ることが出来ます。 そしてそこから喜び、希望、勇気、感謝が湧き上がってきて一句が生まれる。 これこそが、ゴスペル俳句の真理だと、ぼくは信じて疑わないのです。

青畝先生の俳話 にも観念俳句についてかかれた記事がありまので、ぜひお読みください。

(2004年07月16日の日記より)