やまだみのる

みのる選をしていて少し残念に思うことがあります。 それは、「観念に溺れた俳句が多い」ということです。

真剣に自然写生と取り組み、生命の尊厳を描写する。 そういう姿勢で取り組んでいる作品は、その表現が稚拙であっても添削して採ることができます。 けれども、何度も言い古されてきたような材料を、 言葉の言い回しだけを変えて新しさを求めていると錯覚しているような作品に出会うと、 たとい高点を得ておられる作品であっても採れないのです。

青畝先生の俳話「観念に溺れるな」の一文のなかにも以下のような一節があります。、

相も変わらず陳腐きわまる景色を持ち回っているのに、むしろあきれてしまう。 俳句という天地では、こういう天地と、最初に観念で固定化してしまう。 何度俳句にまとめてみても真実に触れてこない。 写生してほしいと叫んではみても、写生されない。 その人はそれでも写生してあるつもりかも知らぬが、 自分を虚しくして対象に接しないから対象の真実、作家の真実、そうゆう尊さを知ることができないのである。

つまり先入主観念なる色眼鏡をかけて、その色を透して対象を捉えようとしているのであるから、 ほんとうに生き生きした対象が目にはいる道理がない。

  "互選で高点を得ているのに、みのる選にはいらないのはなぜ?" 

という疑問や不満をお持ちの方も多いと思います。また、

  ” 初心のころは、よく「みのる選」に入ったのに、最近はどうも不調だ ” 

と感じておられる方もいらっしゃるでしょう。 斯くいうぼくも、何度もスランプを経験しました。 ほとんどのケースは、この「観念俳句」の落とし穴にはまって溺れているのです。 もういちど原点に帰って、自分の作句態度をチェックいたしましょう。

(2004年06月19日の日記より)


 

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