防災無線は、災害等により電線が切れてしまっても稼動できるようバッテリーを内蔵した地域無線情報システムのこと。携帯電話の普及で縮小されたが地方にはまだ残っている。
不測の有事に備えて定期的に試験電波が発信されて生活する家々でも受信して確認するのであるが、阪神忌の今朝5時46分に黙祷を促すアナウンスが流されたのである。揚句の防災無線も阪神淡路大震災を教訓にして設置されたものかも知れない。
ものの芽俳句と揶揄されながらも高浜虚子師の教えを堅く信じて写生俳句道を貫き通した高野素十の生涯を想う。ものの芽に対峙して心を通わせることは 俳句理念の原点でもある。
大地を割って健気に顔をだしたものの芽が早春のやさしい日差しに応えるかのようにいま解れそめている。地上部は枯れてすっかりなくなっていたのが、新しい命として生まれ変わり復活の春を告げている。蹲って存問している作者の姿も目に浮かぶのである。
あんか(行火)は金沢の方言だそうで炭火を内蔵したこたつのこと。昨今では電気ヒーターや化学発熱体などを内蔵したものが主流となったが昔ながらのそれは自動で温度調整ができなかった。
寝るときは適温であったものが徐々に温度が上昇してくるので無意識のうちに蹴飛ばしていたが、朝方の冷え込みで冷たくなった足が逃げたあんかをまさぐり探しているのである。爪先で…の措辞が的確にリアルさを写生しており俳諧的滑稽を醸している。
近年は環境的な事情もあり工場生産の堆肥が流通しているが、揚句の場合は昔ながらに自家製の堆肥を作っているのであろう。温湿度調整も必要なために屋根付の小屋で管理しているのである。
霜の朝は放射冷却によって一気に気温が下がり飽和空気の状態となるゆえに醗酵堆肥から蒸発する水蒸気が湯煙となって見えるのである。霜で白変した風景の中に湯煙がたつ状況を連想すると里山の人たちの生活ぶりがほのぼのと伝わってくるのである。
お正月の間はお節の準備や帰省家族の接待に追われ新聞を読む時間もないほど忙殺されていたのである。無事お正月が過ぎ、皆が帰ってようやく一息ついた主婦の実感が伝わってくる作品である。
原句の「六日かな」でも不満はなかったが今年の暦に特化する感じがしたので、正月中忙しかった女性をねぎらう日とされている「女正月」の季語を斡旋したほうがより実感が醸し出されると思ったのであえて添削させていただいた。
文字を書くのに最も大切な毛であるところから毛筆の穂先のいちばん長い毛のことを「命毛」と呼ぶそうで、恥ずかしながら書に疎い私はそのことを知らなかったが揚句に教えられた。
書の達人の筆さばきの様子を動画などで見ているとまさに筆の穂先に意思がある如くしなやかに筆が運ばれていくのに驚く。その情景を「命毛はしる」と形容したことで儀式としての筆始めの厳粛な雰囲気が的確に写生されていると思う。
お正月に孫家族が実家に戻ってきて「ひいあばあちゃん、新年おめでとう。百歳おめでとう。まだまだ元気で長生きしてね」と皺くちゃな百寿の手を握りしめて励ましているのである。
昨今は高齢者を支援するための社会福祉制度や対応施設が充実し、百歳ともなれば施設に入所して生活される方も多くなっているが、揚句の場合は、むかしながらの自宅介護であろうことが連想できる。命の尊厳と人の温かさを共有させられる作品である。
お雑煮も新年の季語になるので季重なりとはなるが御慶の句として作者の深い愛情が伝わってきたので選ばしていただいた。遺影の主と作者との関係説明は省略されているが作者の境遇を知る人には「遺影の夫に」であることは容易に連想できる。
存命であったころには、元気にお正月を迎えられたことを二人で一緒に感謝し、差し向かいで御慶を交わしてお節の膳を祝った。そうした日々を懐かしみつつ遺影に呼びかけたのである。
大掃除である煤払いに協力せず時間をつぶしに外出することを「煤逃げ」という。煤払いの際に、病人や老人、子どもを別室に籠うことを「煤籠り」ともいうが、揚句の場合は粗大ゴミ扱いされて追い出された隠居組の雰囲気があり滑稽である。
「面子(メンツ)が揃う」という表現は、会合などの顔ぶれが揃っていることを意味する。互いに利害関係は伴わず、他愛のない世間話や雑談で盛りあがる気心の知れた常連衆なのであろう。
冬銀河は冬の夜空にかかる「天の川」のことで、秋の天の川と違って冴え冴えとした趣がある。「夫に見せたき銀河かな」ではなく「冬銀河」としたのは作者の深い悲しみを代弁しているのである。
病床に付き添って介護している部屋の窓から眺めているのではなくて作者とは離れた遠い場所から闘病中の夫に思いを馳せているのであって、叶うことなら肩を寄せ合って二人で眺められたら…という作者の祈りが隠されていることを見逃さないでほしいのである。