俳句作法と実作の基本について説かれたもの

素直さ

人間はそれぞれに個性をもつことは当然である。そしてその個性は自然にあらわれいずるものだと思っている。

付け焼刀なのはいわばごまかしているのであって、ほんとうの個性であるとはいえぬ。

そこで私はあるがままにあるものを見つめようと努力するのである。そのあるものとは自然である。対象である。またそれが自己でもある。

自他一体となって謙虚な気分に冷静な目で見つめるとすれば、私の心につたわってくる力をさずけられたような、ホッとした陶酔に似たほんとうの喜びというものを発見する。

とはいうものの辛抱がいる。あせろうとするのをぐんと押さえつけるのでつらい。とにかく根気くらべなのだ。

ひらめきを感ずるやいなや、それを素直にことばでカチッとうけとめることをやらねばならない。言葉は無尽蔵にあるけれども適当な言葉はまことに少ないので、その言葉を早く探し出して十七音のワクに切りとる。または圧縮するような工作を達者にはたらかさねばいけない。

つねに心を労するとはこのへんの苦心をさすのであって、自分の心にないウソがとびだすからそれを警戒して、どこまでも忠実に自分のうけとめた誠を示すことにある。

言葉は大切であるということを私はしみじみと思うのである。

俳句は日本に生まれた詩であり、日本人によって伝統され新しく継がれていくしであった。そこには日本人の感情の通う生きている言葉があるからである。

つまり言葉は生きているということだ。

言葉の並べ方をおろそかにできないのは、そこに心の躍動が音波のように流れて一種の音楽としての効果も協力しているからである。

芭蕉が黄金を打ち伸ばしたようにせよとさとしたのは、素直に素直にとしてあるがままにの姿が貴重であるとの教訓だと私は解する。

根気

どんな人でも俳句をつくる。五七五に調子がついていたら簡単に俳句らしくできる。あんまり簡単なためにたよりないのか、まもなくやめる。つまりひやかし根性なのである。

しかし、やるからには根気が大事だと思う。文才がないときめる人でも根気よく努力してゆくうちに必ず面白く思うようになる。

昔から「運・鈍・根」といわれている。天才でもない人も努力すれば成功するという。天才はもとより有り難いかもしれないが、両刃を振りまわすような傾向があってかえって天才が失敗する例が多い。惜しい彼だったがと思われるのである。

しかしド根性のすわった作者は恐ろしい。すくなくとも将来性のたくましさに圧倒されるであろう。

立派な彫刻は鋭く切れる道具よりも、にぶい刃物を何度もくりかえしつつ彫るという。こうするには根気が必要である。しんきくさいからやめだと投げ出せば作品が完成しない。

根気はやはり勇気である。とにかく持続じて対象にくいついてゆくことだ。そうすれば対象がはっきりとしてくる。自然の心が感じられる。それを表すのだというひらめきが与えられる。そしてぴったりとした表現が何であるか、そういうことも天啓をうけた気分になって胸のうちは躍動するであろう。

たとえ完成までたどれなくとも、その躍動した心境は至極愉快で、生きがいをおぼえはじめるにちがいない。創るという喜びを獲得する自信が生まれるのである。

テレビが棟方志巧の版画を彫っているところを放映したとき、すさまじい熱情を発揮してものを創っていた。この人の根性に全く感激してしまった。そのときに仕上げた作品をにこにことながめている彼の近眼はきらきらとぬれたような光を見せた。

根性は努力の集積である。

芭蕉が無芸無能にしてこの一筋につながると言ったことはド根性を貫く意気をいったのであろう。

一は全

俳句は短い。容器が小さいということである。すべて、長所を採り短所を捨てる方法がある。

俳句は短いから、簡潔を旨として単純な表現をとる。また複雑多岐なることがらをよく整理して、その中の要領をつかめば、扇の要のようにこの一点が全体を統一するのだから、そういう工夫を考えてみる。

小説のような内容は小説にまかせて、あえて俳句に詠もうとはおもわない。しかし工夫しだいでは小説的な連想のともなう含蓄とか余情とかをにじませることができる。

俳句として詠みやすいのは自然の風土であると私は決める。自然はいつも私の周囲に存在している。自然と自己との対立ではなく、自己もまた自然の一部にちがいないから自然は無尽蔵と考えている。

自然と相交わるとき、むつかしい態度は要らない。主義を唱えない。素直にあいさつしている気分でありたいのである。

そこで季語はあいさつするのに最も重宝になる。例えば「年の暮」という一言が、今日のあいさつになっていて、全体をふくめたものを、短い俳句に詠みやすい。

哲学じみることにあり恐縮するが、一ということは一であるとともに全でもあるのである。無茶なことをいったのではない。日本人は古来こうした自在無碍(むげ)の意味の解し方に慣れている。日本語は確かに不確定といわれる。否定か肯定か、どっちにもとれる。一か全かというのも然り。

新米や百万石を一と握り 虚子

このような句を見出すと、とても愉快になるのである。人間の手で一と握りとは僅かな量でしかない。それなのに百万石というでっかい大ものが手中におさまる。

言葉の魔術ではなく、自在な日本語の長所であると、それゆえに俳句の長所を伸ばせば自由の天地があると説きたい私である。

ひびき

韻文詩として俳句がる。

韻は余韻またはひびきをいうのである。

小さいものはひびきによって大きくひろがる。無限にひろがるときは長編の散文にも優り得る。私の俳句作法は韻文詩たるひびきをつねに発揮することである。たとえば釣鐘を見よ。あの臍の小部分を力一杯撞いてみるとゴーンと鳴りひびく。その余韻は長くつづく。しかも四方に音波が伝わってまだ聞こえるような感じがやまない。そのような名鐘に似た俳句を悲願したいわけである。そこで表現としての切字を利用する。切字は俳句特有の文法ともいえる。切字は段落である。または屈折やアクセントの役目をはたす。

年暮れぬ笠被て草鞋はきながら 芭蕉

はや年が暮れたよ。じぶんは笠きてわらじをはいたままの姿でね。---と旅中の芭蕉が感慨した句を朗詠してみると、五七五の格のリズムなり、「暮れぬ」の切字なり、「ながら」と言いのこしの形なりから併せてふしぎなほど余韻がわいてくる。この余韻につつまれた中に芭蕉の気持ちを見つめることができる。

これをまねて私は先年次の句をひねった。

去年今年またぐやペンを持ちながら

ろくな作ではないが、「またぐや」の切字に無量の思いをせきとめた除夜を詠んだのである。

切字は「や」「かな」「けり」のほかにもある。名詞のみの「奈良七重七堂伽藍八重桜」(芭蕉)にも八重桜の前で切字が休止されている。かように切字のはたらきは一句のリズムにひびかせ、断続曲折によって変化のあやを加え、平凡をまぬかれうるのである。

どうも現代は散文に侵されてはいないかと思う。事柄の叙述報告であったり、クイズめいや寄せ木暗号であったりしてはならないのである。

最後に、私は写生道をすすむ。写生とは自他一如の描写、即ち「松の事は松に習え」と。

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