俳句上達のためには、確かな選句力、鑑賞力を培うことが大切です。
俳句上達のためには、確かな選句力、鑑賞力を培うことが大切です。
選句力に具体的な基準はなく、それを向上させる方法を説明するのも難しいです。
けれども、選句力が向上すれば作句力の向上になるということだけは保証できます。
選句力の向上のために私が句会のたびに必ず励行していた方法を皆さんに公開します。
まず自分が予選した句と選者の選とがどのくらい一致したかをチェックします。尊敬する先輩のそれとの比較もまた有効です。
選者の選と合致している句が多いほど自分の選句が正しい方向にむいているのだと確認することが出来るのです。
この学習法は、多くの方が取り入れていると思いますが、さらにもう一歩突っ込んで復習すると更に効果的です。
それは、選者の選のうち自分が取りこぼした作品について何故自分は採れなかったのか、どういう理由で選者はその作品を採ったのかということを復習するのです。
選者の選評などを真剣に聞いていればそのヒントが得られます。それでも分らないときは遠慮なく聞くという勇気も必要です。
こうした努力の積み重ねを実行する人としない人とでは、同じ年月の修行をしても明らかに力の差が出てきます。
選句力というのは作品の鑑賞力と同じです。
鑑賞力を向上させるのに一番よい方法は、「合評」に参加することです。ただし予習もせず思いつきのままコメントしていたのでは成果は得られません。
どのような方法で予習すればいいのかについて説明しましょう。
鑑賞をはじめる前に、作品に使われている季語はどれか、作品に詠み込まれている季感はどうかを真っ先にチェックします。
季語=季感だとは決めつけていけません。
秋口といふその言葉待たれゐし 青畝
使われている季語は「秋口」ですが季感は晩夏だということが分かりますか?
季語が「秋口」だから秋の句だと決め付けて鑑賞してしまうと、句意を理解することは出来ないですね。
俳句鑑賞は季語云々ではなく「季感」だということを肝に命じましょう。
季語らしいことばが見あたらなくても季感が感じられれば「無季」ではなく立派な俳句なのです。
一例を示しましょう。
植え終へし棚田に風の生まれけり
俳友の作品ですが、一読「季語」らしい言葉は見当たりませんね。
でも冷静に鑑賞すると「植田」という季語の変形であることが分ります。
老らくの手習を星御覧ぜよ 青畝
さてこの句はどうでしょうか。「星」だけでは季語にはなりませんね。
実はこの作品は七夕の句なのです。
願い事を七夕の短冊に書いて吊るしますね。裁縫や習字の上達を願ってという意味があったと伝えられていますが、先生のこの句はそれを踏まえて詠まれているのです。
これらの句を無季と決めつけるのは愚かであることが分っていただけたと思います。
上記の例句とは真逆のことになるのですが、季語が詠み込まれていても全く季感を捉えていない作品があります。
いわゆる「季語動く」作品です。選者は真っ先にこのチェックをします。没となる作品の大半はこれに該当します。
俳句は基本的に一人称の文学と言われます。
必ずしも作者自身という意味ではなく「主人公」と言うほうが適切かもしれませんね。
要するに一人の主人公がいて、その人の目から見た感動を写生するのです。
客観写生を勘違いする人が多いですが、作者が存在せず第三者的な目で詠まれたかのように鑑賞するのは間違いです。
主人公=作者自身と決め付けるのもよくありません。俳句は日記のようなものですが、あくまで文芸なので作者が主人公でない場合も許されるのです。
春憂しと妻のわたしに言はれても
じつはこの作品、作者はみのるですが句の主人公は妻です(^o^)
あくまで参考ですので、このような作り方を推奨しているわけではありません。
◯◯がいいですねぇ〜 △△という措辞も素晴らしいですねぇ〜
というふうに表現や措辞の鑑賞だけで終わってはいけません。
作者は何に感動したのか、それをどう伝えたいのか、ということを具体的に汲みとることが重要なのです。
ああかもしれない、けれどもひょとしたらこうかもしれない
というような鑑賞もほめられません。いつも曖昧な鑑賞で終わる…癖がつくからです。
私はこうだと思う…と断定する勇気をもちましょう。間違っていても恥じることはありません。そのための学びなのですから。
句の鑑賞に絶対正解はありませんから、他の人の意見や鑑賞も理解する姿勢が大事です。
なるほど、そういう視点もあるのか
と素直に受けいれる謙虚さをもちましょう。
合評は、それぞれの意見を、参加者全員が共有することで、はじめて一句の鑑賞が成り立つのです。
青畝俳句を合評した記録が、有志の奉仕によってまとめられています。一年間かけて合評しその後それを有志のメンバーでまとめてくださったこの記事は の財産です。
全員の記事を読むことで鑑賞句の全体像がよく見えてくる。そう思われたのではないでしょうか。
いきなり例え話で恐縮です。
英文の読み書きなら自信があるという商社マンでも英会話は不得手という人もいます。
文字ベースのやりとりは出来てもヒヤリングが出来ないと応答することは出来ないからです。
じつは俳句も全く同じなのです。
知識や論理は誰にも負けないと豪語する人が、他人をうならせるほどの佳句を詠んだり鑑賞文を書いたりできるとは言えません。
作者の感動を的確に共感できなければ、でたらめな鑑賞になるからです。
作句の学びには添削というサポートがありますが、選句や鑑賞の学びは合評に参加して自分で修練していくしか方法はないのです。
最後に、選者としての視点について少しお話しておきましょう。
互選でどの句が一番高得点を得るか
ということには興味がありません。
誰がどのような選をしているか
ということに神経を集中させています。
選句傾向が分ればおおよその実力が判断できまので、その人をどのように指導すればよいかが分るからです。
は結社ではなく単なる趣味の俳句サイトですので、決してみのる選が絶対という位置づけではありません。
けれども伝統俳句を継承しようとするその精神は結社とかわりません。そのことを伝えたくてあえてこの記事を書きました。
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