新しい参加者の方も増えているので、ゴスペル俳句の立ち位置についてわかりやすく書いてみようと思う。
俳句も文芸の一であるが残念ながら絶対的な価値評価の基準というものがない。
大方は、所属するグループの指導者が、自身の理念という物差しで評価するものなので、高評価を得た作品であっても、選者が変われば没になるというような極端もある。
歌人の島田修二という人が、「俳句人生の素晴らしさ」という小文の中で閉鎖的な俳壇の現実に触れている。
俳句ブームと言われる現象も、開かれた俳壇の中で百花が咲き競っているというのではなく、結社という砦に立て籠もった宗匠たちがひたすら門下の頭数を増やそうとする現れに過ぎないのではないか。
自らの結社の中だけでしか通用しないような、特殊な排他性を持つ俳壇に…
この一文は、結社中心の現在の俳壇の問題点を鋭く指摘していると思う。
私が結社を離れたのは、そうした体質に嫌気がさした…ことも一因だが、実際は阪神淡路大震災の復興で猛烈に仕事が忙しくなり俳句どころではなくなったからである。
仕事が一段落したとき、長老から結社へ戻ることを強く勧められた。
でも半ば離反という形で結社を離れた自分が、もう一度俳句と向き合うことを赦されるのなら、もっと違う使命があるのではと考えるようになった。
小路紫峡師の報いを求めない猛特訓で育てられ、短いながらも阿波野青畝師の謦咳に触れた私は、どうしてもその恩返しをしたいと強く願ったからである。
結社という束縛の中に身を置いては、自由に活動はできないと考えたのである。
誤解してほしくないが、「結社」の存在を否定しているのではない。
競争が激しく人づきあいにも気を使うが、上達したいと強く願うなら結社で鍛えられたほうが断然早く作家としての地位も築ける。
道を極めようとすれば誰でも上昇志向になるから、「結社で自分の力を試してみたい」という流れになるのは当然で、その志はむしろ応援したい。
その入り口へ橋渡しすることもまた、私の使命だと思うからである。
結社にありがちな差別感、排他感を廃絶し、居心地よく楽しく俳句を学べる場にしたい。
というのがコンセプトではあるが、カルチャーではないので情実をはさんだり迎合するつもりはない。
そのための「無料」なのであって慈善事業ではない。
まわりくどい説明になったかもしれないが、これが「超結社」としての の立ち位置である。
バラエティー番組「プレバト」のおかげで随分入会希望者も増えた。会員が増えていくに従って、どうしてもその運用が結社化していくことを戒めねばならないと思っている。
参加無料であるがゆえに会員の出入りも激しく定着率も低い。
そうした悪条件であっても確固たる伝統俳句の理念を守り超結社としての道を探りつつ、あくまでも本物の俳句道を伝えるために奉仕したいと祈っている。
(2021年1月5日の日記より)