多磨教会牧師 広瀬 薫
子供と一緒に読んでいて、思わず「あははははっ」と大笑いしてしまった楽しい絵本に「おつかい」というのがありました。
ある雨の日女の子がお母さんから「お使いに行って来て」と頼まれる話です。
初め女の子は「でも雨が降っているよ」と言って心配しますが母親は「傘をさして行けばいいでしょ」と言います。
けれどもこの女の子、次から次へと心配の種が出て来るのです。
でも、でも…と女の子の心配はエスカレートしていきます。
こんなふうにして山のような用意をして、ついに「じゃ行こうか」と言って外に出ると外はもうすっかり雨があがって太陽が輝いていた…
沢山の荷物を抱えた女の子の言葉を失った表情が何ともユーモラスで傑作です。
子供と笑いながらでも私達が抱える「心配」にもこれと似たところがあるのではないかなあ…と思ったのです。
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか何を飲もうかと心配したり、またからだのことで何を着ようかと心配したりしてはいけません。(マタイの福音書6章25節前半)
これは「衣食住」の心配についての教えに見えますがこの「心配するな」という原則は今の私達の抱えるあらゆる種類の心配にも当てはめることができます。
いくら「心配するな」と言われてもやはり心配しクヨクヨし思い煩うのが私達でしょう。
イエス・キリストは、そのような私達の「心配症」をよくご存じでした。
ですから「心配するな」と教えるだけではなく、何故心配する必要がないのかその理由をていねいに教えてくださいました。
聖書のこの辺の教えは、神様が何とかして私達に無用な心配をやめさせ生き生きした喜びにあふれた人生をおくって欲しいと説得しておられるような所です。
いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。(25節後半)
ということです。
「いのち」や「からだ」は皆さんはどこから手に入れましたか?
神様がただで下さったのです。自分で作り出してこの世に来た人はいません。
その大切な尊い「いのち」や「からだ」を無償で下さったすばらしい神様は、その「いのち」や「からだ」を生き生きと生かすための必要も全てご存じで用意して下さっているのが当然ではないか…と言うのです。
つまりより大切ですばらしいものをすでに下さっている神様はより小さな日常の必要も満たして下さるのは当然だというわけです。
(再度これは衣食住のことばかりでなく私達の生活に必要な全てのことに当てはまることにご注意下さい。)
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは鳥よ りももっとすぐれたものではありませんか。(26節)
というのです。
もちろん何も働かなくてもいいというのではありません。鳥だって一生懸命働いています。しかし鳥はその結果を心配しません。
「明日はミミズがどれだけ取れるかしら…」と心配して夜も眠れないなどという鳥は(絶対とは申しませんが多分…)いないでしょう。
神様は私達を鳥などよりもはるかに愛し大切にして下さっているというのです。
私達はなすべき努力をすると同時にその結果は私達を愛して最善を与えて下さる神様に安心して委ねればよいのだというわけです。
あなたがたのうちだれが心配したからといって自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。(26節)
この質問に対する答は「できません」です。
心配してもどうにもならないのです。私達の力は有限で小さなものです。
どうにもできないことを心配するのはやめなさい…とイエス・キリストは言うのです。
あなたにはどうにもならないことも神様の方ではちゃんとご存じで一番良いことをして下さるのだから…というわけです。
もう一つ有名な聖書の箇所を引用します。
あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(ペテロの手紙5章7節)
あなたの今のご心配は何でしょうか。
それを「心配」しているのはあなたお一人ではなくて神様ご自身も「心配」して下さっていることがわかるでしょうか。
あなたを愛して全てを最善に配慮して下さっている神様を知って今のあなたを縛る「心配」からの解放を味わわれてはいかがでしょうか。