こんにちは、やまだみのるです。

自然を観察するときの「俳句目線」は信仰と密接な関係があることをお伝えしたくてこのページを作りました。

高浜虚子は「俳句は花鳥諷詠である」と提唱し、自然の美しさ(花鳥)と人間生活の営みを客観的に写生し賛美することを基本理念としました。

そして客観的な「諷詠」に没入する姿勢が宗教的な祈りに通じると捉えた虚子は晩年に「俳句は信仰」だと述懐しています。

俳句が単なる風景描写ではなく森羅万象すべてをありのままに受け入れそこに宿る命の尊さを詠む行為であり単なる趣味や文芸の枠を超え人生そのものを捧げる精神的な営み(道)であった。との意だと私は思います。

虚子のいう信仰は特定の宗教を指してのものではありません。私もまたクリスチャンだからといって他の宗教を排他的に否定することは全くありません。

信じるその道が人生を豊かにしてくれるのであればみな立派な信仰だと思うからです。

前置きが長くなりました。俳句目線とは…の話に戻しましょう。

じつは新約聖書マタイによる福音書第6章25節から34節にそのヒントが隠されていると私は思っています。有名な箇所なのでご存知の方もいらしゃるでしょう。

空の鳥をよく見なさい。種を蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。それでも、あなたがたの天の父は彼らを養っていてくださる。あなたがたは、彼らよりも価値のあるものではありませんか。

--中略--

きょうは生えていて、あすは炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこれほどに装ってくださるのです。ましてあなたがたを、もっとよくしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。

だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って心配してはいけません。

空の鳥を見よ!野の花を見よ!そして彼らの健気な営みを観察して命の尊さを学びなさい…これが「俳句目線」の原点だと私は思うのです。

そして信仰だと言わしめた諷詠の姿勢というのは「祈り心をもって彼らを存問する」ことではないでしょうか。

と言われても? もっと具体的に…

ですよね。そこで私の敬愛する広瀬薫牧師の楽しくて解りやすいショートメッセージを書き写しましたのリンクしておきます。

肩の荷がす〜と軽くなる…そんなお話なので騙されたと思ってお気軽に読んでみてください。

空の鳥を見よ  野の花を見よ