やまだみのる

言葉におぼれる弊害

俳句を始めたばかりのころは、 無心に句を作るので意外に佳句に恵まれるケースが多いです。

ところが、少し慣れてくると、 言葉遣いや体裁を構うようになり、いろいろ頭で考えて句を作るようになって、 やがて不調に陥ります。 これは、ほとんどの方が必ず一度は辿るプロセスです。 どうしてそうなるのでしょうか?

良い俳句を作りたい、句会で高得点を得たい、というような願望が無意識に働いて、 ちょっと珍しい言葉を発見すると使ってみたくなったり、 歳時記で面白い季語を見つけると、「よし!こんどはこれで・・・」 といったふうに、人の目を意識した作り方になっていくからです。 あたらしい季語やことばに挑戦する姿勢はとても大切なことですが、 でも、想像で使うのは間違いです。

ぼくが間違っていることも多いので、偉そうなことはいえませんが、 ときたま添削に納得されないケースで、

**という歳時記には季語として載っていますが・・・・

**という人の作品にこんな用例がありますが・・・

というような疑問を返されることがあります。 歳時記に載っていても、現代の生活では死語同然の季語もあります。 正しく季語を理解して(見れるものは実際に見て)使う。借り物ではなく自分の言葉として消化できる「ことば」を使う。 というのが俳句つくりの基本です。

俳句には、「季重り不可」、「切れ字は一句に一つ」など、いろいろな約束事があります。 ところが、歳時記を見ると掟破りの作品もたくさん掲載されていますね。 要するに必ずしも絶対ではないのです。 しかし、そうした掟破りは、約束事本来の精神を十分に理解し基本を身に付けて、 免許皆伝のレベルに到達した作者にだけ許される行為だと思ってください。 大切なことは、ものまねや借り物ではなく、自分の作品を作るということです。 出来が良くなくても実体験にもとづいて苦労して作った作品は後々のよい思い出になります。 いくら句会で高得点を得ても、想像や物まねで作った作品には魂がこもっていないので、 感動は残りません。

何のために、誰のために句をつくるのか・・・

ということをいつもチェックして、よき俳句人生を愉しもうではありませんか。

(2001年8月31日)