2003年8月

青畝俳句研究(合評)

01 曾てなき端居語りの夜を得たり

( かつてなきはしゐがたりのよをえたり )

秀昭:普通、端居して話をする時間はしれたもの。それがかつてなく暗くなるまで話し込んでしまった。よほど話に花が咲いたのでしょう。こんなお相手と話をしてみたいものです。この人だーれ。含蓄の深さを感じさせていただきました。

よし女:何かの考えが一致して、尚一層親しみを覚えたという、作者の喜びがよく伝わってきます。こんな事って、一生のうちそんなに何回もはないでしょう。きっちりしたお句で、まねもできませんね。

りんご:端居といふ言葉はとても日本的でいいですね。これだけで涼しい風、星、月も感じることができます。気の合う友達と時間を忘れて、俳句談義に信仰の話にと至福の時を過ごされ、心にいつまでも忘れることの出来ない夜に、なられたのでしょうか。言葉に無駄がないこと勉強になりました。   

とろうち:端居というのはとても涼しい言葉ですが、かなり熱い語り合いではなかったかと想像します。意気投合して話がはずむことほど楽しいことはありませんね。

羽合:語り合いに満足した様子。なお端居にとどまっている。その端居の涼しいこと。暗闇と、虫の声と、ささやかな風の中に、作者は今日の話をねりはんでいる。そしてまもなく床につこうとしている。充実した一日の終りを迎えた。それはまた、人生、そのようでありたいということにもつながってくるようだ。死を迎えてもなお、このようでありたい、そんな人生観までも読み取れるような気がする。

みのる:心置きなく至福の時をすごせた満足感とその余韻に浸っている作者が見えますね。青畝師の俳句は季語のもつ味わいを掘り下げ研究されて、常に新しさを追及しておられるのが良くわかります。端居という季語についても、「端居語り」「端居翁」などユニークな複合語を工夫されています。季語を分解して使われることもあります。こうした技術を会得するには、歳時記に載っている季語を固定の言葉(部品)として丸覚えするだけではだめで、季感として身に付ける訓練が大切です。その意味で合評のような勉強会は特に有効です。

02 黒金魚ファッションショーが来る如し

( くろきんぎょファッションショーがくるごとし )

遅足:金魚を飼っています。病み上がりに和金を四匹買ってきました。イジメの結果一匹が死にました。今は三人家族でおさまっているようです。金魚らしい金魚は泳ぐのが下手です。というか元々、人間が奇形を楽しんでいるのが金魚ですから下手で当たり前です。金魚の泳ぎ方をみていると、たしかにあのファッションショーのモデルの歩き方に似ています。この句を読んでそう思いました。鋭い観察眼です。なかでも黒い金魚は色っぽいのでしょうね。黒金魚も飼おうかな。 金魚をじっと見ていると、こころが落ち着きます。なぜかな?

とろうち:黒い金魚というと出目金ぐらいしか知らないのですが、背びれも尾びれもひらひらしていて、見ているとたしかにモデルさんの歩き方に似てますね。すうーっとこちらに向かってきたかと思うと、くるっとUターンして。なるほどなあとうなづかせる句です。

よし女:今日、若い友人とショッピングをしました。黒レースのジャンバースカートをひらひらさせてやってきました。すぐこのお句を思い出したのです。まさに黒金魚。ファッションショーが来る如しの「来る」が、うまいなあーと思いました。モデルの歩き方、この年の流行色、デザインの傾向、それを見に集まる人、その後の話題など、すべてが含まれていて、想像が膨らみます。ともかく黒金魚の意外性が効果的で、いいお句ですねえ。

羽合:黒金魚が絶妙です。ファッションショーと言えば、いろいろな色が登場するはずで、赤やら金色やらならピッタリです。ところが、黒。いろいろな色の金魚の中に黒い金魚がいる。それがひらひらと鰭をゆらしながら色あでやかな金魚の間を通る様がかえってファッションショーに見えたのでしょう。黒でなければ陳腐になったはずで、黒だから句になった、そこが絶妙です。言われてみれば、私もそうかなと思えてしまう、不思議な世界を、黒という色で表出しています。

みのる:巨大な背鰭と尾鰭を揺らしながら泳いでくる出目金をご覧になって、さながら、ファッションモデルが黒いレースのショールを翻して舞台を歩いてくる姿に重ねられたのですね。金魚の様子を写生しているのですが、観察している作者の眼が隠されています。鑑賞する人にそれを連想させるのがこの句の手柄です。「ファッションショー」「来る如し」の措辞がその効果を醸しています。

03 冷蔵庫横列したるビール見よ

( れいざうこわうれつしたるビールみよ )

こころ:確かに立てて並べるより沢山入ります。ビール好きにビールが沢山あると言うのは心強く、安心感があるものです。作者がこの冷蔵庫を開き用意万端整ったところで、満足したお顔が目に浮かびます。見よはご自分にむけられているような気がします。もちろん冷蔵庫にビールを並べたのは作者ではないでしょうか?

とろうち:見よ! このビール! いったいこんなに誰が飲むんだ? それは私。にんまりとする作者が見えます。それとも呆れているのかな?

羽合:「ビール見よ」と言いつつ、実はそれを見ている人は誰もいない。本当はいてほしいのに、誰も見ていない。誰もこのビールを一緒に飲む者がいない。そういうように、私には聞えます。「ビール見よ」という、威勢のよい表現とは裏腹に、寂しく孤独な男のイメージが浮かびあがる句だと思います。それにしても、冷蔵庫のビールだけで句になってしまうというのには、恐れ入りました。句材があちこちに散らばっているのを教えてくれる句で、何だかこの2日ほどは、この句を思い巡らしておりました。

よし女:きっちり詰め込まれた冷蔵庫の中のビールが目に浮かびます。ご自宅の冷蔵庫というより、売り物のビールの横列を目にしての、感動のようにも思えました。

みのる:「横列」などという俳句にはとても使えそうも無い硬い言葉をいとも簡単に使われる。しかもこの「横列」の措辞がこの句の命になっています。やっぱり青畝先生は言葉の魔術師ですね。 「見よ!」は第三者に対して発しているのではなく。冷蔵庫の扉を開けた瞬間に飛び込んできた情景に驚いて感嘆符的に使われたと思います。俗っぽい言葉でいえば、「わお〜〜!」という感じでしょうか。

04 昼寝あはれ咽喉の仏のものを言ふ

( ひるねあはれのどのほとけのものをいふ )

遅足:なにか言いたそうに喉仏が動く。ちょっと気味が悪いですが、気になる情景です。人は眠っている時の方が本当の自分に返っているのかもしれません。この世ではいえない事を喉仏が言っている。言えない事ってなんでしょう? 案外、他人から見たら、問題にもならない些細な事かもしれません。でも当人には重要な事ってありますよね。いや、ひょっとしたら、あの世の誰かと話しているのかも。人間ってあわれだな、と感ずる作者の暖かく大きな心が伝わってきます。

羽合:「咽喉の仏」で男性の成人であることがわかる。仕事疲れだろうか、昼寝に陥る男が、いびきをかいて寝ているのなら鼻がものを言っているはずである。しかし、咽喉仏というのはどういうことだろう。寝言を言っているのだろうか。それを「あはれ」と思う作者。そして作者が注目するは「仏」。咽喉仏でなく「咽喉の仏」とした意図は、「眠り」と「死」とを重ねるところにあるのではないだろうか。人の尊厳にしみじみと感じ入っている、働いていない休息をとる男の魂をとらえている、そんな句ではないかと思ったが、はたしてどうであろうか。

光晴:この「あはれ」は古語の感動詞の「あはれ」だと思う。大の男が昼酒でも飲んで気持ちよげに寝ているよ。あれまぁ! のど仏が動いてるから死んじゃあいないんだ。なんて俳諧味のある図と思う。時々私のやる姿ではあるが!

よし女:何かもやもやして言葉になりにくく、主人の昼寝姿を観察しなければと、書き込みを躊躇していました。光晴さんの選評ですっきり致しました。

みのる:寝言でしょう。夢の中で何か訴えようとしているのですが、ごろごろと咽喉仏が動くだけで明瞭な言葉にはならないのでしょう。「あはれ」という短いことばで鑑賞者にそれを連想させる。実に巧みですね。羽合解のとおり、普段は威厳を誇っているような大男かもしれませんね。そう思わせるのも、「あはれ」の措辞の効果です。

05 SNOOPY暑い暑いと日南水

( SNOOPYあついあついとひなたみづ )

羽合:SNOOPYと言えば、あの犬小屋の上に寝そべっているイメージがまず頭に浮かぶ。考えてみると、夏であれば屋根の上に寝そべっていることなど、暑くて暑くてどうしようもないはずである。人間にはできないわざである。そんな姿で暑さを、現代版の枕詞のように使い、表現しているのではないだろうか。そして暑さを少しでも和らげようとする人の行為「日南水」。SNOOPYがせせら笑っているかのごとき光景。でも、漫画と現実はちがうのだ。現実の世界を生きる人間の選択肢はこれなのだと主張している。

よし女:SNOOPYの使い方がしゃれていますね。カタカナではなくローマ字で。これを縦書きにするとローマ字が全部縦に並ぶのでしょうね。いつ頃の作品か解りませんが、発表されたときは、話題になったのではないでしょうか。盥に張った水を日向に出して温度を上げ、子供達に行水をさせたことを思い出しました。そんな場面の漫画か、映像かが一句になったのでしょうか。面白いお句ですね。 日向水を「日南水」とも書くことを始めて知りました。

光晴:スヌーピーは、こう書くと確かに英語の方が雰囲気がありますね。たぶん、子供用のビニールプールの絵がSNOOPYで、お孫さんか誰かを遊ばせている庭先が浮かびました。

とろうち:庭かベランダにあるビニールプール、底にはスヌーピーの絵が描いてあって、おおきくSNOOPYという文字がある。暑い暑いと子供はプールに入りたがり、すでにプールの水はすっかりぬるくなっている。そんな光景を想像しました。今年は変な陽気だったので、ビニールプールは出さずじまいかも。

みのる:光晴解、とろうち解のとおり、幼子が水遊びした小型のビニールプールがそのまま日向に放置されている情景だと思います。説明をしないでそれと連想させる省略術が絶妙です。カタカナではなく、アルファベットを使われたことも視覚的効果を意識された新しさへの挑戦です。炎天下であれば、少しの時間でも驚くほど水温は上昇しますから、スヌーピーが悲鳴をあげているように感じられたのですね。まさにこれは幼子の感性ですよね。参りました。

06 夕焼に叫び走らん主いづこに

( ゆふやけにさけびはしらんしゅいづこに )

よし女:夕焼の美しさに、叫び走らんばかりのお心なのでしょう。あの彼方に主がおられるのか、主はいづこ、主はいづこにと。強い感動が伝わります。私も二度ほど、言葉が出ないほどの夕焼を目にしました。一度は山小屋に泊まったとき。地上とは違う幻想的なもので、日食みたいに、地球全体が夕焼色になったと錯覚しました。もう一度は我が裏山。大きな声で主人を呼びました。 このお句、表現が克っているような気もしたのですが、それほど凄い夕焼だったのでしょうね。私も今一度、あのような夕焼に出合いたいものです。 

江斗奈:主の御業を思い知らされる一瞬です。聖書の言葉を思いました。山頂でキリストが変容した時弟子の驚きの様子、それに似た気持ちを表しておられるのでしょうか? 素晴らしい句です。

光晴:夕焼けはいかなる人間にも、何か特別の感情をもたらすものと思います。空の変調は夕焼けに限らず、気持ちを無限の中に引きずり込むようです。厚い雲からの日矢、流星などがありますが、壮大な夕焼けはキリスト教徒ならずとも宇宙にひれふし何か狂おしく叫びたくなるものだと思います。実にうまい表現で、17文字に凝縮されていますね。

羽合:故森山諭先生の作詞された聖歌に「夕べ雲焼くる空を見れば、主の来たりたもう日のしのばる」というのがある(聖歌622番)。モチーフが似ているが「叫び走らん」と言いきっているところがこの句の命だろう。ただ、この句が青畝先生の句であると知らなかったら、私はあまり評価しなかったかもしれない。「夕焼けに向かって叫ぶ」というのが、今風の表現を使えば「臭い」という思いがあるからである。私の鑑賞力がないのか、好みの問題なのか、ちょっと悩ましい。

みのる:ちょっと難しかったですね。ごめんなさい。ポーランドのノーベル賞作家シェンケビッチの小説『クォバディス』の感動的なクライマックスの場面を踏まえた句です。

紀元64年、ネロ帝の迫害でローマにいた多くのキリスト者が十字架にかけられて殉教したといわれています。同じ時、使徒ペテロは、一旦は迫害から逃れるためローマを逃げ出します。逃げていく道中、ローマに向かう主イエスと出くわし、そのとき揚句にある有名な「主よ、いづこへ」(Quo vadis domine)の問いを発したといわれています。イエスは「わたしの愛するものたちを見捨てたおまえの代わりにローマへいって迫害を受け、再び十字架にかかる」といわれた。自分の臆病さを恥じたペテロはすぐに踵を返し、ヴァチカンの丘で十字架にかかって果てたとされています。しかも、主と同じ十字架では畏れ多いということで逆さ十字架にかかりました。このストーリーは「ペテロ伝」という歴史記録に基づいて書かれたものです。

燃えるような夕焼けを眺めていると、戦火を思い出される方もあるでしょう。 ぼくは、堕落したソドムの町を神様が焼き滅ぼされる物語を連想し、句に詠んだ事があります。 ペテロに主イエスが顕れたのは朝焼の中であったようですが、青畝師はその情景からクォバディスの物語を思い出されたのです。ペテロが偉大な指導者として立てたのは、ペテロが強かったからではなく、聖霊の働きによって強くしてくださったからです。迫害のローマから逃げ出したペテロは自らの進退に迷っていました。そのときにイエスに出会います。迷子になった幼子がお母さんを見つけたときの嬉しさ、安堵感と同じ感情で、「主よ、いづこへ」と、問うています。その背景には、「主よ、どうぞ私の進むべき道を示してください」との切なる祈りがあったのです。

青畝師はペテロの姿に自分自身を重ねてこの句を詠んでおられます。 この句を詠まれた当時の青畝先生の心中に何らかの葛藤があったと思うのは穿ちすぎかもしれませんが、高齢による自らの体力の衰えと、大結社を率いる主宰、指導者としての使命、責任感との葛藤、次代を考えた自らの進むべき道の選択について、当時の先生には日々の戦いがおありでした。そのことを少しは知っているぼくにとって、とても興味深い一句なので。あえてここに揚げました。長くなってごめんなさい。

07 セロを弾くごと朝蝉はしらべ替へ

( セロをひくごとあさせみはしらべかへ )

遅足:今日も朝から蝉が鳴いています。アブラゼミにクマゼミ。目覚まし時計のように鳴き始めます。でも、調べを替えてはいないようです。単調で一心不乱な鳴き方です。句のように蝉が鳴いてくれないかな。どういう蝉でしょうか? あるいは聞き手の耳のせいかも知れません。

光晴:この蝉はニイニイ蝉だと思います。弦を上から下、下から上へ引きずるような鳴き方をします。「セロ引きのゴーシュ」にも思いが飛ぶ句と思います。

よし女:セロ弾きのゴーシュの映像を思い浮かべました。確かに朝蝉は調べを替えて行きますね。賑やかに激しく、そして、ぴたりと止む瞬間もあります。ゴーシュのように何度も何度も繰り返している姿も重なります。ただセロの音を身を入れて聞いていませんので鑑賞も半端ですが、このようなたとえかたもあるのだなあと感心致しました。

羽合:純粋に「騙されちゃいそう」な感じになる。そうだ、そうなんだと、うなずいてしまう。朝蝉はしらべを確かに替えるのだと。何という俳句なんだろう。理屈を通り越して、感覚的にうなずける句である。しかも、セロが効いている。おかげで、山々に静かに朝陽が注いでいる様子、朝露に濡れた森、ひんやりとした空気、さまざまなものが「セロの音」のBGMによって見事に表現されている。低音で重厚なセロの音ならではの効果である。

みのる:「蝉の調べ」とあるので、一匹ではなく合唱状態で聞こえていると思います。避暑ホテルとか山荘とかでの情景でしょう。日中は、わんわんと鳴き盛る蝉時雨状態ですが、早朝は、四方の樹海から輪唱のように間遠く鳴き始めますね。さながら弦楽の合奏のようだと感じられたのです。早朝の目覚めのうつつな感じもあります

08 裸人みなよろめいて鮫計る

( はだかびとみなよろめいてさめはかる )

遅足:鮫は水族館でしか見たことがありません。恐ろしいというイメージが先行して、見ただけですが、怖くなります。鮫と直接、戦った人間達は、鮫をどう感じていたのでしょうか?人間達が鮫に打ち勝った時の様子が活写されているように思います。人間が恐ろしいモノを征服する方法の一つが神を知ること。知は力です。畏敬の念でよろめきながらも好奇心から体長や重さを計る人々。鮫を囲む漁村の風景かもしれませんが、人間を越えた神のような存在に接する人々に対する共感が伝わってきます。

羽合:「漁師」でなく「裸人」と表現するところから、まず圧倒される。なるほど、うまい表現。夏の暑い日差し、漁の様子などが想像できる。そして、よろめいている様子。強者の漁師がよろめいている。「みな」とあるから、それなりの数の人たちがいる。その男達がよろめいている。かなり大きな鮫のようだ。「老人と海」のごとき格闘ではないだろうが、鮫の頭をたたいて殺したあと、化け物の測量をしている様子が描かれているのかと思う。鮫は普通網に掛かったりしたら、引き上げないらしいが、それだけの大型船なのだろう。面白い句だと思う。

とろうち:海無し県に生まれ育った私といたしましては、鮫漁の様子など想像したくてもできません。ただ、鯨漁の様子などは、江戸時代の絵とかで見たことがありましてそんな感じかなーと。 大体羽合さんの鑑賞と同じものを想像しました。余計なことは一切言わず、鮫、それも相当大きな鮫との格闘を彷彿とさせます。そして「裸人」という言葉で、日に焼けた、屈強の男たちの姿も見えてきます。俳句とはこうあるべきだと思う句です。

みのる:裸人といっているので、漁師ではなくスポーツフィッシングの人たちが、トローリングで釣り上げた巨大な鮫を記録として計量している風景ではないでしょうか。「みなよろめいて」の措辞が効果的で、鮫の巨大さや、釣り人たちの歓喜の動作を連想させます。こうした情景のすべてを17文字に集約することはとうてい困難ですが、徹底的に省略し、具体的なことばを選ぶことで、連想に広がりをもたせるのです。見たままの表面的な写生に終わると単なる報告、説明になり、頭で考えてひねりすぎると独りよがりな理屈になります。心に響いてくるまで時間をかけて鑑賞し、推敲に推敲を重ねてはじめて一句を得ます。これが本物の俳句です。 英会話ではその人のヒヤリング能力をこえては会話できないと聞きました。俳句もまったく同様で、鑑賞力を超えて感じることはできず、また鑑賞力を超えた佳句を得ることは困難です(まぐれのケースは別ですが・・・)。鑑賞力アップを目的とするこの合評の学びは上達への一番の近道だと思います

09 コンパクト日焼せし顔ここに在り

( コンパクトひやけせしかほここにあり )

とろうち:コンパクトという小物がある以上、日焼けした顔の主は女性でしょう。あーあ、こんなに日に焼けちゃって困っちゃったぁなどと思いつつ、ファンデーションをぱたぱたとはたいているのでしょうか。日焼けを気にするようでないといけませんねえ。全然気にしなくなった私は、すっかり土方焼けですわ〜。

羽合:青畝先生は、女性の化粧まで俳句にしてしまう。恐れ入りました。句の内容から、鏡に映る自分の顔を見ながら、パタパタとやっている姿が目に浮かびます。そして、顔がクローズアップされ、「ここに在り」で、自己の存在までも織り込まれているようで、含蓄のある句になっています

よし女:コンパクトを開いて「すっかり日に焼けちゃったわ」と言う女性の傍で、「日焼けした顔はここに在るよ」と言われたか、思われたか、そんな解釈を致しました。ここに在りの断定で、本当の日焼け顔は私のこの顔だよと、慰められておられる様な光景も浮かびます。

みのる:ほんとうなら女性にとって天敵のように思われる日焼けですが、この句の主人公はむしろその健康的な日焼けを誇りに思っている。「ここにあり」の措辞からそれを感じます。畑仕事やガーデニングなどの庭仕事、あるいはテニスやウオーキングなど健康的な生活を楽しむ熟年の女性像が浮かびます。 ある一女性の所作をご覧になっての句と思いますが、一人称的に詠まれています。俳句では三人称的に詠むと報告、説明の雰囲気になりやすいので、あえて一人称で詠むことは多いです。つまり第三者の情景であっても、面白いと感じたとき自分自身を主役に替えてしまうのです。俳句は文学であり、芸術作品なのでこれは一向に構わないのです。ありもしないこと、見もしないことを虚構して想像で詠む行為とはまったく違います。この作品からはそのことを学んでほしいです。

10 地獄とは泉源のこと丑湯治

( ぢごくとはせんげんのことうしたうぢ )

遅足:丑湯治は夏の農作業に疲れた人々が数日間の湯治に出かけたことをいうらしいですが、暑い夏に煮えたぎった源泉を見たら、これこそ地獄に見えると思います。天国と地獄といいますが、この世に天国はなくても地獄はあるようです。昔、冷房のない満員電車などはこの世の地獄でした。昨今の日本の夏はクーラーの普及ですっかり様変わりしました。案外、暑さを実感することが少なくなっています。代わりにローン地獄のように新しい地獄が広がっています。丑湯治の源泉の地獄のほうが人間くささがありますよね。

羽合:「丑湯治」の「丑」は「土用の丑」の「丑」と同じなのだそうだ。これが過ぎるとお盆になる。そんな夏の盛りにわざわざ湯につかりに行くという。たしかに遅足さんの言われるように地獄である。「湯治」という言葉すら知らなかった私には、難解な句だったが、意味を調べて、遅足さんの説明を読み、句意がとれたように思う。「湯治」とは人を癒すはずのものなのに、真夏のそれはまさに「地獄」である。温泉へ行き、そのままことばについて出てきたようなこの句は、飾らず、技巧に走らず、それでいて重みがあり、ゴスペル俳句の目指すところを教えられる。

えれみあ:土用の暑い時期に温泉に入るまるで地獄のようだ・・と言う解釈を興味深く拝見いたしました。別府温泉などでは、源泉の煮えたぎっている場所を地獄と言っていますが、例えば赤い色をした源泉に、血の池地獄とか・・のようなことですが、そのように熱いもしかしたら源泉に落ちでもしたら、溶鉱炉のごとき源泉は一歩間違えば死と隣り合わせ場所でもあるわけです。その地獄と呼ばれるものが、農作業でつかれた人々の体も心も癒すのだと言うパラドクス的な、おもしろさを感じたのは間違いでしょうか? もちろん源泉そのものに人は入るわけではありませんが、温泉の極楽気分の癒しの場所の元は地獄なのだと言う、逆説的な句として味わいました。

よし女:このお句、季語がつかめず、季感にも迷いました。一読、「地獄の釜の蓋もあく」という言葉がまず浮かびました。正月と盆の十六日には、地獄の鬼たちが亡者たちを、責めさいなむのを休むということわざですよね。でも、ずっと調べていると、「丑湯治」という言葉、行事なども今に残っている土地もあり、夏土用の丑の日に湯治に行く事なのだと、解りました。青畝先生もわざわざ日帰り湯治に行かれたか、或いは旅先での入湯が、たまたま土用丑の日であったかなのでしょうか。「地獄はごぼごぼ煮えたぎる泉源であって、真夏の湯治もまことにいいものだなあ」とのつぶやきが聞えて来るようです。

千稔:これもまたユニークな句だと思います。周りの人々の心配をよそに、温泉に浸かりながら、鼻歌ならぬ ♪地獄とは〜♪泉源のこと〜♪丑湯治〜♪ と詠われている、 青畝師の涼しげな顔が浮かびます。

こころ:数日前に秋田の小安峡温泉に浸かりました。日も落ちて雨の栗駒を眺めての露天風呂は穏やかで心癒されました。翌朝源泉の噴出しを見てまさにこの句の通り、火山の国の噴出し口、地獄の口を見ました。今年は長雨、冷夏で丑湯治の客はおりませんでした。作者はどこでご覧になったのでしょうか? 見事な句だと思います。

みのる:そのむかし有馬三千坊とよばれた有馬温泉郷には、虫地獄と呼ばれる泉源があります。硫黄を含んだ蒸気がふきだしており、昆虫などがその蒸気を吸って死んでいるのでその名前がついたそうです。九州別府にも、地獄めぐりといって、いろんな地獄の名前のついた泉源を観光するコースがあります。観光地図とか案内図のなかに○○地獄という名前を見つけて興味をもち訪ねてみたら、それは謂われのある泉源であった。湯治宿なので、俗化した観光スポットではなく、古びた田舎の温泉地を連想しますね。

11 コンパスは円の美学や夜の秋

( コンパスはゑんのびがくやよるのあき )

羽合:「秋」が動かないところが絶妙です。数学は哲学の一種とも言いますが、まさにそのような数学的世界、哲学的世界を「美学」と言いきり、哲学に浸るような秋の夜の世界を描いています。四角い哲学でなく、コンパスで描かれた「円」でこれを表現しているところが憎い表現です。今の時代なら「フラクタル」とかになるのでしょうか。下五は「秋の夜」でなく「夜の秋」。「秋」によりウエートがかかっているように思います。哲学の秋という感触を得ます。

遅足:夜の秋が動きませんね。参った! という句です。

よし女:知的なお句ですね。夜の秋は夏の季語で、晩夏の夜に感じられる秋の気配を言うのだと思います。その感じがコンパスで描いた真ん丸い円のようだと思われたのでしょうか。難しいけれど誰も思いつかない意外性にびっくりします。

とろうち:私はむしろ「夜の秋」が分からないのですよ。なぜ「秋の夜」でないのかが。コンパスをくるりと回して描く円。ひとまわりして完結する形、同心円、重なる円と、たしかに円には美しさがあります。でもそのどこに「夜の秋」を感じたのでしょう。なんとなく「秋の夜」なら分かるような気もするんですけど・・・

一尾:円はフリーハンドでも、お椀を伏せてなぞっても描くことは出来ます。コンパスでは真円に近く径も自在に選べます。様々に描いてみる。円は調和がとれて美しい。円の美しさを教えてくれる器具、それこそコンパスであると心は高ぶる。ふと涼を感ずる気持ちよき夏の一夜でしょうか。円と夜から「盆のような月」を、月と言えば秋を連想しますが、季語は「夜の秋」夏ですね。夜にも春夏秋冬があるのでしょうか。楽しい表現です。

みのる:この句をはじめて読んだとき、目からうろこの落ちる思いがしました。理屈ではなく感性そのものですよね。しかも近代的です。幾何学とか幾何学模様とかという比喩の句は結構ありますが、「円の美学」とは恐れ入りました。

「夜の秋」は、晩夏の季語です。残暑のころ朝夕がとても涼しく感じます。そのような風情の季語ですが、確かに使いこなすのは難しいですね。懸命に図面を書く仕事をしている人が、ふと晩夏の夜に涼しさを感じて、ほっとした気分になり、疲れ休めにコンパスでいたずら書きしているような姿が見えます。秋の夜は、「灯火親しむ」「夜長」など深まった秋の雰囲気ですが、夜の秋は新涼の一歩手前という感じです。ようやく涼しさが見えてきて、何となくほっとした気分をこの句から感じないでしょうか。

12 たたなづく御巣高山へ墓参せん

( たたなづくおすたかやまへぼさんせん )

嘉一:小学校時代の同窓生とその娘さんがその機内で亡くなりました。この1985年は阪神が優勝した年でもありました。今年は18年ぶりのという年です。このような句があるとは存知ませんでした。墓参はなかなかできませんが、8月が来るたび思い起こしています。

秀昭:敬愛する作者の句にこの句の存在を知り、身近に感じるとともにとても嬉しく思いました。「たたなづく」が気に入りました。実に感じがでていると思います。18年前、小生は新聞社の前橋支局員でした。8月12日午後6時すぎ、524人を乗せた日航ジャンボ機が長野県内に墜落したらしいーーとの一報で現場方面に向けて急行。とりあえず現場近くの群馬県の上野村の民宿に到着し、宿泊しました。13日の午前5時半すぎ、群馬県上野村の山中に墜落ーーとの一報が入り、跳び起きました。それからというものは、本社に飛行機、へりの手配、通信拠点の確保、墜落地点を目指し道なき道の登山取材など。歌手の坂本九ちゃんをはじめ520人が亡くなりました。奇跡的に4人だけが助かりました。あとは報道の通りです。当時の墜落地点を群馬県警が「御巣鷹の尾根」と断定。その後、尾根では都合が悪く、山に変更されました。その後、何年か8月12日が来るたびに御巣鷹山の慰霊祭を取材したり、思い出しています。悲しい出来事でした。

よし女:昨日はニュースで御巣高山のことを何回も流していました。青畝先生もゆかりの方がおられたのでしょうか。ご高齢だったと思うのですが、墓参されたのですね。たたなづくの言葉は、山にも、人にも掛かるような気がして、当時の事故の悲惨さが思い起こされます。

好夫:師は上野村迄来られたのですね、村の中心部から見る山は1000メートル級ですが次々と重なる奥深い嶺です、墓参せん、とは、よほど強い決意をなさったのでしょうね。

とろうち:「たたなづく」という言葉は初めて知りました。なんだかせつない気持ちになりました。 どういうわけか、日本の八月は死というものに向き合うようにできてますね。原爆、終戦、お盆、そしてこの日航機墜落事故。下五が「墓参せり」というような完了形ではなく「墓参せん」という意志形になっているところに、この事故を心に強く刻みつけておこうといったものを感じます。

みのる:痛ましい日航機墜落事故があったのは1985年8 月 12 日、18年前のできごとです。毎年この日になると、遺族会の方々の墓参登山がテレビのニュースでも報道されます。青畝師がこの句を詠まれたのは1990年、実際に墓参されたか否かは定かではないです。ひょっとするとテレビ俳句かもしれませんが、犠牲者に対する哀悼の気持ちをこのように表現されたと思います。日航機事故のことにはまったく触れていませんが、御巣高山、墓参の措辞のみで十分連想できますね。みごとな省略です。 「たたなづく」は御巣高山の情景を形容されたことばですが、綿々とした時の流れや、犠牲者の無念さ、遺族の哀しみというものをも連想させるので不思議ですね。省略の妙と言葉の斡旋が単なる客観写生に終わらせず、秘められた作者の主情を感じさせるのだということを学びましょう。

" もろに主観を詠むのではなく、客観写生によって主観をつつみこむ"

これが、くりかえし語られた青畝師の教えです。

羽合:先週、御巣鷹山を、少し離れた山の山頂から眺めましたが、この句は、ぐっと御巣鷹山に迫っており(実際に現地へ行かれたかどうかは別として)、とても心に迫るものがあります。私は御巣鷹山を見て、句が浮かんできませんでしたが、さすがとしか言いようがない句です。

13 生身魂中国孤児といふニュース

( いきみたまちゅうごくこじといふニュース )

よし女:生身魂の季語の、このような使い方があったのですね。当時、子供共々無事に帰国した方でも、一歩間違えば私だったかもしれない、という言葉も耳にしました。こうして鑑賞していると、短いこの一句が、ながーい文章にも及ばないほどのなまなましさを放ち、すごいお句ですね。

秀昭:よし女さんの疑問と一緒で小生も同感。生身魂の季語をこんな風に使われるとは驚きです。20数年前、埼玉県所沢市に厚生省の中国帰国者定着促進センターが建設。第一代所長に何度か取材させていただきました。入所生とその親にご馳走を振舞って歓迎いたしました。作者と一時期一緒に生きた喜びを感じています。

みのる:これはあきらかにテレビ俳句でしょうね。数年前にはよくテレビで報道されました。孤児たちの年齢は60歳前後ですから、生身魂はその孤児と再会した両親のことを意味しているように思います。生身霊という季語には、人生や時代の流れや長い年月の歴史、またその重みを感じます。孤児の方への同情は勿論ですが、断腸の別離をよぎなくされた肉親にとって、戦後は心の痛みと闘う長い長い年月であったと思います。

再会のニュースをご覧になって、「生きていて本当によかった」という感慨を同年代の青畝先生も共有されたのだと思います。そう連想すると生身霊の季語は実に絶妙ですね。おそらく青畝師はテレビの孤児と家族との涙の再会の様子をご覧になって、直感的にこの季語を連想されたと思います。つまり知識ではなく感性によって生れた句です。いずれにしても、生身霊という季語では例を見ない非凡な作品です。常に新しさを求め、深く深く季語を掘り下げていかれる先生の姿勢に頭が下がります。

14 盆の供花汀に浸す湖畔村

( ぼんのくげみぎはにひたすこはんむら )

よし女:このお句、まるで風景画を見ているようです。特別難しい言葉もなく、リズミカルで、良い調べだと思います。事実も面白く、良く覚えられて好きですねえ。このような句を向うから飛び込んできた句というのでしょう。

一尾:仏に供える花が湖畔の汀に浸してある風景が十分にイメージ出来ます。あの家もこの家もと盆の時期には普通なことでしょう。汚染の進む池や川では捨てられているとしか見えない風景です。水も空気も澄み、先祖を敬う心穏やかな人々が暮らす湖畔の集落が目に浮かびます。

羽合:浸すのが湖畔村となっていることで、かえって村の人々が浸している様子が浮かんできます。単純なようでなかなかな句です。

みのる:情景は見えるのですが、どこに詩情があるのかがちょっとわかりにくいですね。なぜ汀に浸しているのでしょう。なぜ湖畔村なのでしょう。それを思い巡らすことによって、鑑賞する側の世界が変わってきます。深い意味はなく、単なる湖畔村の一点景と理解すればいいのでしょうか。俳句に絶対解はないのですが、鑑賞者の経験や連想によっていくらでも広がっていきます。 みなさんも自分の作品を、作者の作意以上に鑑賞されて面映い思いをされた経験があるでしょう。 だから俳句は楽しいのです。

平和な湖畔村の汀に浸されている供花は、過去にあった水難事故による犠牲者の霊を慰めるために供えられたもののような気がします。ヨット部とかボート部とかの若い魂であったかもしれません。あるいは悪天候で遭難した遊覧船かも知れないですね。そのように連想すると、小説や映画の世界を垣間見ているような、そんな雰囲気さえ漂ってきます。

15 てのひらをかへせばすすむ踊かな

( てのひらをかへせばすすむをどりかな )

とろうち:盆踊りの様子がよく分かる句ですね。まさにその通り。何も難しいところがない、写生のお手本のようです。

よし女:観察の行き届いた面白いお句ですね。若い時分に盆踊りの稽古に借り出され、新曲の振り付けを覚えて、次に伝えることを義務的にやらされました。そんな時、この句に節回しをつけて進むようにすれば、早く踊りも覚えられただろうか、とも思いました。

一尾:先生は踊の輪に入りながらなるほどこれは面白いと、踊の楽しさを実感されたのでしょう。 そして踊のコツを会得、納得された一句と鑑賞しました。盆踊を習いはじめの頃は頭で分っていても、手の返し足の進みが左右チグハグで上手くいかなかったこと度々でした。

みのる:見たまま、感じたままを十七文字に写す、という客観写生のお手本のような作品ですね。 盆踊の説明は全くしていないのですが、それとわかります。手のひらの動作に写生の焦点を絞ることで、踊る人々の生き生きとした動きが具体的に見えてくるでしょう。踊りの楽も聞こえてきますね。出来るだけ焦点を絞る。それによって鑑賞する側の記憶の中にあるものが触発され、連想に広がりが生れるのです。

俳句(17文字)は短歌(32文字)と違って言いたいことが十分に言えません。ですから客観的な部分のみを切り取って写し、主観的な部分は、連想に委ねるのです。言いたいことを全部言ってしまうと、かえって見える世界を狭くします。連想に委ねることでその世界は無限に広がるのです。「俳句は言いたいことが言えないので、短歌の方が好き」という意見を良く聞きます。「言いたいことが言えないもどかしさ、連想による広がり」が俳句の魅力なのだと言う事を理解できないひとには、俳句も短歌も同じということかも知れませんが、ぼくは俳句と短歌とは、まったく「似て非ざるもの」だと思います。

16 流灯の帯のくづれて海に乗る

( りうとうのおびのくづれてうみにのる )

とろうち:流灯の風習がないのでよく分からないのですが、川を流れている間は細い帯のように一列、もしくは何列かにきちんと流れていた灯が、広い海に出て列が崩れてしまったということでしょうか。テレビなどで時々見ますが、美しく、そして何かせつないような風景ですね。

江斗奈:子供の頃、湘南の片瀬海岸で8月15日に花火大会と灯ろう流しが行われていました。河口から江ノ島に向かって灯ろうが流れて行く様子がこの句の様でした。今は花火は7月25日に、灯ろうは流さない事になったようです。

よし女:テレビ映像などで流灯の場面に出くわしますが、私どもの地方ではこのような行事がなく、実際に目にしたことがないのを残念に思います。この句の場合、「流灯の帯がくずれて波に乗る」となりそうですが、「海に乗る」によって景の広がりが出るように思います。流灯がどこまでもどこまでも、遥か彼方の国にまで流れていってしまうようですね。

一尾:帯状に川を下り、海に出れば帯は崩れて拡がる流灯。線と面、さらに波に揺られて高低綾なす三次元の世界に。その先に西方浄土があるのでしょうが、もはや肉眼で追うことは出来ない。 「乗る」に極楽安着の願望を感じます。

みのる:「流灯」はまた「精霊流し」とも呼ばれ、盆の終わる15日または16日の夕べ、燈籠を川や海へながす行事で、盆の間家に迎えていた精霊を送るという伝統的な習慣ですね。河口から海へ向かって波に躍りながら進んでいく流灯の集団を、ひとつの帯とみたところが面白いです。「海に乗る」の措辞が見事な省略になって連想を広げていますね。帯のように流れて行く灯篭群をじっと観察し、やがてそれが静から動へと変化する瞬間を捉えて一句にされたのです。流灯のひとつひとつにそれぞれの霊が宿り、また冥土へと帰って行く・・・そんな感傷もありますね。

17 ケロイドを秘め花火師の語り草

( ケロイドをひめはなびしのかたりぐさ )

こころ:俳句をするものにとって非常に考えさせられる一句だと思います。真実は真実として何処まで著していいのか? 自分なら一生ケロイドを句の中に収めることは出来ないでしょう、師は相手に対する理解と、そのケロイドを花火師の誇りとして受け止められたのでしょう。そのことは下五の語り草で著されていると思います。同情の念では言えない事だと思います

とろうち:ケロイドが体のどこにあるのかは分かりませんが、花火師にとってその事故は、生涯消えぬものなのでしょう。もしかしたら、死んでいたかもしれないけれど、でも花火師は自分の仕事に誇りを持っているということが感じられます。

みのる:確かに痛ましいケロイドが句になるとは驚きです。でも、この句の場合のケロイドは、主人公の花火師にとって一種の勲章でもあるのでしょう。それだけに語られる体験談にも真実味がある感じがします。「秘め」の措辞が実に非凡ですね。ケロイドにこの花火師の生死に関わるような過去の事実が秘められているという意味もあるでしょうし、花火師の衣装隠れに痛ましい傷跡が覗いたのかも知れませんね。

18 秋の谷とうんと銃の谺かな

( あきのたにとうんとじゅうのこだまかな)

とろうち:「とうん」という音がいいですね。谷に響く、乾いて長く尾を引く銃声。なんとなく「とうん」という、この音の響きだけで、秋の色づいた山と深い谷が容易に連想されます。いいですね。「とうん」気に入っちゃった

よし女:このお句何かで読んだ覚えがあります。その時「とうん」の語が面白いなと思ったのですが、こうして一句鑑賞に揚げられると、やはり素晴らしいと思いますね。秋の澄み切った山中での銃声の余韻が、谺となって帰ってくる。とてもいいです。この句は青畝先生の代表句の一つでしょうか。

羽合:最初は何だこれ? と思った「とうんと」も、読み返していると、とうんとがピッタリと思えてきてしまいます。不思議です。とても自由かつ精緻に作られた句だと思いました。

みのる:冬の谷ではいけないの? 春の谷、夏の谷ではどう? と問われたらみなさんはどう答えますか。つまりこの句、「季語が動くかどうか?」ということが重要な問題ですね。そしてこれは一体何の銃声なのでしょうか。「初猟」という秋の季語がありますね。この句の季語は? と問われると、「秋の谷」という答えになりますが、季感は? といわれると、「初猟」ということになるでしょう。また、秋は空気が澄んでいるので、同じこだまでも余韻嫋々という感じが強いですね。ですから、この句の秋は動かないことがわかります。季語云々と季感とは厳密には違います。GHではこの季感を大切にすることを学んでいます。

19 主婦多忙つくつく法師鳴きはじむ

( しゅふたばうつくつくばうしなきはじむ )

とろうち:これはよく分かるといいますか、つくつく法師の鳴き声というのは実にせわしないですよね。声を聞いているだけで何かせかされる感じで、主婦多忙という言葉にぴったりです。一読して笑ってしまいました。

秀昭:8月中旬ごろとすれば、主婦は盆用意などで多忙。それに合せて法師蝉が「おおしいつくつく」と鳴き始め、調子に乗せた……と見た。落ちは「せわしない」でした。いつもながら感度抜群です。

よし女:青畝師は、主婦の感情をよくご存知ですね。今日も忙しいという一日の始まりと、涼しくなって寒さ対策も考えねばという、季節の移ろい落ち着かない両方の気持ちでしょうか

羽合:主婦が洗濯物を干している。あるいは掃除機で掃除している。そこに鳴くつくつく法師。ほかの蝉ではこの句の感じがまったくでない。絶妙。作為的なところがない

みのる:一般的な蝉は夏の季語ですが、法師蝉は秋の蝉です。この句の場合、時候的になきはじめた法師蝉のことを言われたのか、それとも瞬間を詠まれたのかによって多少解釈が変わってきますね。「主婦多忙」にその鍵が隠されていると思います。法師蝉は、蜩とはちがって、夕方に鳴くということもありませんから、夕仕度の忙しさとは違うようですね。そうすると、昨日今日と鳴きはじめた法師蝉の声に気づいて、秋の到来を感じたということでしょう。季節が変わるごとに、次なる準備の為に主婦業は休む暇もなく、ゆっくりと四季の移ろいを楽しむこともできないほど気忙しい。そのような主婦の様子を写生されたのではないでしょうか。この作品、1人称にも3人称にもどちらにもとれる感じですね。

20 解夏の僧通ればロケーションかとも

( げげのそうとほればロケーションかとも )

秀昭:僧が一定の約3カ月間、一室にこもって修行することを安居と。終わるころは秋に入るので夏解と。その僧の立ち振る舞いがいかにもゆったりとしており、まるで映画のロケーションを見ているかのようだと感じられた。納得です。

羽合:3か月篭っての修業ののち、町に出た僧。何だか異国へ来たかのような動き、視線のやり方、顔の表情。それを「ロケーションかとも」という言葉で見事に言い表している。

みのる:大本山のある古都の町中の風景を想像します。安居修行の終わった僧たちの屯々が下山して、それぞれ自分の寺へ帰って行く。そのような情景をご覧になって、まるでロケーションのようだと感じたのです。おそらく、深網笠を被り、旅装束のようないでたちなのかも知れませんね。

21 はたかれてあほらしき負力士かな

( はたかれてあほらしきまけりきしかな )

とろうち:はっけよい、のこった! で、ぱっと勢いよく立ったら、あっという間にはたかれておしまい。見ているほうもあっなんですけど、負けたほうもなんだ? というような顔をしてますよね。「あほらしき」という俗な言葉がよく効いていると思います。

よし女:相撲のはたくは、相手の体を前に叩いてのめらせる動作なのでしょう。あほらしきは負力士の心そのままで、うまい表現ですね。

一尾:あほらしき仕種か、表情に負力士の悔しさが伝わります。真剣にこい、真正面からこい、いつでも受けてやると強がりを言ったところで負は負け。一番一番が真剣勝負の相撲世界、次はこれに打ち勝つ稽古をしてこいと励ましの一句です。一瞬季語なしの川柳かと思いました。季語は相撲で秋、学ぶこと多き秋です。

羽合:将棋で言えば、吹けば飛ぶような駒に真剣に挑む、そのことのある種の「あほらしさ」。それは、体を強引に太らせて、激しい稽古をし、人生短命なっても土俵に真剣に挑む。しかも、勝てば栄誉を得ることができるが、負けては「あほらしい」。それをずばりと言ってしまって、しかも力士に対する暖かい眼差しまで感じている。

敦風:昔、栃若時代のもう一つくらい前の世代、相撲取りという言葉がまことにぴったり来る鏡里という横綱がいました。見事な太鼓腹。仕切りをやっているとき、その太鼓腹が土俵につきそうになります。この大兵肥満の横綱に、そう、たぶんまだ関脇か小結か、それくらいの小兵の栃錦か若乃花かが挑んだとき、この情景になった。立ち上がった、と見るまもなく、鏡里が半歩も動かぬ間に、小兵が横綱をはたく、と、見事に鏡里の太鼓腹が土俵についた。「はたかれてあほらしき負力士かな 」。ほかに言うことも無い。まさにこの句のとおりですね。「あほらしき」。まさにその通り。私は、この句を読んだ一瞬、上記の印象的な場面をあざやかに思い出しました。

みのる:大相撲の場合は、初場所、春場所というような言い方をしますが、現在では四季を通じて開催されるので季節感は希薄ですね。俳句で単に、「相撲」といえば秋の季語で、田舎相撲、宮相撲など、土地の人たちが行う地域行事の素人相撲ですね。ですから、相撲を取っている力自慢の村の若者たちと、その相撲を楽しんでいる土地の人々のなりわいというものを連想して鑑賞すると良いです。 句を鑑賞する場合、季語、季感というものをまずチェックして確認し、それからいろいろ連想を広げていくという手順が大切です。力を出し切れずあっけなく負けてしまった人の悔しさと、好勝負を期待していた贔屓衆の空虚な感じが伝わってきて面白い句ですね。

22 朝夕がどかとよろしき残暑かな

( あさゆふがどかとよろしきざんしょかな )

とろうち:私の歳時記の「残暑」の項に載っている句なんですが、前々から気になっていた句でした。句意としては、昼間は残暑が厳しいが、朝夕は涼しくなってきて、この時間が一番いいといった意味でしょうか。きになるのは「どか」という言葉です。残暑で「どか」と暑いなら分かるんですが、この場合「どか」というのは朝夕にかかっているんですよね?

よし女:今年は雨の日が多く残暑をあまり実感しませんでしたが、例年ですと、暑がりの私などは、真夏より辛く感じます。それだけに、朝夕の涼しさは何者にも替え難い思いです。「どかと」は、一度にたくさん来る様子を現す訳で、朝夕の心地よさを、「どかとよろしき」と表現されたように思います。

羽合:「どか」という表現がリズムを作っています。残暑を「よろしき」と言う、そこが見事。朝夕はたしかに「どかっと、よろしい」という感じです。

敦風:「どかと」の措辞が、「よろしき」と一緒になって、面白いリズムとニュアンスをかもし出している句だと思います。語義を考えると、「どかと」は「どかっと」ないし「どっかと」であり、

  1. 重いものが勢い良く落ちる、下方に運動するさま。「雪が—落ちる」「—腰をおろす」
  2. 一時にたくさん。はなはだしく、の意。「—金が入った」

というような意味が本来でありましょう。この句の場合、「朝夕が『どかと』よろしい」、「そういう残暑の候に相成ったことよ」と言っていると思います。単純に「はななはだしく(よい)」などと言わず、これを「どかと(よろしい)」と言ったことによって、上記のaやbのようなニュアンスがオーバーラップされたような独特のニュアンスが感じられるようです。どかっと来た、あるいはどかっと感じられるよろしき朝夕を楽しんでいる作者の気持ちが伝わってくるような気がします。

みのる:青畝師の代表作のひとつです。「どかと」の措辞は、日中の残暑の厳しさと、朝夕の涼しさとの落差の大きさを、実感させるのに効果的ですね。残暑そのものの感じを詠んだ句は多いですが、昼間のそれと対照的な朝夕の涼感に着眼したところが非凡なのです。結局、この発見も「コロンブスの卵」ですが、常識を超える感性を磨くことの大切さを教えてくれますね。

23 新涼や立枯松の男ぶり

( しんりゃうやたちがれまつのをとこぶり )

遅足:夏も終わり風に秋を感ずるころです。新涼も、そんな頃でしょうか。それにしても立ち枯れの松に男ぶりを感ずるとは、由緒のある松なのかな? 枯れても、その姿の凛々しさ、そんな松の姿にココロ惹かれるものがあったのでしょう。それが新涼という季語とどうマッチするのか? 清清しさ。ほんのりとした清清しさが似通っているのでしょうか?墨絵の世界かも知れません。

とろうち:松という木はたしかに男性っぽい木だと思います。夏には感じなかったものの、枯れ松の少し斜めから日の当たっている、長い影を落とし始めた姿に、ほれぼれするような男っぷりを感じたんではないでしょうか。青々と葉をつけた松ではなく枯れ松というところが、新涼という季語とよく響き合っていると思います。

羽合:落葉樹ではない松ですが、枯松だけは葉を落としています。その枯松がしっかりと大地に立っている、その姿が男ぶりという表現になったのだと思います。枯れてもなお風に立ち向かっている姿、そこに勇ましさを感じているのでしょう。新涼という季語の中に、死んで枯れたはずの松に、かえってエールを送っているような作者のまなざしを感じます。

敦風:作者が何歳のころの作品か分かりませんが、おそらくは円熟の境地に達せられての句ではあるまいか。「男ぶり」という表現も、必ずしも青年ないし壮年の若さや精気あふれる男ぶりを言う言葉というよりは、全人格のようなものをバックにしての、年齢で言えば熟年、初老、老年という頃合の「男ぶり」のイメージではあるまいか。映画などでも、若い頃はもう一つであったのに、六十を越えた頃合になると、いい味の「男ぶり」をかもし出す俳優がいますよね。あれだと思います。あれが本当の「男ぶり」でしょう。新涼の候、作者の見た立ち枯れの松。その枝振り、その姿。まさに年輪を経た男振りの良さを思わせる立ち姿であることよ。そのように作者は詠んだのだと思います。

みのる:例によって、まず季感をチェックします。立ち枯れ松の男ぶりは理解できても、なぜ新涼なの? と問われると確かに難しいですね。例えば次のように季語を変えてみましょう。

どれも一応句意は通りそうですが、「新涼や」には負けそうにぼくは思います。季語動くと評されてもやむを得ない作品ですが、句の鑑賞は、理屈ではなく感性や季感という感覚で、共感できるか否かということになります。

24 蛾か蝶か未明なる紺朝顔に

( がかてふかみめいなるこんあさがほに )

とろうち:正直、この句はどこで切れるのかなと思いました。結局、夜が明ける時分の、美しい空の紺色をたたえて朝顔が開き始めた。飛んでいるのは蛾なのか、それとももう蝶が飛んでいるのか、それもよく分からない時刻である。という具合に解釈しました。「未明」という言葉は、明け方という意味と、どちらともつかないという両方の意味があるのかなとも思いました。

よし女:夜のまだ明け切らない薄暗いころ、紺色の朝顔に、蛾か蝶か良く解らないが、止っているよ。そんな句意に解釈しました。朝顔が、紺の朝顔なのだというのが、一歩踏み込んだことになるのでしょうね。そして、蛾か蝶か良く解らないとの表現も、よくよく見て、よく解らないということで、良く見なければ出てこない言葉でしょう。

羽合:蛾なのか蝶なのか。そう思ってよくよく見ると、実は朝顔であったという意味かと思います。未明なので、まだ薄暗い中、紺の朝顔はこれから花を開こうとして、蛾や蝶の姿に見えたのでしょう。しかし、蛾か蝶かという表現には考えさせられます。「蛾」と判定されば「いまわしい」」と感じ、「蝶」と判定されれば、ジャノメチョウでも何でも「美しい」と感じる日本人のおろかなところまで詠まれているように思います。外国では、蛾をきれいと感じるところもあると聞いたことがあります。自然に対する固定的な考えのばからしさまでも句に感じます。

敦風:「紺朝顔」という言葉は、虚子に「暁の紺朝顔や星一つ」 という句があり、青畝師の他の句に「佐渡を指す紺朝顔の花の上」 がありますから、俳句では普通にいう言葉のようですね。私は初耳でしたが。「蛾であろうか、それとも蝶であろうか。夜明け前の紺朝顔に止まっているよ」。または「紺朝顔の周りを飛んでいるよ」。そういう句でしょう。「未明なる」は、表面的には「夜明け前の(朝顔)」ということだと思いますが、ここは、とろうちさんも指摘していらっしゃるように、「(蛾か蝶か)分からない」の意味にも掛けた掛け言葉と見て鑑賞するのが面白いと思います。そう取ることによって、まだ薄ぐらい中の蛾(または蝶)と紺朝顔の様子がいっそう趣きを持ったものとして感じられると思います。

みのる:揚句は、「蛾か蝶か」と「未明なる紺朝顔に」の二句一章と見るのが素直でしょう。確かに一寸惑わされる言葉使いですね。東雲明かりに浮かぶ紺朝顔を連想すると、実に瑞々しい感じを受けます。未明なるゆえに、蛾か蝶かの見極めがつきにくかったのです。蛾の仲間に多い薄茶褐色ではなく、紺朝顔に同化したような美しい極彩であったように連想します。飛んでいる状態なら、紺朝顔から離れてしまうので、「紺朝顔に」に無理があります。また蝶と蛾の飛び舞う様子はそれぞれ特徴があるので見分けがつくでしょう。あそらく、紺朝顔に縋りついてじっとしていたので、ひょっとすると蛾なのかとも思ったのです。「未明なる紺朝顔」という言葉が活きています。

25 天秤をしならせ通ふ西瓜売

( てんびんをしならせかよふすいくゎうり )

とろうち:昔はスイカも天秤でかついで売っていたわけですね。重そう〜。「天秤をしならせ」でスイカの重さが端的に分かりますね。とてもわかりやすい句だと思います。

秀昭:「天秤をしならせ」をイメージさせるのは、しもごえ担ぎ。昭和20年代の信州の田舎では、よく見られました。こぼしながら通るので、やはり、匂うんです。肥料は高価なので、どこも簡単には購入できませんでした。これに比べ、西瓜売とは、ぐーんと上品です。中身のつまった重い西瓜。天秤はタイミングをとらないと思うように進めません。西瓜への愛情の深ささえ感じさせます。句も西瓜もうまい。

よし女:昔は西瓜を天秤で担いで売り歩いたのでしょう。このような光景を目にしたことはありませんがよくわかります。しならせの言葉で、重い西瓜と、それをリズミカルに調子を取って担いで歩く人の姿が想像できます。 しならせ、しなうなど、良い言葉ですね。

羽合:しなったやじろべい状態の西瓜売の姿。そしてその西瓜のみずみずしさ。もちろん商売なのだからまずい西瓜のわけはない。かけごえもあるでしょう。買い手もいるでしょう。町の中を練り歩く様子までも浮かんできます。

敦風:私も天秤棒を担いだことがあります。農家の生れですから。小さいころだったので荷は二人で担ぐ真ん中にありました。のち、すぐに、次男坊の私は農家を破門されました。天秤棒は本当にしなります。ですから、調子を合わせて運びます。この句も、調子をとりながらゆっくりと街を行く西瓜売りが目に見えるようです。皆さんの鑑賞と同じです。ところで、天秤棒の前後、いくつづつぐらいの西瓜を運ぶんでしょうね。西瓜はけっこう重いものですから。西瓜好きの家族がいると、夏にはそのことをしみじみ実感しますね。

みのる:「天秤をしならせ」という言葉だけで、西瓜売りの動作や掛け声、また路地の雰囲気など、 いろんな光景が具体的に連想できますね。俳句は多くを語ることは出来ません。焦点を絞った具体的な写生、省略の妙によって連想が広がり、句を大きくするのですね。

26 目を閉ぢてほほゑむおかめ南瓜かな

( めをとぢてほほゑむおかめかぼちゃかな )

遅足:おかめ南瓜とは、南瓜が好きな私には、なるほどと思わせる表現です。嫌いだった南瓜ですが、50歳を過ぎたころから、あの微妙な甘さ、ほっこりとした舌触りが好きになりました。なぜか、その頃から、女性の美の基準も私のなかで地殻変動を起こしたようで、アメリカ的な美ではなく、日本的な美が好ましくなりました。巨乳など、どこがいいのだ! という感じです。立てば芍薬、座れば牡丹の美もいいですが、野菜にも美があったのです。こちらが美を見つけると微笑み返してくれる、しかも恥ずかしそうに目を閉じているおかめ南瓜。可愛いではありませんか。

羽合: おかめの絵付けをした南瓜。そのふっくらとした顔。深みのある皺。その顔が微笑んでいる。しかも目を閉じて。目を閉じているということで、おかめに内面の姿を感じることさえできます。

みのる:厳密に言うと「おかめ」は差別用語になるかもしれません。ネット検索で調べてみると、「ちょぎんぎょ南瓜」「おかめ南瓜」「ひょっとこ南瓜」などと称して、遊び心というか、観賞用に小型の南瓜を栽培するようです。そのユニークなおかめ南瓜の凹み皺をじっと観察していると、目を閉じてほほゑむんでいるような、そんな愛らしい顔の表情に見えたのです。「目を閉じて」の感じが作者の心の中で具象化するまで、じっと忍耐して観察された先生の確かな写生術に感服します。

27 高架下また轟音し地蔵盆

( かうかしたまたがうおんしぢぞうぼん )

きみこ:何時もは忘れられた存在のお地蔵さんも、お盆になるとカラフルな提灯が、並べられて ああ、こんな所にも、お地蔵さんが有ったのだと気がつくことがある。高架上は、何時もと変わりなく、電車が通り過ぎて行った。一瞬の写生を上手に歌われた句だと思いました。

りんご:子供達には楽しいお地蔵さまのお祭り。電車が通るたびに轟音がひびく。下町の地蔵盆の風景が見えるようです。

羽合:都市化でお地蔵さんもさぞ肩身の狭い思をしているのでは。しかし、電車の轟音にかき消される中で、今も地蔵盆がどっこい生きている。昔ながらの生活がある。轟音が消えればそこには地蔵盆の音がまた甦る。近代化と伝統文化とが交錯する光景を見事に表現しています。

よし女:高架下のお地蔵様、毎日数え切れない轟音を耳にして大変ですね。日ごろはお参りする人影もまばら。でも、今日は地蔵盆。お顔が笑顔に変ります。あら、また轟音に地面がゆれます。

如風:賀川豊彦を想い出す。終戦後の句か。何故か賀川豊彦を想い出す。下町の地蔵盆の情景が目に浮かび、市井の民への愛情が感じられる。将に秀句である。「また轟音し」俳句は必ずしも、瞬間でなくてもよいことが良く分かる。

みのる:下町の人々の生活や雰囲気がにおう作品で共感がもてますね。紛れもなく「轟音のした」瞬間を写生した句で、時間の経緯を詠んだのではありませんす。時間の経過を詠んではいけないという事ではないのですが、初心者の場合は、あくまで感じた瞬間を写生する訓練が大切だという意味です。吟行で感じることを訓練せず、頭で考える作句法に甘んじていると、力強くて、実感のある句は決して生まれません。

流れゆく大根の葉の速さかな 虚子

虚子の代表作といわれるこの句は、どちらかといえば時間経過を詠んだと見られます。でもぼくには、眼前の情景に心を動かされた虚子先生が、こころのシャッターを押されたその瞬間を、この一句に詠まれたと思うのです。大切なことは理論や理屈で句をひねるのではなく、感性や感動を大切にして、素直な直感で詠むことなのです。

28 雨読子を平手はたきの芭蕉かな

( うどくしをひらてはたきのばせうかな )

遅足:晴耕雨読は定年後の理想でした。でも、いざ定年を迎えてみると、理想通りにはなりません。もともと志があっての生き方をしてきたわけではなく、行き当たりばったりの人生でしたから、後半生も行き当たりばったりで行くしかないのでしょうか。この句は、私の理想とする雨読の人に、本ばかり読んでいたら駄目と、芭蕉が平手打ちを食らわせたと詠っています。よそ目には理想的な生活も、うちに入れば、弱点があるんだと教えてくれました。凡人には凡人の生き方があるんだ。と、開き直って行くしかないかな?

羽合:本を読んでいるのに、芭蕉の葉が平手で打つとは考えられません。むしろ本ばかり読んでいる子に対する自然からのメッセージととればよいように思います。晴耕子ではない点、晴耕雨読と言っているのではない点、bookwormの感じがでています。その子をはたく芭蕉。さらにつっこめば、雨読子とは作者自身で、松尾芭蕉を比喩的に表現したのかもしれません。頭でこねくりまわすのでなく、漂白の思いにかられて旅に出て、写生句を作りなさいというゴスペル俳句の神髄を詠んだ句かもしれません。

とろうち:雨読子とはなんだろうと、まず思いました。で、私はこれを、雨の中で二宮金次郎の像が芭蕉の葉に打たれている、という光景だと想像しました。でも、それだったら「雨読子」なんて言わないで「金次郎」って言うかなあ。芭蕉の葉がばたばたと平手打ちをしているというのですから、雨と風もかなりあるのではないかと思います。そんな中で、けなげな金次郎少年がさらに悲惨な目にあっている。ずいぶんとまあ、かわいそうなだなあと思いつつも、一種の滑稽さを感じたのかもしれません。

みのる:ちょっと難しかったでしょうか。鑑賞のポイントは雨読子と芭蕉との位置関係ですね。 素直に分析すれば、当然雨読子は屋内、芭蕉は屋外ですね。部屋の中からの窓景色に風雨に煽られている芭蕉の広葉がみえている情景だと想像すれば、実景が見えてくるでしょう。「雨読子」は、ご指摘のように、「晴耕雨読」から引いたことばです。朝からの激しい風雨で、やむなく雨読の一日を過ごしているのですが、明日の天気も気になるので、時折読書の目を窓の外に転じているのです。晴耕雨読の生活ぶりを想像すると、そうした情景も容易に連想できますね。「雨読子」とかかれた言葉の意味をおろそかにしてはいけないのです。

29 十字切るや否やつんざく稲光

( じふじきるやいなやつんざくいなびかり )

更紗:礼拝堂の中でしょうか。お祈りを捧げて十字を切った瞬間の稲光…神の御意志でしょうか?  善き事も悪き事も見守っていらっしゃるのでしょう。素直な気持ちを忘れずに・・そんな声が聞こえてきそうです。

羽合:これは祈りの途中に稲光があり、目をつぶっていてもその稲光を感じ取り、はて、祈りを終えて十字を切るべきか、あるいは祈り続けるべきかという意味かと思いました。目をつぶっていてもその闇をつんざく稲光。祈る姿。点からの光なのか。あるいは祈りを邪魔するルシファーの誘惑なのか。

とろうち:雷鳴とは違って、音もなくただ煌々と夜空を照らす稲光は、なにかとても神秘的なものを感じます。祈りをささげ十字を切ったとたん、まるでその祈りに答えるかのように光ったいなびかり。闇を切り、一瞬ではあるけれど世界を照らすその光に、何か神の世界を感じたのかもしれません。

よし女:ふつうは雷をつんざくと言う様に思うのですが、稲光がつんざくの表現がたくみですね。それも、お祈りの十字を切った瞬間というのが。

みのる:プロテスタントの習慣では十字を切る所作はしませんから、カソリックのチャペルで祈っている人でしょう。先生は敬虔なカソリックの信者でしたから、自画像かも知れません。あまりにもタイムリーに稲光がしたので、神慮を感じられたのでしょうかね。深い意味はないと思いますが、瞬間の驚きには共感できます。「稲光」が「つんざく」という形容は、少しおかしいのではとぼくも感じました。「ドドーン」という雷鳴のことではなく、「クシャクシャ!」と連続的に発せられる閃光の様子を「つんざく」とされたのかなと思います。でも、こればかりは天国の先生に聞いてみないとわかりません。

30 流れ去る星に一ト声牧の牛

( ながれさるほしにひとこゑまきのうし )

更紗:季語は流星でしょうか。昨日の「十字」の句、そして今日の句となんだか聖書の一ページのような気がします。牛の鳴き声、それは悲しいものに聞こえます。流れ星をみて牛は何を感じたのでしょうか? 最近体調を悪くし入院、手術をしました。この頃なぜか、学生時代に読んだ聖書の言葉が思い出されます。

遅足:大きな宇宙。それに応えるように啼く牛。この取り合わせの妙がとてもいい。若い頃には、牛の声が宇宙に向けられているなどと想像することすらありません。見ていても見えなかったもの。それが見えてくる熟年。失うものも多いですが、手に入れるものもある。この句を読むと励まされます。

羽合:去るという表現と牛の一声とが呼応している感じがします。偶然の出来事のはずが、作者はこの瞬間に偶然とは思えないタイミングの牛の声に感動しているのだと思います。去る者をあわれむ心、それがこの句に投影されているように思います。「一ト声」の「ト」というのが私にはわかりません。こういう使い方ができるのでしょうか。そしてこの「ト」がこの句の場合、どのような効果をもたらしているのでしょうか。どなたか教えてください。

とろうち:最初読んだ時は、さほどおもしろいともいい句だとも思いませんでした。でも何回か読み返してみると、なかなか壮大な句だと思えるようになりました。暗い夜空。黒々とした広い牧場に、牛が点々と脚を折って眠っている。突然、空をよぎった流星に、まるで呼応するかのように一頭の牛が鳴いた。あたりはまた闇の静寂の中。まるで今はやりのネイチャーアート?のようです。

みのる:季語は流れ星、メルヘンの世界ですね。青畝先生の作品は、歳時記の通りに季語を使うのではなく、一寸アレンジして新しさを醸し出す工夫があり、いつも驚かされます。誰にでもできることではなく、経験によって季語の本質を十分に理解し、その上で新しさへの挑戦をされているのです。でも、「流れ去る星」では、季語にならない・・などと声を荒立てる哀しい論者もいるかもしれませんね。

31 どの谿となくかなかなの夕谺

( どのたにとなくかなかなのゆふこだま )

羽合:蜩の声は、どこから聞えてくるのかわかりにくいものです。そんな様子を見事に詠んだ句。谿と谺が呼応し、平仮名の「かなかな」も生きています。なんとももやもやした、神秘的な世界を感じてしまいます

とろうち:蜩の声は響きます。夕暮れになって蜩が鳴き出す。あちらでもこちらでも、声がこだまして、山全体が蜩の声で覆い尽くされていくようだ。なんの衒いもない、素直な句だと思います。

きみこ:谿の方々から蜩の鳴く声がして、この頃になると何となく寂しさを感じるようになります。「なく」が、どの谿となく とかなかなが、鳴くとにかかり、夕暮れに谺す蜩と静かな山間のようすが目に浮かびます。

みのる:幾尾根を見下ろすような高処に佇って、夕帳が包み始めた四囲の谷から、輪唱のようにかなかなの声が響いてくるのです。理屈ではなく、一幅の山水画を思わせる素敵な句ですね。

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