2003年1月

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01 初湯殿卒寿のふぐり伸ばしけり

( はつゆどのそつじゅのふぐりのばしけり )

とろうち:これは、女の身としてはなんとコメントしてよいのやら・・・。卒寿が効いていますね。壮年の方ではこうは詠めないでしょう。暮れの慌ただしさから解放された、新年ののびのびとした雰囲気を感じます。

羽合:「初湯殿」ということばが生きている。人生の晩年、湯殿でくつろぐのは至高のときだろう。そして「ふぐり」を伸ばす。この古めかしい言い方が「湯殿」と呼応して、エロチシズムでなく芸術の域に一気に高められている。達観である。さらに、このふぐりにより、子孫を繁栄させたという思いが新年の湯殿で感慨となって言い表されていると読みたい。

よし女 :湯船の中でゆったりと手足を伸ばし、生かされていることへの満足と感謝。そんな胸のうちがうかがえます。

一尾:湯舟一杯に体を伸ばし「ああよくぞ90歳を迎えるまで生き、生かされたものよ、ただただ感謝、感謝」と年の始めを喜ばれているようです。生の象徴としてのふぐりはまさにこの句の重心です。

みのる:羽合さんの素晴らしい鑑賞があるので補足は不要ですね。そのとおりだと思います。 還暦のぼくも初湯殿でちょっと先生の真似をしてみましたが、卒寿のふぐりには勝てないですね。

02 双六を目がけて五指のひらくとき

( すごろくをめがけてごしのひらくとき )

とろうち:懐かしいですね、双六。昔はお正月の遊びでした。さいころをぱっと投げる瞬間。遊びではあるけれど、いくつの目がでるかとなんとなく緊張の一瞬がよくでている句だと思います。

羽合:なぜ双六がこのように俳句になってしまうのだろう。お見事としか言いようがない。 「コマ」とか「振る」とか言わなくても、もうその姿と目つきがありありと浮かんでくる。省略と的確な描写によって描く俳句の神髄が見える句である。自分もこの句に詠まれているような熱を入れて双六をしたときの記憶までもがよみがえってくる。

よし女:「目がけて」の言葉が効果的ですね。双六に興じている人の真剣な眼差しが浮かびました。

登美子:双六はゲームですが、五指のひらくときという言葉でお正月のくつろいだ、家族の和やか さが出ているのではないでしょうか。

みのる:ひいらぎ主宰の小路紫峡先生の作品は、瞬間写生で有名でした。時間の経緯を詠むとどうしても句が弱くなるので、瞬間を切り取って写生しなさいと教えられました。掲句は瞬間写生のお手本のような作品ですね。「双六をめがけて五指のひらきけり」と詠むのが一般的ですが、「・・・ひらくとき」という措辞によって、パッとさいころを投げ打つ瞬間が力強く写生できています。

03 一軒家より色が出て春着の児

( いっけんやよりいろがでてはるぎのこ )

こう:目に鮮やかですね。一軒家というと周囲は冬枯れの色。モノトーンが意識されます。そこからこぼれ出るような春色、それも春着の娘さん。なんとも綺麗で上質なインパクトがいいです。

羽合:「色が出て」と、読み手に色を想像させるところが気に入りました。しかもこの表現によって、春着そのものよりも、春着のあでやかな色に焦点が定まり、句を読んだだけで、こっちがはっとさせられ、作者の感動が追体験されます。「一軒家」は、ぽつんと立っている家ともとれますが、私は、長屋のごみごみした周囲とはちがい、一軒家の上品な家の娘の春着を詠んでいると解したいと思います。裏返せば、そういう上品な一軒家とはちがう庶民の生活をしている自分たちのことが暗に読込まれているように思うからです。

とろうち:今風に読むと、いつもは老夫婦二人の家に息子、または娘夫婦が子連れで帰省している。孫のために用意しておいた春着を着た女の子が嬉しそうに外へ飛び出した。今から初詣かな。 あたりは冬枯れの景色。そこにぱっと華やかな春着の色が鮮やかです。

みのる:こう解、とろうち解のように、ぼくも一読、田舎の冬景色の中の一軒家を連想しました。 春着の色とのコントラストからそんな連想が働きます。羽合解のとおり、「色が出て」がこの句の要になっています。言えそうでいえないことばですね。

羽合:「一軒家」をめぐっては、「田舎の冬景色の中の一軒家」という解釈がやはり順当なのでしょう。私は、かなしいかな都会の生活者として、一軒家と言えば長屋でなく一戸建ての家というイメージがあって、しかもそこから春着を着た女の子が出てくるという都会風景を見た経験もあるのでそう解釈しました。住んでいる環境や経験によって同じ作品でもちがって見えてくる、そこがまた俳句の妙な(よい意味で)ところです。

04 凧の糸融け入つてをる太虚かな

( たこのいととけいってをるたいきょかな )

よし女:太虚は大空と解釈してもいいのでしょうか。そうなればこの句よく解ります。凧が高く上がると糸はまったく見えません。それを「融け入ってをる」とした断定も効果があり、太虚でもって、ずいぶん高くあがっている凧が想像できます。

羽合:凧の糸とは言っていますが、凧そのものを言っていないのに、凧が思い浮かびます。それは、手にしている糸の伸びた先に凧があるからです。しかし、この「太虚」という表現がこの句のすごいところ。手元の糸は確かに見える、実態のある存在。しかし、空の糸は見えない、空に融け入った存在。それは、「虚」の世界というのです。凧そのものを言っていないだけに、糸によって、自分の手元と大虚が結びついているような、しかも実態と虚構が結びついているような、不思議な感覚を覚えます。

みのる:太虚は広辞苑に載っています。

たい‐きょ【太虚】
1)おおぞら。虚空(コクウ)。
2)北宋の張載が「正蒙」で説いた概念。太虚が凝集して気、気が有形に凝集して万物となり、
  物が分散して気、気が分散して太虚に帰する。太虚は無形だが無ではなく、万物・気の本体で、
  宇宙生成の根元だとする。

なんでもない情景、だれでも体験している情景ですけれど「太虚」ということばの斡旋によって、大きな句になりました。青畝先生は、ことばの魔術師とも呼ばれたくらい実にことばの斡旋が巧みでした。いつも広辞苑を座右に置いておられたということを聞いたことがあります。選句や句集を読むときでも、読めない字とか意味の判らないことばは必ず調べる習慣をつけることはとても大切です。また、遠慮したり恥ずかしがったりしないで、合評掲示板に質問するのもよいことです。知らないことを聞くということは勇気がいるかもしれませんが、決して恥ずかしいことではありません。ぼくにも知らないことは多く、皆さんの作品を選びながらいつも勉強しています。

05 ゆげむりの中の御慶の気軽さよ

( ゆげむりのなかのぎょけいのきがるさよ )

羽合:新年のあいさつと言えば、着物を着たりして、仰々しいものを想像しますが、温泉の中では裸であり、仰々しいことも何もありません。裸同士であれば、人間平等になるようです。しかも、ゆげむりの中という表現が効いています。寒い中、ゆげむりが立ちこめているさまは、風呂屋よりも温泉でしょう。地元民同士の新年のあいさつで、長年のつきあいがあり、その気楽なあいさつは、傍から見ていたらたしかに気楽なものに見えると思います。

とろうち:まさに裸のつきあいですね。お風呂の中では新年の挨拶も何も飾ることもありません。親しい間柄の気の置けないつきあいが見えます。

よし女:温泉か銭湯かのゆげむりの中でだれかれとなく御慶を交わせることを、「気軽さ」で表現されていてよく解ります。無一物の湯船の中では、初対面とか知り合いとか意識なく、気軽く言葉を交わし合いますが、御慶ともなると一層の感慨があると思います。裸身になっても句が拾えるものですね。

一尾:堅苦しい新年の挨拶を気軽にさせたのはゆげむりの功績ですね。裸と裸、温まった体に赤ら顔、声も増幅されエコーまで入る、これで気分がよくならない訳がないと云った雰囲気ですね。

みのる:いわれてみればそのとおり・・と誰もが納得できる句ですね。観念的なイメージにとらわれて御慶と言う季語を扱うと、とてもこのような句は詠めません。青畝先生の感性や頭脳がいかに柔軟であるかということですね。感性は先天的なもの・・という方もおられますが、ぼくは訓練によって育まれるものだと信じています。理屈や知識で俳句を学ぶと、柔軟性が失われます。直感を養う吟行法こそがそれを実現できる最善の方法だと思うのです。これがぼくが紫峡先生から学んだ本物への道です。常識的、観念的なことをとらえても、たいてい既に誰かに詠まれています。つまり、平凡、想古し、の域を脱し得ないのです。揚句のように新しさを追求することが、青畝先生の仰った温故知新の精神なのではないでしょうか。

06 義歯除ればまことのぢぢい福沸

( ぎしとればまことのぢぢいふくわかし )

よし女:若水を沸かしたものか、鏡餅を雑煮にしたものかと思いましたが、「義歯除れば」で、後者ではないかと思います。何れにしても歯がないと食べられませんよね。まことのぢぢいと思いながら、義歯のありがたさを感じておられるのでしょう。

とろうち:入れ歯をはずすと本当にじじいだなぁ、と一見自嘲めいた口振りながら、そのじじい顔に強い自負を感じます。この歳までよく生きてきたものよと思いつつも、自分の今までの人生に誇りを持っている一人の老人がいる。そんなふうに読みたいです。

次郎:この句を見て青畝師が18歳のときに詠まれた「こまごまとひきだしもてる火桶かな」が何故か浮かんできました。青畝師が入信されたことが頷けるような気がします。

羽合:「義歯除ればまことのぢぢい」なのだが、義歯をとらないので、まだそこまで老いぼれていないと言いたいのだろう。新しい年、年月が進んでさらに年をとると考えてはいない。「福沸」が微妙だが、「初詣」でも「雑煮膳」でもこの味はでない。「ばば」はいないのかもしれないが、むしろ「ばば」よりも早起きして自らが若水を沸しているという積極的な意味を私は感じとる。そこにこれからの一年もしたたかに生きようという決意のほどがうかがえる。

みのる:15年前、入門して間もない頃、ひいらぎの合評会でこの句に出会いました。そのとき、上5、中7は解るのですが、どうして「福沸」なの?と思って、結局よくわからなかったのです。季語が動くような気もしました。実際これはすれすれの句だと思うのですが、「福沸」といわれると確かに可笑しいような、おめでたいような、という滑稽味がありますね。次郎さんの仰るような、神さまの恵みによってこの新しい年も生かされている・・という信仰的な感謝の気持ちも感じられますね。

07 永かりし昭和は人日にて結ぶ

( ながかりししょうわはじんじつにてむすぶ )

羽合:調べてみると、昭和天皇はたしかに1月7日の人日の日に亡くなっている。この句の命は、「人日」という表現に思いを込めたところだろう。現人神であったはずの天皇は、やはり人であったという意味合いが読み取れる。天皇は「人の日に亡くなった」のだ。そこまでくるのが長かった、そしてその結び(結果)を思い、歴史の重みを思って詠まれた句であろう。

次郎:明治、大正、昭和そして平成と見て来られた青畝師の「永かりし」には重みを感じます。 「結ぶ」は結実などと同じ用法と思います。「人日にて」は一つの発見かもしれませんが私は「結ぶ」に感じ入りました。青畝師の昭和に対する思い入れが伝わって来ます。

とろうち:私のような者でも昭和は長いと感じます。日本にとって最も重みのある元号でしょう、明治、大正と生きてこられた方にとっても。「永かりし」という字、現人神として存在した昭和天皇もただ人となり、奇しくも人日に崩御した。それはまさに一つの時代が終わったという感じがしました。 昭和という時代の重み、詠んでからずしりとそれを感じる句です。

よし女:昭和は64年1月7日まで。次の日から平成になり、当時64年続いたのは、珍しいとか、記録的だとか、ニュースが賑やかだったことを思いだしました。人日にて結ぶの「結ぶ」が効果的で、青畝師ならではの言葉だと思います。

みのる:戦後派のぼくには十分理解し難いことですけれども、青畝先生にとって、昭和の終わりは殊更にショックだったようで、掲句と同じ時期に発表された次の作品からもそれが窺えます。

  慟哭や七草粥の箸措きて  青畝

昭和天皇崩御と前書きがなければ、意味の通じない句ですが、先生にとってはまさに、「慟哭」そのものであったと思われます。太平洋戦争における天皇の悩み、苦しみ、悲しみを思い測るとき、青畝師自身の気持ちの中にも同世代を生きた天皇と同化した思いがあったのでしょう。それはまさに一つの時代が終わったという感じ。昭和天皇への深い哀悼の気持ちと同時に、とろうち解にあるように時の移ろいの重みを感じますね。

08 丑紅の唇にちょとかむ筆の先

( うしべにのくちにちょとかむふでのさき )

よし女:寒紅をなぜ丑紅というのかと思い調べていたら、ありました。「寒中の丑の日に売り出した紅が最高級品であると喧伝された」と。寒紅は、寒中に製した紅花から採れる良質の紅で、現在は最高級の化粧品にわずかに使用されているとか。俳句では、寒中に女性が用いる紅一般を指すようです。私は、一月は丑月なので丑紅というのかと思っていました。丑紅を刷いた唇で新しい筆の先を少しほぐし、硯の墨へ下したという解釈をしました。やはりこまやかな観察の行き届いた作品だと思います。

光晴:おだやかな和室と女の香。昔物語にしたくない情景です。

こう:筆・・を紅筆と思ったのですが。紅をさす仕草を詠まれたのだとみて艶やかさ、可愛さがよくでています。「ちょとかむ」がなんともいいです

登美子:よく女性のしぐさを観察されていることに感心しました。よし女さんの丑紅のご説明よく分りました。ありがとうございます。ちょとかむとあるのは、私の場合は唾で少し湿り気を与えて紅筆を使います。そこまでは男性の方はお分かりにならないのでしょうね。先生は、ただそのしぐさの可愛らしさを読んだのではと思います。

よし女:私も始めはこうさんの解釈でいたのですが、途中ではたと変わってしまいました。

みのる:丑紅はぼくも知りませんでした。一読紅筆のことだと思ったのですが、別の解釈も出来そうですね。現代は、満員の通勤電車の中でやおらハンドバックから手鏡とクレヨンタイプの口紅を出して、人目もはばからず紅を塗っている女性を見ます。男性としてはなんとなく興ざめする風情ですが、揚句の情景はとても艶やかな感じで、女性の色気を感じます。でも、本物を見たことがないので、映画やテレビの時代劇で玄人の女性が念入りに紅を塗っている場面しか思い出せません。「ちょと噛む」の措辞は青畝先生ならではですね。覚えておいて使えそうです。

09 寒鯉の大きな吐息万事休

( かんごいのおおきなといきばんじきゅう )

宏二:万事休す。生あるものは、すべて死す。十数年、可愛がっていた犬が死にました。朝早く、妻が庭に出たら、ちゃんと座って待っていました。その数分後に私が見に行った時は、すでにこときれていました。最後の十日間ほどは、水以外は全く受け付けませんでした。寒いなか、小屋から出て、最後の挨拶をしてあの世にいきました。この句を読んで、そんなことを思い出しました。犬もきっと最後の吐息をしたのでしょう。

とろうち:寒鯉というものをよく知らないので具体的な様子は分からないのですが、「万事休」という措辞から、ああ、捕まってしまった。これで俎の上の鯉になるんだなぁ。などと少しユーモラスな句だと思いました。

光晴:まな板の鯉、そのものを詠ってると思います。生きている魚をまな板に置くと、本当に静かに観念したように動かないことが多いです。そして鯉は口が大きいのでパクッと口を開ければ、確かに揚句の情景になります。しかし上手いなあ〜。魚も寒鯉が、どんぴしゃりです。

よし女:大きな吐息が万事休を効果的にしているようです。心を揺さぶられるあわれさがありますね。

登美子:20年程前、琵琶湖の近くに住んでいて、よく寒鯉を頂き飴炊きにしました。俎板の上で大きく口をあいたところに新聞紙をかけ、出刃の背でごつん。これが万事休すなのでしょうね。憐れみとあの美味しかった思い出が今でもこの眼と口に。

みのる:寒中の鯉は美味なので寒釣りの対象とされるのですが、水温が下がると、泥中にじっと棲み、たまに暖かい日には水面に出てきて、ゆったりと余り動かずにいます。そのような情景を詠んだ句は多いのですが、俎板の上の鯉・・という情景を詠まれたのが新しいと思います。万事休ということばの斡旋も非凡ですが、大口の鯉の特徴を踏まえて、「大きな吐息」と感じられた感性に感服しますね。これは、客観写生というより、あきらかに小主観です。このような、さびのきいた小主観は、たゆまぬ客観写生の訓練によって養われるもので、十分訓練のできていない初心者がこれを真似ることは戒めねばならない、と紫峡先生からお聞きしたことがありました。

10 肩馬の千両万両福かつぐ

( かたうまのせんりょうまんりょうふくかつぐ )

たけし:十日恵比寿の雑踏の中で肩車している福々しい児が千両か万両の枝を手に持っている、まさに福を担いでいるように見える。というように鑑賞しましたが、今2つ程自信無しです。千両万両は福笹についている縁起物の事を言っているのでしょうか?

こう:たけしさんの解釈でよくわかりました。肩馬??でしたが、肩車のことなのですね。どちらも乗り物ですものね・・と一人合点。千両・万両は縁起物についている大判・小判ですね。これは、なんと福ずくめのおめでたくも微笑ましい情景と納得いたしました。

一尾:この句からイメージしたことは「商売繁盛笹もってこい」の十日えびすと「親亀の上に子亀そのまた上に孫亀」の構図でした。肩車の子は人波かき分け上機嫌、親子至福の時ですね。

みのる:どこにも季語が見当たらないので、いっしゅん無季だと錯覚しそうな句ですね。でも、よく観察するとこれは福笹のことだとわかります。つまり、俳句は季語の有無ではなくて、季感の有無であることをこの作品から学ぶことができます。青畝先生はよくこのような工夫をされて新しさを追求されました。肩車は肩馬と同意です。お父さんの肩の上の幼子が千両万両の小判がぶら下った福笹をかつぎもっている情景が見えてきますね。人波にもまれて迷子にならないように、また周囲のお店の様子がよくわかるように肩馬をしているのですね。それを連想すると十日戎の賑わいが見えてきます。肩馬をしている親子の姿や、人出の賑わいなどはすべて省略されて、福笹だけにスポットを当てています。このように焦点を絞った描写によりよく情景がひろがってゆきます。これが写生の力なのです。

11 まじろがぬ二つの鋭目ぞ弓始

( まじろがぬふたつのとめぞゆみはじめ )

よし女:まばたきもせず、的を鋭く見定めている弓始の一瞬なのでしょう。「まじろがぬ」「二つの鋭目」によって、その時の緊張した空気がしっかり伝わってきます。

登美子:三十三間堂では成人したばかりの人。そんな若い人がまじろがないで、鋭い目で弓を放とうとしている、その真剣さが鮮烈に伝わって来ます。

とろうち:つい先日、自分も弓始めの句を作ったばかりではありますが、弓というのは実に緊張するものですね。ゆっくりと、それでいてよどみのない動作から弓をきりきりといっぱいに引き絞る。そのあいだ双眸は的をしっかりと捉えて離さない。矢が弦から離れるその瞬間まで、見ているほうも息をするのも忘れています。

たけし:大昔、学生時代の体育の授業で1年間週一の弓道体験をしました。最初片目をつぶって笑われました。足踏みとか引き分けとか残心とか色々な作法がありましたが、共通するのは二つの目をしっかと開けろでした。青畝師は弓始を見て、弓道の代用特性は二つの鋭目也、と看破された訳ですね。

みのる:ぼくも片目をつぶるのだと思ってました。「鋭目」ということばはいいことばで、使えそうですね。矢を射るまでは息をとめているのでしょうね。一句の中に緊張感がみなぎっています。

12 もの問へば寒釣きげんわるかりき

( ものとへばかんづりきげんわるかりき )

光晴:情景がスライドを見る如く浮かびます。何も釣れてない人に師は「何が釣れるんですか?」とか、言葉を掛けたのでしょう。動くことも為らず、寒さに縮こまっていれば、ついそんな返答もしそうな私です。釣れてる人に話しかけていたら、揚句は出来なかったと思います。

よし女:釣り人の姿をよく見かけ、付いて往く事もたまにあります。そして、話し掛けたり、かけられたり。よく釣れていれば誰も機嫌がよく、時には釣果を見せて貰う事もあります。掲句の場合は、きっと釣れていなかったのでしょう。釣も結構、集中力が必要なようで、騒がしいと魚が寄らないとか、逃げるとか耳にします。光晴さんの「釣れている人に話し掛けていたら,掲句はできなかったでしょう」と言われる鑑賞の仕方も面白いですね。また、何でも句材にしてしまわれる青畝師もすごいです。「寒釣のきげんわるかりき」と、人物が省略されたことによって、句が面白くなっているように思います。「かりき」の使い方は、まだきちんと理解できません。

たけし:寒釣だろうと海釣だろうと釣果が無ければ機嫌が悪いのが釣師、寒釣は深みで動かないオイカワ、フナの類をそっと狙うもの、そんなところへ話し掛けられた釣師のおじさんは(機嫌悪い)×3乗必至。そう見てくるとこの句も季語は不動です。すっと詠って滑稽味のあるこんな句をいつかは詠いたい!

一尾:そうだな、聞かなければよかったな。釣師には悪いことしてしまったなと反省の句でしょうか。寒さに耐える人がそこに居れば声の一つも掛けたくなるのが人情、青畝師の優しさです。

登美子:今日は宇治川の探鳥会でした。たくさんの釣り人に出合いました。よくも水の中に入ったり、中洲で半分水の中。今日は割りに寒でも温かい部類だったでしょうが、こんな時釣果がなかったら、揚句のようになることしきりでしょうね。探鳥にとっては釣り人は大変気になる存在。 特にシギ、チドリ類は敏感で直ぐ逃げてしまいます。今日も二回ほど経験。でも釣り人にとって、探鳥の人は目障りな存在なのでしょうね。

みのる:ただの釣ではなくて、寒釣という季語の特徴を見逃さないでください。冬になると魚の活動が鈍くなり、水底に沈んだり、草の間などに隠れてあまり動かない。それをいろいろ工夫を凝らして釣る。寒中は魚に脂が乗って美味しい時期なんですね。ですから、「ぼうず」といって一匹も釣れない・・てこともあるわけです。寒さに耐えながら寡黙に釣りをしている人は、どちらかと言うと孤独なタイプが多く、たいてい他人から話し掛けられることは歓迎しないのです。ぼくも少し釣りの心得があるのですが、寒釣人に釣果を聞くのはタブーです。

13 蝋涙をこそげたる手の胼を見よ

( ろうるいをこそげたるてのひびをみよ )

蒼:和蝋燭を作って居られる職人さんの事を詠んだのではないでしょうか。一日の仕事を終え両の手に付いている蝋燭をこそげ落とす、その手はあかぎれ、ひびの手、決してきれいな手ではないけれど仕事をする人の手。ひびの入った手で熱い蝋を触るのは痛いでしょうね。鋏を使う職人さんには鋏だこが出来るように長い間同じ仕事についている人を見て、詠まれた句なのだと思います。

よし女:お寺にお参りすると蝋燭立てに、蝋が涙のように流れて、半分残ったものや、融けきって台にこびりついているものなどを目にします。それらをこそげ落としている人の手が胼だらけだったのに、ふと目を止められたのではないでしょうか。坊守さんか、そこで働いている人か、女性だと思います。深い胼に、よく働く人の姿が重なり、青畝師も気の毒に思われたのでしょう。

とろうち:「蝋涙をこそ」ぐ人がどういう人なのかはよく分かりません。けれど、なぜ青畝氏は「蝋涙をこそ」ぐ人のひびに注目したのでしょう。この時代ひび、あかぎれなどというものは殆どの人が経験したものでしょう。厨で洗い物をする人のひび、川で菜を洗う人のひび、しかるに何故? これは私の勝手な推測ですが、蝋涙をこそぐなどということは、とても地味な仕事です。私たちがどこかでお灯明など見たとしても、その蝋涙をこそぐ人がいることを果たして想像するでしょうか。場所的にも、けっして明るい場所での仕事ではないですよね。けっして人に注目されない仕事をしている、そんな人の手のひびに青畝氏は何を感じたのでしょうか。私は何か深いものを感じるのです。

みのる:滝不動とか、あまり有名でない小さな祠に点される蝋燭を連想しますね。そしてその小祠の神を守って律儀にお参りされている老婆のような姿が見えてきます。ふと目を凝らすとその手はひどい胼で、哀れなくらい。でも、その姿からは実直で清貧な生活ぶりや一途な信仰が見えてくるようで、尊敬、敬服な思いでそれを写生されたのでしょうね。

14 鉄瓶の湯を凍飯の上にそゝぐ

( てつびんのゆをいてめしのうへにそそぐ )

参考:披講するときは、
「いてめしのぅえにそそぐ」というように、「ぅえ」を「え」と一文字に発音します。
正しくは、「ぅえ」がなまって「え」になるので、「え」と読む・・という意味ではありません。

とろうち:最近の句は難しいといいますか、ちょっと隔世の感が強く私などにはしっかりと鑑賞しきれない気もしますが、レッツチャレンジ。「凍飯」は文字通り凍ってしまったご飯のことですよね。昔は今のように暖房器具も発達していないし、冬まっただなかでは前の日のご飯もぱりぱりに凍ってしまうこともあったのでしょうか。犬がごはんを残した時、朝ぱりぱりになっているのを見たことがありますが、まさにフリーズドライという感じでした。そのぱりぱりご飯にしゅんしゅんのお湯をかけるわけですね。湯漬けみたいにして食べるんでしょうか。いずれにせよ、今では到底想像もつかないような厳しい生活ですね。冬の真の寒さを感じます。

敦風:凍てた飯に鉄瓶の熱湯を注ぐ、とだけ云っている。今の我々だと、まず注ぐのは湯ではなくお茶でということになり、その上、やれイカの塩辛だとか、どこそこのお茶漬けの素を持って来い、とかいうことになりますが、この句はそういうことではなく、湯をかけて、そのままで掻き込んで食べるイメージ、何か添えるとしても、せいぜい漬物をちょっと、ということくらいでしょう。そういう暮らしなのか、そういう地方なのか、時代なのか、ひとり暮らしなのか。いずれにしても、熱湯を得てほとびて行く飯に作者の眼が凝縮し、読者に広い世界を想像させる句のように思われます。万物万象すべて句材なんですね、青畝師にとっては。私などはただ驚くばかりです。

一尾:それぞれ関係のない鉄瓶と凍飯を結び付ける懸け橋がなんと注がれるお湯、それだけで取り合わせのきわめて簡素な静止画が立体的な動画になりました。

みのる:確かに、贅沢、飽食の現在では、「凍飯」というものがどんなものか、想像がつきにくいですね。保温ジャーとかがなかったころ、ぼくのうちではおひつにご飯が入っていました。厳寒期では、それを蒸気でむして食べていた記憶があります。ぼくは、この凍飯は、御仏飯とかの御降ではないかとふと思いました。少年時代に、おふくろが炊き立てのご飯を小さな金属製の器にもって仏前に供えていました。で、それこそそのお供えのご飯は、カチカチになってしまうのですが、それをお茶碗にぶっちゃけて、熱いお湯を注いで、ほぐして頂くのです。仏飯にお茶というのは不謹慎と言うことなのでしょうか、必ず白湯でした。当時は石油ストーブとかファンヒーター、エアコンなんてありませんから、炭火鉢か、せいぜい練炭火鉢です。そこにはいつも鉄瓶が載っていてお湯が沸いているんですね。ぼくが幼稚園か小学校低学年のころの思い出です。戦後の貧しい時代を思いださせ、飽食な現在の生活を反省させられる句ですね。

15 吉書揚げひらひら春の字がとんで

( きっしょあげひらひらはるのじがとんで )

よし女:書初めを吉書と言うのですね。それを、七日か十五日の、門松の焚き上げの火と共に燃やす風習があり、高く舞い上がるのを、手が上がったと言って喜んだと言うことから、そのような場面を想像しました。青畝師も書初めを燃やし、それが高く上がって、書いている文字がひらひらと飛んで、楽しかったのでしょうか。そして、書初めの明るい文字を「春の字」と表現されたのではないかと思います。何れにしても、季語は「吉書」ではないでしょうか。

登美子:とんど焼き、左義長のことを吉書揚げとも。吉書揚げの方が春の字が飛ぶということが生きてくると青畝師はお考えになったと思います。この吉書の春の字がが蝶々のように飛んで上る様子が見えてきます。小さい頃、書初めの後にどんとで燃やし、上にあがると腕が上がると大人に言われたことを思い出しました。

よし女:登美子さんの言われるように、「吉書揚げ」が季語になるようですね。ありがとうございました。

敦風:とんど焼。書初めで「春」の字が書かれた紙。その紙がとんど焼の炎にあおられてひらひらと舞った。「春の字がとぶ」というのは、「春」という字が書かれた紙が飛んだ、ということではないでしょうか。それを作者は面白いと感じた。なるほど面白い、と私も思います。「とんで」で止めた表現が、紙が飛ぶさまを描くのに利いているように感じます。

みのる:正月に行われる火祭りの行事で、「左義長」「どんど」等が有名です。「吉書揚げ」は、登美子解のとおり、書初めなどをどんどの火に燃し、燃えさしが高く上がるのを、手が上がるしるしとして喜ぶのをいいます。「迎春」「初春」などの文字が火の勢いに乗って高舞う情景は、夢がありますね。昨今は街中ではあまり見られなくなって寂しいですが、小学校などでは、まだやってる所もあると聞きます。

16 風花の山紫水明狂へとぞ

( かざはなのさんしすいめいくるへとぞ )

光晴:青空のもとの自然の山川の美しさ、そこに舞い降りる風花。山紫水明と言う言葉を狂わすごとの美。師の詠嘆が聞こえてきます。風花には、見るたびに心動かされますが、この句に会ってこれ以上の句は出来ないと観念しました。

とろうち:これは難しいですっ。互選に出たらきっと私は取れないでしょうね。「山紫水明」は美しい山水のこととありましたが、そういった場所に風花がびゅうびゅうと吹き付けている光景を想像しました。詳しく知らないんですが、序破急って言うんですか、なんとなく「狂へ」という措辞に中世の能のようなイメージを持ちました。

光晴:風花は、びゅうびゅうとは吹かないと思います。風花は、山や吹き溜まりに積もった雪が晴れている日に風に乗り、どこからともなく舞ってくるものと私は認識していますが?

とろうち:びゅうびゅう吹くという言い方がまずかったでしょうか。びゅうびゅう吹いているのは風。風花は細かいものですから、どんなに風が強くてもひらひらという感じですね。とにかく私には難しすぎますわ。

敦風:この句は非常に難しく感ぜられます。以下は私にとって自然だと思われる理解ですが。 山は紫、川澄み切った美しい景色に風花が舞って、もの狂おしいほどに一層美しくなっている。 「狂へとぞ」は、「狂え」と言っている、ないし「狂え」と言わんばかりの様であるという意味でしょう。「風花」、「山紫水明」、そして「狂う」の措辞を取り合わせた、青畝師の独擅場の言葉の美の世界だと思われます。

みのる:山紫水明の意は、辞書に載っているとおり、山水の美しい景色の形容としてつかわれます。 観光地の宣伝文句に「山紫水明の地」などと書かれていますね。京都嵯峨野、保津川下りの上流に清滝という渓谷があり、ここも山紫水明の地と歌われて有名です。風花は、晴れている空からちらちらと舞い散ってくる雪のことですが、明るい日差しをはじいてあたかも落花さながらにとても美しい様から風花と呼ばれたのではないかと思います。とろうち解のように、ちらちらと舞っていた風花が、序破急の急をつげるがごとく乱舞し始めたのです。そのようすを、まるであたりの美しい景色をも狂えとばかり舞っていると形容されたのですね。本来、山紫水明の景色は、「静」、風花は、「動」という対照的な存在のはずですが、こういうふうに詠まれると、まさに静と動が同化された自然の命の尊厳のようなものを感じますね。

17 ワイパーも今は必死の吹雪かな

( ワイパーもいまはひっしのふぶきかな )

千衣:年甲斐もなく運転好きの私にとって、この気持ちよくわかります。難しい言葉も使わず、素直に詠んでいらっしゃる句に学ぶこと大です。

よし女:私もこの句よく解ります。ワイパーが必死になっているとの表現が臨場感を伴います。本当は運転者が必死なのですが。なにかの途中から吹雪になったのでしょう。

敦風:吹雪に出遭い、吹雪の中を運転している車。運転者も車も必死。ワイパーも必死の吹雪、と述べることによって全てを表現した。分かりやすく印象的な句ですね。私も運転するのでよく分かります。もっとも、私の車は主に瀬戸内地方を走るだけ。雪に対する装備いっさい無し。ですから、たまに北の方角などへ行って雪に遭うと、文字通り必死の命がけになります。ところで、青畝師の描いているのは、たぶん矢張りご自分の乗った、ないし乗り合わせた車ではないかと思いますが、飛行機でもワイパーなんだそうですね。電車や新幹線もそうだったかな。

こう:怖い・・臨場感があります。こんな経験があります。四月に清里に行った時、高度が上がるごとに吹雪いて、必死のワイパーでした。「今は必死」が利いています。

登美子:関西では六甲山とか、伊吹山に行った時に経験しました。ワイパーを擬人化したところに青畝師の凄さがあるのではないでしょうか。

みのる:解りやすい句ですね。敦風解のとおり、焦点をワイパーの動きに絞り込むことによって、 激しい、吹雪の様子や運転手の不安なきもちが具体的に連想出来ます。そして、鑑賞者自身の過去の実体験によって、どんどん連想がひろがっていくと思います。新幹線やバス、トラック、でもワイパーはありますが、揚句ではマイカーと解したほうが臨場感がありますね。十七文字しか言えない俳句では、多くのことを伝えることは出来ません。伝統によって育まれた季語の働き、省略による力強い写生、そして鑑賞者による連想の広がり、と言う相乗効果で一編の小説のような重みも出せるのです。俳句は短すぎて言いたいことが言えない・・・と敬遠し、短歌やエッセイ、小説へと移ってしまわれる方が多いのはとても残念です。言いたいことが言えない・・このもどかしさゆえに俳句の奥の深さがあり、その短いことばから他の人にも共感を与えられることが出来たときの喜び、愉しさがあることを、どうしたら伝えられるのでしょうかね。

18 居酒屋の灯に佇める雪達磨

( いざかやのひにたたずめるゆきだるま )

こう:いい光景です。「灯に佇める」がよいです。これは、居酒屋に入る時か、通りすがりか、店から出る時か。一読して「店から出た時の景」と思いました。「いい気分で出てきたら、雪達磨くんそこに、さっきと同じ格好で佇んでいたんだね。」と青畝師の言葉が聞こえそうです。

たけし:主が開店前に作ったものだろうか、居酒屋の看板の灯に映えて雪達磨が客待ち顔に佇んでいる。雪達磨に免じてちょっと寄っていこうか。

とろうち:居酒屋の脇に雪だるま。誰が作ったんでしょうね。暖色の灯りを受けて、柔らかな印影を作っている雪だるまが容易に想像できます。大人のつどう居酒屋と、子供を連想させる雪だるま、その組み合わせがおもしろいと思います。

一尾:招き猫ならぬ雪達磨の歓迎とは。ちょっと一杯その気にさせる仕掛けかな。雪とくれば灯は寒灯でしょうが達磨さんがホットな雰囲気をつくり、体の内から外から温まります。そして帰りに雪達磨に投げキッスとくれば店主の狙いズバリではないでしょうか。雪達磨よごくろうさん。

光晴:居酒屋内の暖かさと喧噪、対する外の夜の寒さと深々と積もる雪の静寂の対比が素敵。そして今日も一杯呑める自分への感謝も感じたい呑み助の私です。

みのる:滑稽な句ですね。赤提灯の明かりに頬を染めた雪だるまを連想してしまいました。居酒屋は裏通り横丁という感じの細い路地にあることが多く、アーケードのように明るくなくて、ぼんやり暗いところが多いですね。そうした情景での雪だるまを想像すると擬人化された表現もうなづけます。雪だるまとか銅像など命のないもの、あるいは樹木などを擬人化して詠む手法は、安易に扱うと陳腐になるので注意が必要ですが、ぴたりと決まると面白い句になります。

19 雪折のとゞまりがたき谺かな

( ゆきおれのとどまりがたきこだまかな )

登美子:雪折は関西に来て感じました。雪深い東北ではそんなに雪折は見ませんでした。それだけあたたかい地方の樹木は雪には抵抗力がないのでしょうか。この句は雪折る位の寒さが来たために谺も留まっていられずに、早く去っていくということなのでしょうか。今日、近江八景探鳥会で堅田落雁の地に行って来ました。青畝師の句で有名な浮御堂で思いに浸ってきました。

たけし:雪の朝の静かさを詠っていると思います。木々が雪折するほどの重い沢山の雪が降り山々が真っ白、こだまも雪に吸い取られ返ってこない。

とろうち:雪で折れる枝のぴしっという音があちらこちらから聞こえる。思ってもみない大雪に山が悲鳴をあげているように。そのように解釈しました。静かな山に雪折れの音と、続いて雪がどさりと落ちる音がひとつ、またひとつとこだましている様子を想像しました。

みのる:降り積む雪の重みで樹木の枝や幹が折れることを雪折れといいます。竹が最もその被害を受けやすいのですが、松・杉・檜など常緑樹にも多いです。揚句は、山家での体験を詠まれたのでしょう。大雪のあとなまなましい傷跡を見せて、太い枝が折れているのをみることがありますが、人間の力では阻止できない大自然の摂理と、生命の尊厳を感じますね。

20 無限大なる氷海や裂目見ゆ

( むげんだいなるひょうかいやさけめみゆ )

光晴:師も流氷を見たのですね!自然の営みのすごさは、あの裂目に凝縮されているように見えました。その自然への惧れが無限大の措辞なのではないか、と思います。

千衣:この俳句の大胆な表現に驚かされました。自然の営みの力強さに答える俳句なのでしょう。

みのる:ぼくはまだテレビの画面でしか流氷を見たことはないのですが、体験した俳友の話では、オホーツクの海が一面に広がって凍っているさまは実に壮絶だそうです。その広大さを「無限大」というこれ以上ない措辞で形容されてしまいました。「まいりました・・」と言うほかはないですね。そして、「裂目見ゆ」という下五でぴしゃりと焦点が決まっています。びしびしと流氷が軋みあっている音も聞こえてきそうです。眼前に流氷の海が展けて、だれでも詠めそうな状況ですが、巧みなことばの斡旋でこうした力強い句になるというお手本です。光晴さんのカメラテクニックで言うと、まさに「ズームイン!」と言う感じですね。ことばを知ること覚えること。語彙を増やすことはとても有利です。出来るだけたくさんの句を鑑賞すること。辞書を引く習慣をつけること。類語辞典も手元にあるといいですね。

21 スケートや握り拳を背に預け

( スケートやにぎりこぶしをせにあづけ )

廣美子:初心者の私にもよ〜くわかりました。思わず唸ってしまいました。昔すべった感触や周囲の情景、タイムスリップしたようです。共感したのです。鑑賞の仕方、間違っていませんでしょうか?

とろうち:長距離選手の練習風景でしょうか。一定のスピードですぅーいすぅーいと、前屈みになってリンクを回っている。単純ではあるけれど、シンプルな美しさがありますね。

廣美子:とろうちさん、ありがとうございます。勉強になります。そう言う風に読むのですね。 俳句っておもしろい。

一尾:テレビで見かける程度ですが、確かに背中に握拳を乗せていますね。疲れたから休ませる訳でもあるまいし、空気抵抗を減らすのでしょうか。状態は同じでも預けると表現することで拳と背との一体感と信頼感がが生まれ、背の働きの重要さが伝わって来るようです。預けに代って、置き、乗せ、では状態の説明に終わるように感じます。

廣美子:なるほどね。一尾さん、またまた納得です。勉強になります。私は、みのるさんの言われる所の、言葉遊びの段階です。続けてみます。

みのる:スピードスケートの選手がアイスリンクで走っている情景ですね。おそらくオリンピックなどのテレビ俳句かもしれません。客観写生のお手本として揚げました。見たとおり、感じたとおりを写生し、不要な主観がないゆえに、誰もが見た経験のある情景が連想出来ます。時間の経過を言わず、瞬間が捉えられているので、スピード感も感じられます。「握り拳を背に預け」の措辞が上手いですね。

22 丹頂の相寄らずして凍てにけり

( たんちょうのあいよらずしていてにけり )

よし女:特別天然記念物の丹頂鶴のことだと思います。専門家によると、鴛鴦夫婦はいつも寄り添っているけれど二年目は相手が違い、鶴の夫婦は一生添い遂げるとか。その鶴が、今は少し離れて凍てている。「けり」の断定で、時間の経過と土地の寒さがよく解ります。雪原の中で、丹頂の夫婦鶴が背の羽根に首を突っ込み、凍ったように一本足で立ち尽している。美しい風景でしょうね。青畝師の感動も伝わってきます。ちなみに、先日八代の鍋鶴を見に行きました。何回か行っていますが、羽数は12羽と過去最低でした。が前日の雪がまだ残っていて、凍て鶴ではありませんでしたが、雪中の棚田の鶴もいいなあと感動しました。丹頂にはかないませんが。

宏二:歳を重ねた夫婦は相寄らない。小津監督の描く老夫婦みたいになっていく。若い頃だったら、寒いのに、なぜ相寄らないのかと憤慨したかもしれない。しかし歳を重ねると、相寄らないのである。父と母がそうであった。そして今、私達夫婦もそうなろうとしている。厳しい冬の季節。相寄らず。しかしちゃんと隣にいるのを感じている。人と人との一つのあり方。案外、人と神のあり方の方に近いかも知れない。

とろうち:前の氷海の句もそうでしたが、私は丹頂をこの目で実際に見たことがありません。ですから、知りもしないくせに書き込んでもいいのかな、という気にはなります。丹頂は群れるということをしないのですね。片足をあげてじっと動かない丹頂は、まさに孤高の姿なんでしょう。しかしなぜ鳥は片足で立つんでしょうね。

みのる:特別天然記念物である丹頂鶴は大形で美しく、最も代表的とされる。夫婦仲も睦まじく、寿ごとの宴会場などにつかう屏風絵や襖絵などに好んで描かれます。ぼくも動物園でしか見たことがないですが、寒々とした情景の中に身じろがない夫婦鶴の美しい情景を連想します。「相寄らずして」は、小主観になりますが、夫婦仲のよい丹頂鶴の習性を踏まえているので効果的ですね。

23 水仙のかなつぼ眼なこ黄なりけり

( すいせんのかなつぼまなこきなりけり )

とろうち:水仙と言えば清楚、可憐といったイメージがあるのに対していきなり「かなつぼ眼なこ」ですか。うーん。正直読んだ瞬間にがーんときましたね。この花をこんなふうに捉えるかと。 言われてみればそんなふうにも・・・いやいや、でもやっぱりなんだか・・・と妙に気持ちが揺れ動くところに「黄なりけり」とがしっと断定されてしまうと、なんだかとどめを刺されたような気分です。ちょっと不思議な句だと思います。

敦風:水仙の花は、白い花弁の内側に、なんと呼ぶのか分かりませんが、また黄色の筒のようなものがあって、そのなかに蘂を守っているようです。 その様子は、何か非常に面白い格好です。「かなつぼまなこ」は、通常は美しさを表す言葉ではありませんが、「かなつぼまなこ」と言われてみると、これはまた何ともいえず言い得て妙の形容のように思われます。まさに「かなつぼまなこ」の格好であり、まさに「黄なりけり」ですね。知った今日以降は、水仙を見たらきっと「かなつぼまなこ黄なりけり」の言い回しを思い出すでしょう。青畝師の言葉の使い方は、なんとも自由自在、魔術のようですね。

一尾:かなつぼは金壺で、金属製の壺のこと。例として銅壺・鉄壺の類を大辞林は示しています。 水仙の花を金属製の壺状の眼に例え、その色は黄。飛躍させて水仙の花はまさに黄金の壺であると鑑賞しました。

ひろみ:最初この句を読んだとき、何か嫌な句だなと思ったのですが皆様のコメントを読んでいて気がつきました。私の頭の中に、水仙はこういうものだから、こういう言葉でないといけないという固定観念が出来上がっていたんですね。もっと頭を柔軟にして、自分の言葉を探さなくてはと改めて思いました。

みのる:みなさんのおっしゃるとおり、ぼくもこの句には参りました。固定概念に縛られているとこんな連想は出来ませんよね。『常識、知識、理屈からはなれ、幼子のような純真な心で自然に向かう。そして心をあそばせているとよい句が授かるんだよ・・』天国から青畝師の声が聞こえてきそうです。

24 探梅やみささぎどころたもとほり

( たんばいやみささぎどころたもとほり )

光晴:たもとほり、何のことか意味不明でした。辞書で、徘徊る(たもとおる)と解り、なるほど。こんな言葉があったんですね!勉強になりました。

折山:この句最初読んだ時何だろうこの句って思いました。調べて納得しました、天皇の御陵の場所を歩き回って探梅する。こんな感じかな?それにしても日本語って難しいですね。

敦風:早咲きの梅を求めて御陵のあたりを歩き回った。そういう句ですね。この御陵はおそらく趣きのある処なのでしょう。「みささぎどころ」そして「たもとほり」という今では古い、しかし趣きのある言葉を持って来たことによって、梅を求めて歩く作者の興趣が鮮やかにうかがわれるように思います。心情的な云い回しを入れずに事実だけを言っているのも、かえって高度な作句技術であり広がりを描く表現なのでしょう。言葉を知り尽した青畝師ならではの句だと思います。

一尾:みささぎどころと云うからにはいくつかの御陵が近くに集まっている有名な地区でしょうか。あの御陵はこの御陵はと梅を求めて「まだ早いね」とか「咲いているよ」と見つけた楽しさを語りながら巡る姿が浮びます。

とろうち:私も「たおとほる」という言葉は知りませんでした。いい言葉ですね。いつか使ってみよう。「みささぎ」「たもとほる」という雅やかな言葉遣いが、梅の香りのように匂い立つような句ですね。淡い日射し。ゆったりとしてのどかな風景。ああ、私も散歩にでも出かけようかしら、なんて思う句です。好きですね。

みのる:広辞苑では、

みささぎ【陵】
(古くはミサザキ) 天皇・皇后・皇太后・太皇太后の墓所。山陵。御陵。枕一九「橿原の—」
たもとお・る【徘徊る】タモトホル
自四(タは接頭語) 同じ場所をぐるぐるまわる。行ったり来たりする。もとおる。
万七「見渡せば近き里廻(ミ)を—・り今そ我が来る領巾(ヒレ)振りし野に」

青畝先生の句を学んでいるといろんなことばを覚えるでしょう。短くて心象のこもったことばを上手に使うと客観写生でも作者の思いを写しこむことが出来ます。ストレートな主観ではなく上手に小主観を述べるのが秘訣です。ついでに青畝先生の作品によく出てくることばを少し拾ってみました。

しょう【礁】セウ (reef) 水面にみえがくれする岩。かくれ岩。
俳句では「いわ」「いくり」と読ませる場合があります。普通の岩とは違う雰囲気を
表現できますね。
いし‐ぶみ【石文・碑】事績を後世に伝えるため、文字を刻んで建てておく石。石碑。
碑』とかいて、「ひ」と読む場合と「いしぶみ」と読む場合があります。
なぞえ ナゾヘ すじかい。はす。斜め。また、斜面。
古語
 *とゆきかくゆき「と行き斯く行き」:あっちへいったりこっちへ行ったり。
 *とみかうみ「と見かう見」:あっちをみたりこっちをみたり。
 *めてゆんで[右手左手・馬手弓手]:右手左手、右側左側などの意。
 *な・・・そ:・・・してはいけないよ。(軽い禁止の意)
 *なれや:・・・であることよ
 *どち:・・・たち。・・・ども。
 *ここだ[幾許]:こんなにもたくさん。

古語の勉強には「GHの本屋さん」で東吾さんが紹介しておられる 「俳句古語辞典」がお勧めです。

25 大寒といへど健なげのドアーマン

( たいかんといへどけなげのドアーマン )

とろうち:これは経験者として実感できますね、ドアボーイならぬドアガールでしたが。どんなに寒くても風がぴゅうぴゅう吹いても、ドアマンは姿勢をきりっと正して笑顔で出迎えなければなりません。お客様の立場からすると、寒いのにけなげに頑張ってるなぁと感じますよね。実際ドア付近は風さらしで寒いんですよ。こんなふうに詠んでもらえるとドアマン冥利につきるかも。

たけし:青畝師にかかるとどんな情景でも詠まれてしまいますね。シティホテルのドアーマン、最近は冬帽に結構立派な外套を着てる所が多いけど、昔は寒そうな格好してる人を見かけました。かくいうたけしも35年ほど前は、真冬の吹きさらしの建築現場を一日中這いずり回る境遇でした。ジャンバーも無く、あかぎれだらけの手をして・・・。誰も健なげと詠ってくれませんでしたけど。今の建築現場は皆立派なジャンバー支給です。

みのる:俳句は、「愛」のこころで詠みなさい。と、先生は言われました。揶揄的な姿勢で観察し、写生しても、それを好む人には受け入れられるでしょうが、多くの人に感動を与えることは出来ません。『苦しさや哀しさが見える句であっても、愛が感じられるように詠みなさい。』青畝先生のこのお言葉は、ぼくの俳句理念の根底をなすものです。揚句の情景は愛の心がなければ見逃してしまうでしょうね。

26 煮凝のうすくれなゐは正に鯛

( にこごりのうすくれないはまさにたい )

初凪:この所、我が家も煮凝りを目にする機会が多いので、一度作ってみたいと思っていました。「腐っても鯛」というたとえがありますから、それを意識したお句ではないかと思います。煮凝りになっても色鮮やかな鯛を作者は「おいしそうだ」と感じたに違いありません。もしかして、「昨日の鯛残っているかなぁ」などと楽しみにしていたかもしれませんね。「正に鯛」が句をキリリと締めている様に思います。

とろうち:あまり鯛という魚には縁がないのですが・・・。やはり腐っても鯛という言葉を連想させますね。煮凝りも赤く染まるのかな?・・・よく知りませんが。

敦風:「煮凝」には、「魚などの煮汁が冷えて固まったもの」という自然に出来たものを言うときの他に、「煮魚の身をほぐして煮汁とともに固めた寄せ物」というわざわざ作ったものを言うこともあるんですね。この句の場合は、通常通り、自然に出来たものを言っていると思いますが。子供のころ、田舎では肉などより魚のことが多いし、一晩越したりして冷えることも多かったので、煮凝はしょっちゅう見て育ちました。もっとも、私の田舎では「にこごり」という呼び方ではなかったと思いますが。魚を覆うように煮汁が固まるのが不思議であったし、それがまた美味しいのがうれしかったり。この句は、鯛を覆う煮凝をとおして、鯛の薄紅色が一層つややかに見える。一層、鯛らしくなった。そのありさまを「まさに鯛」と言ったのではないでしょうか。「まさに」の措辞に、作者の発見の興趣がうかがわれるような気がします。時間が経っている鯛を「まさに鯛」と言っているのは、皆さんおっしゃっているように、裏に「くさっても鯛」の謂いを意識したところがあるかも知れませんね。

みのる:にこごりは普通、煮汁が醤油色をしていますが、これは鯛のあらだきかなんかの煮凝でしょうか。その皮の部分に、うすくれないの色を見つけられて、鯛の煮凝なのだと納得されたんでしょう。「うすくれない」という措辞は格調が合って鯛に相応しく、初凪解のとおり、「正に鯛」と体言止にして句に力強さを与えています。

27 ラーメンの汁余したりスキー穿く

( ラーメンのしるあましたりスキーはく )

たけし:私は結構ラーメン好き、ラーメンを食する時は一滴の汁も残さないのを旨としていますが、スキー場のラーメンには裏切られる事が多い。スキー場のレストランの食事の高かろうまずかろうを歎いた句なのか、ラーメン食べる間も惜しんでスキーに逸っている情景を詠ったものなのか、どちらでしょう?たけし解は前者です。

千衣:私もラーメン大好き。旅に出てその土地のものを食しても最後はラーメンが食べたくなるほうです。体によくないから汁は残すようにと云われますができません。きっといつも飲み干す汁さえも残し白銀に飛び出したい気持ちを詠まれたかと思ったのですが?  運動すると多少の味の善し悪しはあまり苦にならないのではないかしら?

ちやこ:スキー場で食べるものと言えばラーメンかカレー、ことにラーメンは寒いスキー場ではつい選びますね。でもスキーヤーの心情としては、せっかくスキー場に来たのだからずーっと滑っていたいもの。ラーメンの汁まですすっている程のんびりと昼食など取っていられません。なんだかそんなスキーヤーの沸き立つような思いがいきいきと伝わって来る句です。先生御自身もスキーされたんでしょうか。

とろうち:なんか色々な解釈ができそうで、おもしろい句ですね。心情的には、ラーメンを食べる暇さえ惜しんで滑りたいと解釈しましたが、たけしさんの解釈もおもしろいと思います。その他にも、年を取って少し健康に気を遣いはじめてスキーを始めたけど、ラーメンの汁を飲もうとして、あ、減塩しなくちゃ、と汁を残したなんて解釈もできそう。

みのる:「スキー穿く」ということばで慌しくそりを穿いているスキーヤーの姿を連想するので、 ちやこ解があたっていると思います。「汁残したり」ではなく「汁余したり」が、非凡ですね。 「もったいないなぁ〜」という作者の思いが感じられます。先生の好奇心は本当に幼子のように旺盛でしたら、この作品もきっと、実際にスキー場へ出かけられたのでしょうね。 ところで、別にラーメンでなく「うどんの汁」でもよいように思いましたが、やっぱりラーメンでしょうかね。(笑)

28 雪片は天眼鏡の露となる

( せっぺんはてんがんきょうのつゆとなる )

とろうち:天眼鏡は望遠鏡のことですね。デパートとかの屋上にある、あれでしょうか。景色を眺めていたら雪が降ってきた。ふと戯れに、雪の落ちてくるのを見てやろうと望遠鏡を上に向けたが、レンズに落ちる雪は溶けて何も見えなくなってしまった。そんなふうに読みました。なんとなく子供っぽくてかわいらしいです。

ひろみ:見上げるも、仰ぐも、言ってないのに作者は空を見上げていることがわかります。しかも、星ではなく雪の降る空を。それとも、この雪片は風花で、空には星が出ていたのでしょうか?

敦風:「天眼鏡」は、大辞林などによると、「人相見・手相見などの使う柄のついた大形の凸レンズ」と「望遠鏡の古名」 との両方の意味があるようですね。 望遠鏡の方が上品かと思うけれど、私などは、どうしても易者のあのレンズだと思ってしまいます。街角で易者が客の手相などを見ている。客は作者かも知れない。冬の日。夕暮れでしょうか。客の手にかざしたレンズの上にひらひらと雪が落ちて来る。易者が、フムフムこの生命線は、などと言っているうちに、その雪が溶けて天眼鏡の上の露となって、・・・。裏町の情景をしみじみと描いている。「雪片が露となる」というのが何とも言えずよい。そんな風に思います。

光晴:俳句は面白いですね。三人寄れば三様の解釈がでる。間違っているとは思いますが、私は老人用の拡大鏡で雪片を見ている。結晶を観察しようとするのに、すぐに融けてしまい、露のみ見ることになる。子供の頃、虫眼鏡や顕微鏡で観察しようとして何べんも、こんな経験をしたことを思い出し、師の子供の心を失わない気持ちに感銘を受けておりました。

とろうち:「天眼鏡」を辞書で引いたところ、まずルーペ、次に望遠鏡と出ておりまして、雪だから望遠鏡かなと思い前述したわけですが、その後考えてて、あ、そうか雪の結晶を見ようとしてルーペでのぞき込んでいたのかもと思い、付け加えようとしてパソコンを開いたら、いっぱい書かれていてびっくりしました。たぶんルーペのほうなんでしょうね。望遠鏡もかわいらしくて捨てがたいけど。

みのる:青畝先生はルーペを愛用しておられ、ルーペの句もたくさん詠んでおられます。この場合天眼鏡はルーペのことだと思います。凸レンズのうえに降りかかった雪片がすぐに解けて、表面張力によってレンズの上で露の玉のように結んだということでしょう。お庭を散歩しながら庭の食物を観察しておられるところに、ちらちらと風花が舞ってきたというような情景を連想します。あるいは、日向ぼこで広縁に置き忘れられていたルーペかもしれませんね。太い凸レンズのルーペは普通のガラスよりの熱容量が多く、日向で使っていたものには、少し温かさが残っています。振りかかった雪片はその余熱で瞬時に露のように玉を結ぶのでしょうかね。このあたりは科学に強い方の分析よろしくお願いします。

29 避寒子のゴルフバッグは玄関に

( ひかんしのゴルフバッグはげんかんに )

たけし:避寒子は避寒をする人(男性)、という意味でしょうか。避寒するからには経済的にも時間的にも余裕のある男性、関西で避寒場所といったら白浜辺りでしょうか。冬、白浜辺に避寒した男性がする事といったらゴルフくらい、いつでもすぐ出かけられるようにゴルフバッグを玄関に置いている様子が見えます。

敦風:この句をじっと見ているうちに、「玄関」は避寒子の自宅の玄関のように思えて来ました。そうすると、句意は、避寒に出て行った人のあと、玄関にはゴルフバッグがポツンと残っている。そういう情景。家の主人は避寒地へ行った。愛用のゴルフバッグの方は、いまは置き去りにされ所在なげに肩身狭そうに玄関にある。その対照を詠んでなんとも面白い。そう感じます。私が上記のように受け取るのは、ゴルフを好きだった私が、一年ほどまえからゴルフをやらなくなった。使わなくなったゴルフバッグが、申し訳なさそうに居間の隅に居る。それを毎日見ているからかも知れません。もっと面白いかも知れない解釈の可能性も私の頭にあります。それは、「避寒」という言葉に作者がユーモアを隠していて、実は避寒地などに行っているのではなく、冬の季節に、寒さを嫌って避けて、たとえば家に閉じこもっているなどしていて、ゴルフなんか出来ない、しない。いずれにしても寒いゴルフ場へ出かけて行かない。この状態を面白く「避寒子」と言った。そうすると、ゴルフバッグは用なしですから、所在なげに玄関に置かれたまま、ということになります。こういう解釈の方が愉快かも知れませんが、そこまで考えるのも行き過ぎのように思われますので、私の鑑賞は、上の方に述べた内容になります。

とろうち:最初は、寒いから家に籠もっていてゴルフバッグは玄関に置きっぱなし、というふうに読んだんですが、「避寒」という意味を歳時記で見てやはり、避寒地にゴルフをやりに来て、さあ明日はゴルフだぞっと意気込んでいるのを想像しました。きっと早朝から出かけるんでしょうね。子供の遠足のリュックみたい。

みのる:自分で揚げたものの、難しい句ですね。たけし解、とろうち解はほぼ共通。敦風解はちょっと違う角度から観察しています。どちらも間違いではなさそうです。ただ、避寒子の忘れ物としてのゴルフバッグなら、玄関という場所が動きますね。「玄関に」を強調していますから、避寒とゴルフバッグとは関連ありそうですね。そういう風に観察してくると、とろうち解が一番相応しいように思います。

30 雪の田の千枚能登の海に落つ

( ゆきのたのせんまいのとのうみにおつ )

敦風:雪の積もった棚田が、高いところからずっと能登の海まで、海に落ち込んで行くように続いている。黝(あおぐろ)い日本海の色と、落ち込んで行く棚田の雪の白との対比が鮮やかに見える。そういう句だと思います。「能登の海」、そして「海に落つ」という表現が素晴らしい。写生の中の発見を見事に言葉に表した句と言えるのだろうと思います。「千枚田」プラス「雪」を、「雪の田の千枚」と言いなしたところも、「海に落つ」の措辞と照応し合って、精巧な言葉の組上がりを見る思いがします。

たけし:1999年農水省認定の日本の棚田100選によると、能登半島の石川県では3件が認定されています。なかで一番有名なのが輪島市白米の千枚田、棚田の枚数は2092枚、写真でみると、見事に日本海に向って落ち込んでいます。これが雪田だったら一層の景観、青畝師が訪れたのは冬の輪島の千枚でしょうか。ちなみに棚田100選で一番多いのは長野県の11件、姨捨の千枚に並んで上田でも稲倉の棚田が認定されています。

一尾:岩に砕ける冬の日本海の怒濤と海に迫る雪の千枚田をイメージします。波頭、飛沫と雪の白さが描く冬の能登風景ですね。氷河が海に落ち込む様をテレビで見ましたが、そんな情景とダブらせて鑑賞しました。

みのる:「雪の田の千枚」の言い回しが巧みですね。

31 穴つまる線香立は凍てにけり

( あなつまるせんこうたてはいてにけり )

一尾:線香立てが凍ると言うからには墓地でしょう。穴には雨水も溜まるでしょうし、凍っていては線香も立てられません。墓参りは怠らないが、それにしてもこれほどの冷えとは。先祖様ごめんなさいの気持ちの表れた一句です。

とろうち:これ、よく分からないんです。線香立ての穴というのが。やはり墓地でのことだとは思うんですが、???というのが正直なところです。

初凪:お墓の線香立て、横に寝かして置くものが多いのですが、先日の葬儀でお墓に参りましたら、楕円形の穴が三個ほど開いた線香立てを見ました。この穴に砂やら落ち葉やら灰などが溜まりますから、掃除をしなくてはいけません。冬であれば凍ったり霜が立ったりさぞ指先が冷たいことだろうと思います。お墓のお掃除の際に線香立ての凍てていることに気づいたのでしょう。場所が場所だけによけい寒々とした心持ちになりますね。

みのる:お墓かもしれませんが、誰彼となくお参りする供養塔のような気もします。何本もの燃え残り線香が線香立てにつまっていて、それが雨水などと一緒に凍り付いて新しい線香が立てられないのです。何でもない情景ですが、情がありますね。

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