芭蕉のことばを借りて月日は旅人である。

六十何年の私の俳歴を顧みたときの実感もそうである。 あわただしいがまさにそうである。

人は生命をもっている。心−主観−を忘れるなよと浜人は叱った。 大成するには写生の修練が要ると、私の指針を修正させた壮年の虚子先生は、更にこわい人だった。 紙魚が匂う古本から猿蓑を漁った。芭蕉を知りたいためだが読めぬ字がゴロゴロしていた。 それよりも蕪村は分り易かった。絵を見るように具体的である。

作法は蕪村流に精神は芭蕉追及、写生を旨とする花鳥諷詠は虚子である。 そうと決めたのがわが生涯となった。

~ 句集「正編・青畝風土記」”監修の辞に代えて”より引用

「阿波野青畝略年譜」

明治32年 (1899)2月10日 奈良県高市郡高取町に生まれる。
      旧姓 橋本。長治の四男。本名 敏雄。(大正12年阿波野貞と結婚、改姓)

大正 4年 県立畝傍中学在学中郡山中学教師原田浜人を知る。卒業後しばらく京都にい       
      たが、兄が亡くなり帰郷。幼時からの難聴のため、進学をあきらめる。

大正 6年 秋、浜人居で奈良来遊の高浜虚子と初対面。同じ難聴の村上鬼城を例にして
      激励される。しかし、指導を受ける浜人の影響もあって、虚子に客観写生に   
      ついて不満を述べるが、虚子から「大成する上に」「暫く手段として写生の 
      練磨を試みるよう」、諭される。

大正 7年 11月 八木銀行に勤務。

大正11年 野村泊月の「山茶花」に投句。

大正12年 大阪市西区京町堀上通りの商家阿波野家に入る。この頃から「ホトトギス」 
      成績好調、翌年課題句選者となる。牧渓の画の簡素に魅かれ、俳句の形式
      を生かす途は簡素化だと考えた。写生の習練によって、「玄々妙々の隠微を 
      もつ自然と肌をふれる歓び」を知る。

昭和 3年 秋には、山口青邨が秋桜子、素十、誓子、青畝と並べて四Sの一人に挙げ、    
      一躍有名になった。

昭和 4年 1月、郷里大和の俳人達によって「かつらぎ」創刊、請われて選者となった。
      その年、「ホトトギス」同人。

昭和 6年 『万両』刊。第一句集。

昭和14年 この頃から連句を始める。虚子あるいは柳田国男と歌仙を巻く。

昭和17年 『国原』刊。

昭和20年 空襲で大阪の本宅を焼かれ、西宮の甲子園に移り住む。

昭和21年 「かつらぎ」復活し、発行人となる。

昭和22年 カトリックに入信、夙川教会にて受洗。霊名アシジの聖フランシスコ。
      『定本青畝句集』刊。

昭和26年 「ホトトギス」の雑詠選が虚子から年尾に移り、同誌への投句をやめる。

昭和27年 『春の鳶』刊。

昭和37年 『紅葉の賀』刊。

昭和47年 『甲子園』刊。

昭和48年 第七回蛇笏賞、西宮市民賞を受賞。

昭和49年 大阪芸術賞を受賞。俳人協会顧問。

昭和50年 勲四等瑞宝章を受章

昭和52年 『旅塵を払ふ』刊。

昭和55年 『不勝簪』刊。

昭和58年 『あなたこなた』刊。

昭和61年 『除夜』刊。

平成 2年 森田峠に「かつらぎ」主宰を譲り名誉主宰。

平成 3年 『わたしの俳画集』刊。国際俳句交流協会顧問。「詩歌文学館賞」を受賞。 
      11月入院。 12月22日心不全により逝去。(享年九十三歳)
      夙川教会にて葬儀ミサ。