やまだみのる

昨日は、阪神大震災のメモリアルデーで、神戸や明石の各地で鎮魂の祭典が催された。

あれからもう8年が過ぎたのかと思うと、光陰矢のごとしということばを肯定せざるを得ません。 幸い、ぼくの家は小さなクラックが入った程度で倒壊という最悪の事態は避けられましたが、 友人の何人かは、そうした被害にあいました。 なかには、購入したばかりのマンションが倒壊、再建はできたものの、二重のローンで苦しい 生活を余儀なくされている人もいます。

鉄道会社の技術者であるぼくは、詳しい情報を待っている余裕もなく、とにかく大地震という一大事に、 一刻もはやく会社に出勤しようと、須磨海岸沿にある最寄駅まで車で送ってもらいました。 空は既に火災の煙がたちこめて暗黒の様相でしたが、 すぐにはピンとこず、何だか異様だなぁ、と思いながら駅の階段を上っていきました。 でも、全く人気がありません。

ふと見下ろすと、なんと電車の線路が飴のように曲がっているではありませんか。 これは尋常ではないと始めて気づいたのです。それからまた家へ取って返して、テレビのニュースを見ながら 少しずつ詳細がわかり始めたのです。まだ、水道、電気、ガスなどのライフラインは生きていましたが、 いつまで大丈夫かは保証がなかったので、とにかくありったけの器に水を汲みました。 バスタブにも満タンに水を入れました。水が止まったときにトイレの使用に困ると思ったからです。 はたして、その翌朝から断水。ガスも止まりました。電気が止まらなかったのは幸運でした。 ガスもカセットコンロがあったので何とかしのげそうでしたが、なによりも水が出ないのは不安でした。 幸いに三日目ぐらいから水も復旧したので、結局、給水車のお世話にはならずに済みました。

電話も渋滞してママならない状態でしたが、いろんな人と安否情報を交換し、会社の方とも連絡が取れました。 会社の人と電話で連絡がとれたとき、第一声に問われたのは生きているか?家族は大丈夫か?家は? と言うことでした。震災から三日目、1週間は帰れないと言う覚悟で、着替えやお弁当をリュックに背負い、 自転車で国道2号線を走って西宮までいきました。そこから梅田までは電車が動いていたからです。 距離にして約50kmくらいでしょうか。まともに走れる部分は少なく、あさ6時に家を出て、 西宮に着いたのが午後2時ごろ、会社に着いたのは午後3時ごろでした。 自転車での道中は、信じられないような震災の爪あとの情景が展開し、夢を見ているような思いでした。 火災が発生したところは、さながら空爆にあったように廃墟然とした街区もあり、巨大な高速道路の高架が、 数百メートルにわたって転倒しているさまには度肝を抜かれる思いでした。

震災復興のために涙し、汗し、命がけのような体験もして、ようやく落ち着いたのは、 3年後ぐらいだったと思います。結局この間に、好きだった俳句活動からも遠ざからざるを得ない状況になったのです。 大震災を直接体験したぼくたちは、何年たってもこの日がくれば、必ず思い出します。 物質的な被害のほとんどなかったぼくが、こんなことをいう資格はありませんが、 震災や復興の体験から学んだことは、人間の命の尊厳、まことの人間愛・やさしさ、と言うことでした。 人が生きていくために必要なのは、物質的なものではなく、人と人とのふれあいだということです。、 コミュニティこそが、癒し、慰め、励まし、希望、勇気を与え、生きる力の基になるのだと思います。

偉そうなことを言ってごめんなさい。 会員のTさんが、談話室に阪神大震災のことに触れてくださったので、うれしくなって書いてみました。 さらに書かせていただけるならば、このときの体験が、GHの発足、運営の原点でもあるということです。 今日は、ぜひともこのことをみなさんに伝えたいと思いました。

(2003年1月18日の日記より)