やまだみのる

俳句サイトや結社において、類句や類想、省略語や造語の是非についての議論が絶えることはありません。 しかし、ゴスペル俳句では、ほとんどこれを取り上げていません。 というより、議論をしたり、難しく考え出すと臆病になって、新しい表現やことばをつかえなくなるからです。

文法的に優等生の句であっても、言い古された陳腐な内容の句を採ろうとは思いません。 未完成であっても、新鮮で輝いている句に、ぼくは魅力を感じるからです。 勇気を持って冒険をする・・この気持ちが大切だと思います。 挑戦した結果、支持が得られれば成功、没なら駄目と割り切ればいいのです。

ぼくの場合は、基本的には広辞苑に載っているか否かを目安にことばを使うように心がけています。 従って、「予後」「試歩」のたぐいは全く問題ないと思います。 広辞苑に載ってないけれど通常俳句で慣用されている言葉について考えてみましょう。

敬老の日 → 敬老日

飛行機雲 → 飛行雲

飛行機 → 飛機

字面だけで熟語的に論じれば当然無理があると誰でも感じます。 では、辞書にも載っている次の言葉はどうでしょう。

機上 → 飛行機に乗っていること。「機上の人となる」

先の慣用語に比べて、こちらの方が遙かに飛躍した言葉だと思いませんか。 でも、辞書に載っているから・・と安心して私たちは使うわけです。

俳句に限らず、省略語や造語を安易に使うことは戒められるべきです。 でも、言葉だけを取り上げて是非を論じるのも愚かだと思います。 十七文字全体の表現をとおして、その省略語や造語が理解されるか否かが問題だと思うからです。 よく、季語が入ってない句を無季だと決めつける方があります。 そうではなくて、句全体の雰囲気に季感があるかどうかを判断すべきですよね。

理論や知識、規則の学びが不要だとは思いません。 しかし、それより以前に、感性を培うことの方が遙かに優先されることです。 知識や説明によらなければ理解できない作品ではなく、 直感的に心に響いてくる作品、これがほんものだとぼくは思います。 知識は経験を積めば知らず知らずに身に付くものと思います。 ひたすら実作して感性を磨く、『論より実作』、これがゴスペル精神です。

(2002年9月18日の日記より) (2002年9月18日の日記より)