観念に溺れるな

(青畝先生の俳話No.1)

やまだみのる

青畝先生の作風、作家としての理念は、ぼくの究極の理想ですが、 久しぶりにその著書「俳句のこころ」の一文を読み返していて、 こころを新たにさせられたので、その一部を引用してみます。 この一文を提示することは、初心者俳句サイトとしては少々過酷かも知れません。しかし本物の俳句とは どういうものかを理解するには格好のテキストと思います。 もしこれを読まれて、青畝先生が伝えようとしておられる「俳句のこころ」を感じられたなら、 あなたは本物を目指す資格があります。 この書を読み直したのは実に10年ぶりでした。 ゴスペル俳句を通して、俳句のこころをお伝えしようと、拙文を重ねてきましたが、 先生のこの一文を読み返してみて、簡潔に核心を伝えることの大切さを改めてしりました。

(2001年12月1日)


★★★★★★★ 観念に溺れるな 阿波野青畝(昭和22年9月)★★★★★★★

雑詠を選んでいると、私は後人恐るべしの感にも打たれる一方、いつまでたっても誤った 古い観念に溺れた人々の多いことを悲しまねばならない。

後人恐るべしというほうは、新しい人々がほんとうに真剣となって対象を掘り下げてゆく。 いいかげんのところで器用にとりつくろう人は多いが、こういう真剣になった人は、いい かげんではすましておかない。もっと鋭く切り込んでくる。思いがけない視覚からも見た り、いのちのあることばを見つけたり、私が見る限度から更に飛躍してその内奥を探った りして、その逞しい足取りに圧倒されるのである。こういう人は見る見る伸びてゆく人で ある。このまま伸びてやまなかったらと思うときに恐ろしい感じがする。私など、もう何 度もがいても時世に遅れるほかないような気がすると共に、こうゆう人をたのもしく末を 見送りたい気がするのである。

しかし翻って一方では、相も変わらず陳腐きわまる景色を持ち回っているのに、むしろあ きれてしまう。俳句という天地では、こういう天地と、最初に観念で固定化してしまう。 何度俳句にまとめてみても真実に触れてこない。写生してほしいと叫んではみても、写生 されない。その人はそれでも写生してあるつもりかも知らぬが、自分を虚しくして対象に 接しないから対象の真実、作家の真実、そうゆう尊さを知ることができないのである。 つまり先入主観念なる色眼鏡をかけて、その色を透して対象を捉えようとしているので あるから、ほんとうに生き生きした対象が目にはいる道理がない。

私は極端に言わしてもらうなら、自分の好悪も捨ててじかに自然に飛び込んでみることだ と思う。そうすると、今まで気のつかなかったことがあっちからもこっちからもぶっつか ってくるだろう。おや、これは驚いたなあと心を少なからずゆさぶるにちがいない。これ らを心にひびいたとおりに十七字に写し取りたいものである。 ことばの言い回しということも重要であるが、まずこの新しい驚きを捉えることが先であ って、それからこの捉え方の工夫のときにことばの言い回しで的確を期す。 もともとことばの言い回しだけでは俳句に成功しないことを断言してはばからない。初心 者はしばしば言い回しの面白さにひっかかってしまう。真実とか、自然の底にあるいのちとか いう最も肝心なところに意をそそがねばはなはだつまらないことと思う。

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