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パンパスグラス

うち仰ぐ池塘のパンパスグラスかな ひかり

揚句は長居植物園で詠まれたもの、写真は西宮市北山緑化植物園のものです。黒川ダリヤ園でもパンパスグラスを見ましたがちょっと種類が違うようでした。

みのる 2016/10/05 00:22 No.40
栗の選果

向ひあひて栗選果する嫁姑 うつぎ

選別と選果とはどう違うのだろう…と思いませんか。自信はないのですが選別は傷や虫食いのあるものをはねる作業、選果は栗の大きさによって仕分けする作業のことをいうようです。これを知ることで句の鑑賞も変わってきますね。

みのる 2016/10/05 00:21 No.39
黒川ダリヤ園

昨日は黒川ダリヤ園へ吟行に行きました。写真はススキ叢とダリアのコラボ…日本一の里山、黒川地区ならではの風景です。

千本のダリアに園の今日の晴 みのる

みのる 2016/10/05 00:20 No.38
長居植物園

今日は長居植物園へ吟行に行ってきました。
「万葉の小径」というエリアがあって彼岸花が残っていました。

万葉の径に燃え立つ曼珠沙華 ぽんこ

みのる 2016/09/29 00:23 No.37
能勢の秋 2

この瓢箪まるでコピペ
どんなおじさんが作ったんでしょう

うつぎ 2016/09/25 00:22 No.36
道をしえ

九州は昨日から大雨洪水警報が出され、せっかくの休日ですが、外出できずにいます。
我が家の団地の庭に今年は道をしえがぴょんぴょん飛んでいます。
こんなに身近に見られて嬉しいです。

さつき 2016/09/19 00:09 No.33
能勢の秋

地元の吉川八幡宮の放生会に能勢のメンバーと行ってきました。
豊かに稔った田、稲刈りのコンバインの音、鈴なりの瓢箪、彼岸花。名も知らない秋の花々が野路に咲いていて、句材が多すぎるなどと、わいわいがやがやみんなで能勢の秋を満喫してきました。

よう子 2016/09/18 00:10 No.32
毛虫

福岡市もようやく最高気温が30度まで下がり、朝晩は随分涼しくなってきました。
久々に近場の野山や植物園を吟行したところ、その晩から首の周辺に湿疹ができ、痒くてたまりません。
今朝、皮膚科を受診したところ、毛虫皮膚炎だと言われました。毛虫に触らなくても、毒針毛が風で飛んで来るのだそうです。ジーパンの上からでも刺すそうです。
涼しくなったので木陰には近づかない方が無難ですね。私はあまり酷くはなく一週間くらいで治るそうです。皆様も気をつけてくださいませ。

さつき 2016/09/12 00:11 No.28
寡黙の力(虚子俳話_02)

俳句は最も簡単な詩型であるということがその特色の一つである。寡黙に近いということがその特色である。寡黙ということは、最も大きな人間の力の表現である。

俳句は全く沈黙の文芸であるとはいえない。しかし、多く言わず少すくなく言う文芸である。少く言いて多くの意を運ぶ文芸である。叙写は尠すくなくって多くの感銘を人に与える文芸である。

叙するところは片々たる事柄である。しかしながら伝うるところは複雑なる感想である。一片の落花を描き、一本の団扇うちわを描き、一茎の芒すすきを描き、一塊の雪を描き、唯片々たる叙写のように見えていて、それは宇宙の現象を描いたことになる所に俳句の力はある。

俳句は簡単なる文芸であるが故に簡単なる叙写を必要とする。多くを語らずして多くの意を運ぶことを目的とする。多弁饒舌じょうぜつなる文芸は他にある、そういう文芸は多弁饒舌を武器とする。

この頃の俳句は多弁饒舌なる文芸を真似まねようとしているものが多い。十七字といううちに沢山の材料、沢山の言葉を使用して複雑怪奇となり、何を言っておるのかわからぬものがある。独ひとりよがりで他には通じにくいものが多い。これは単純の味を解せぬものである。寡黙の武器を扱うことを知らぬものである。洗煉せんれんされた単純なる言葉のいかに強力であるかを解せぬものである。

描くところは単純であらねばならぬ、しかもその句の力は強くなければならぬ。

みのる 2016/09/07 00:15 No.27
その人の現れ(虚子俳話_01)


客観写生、客観描写という事を私はやかましくいうのであるが、客観描写をした俳句であってもそれは遂ついにその人を隠すことは出来ないのである。
 
その客観描写が堅実であるというのはその人が堅実であるからである。
その客観描写が瀟洒しょうしゃであるというのはその人が瀟洒であるからである。
その客観描写が高尚であるというのはその人が高尚であるからである。
その客観描写が軽浮であるというのはその人が軽浮であるからである。
その客観描写があくどいというのはその人があくどいからである。
その客観描写が俗悪であるというのはその人が俗悪であるからである。

その人を隠すことは出来ない。これが芸術の尊い所以ゆえんである。

わかりにくければこれを絵画にとって見れば直ぐ明らかである。たとえば、一匹の犬を描いても百人が描けば百様の犬が出来る。その中で高尚な犬が何故なぜ出来たか。それはその画家が高尚な人であったからである。また、俗悪な犬が何故出来たか。それはその人が俗悪だからである。客観描写というのは客観を描写するために尊いのではない。その客観描写に依よってその人を現すがために尊いのである。
 
然しからば何故特に客観をいうか、これは俳句の性質からいうのである。

みのる 2016/09/07 00:15 No.26

- JoyfulNote - Modified by Minoru Yamada.