やまだみのる

きょうは思いがけない訃報が届きました。

わたしの良き理解者であった教会の長老で、享年71歳でした。何度かお見舞いに伺ったが、そのたびに祈ってくれといわれてご一緒にお祈りしたことを思い出します。奥さまは早くからクリスチャンであったが、亡くなられたご主人は奥さまの永い永い祈りが聞かれて晩年に救われた方です。とても洗礼を受けられるとは思えない方だったのに、受洗されてからは180度変られ、教会役員としてまたギデオンの勇士として熱心に奉仕され聴講生として神学校にも行かれた。 彼の大変身をみてほんとうに神さまに不可能って無いんだなぁ〜、とつくづく思ったことでした。

最近になって入退院をくりかえしておられたので案じていたけれど現実に死を知らされるとやはり悲しい。

私たちの国籍は天にある。 (ピリピ 3:10)

という聖書のことばどおり、クリスチャンにとって死は悲しいことではなく地上での使命を果たし終えて、先に召された方々とともに永遠の命に生かされる天の御国への凱旋なのである。 ぼくも母親を天国に送り(70歳)、続いて父親も見送った(82歳)。父がなくなってからもう16年が経つ。肉親の死という現実を前に理屈ではわかっていてもやはり絶えられないほど悲しかった。

”人間は必ず一度は死ぬ”

という紛れもない事実を認識させられた。若いうちや健康なときには自分が死ぬということは考えたことも無かったけれど、老骨の身となった昨今はときどき自分の死というものを考えるようになってきた。神さまの召しがあるのは明日かもしれないと思うと、本当に一日一日を大切に生活しなければという気持ちになる。

わたしにはこの世に残せる事業や地位、名誉や財産などというものは全く無い。でもほんとうに立派な作品は残るはずだし、微力ではあっても伝えた感動や俳句のこころはそのひとの心の中に刻まれるはずだ。どんな形でも、たといわずかでもいいから、イエスキリストのよきかおりを伝えるものとしての使命を果たしたいと祈る。

(2001年4月2日の日記より)