みのる:年老いて耳が遠くなるのは血筋というか遺伝的なものらしい。お盆で集まった親族から皆笑顔で話しかけらるのだけれど「元気そうだね!」と言われているのだと思って笑顔で頷いているのであろう。八十路を迎えた私は吟行で鍛えたからか今でも地獄耳だと言われているが、たとい悪口を言われようとも笑顔でいられるような好々爺でありたいですね。

澄子:中七下五「なに問はれても笑むばかり」に日本人らしい在りよう 生き様の美学のようなものを感じました。すべて水に流してゆく 言い訳をしない潔さ……穏やかな情景ですが同時に貫く芯のようなものを感じました。御長寿の方が多い昨今 曾孫が何人もいるような一族の長老をイメージしました。 

えいいち:盆供養の根本原理を感じます。長老は若年者のそれぞれの問にちゃんとそれぞれの答えを無言の笑みで伝えているように感じます。また私達はそれを理解する必要があるのではないかと思いました・・作者もそう感じたのではないでしょうか。長老の今現在、誰よりも長く生きてきた事による見地の高さに敬意をはらう作者の気持ちが単純な描写から感じられます。

康子:「生身魂」は歳時記では理解しつつも難しい季語だなぁと思っていました。私ごとですが卒寿をとうに越えた義父母がおります。何に対しても動じず、そして耳も遠いため笑顔で空返事をします。でもいざお盆の支度となると話は別で、てきぱきと私たちに指図をします。掲句の「笑むばかり」の中には「生身魂」の季語の力を借りて一家の長老を敬うお気持ちが隠されていると拝察しました。仏のようなお気持ちで何があっても笑顔で見守る穏やかな年長者への尊敬の念を「笑む」という優しい表現で伝えている、と考えました。

かえる:実際にこういう経験をしたことがないのですが、生身魂はお盆の習わしなのですね。きっとかなりご高齢で、人間の角という角がとれて、赤ちゃんのようにまあるく無垢な魂に戻ってちょこんと座っておられるのでしょう。お耳が遠いのも相まって、なにを聞かれてもお返事はせずただニコニコとするだけですが、その笑みに皆が和やかな気持ちをいただいている。生身魂ご自身がまるで仏さまのように感じられます。

むべ:幼少期より日本の伝統行事に参加したことがほとんどないため、かなり的外れな講評になることをまずお許しください。生身魂をずっと源氏物語の六条御息所みたいな存在と思っていたのですが、今回歳時記を熟読したところ、そもそもお盆とは先祖供養だけでなく、存命の目上の人に礼を行う日とあり、その目上の人のことを指すと判明。(生霊ではなかった……)両親が揃っている場合にはその両親に生魚を贈ったり、結婚した娘が実家の親に贈り物をしたり、一族が会食をしたりというハレの日でもあったようです。仏教行事かと思っていたのですが、仏教渡来以前よりあった日本オリジナルの「御霊信仰」が土台となっている風習ということも知りました。掲句は、作者がお盆の帰省でご親族の長老を訪ねた折に詠まれたのではと思います。お耳も遠くなり、いろいろと質問が繰り出されても、特にお返事らしいお返事はなく、ただ穏やかにニコニコと微笑んでおられる様子が描かれています。こういう風に年齢を重ねたいものだ……と作者は見ていたかもしれません。長上を敬うという点では、儒教に通ずるものがあるなと感じました。