みのる:呂律の意味や解釈はともかく、道が曲がるたびに瀬の楽が変化するのを呂律と表現したのだと思う。ヘヤピンのような曲がりくねった深山道の紅葉狩であろう。道と瀬の距離が近づいたり離れたり、早瀬あり瀞場ありと真っ直ぐで単調な流れではないことも想像できますね。

康子:音について、音階ではなく「呂律」という表現方法を初めて知りました。調べたところ、呂は長調、律は短調に近いもの、とのこと。それによりイメージが湧いてきました。場所により明るく感じる瀬音・暗く感じる瀬音…その呂旋律と律旋律の違いを楽しんでいる。そしてそれが不協和音にならず調和している。上五中七で音をたっぷり表現し、下五「紅葉狩」で一気に景が広がります。山奥の細い川に沿って、耳では瀬音、目では紅葉、そして森の澄んだ空気…五感をフルに使って山歩きを楽しんでいる作者が浮かびました。

澄子:中七「呂律」和楽器に触る機会がなかった私には感覚的にこの感じ!という直感的な把握が難しい句でしたが潺の緩急 日射しの陰陽……破と調和 動と静もっと大きな視点で自然そのものを音楽として捉えられていらっしゃるのかなと思いました。紅葉狩りの間中遠く近く聞こえる川音 囀り 歓談感嘆の声……紅葉狩りの情景が浮かんできました。

むべ:呂律にはいくつか意味があるようですが、せせらぎの音域の高低、音律(ピッチ)などを、作者は音楽として耳に受け止めつつ、川沿いの紅葉狩を楽しんでいます。耳に瀬音、目に紅葉、心でそれらが統合されているのかもしれません。西洋人は右脳のみで聞く自然の音を、日本人は左脳も活用して聞くそうです。それはつまり、せせらぎの音や虫の声を、「ことば」として処理していることを意味します。瀬の楽も、作者には「秋を楽しみなさい」というメッセージに聴こえたかもしれません。

かえる:浅瀬と早瀬で流れ方が違うので、それぞれ異なるリズムや音を奏でている。それを律と呂で表現することはなかなかできません。また、句の中で「呂律」が気取りすぎず自然に収まっています。作者にとって雅楽等が身近なところにあり、無理なくご自身の内から滲み出て来た言葉であることが感じられました。和楽器の調べが聞こえて来そうな、なんとも風流な紅葉狩りの描写に読み手もうっとりしてしまいます。