みのる:関西圏で標高千といえば兵庫県神戸市にある六甲山、山頂付近にある観光牧場にバス道をまたいで牧と牧をつなぐ小さな吊橋があり人も羊たちも行き来します。普通なら「牧と牧つなぐ吊橋風薫る」と安易に詠んでしまうところを菜々さんにかかると揚句のようになります。むべ解にあるように、捉えた感動をまず先に言葉にし、具体的な景、答えはあとでいう…というテクニックが使われています。そうすることで説明感をなくし句に余韻が生まれるのです。風薫る→標高千の吊橋に→風薫る→標高千の吊橋に…何度も行頭に戻ってくりかえすとこの句の余韻が具体的に実感できます。
えいいち:中七の具体的な数値に作者がこの標高の吊り橋にやって来たことへの達成感を感じます。下五終わりの「に」は作者の存在を表して、来ましたよ、と言っているように思いました。
澄子:やはりこの御句の魅力は標高千と言い切ったところ。山渓から或いは頂の方から……無数の風の道を感じました。青葉若葉が揺らいでさわさわとしている様、 吊橋も光っているような情景を思い浮かべました。からりとして暑くも寒くもなく一年で一番爽やかで素敵な季節が詠まれています。
康子:「標高千」と「吊り橋」により足元にも大きな景色が広がっていることがわかり「風薫る」の季語により青々とした木々が生い茂っていることが分かります。「標高千」は「それだけ高い山」ということを表現しているのだと思います。作者の立ち位置は吊り橋の上なのでしょうか…新緑に包まれて、涼しい気分を味わいながら深呼吸しているのでしょう。「吊り橋に」の終わり方に余韻を感じます。十七音で十分な景色と空気感が想像でき、季語の広がりを感じる句でした。
かえる:標高千というリズムが効いていますが、常住の気配はなく、趣味の山登り、もしくは別荘や避暑で詠まれた句なのではないかと思いました。風薫るが心地よく、さらに具体的な数値を入れ込むことで、読者の想像を絞りこみます。吊り橋を渡る爽やかな風が、初夏の到来と喜びを告げているかのようです。
むべ:「標高千の」の中七がとても具体的で、私たちを一気に山へ連れて行ってくれます。標高1.000mというと、関東では長野県から山梨県へ連なる八ヶ岳の中腹に点在する避暑地と同じくらいでしょうか。(作者は関西在住だったので実際には違う土地だと思われます。)街とは気温・湿度、日差しの強さなどまったく異なり、木陰に入って休んでいると、緑色の風が通り過ぎるようです。「風薫る」という季語と数字がしっかりきいていて、それでいて決して理屈っぽくはない。実際にその場にいて体感した実感なのだと思います。また、本来は「標高千の吊橋に風薫る」でしょうけれども、「風薫る」が倒置されたのは単に五七五を整えるためだけではなく、季語が上五にある効果を感じました。全体がとてもしまりますし、季語の美しさが持続します。